思惑と困惑―02

Ambivalent


「いけない…早くしないと遅れちゃう…!」

午前7時過ぎ。案の定、寝坊をしたはバスルームから飛び出ると、今度はキッチンへと走って行く。簡単に朝食を済ませ、手短に支度を終わらせた後は、乾かしたばかりの長い髪を一つにまとめつつ、白衣を羽織る。そのままエレベーターに乗れば後は秒で仕事場へ到着。満員電車に揺られることもなく通勤できるこの環境を、は気に入っていた。
それもこれも、父が借金の原因となったビルのリフォームをして、空いていた上のテナントを全て自宅に建て替えたから、という何とも皮肉な結果ではあるのだが。

「えっと…今日の予約の患者さんは…」

院長室に向かい、まず目を通すのは今日一日の予約だ。普段通ってくる患者の動物たちは大抵が皮膚疾患や、下痢といった軽めの症状が多かったりするものの、たまに飛び込みで重症の動物を連れてくる飼い主もいる。その予想外の患者が来ることも視野に入れつつ、今日一日の予定を頭に入れた。
予約患者をざっと把握したところで、ちょうど8時になる頃、助手をしてくれている田沼みゆが出勤してきた。彼女も獣医師を目指しており、父が不在となったことで急遽募集した際に面接に来てくれた子だ。

「おはよう御座いまーす」

いつもの調子で少し間延びした甘ったるい声が聞こえたことで、はすぐに受付へ顔を出した。

「おはよう、みゆちゃん。あと50分ほどで佐藤さんとララちゃん来るから準備だけしておいてくれる?」

患者である犬のカルテを見せると、みゆはサッと目を通して「分かりましたー」と笑顔で歩いて行く。外見は今時の子らしく派手な感じだが、仕事は意外と早いので何かと助かっていた。
蘭から頼まれる仕事以外の時は通常通りの仕事をしろと言われてるので、夕べのようなことがなければ以前の生活とあまり変わらなかったりする。ただし、この病院の現状をみゆはもちろん、患者たちも当然知らない。昔から通ってくれている飼い主の方から前の院長はどうしたのかと聞かれることもあるが、引退して今は旅行中だと言えば、たいていの人は納得してくれた。
多額の借金のせいで法に触れるような治療をしていることは絶対にバレてはいけない。そこを考えると助手を雇うことも悩んだのだが、父がいない今、一人で全てをこなすのは難しく、仕方がなかったとも言える。

(あのバカオヤジ…帰って来たらタダじゃおかないんだから)

能天気な父親の顔を思い出すたび、沸々と怒りが湧いてくる。親子仲が良かったからこそ、腹が立つのだ。
堅物で生真面目な先代の祖父とは違い、の父は少しおっとりとした呑気な性格で、面倒ごとや都合の悪いことは後回しにする一面があった。計画性もあまりない。借金のことも何とかなるだろう、と甘く考えていたに違いない。しかし予想以上に最悪の結果となり、パニックになった父親は目の前の"都合の悪いこと"から逃げ出してしまった。
その後のことは考えていなかったのか、それともしっかり者の一人娘がどうにかしてくれると思ったのか。
あれから半年――。未だに連絡を寄こさない父親に腹を立てながらも、やはりどこで何をしているのかと心配はしていた。
今のところが組織の為に仕事をさせられているものの、直接の債務者に逃げられたままじゃ体裁が悪いと蘭が言っていた。下っ端を使い、行方を探しているとは話していたが、彼らに見つかれば父もタダでは済まないはずだ。どちらにせよ、今後のことを考えると頭が痛いな、とは深く息を吐いた。

「こんにちはー」

悶々としつつ、本日最初の患者である犬のカルテに目を通していると、受付の方から声が聞こえてきた。本日最初の患者さんだ。

「もうそんな時間か…。よし…今日もがんばろ!」

多少寝不足ではあったものの、そんなことは患者である犬にも飼い主にも関係ない。軽く頬を叩いては気持ちを切り替えた。


◆◇◆


「はぁ…やっと終わった~」

午後の診察時間が30分は過ぎた頃、最後の患者である猫と飼い主を見送って、は扉の鍵とカーテンを閉める。駅前の動物病院に患者が流れたとはいえ、長く通ってくれている人達が今もこの病院を頼って来てくれているだけに、今日もそれなりに混雑したように思う。
比較的、軽い症状の動物ばかりではあったものの、休むことなく治療や飼い主への応対をしていると、時間はアッという間に過ぎていく。

「みゆちゃん、遅くまでごめんね。助かった」

処置室の片付けをしているみゆへ声をかけながら、壁時計に目を向けた。本来なら午後8時には診察を終え、8時半には閉院となるのだが、今日は予約のない飼い主が何人か来院した為、少しだけ時間が伸びてしまったのだ。

「いえ、今日は特に用もないし平気ですー」

片付けを終えたみゆは帰り支度をしながら人当たりのいい笑顔を浮かべる。あまり愛想のないとは違い、みゆは気さくで明るい性格の為、飼い主たちからも評判が良い。そういう意味でも助かっていた。

「ありがとう。あ、家は近いんだっけ。もう暗いから送って行こうか」
「大丈夫ですよ~。ここから徒歩5分なんで」
「そう?でも気を付けて帰ってね。この辺、夜は人通りも減るし、先日は近所の女子大生が痴漢にあったらしいの。ウチにもお巡りさんが聞き込みに来て」

駅前通り沿いにあるものの、駅から歩いておよそ8分という立地に加えて、周りはオフィスビルが多い。それだけに、夜は人もまばらになってくる。車通りは多くても、この通りは時々痴漢の類が出ることもあるらしく、も夜に出歩く時は気を付けるようにしていた。

「え、こんな車通りの多い場所で痴漢するヤツいるんですか?」

の話を聞き、みゆがギョっとした様子で振り返った。

「そうみたい。お巡りさんの話じゃ目の前に車が通っていても、すれ違いざまに触るくらいじゃ第三者の助けは期待できないし、痴漢もそれを分かってて触ってくるのもいるんだって。怖いよね」
「言われてみれば…車内から痴漢行為を目撃したとしても、わざわざ大通りで車を止めて助けに入ろうなんて思わないかも…」
「そういうこと。それに車通りが多いからこそ素早く停車できる場所なんてないし、例え止められたとしても第三者が来た頃には痴漢も逃げちゃってると思う」
「き、気をつけまーす…」

の説明を聞いて急に青くなったみゆは腕時計を確認して口元を引きつらせた。現在午後9時すぎ。さすがに少し怖くなったのだろう。

「やっぱり送ってこうか?」
「……お、お願いしようかな」

苦笑交じりで尋ねると、みゆは今度こそ素直に頷いた。
その時だった。カーテンを閉めたドアの方からコンコンとノックの音。不意に聞こえたその音に、とみゆはビクリと肩を揺らした。

「え…診察時間終わったのに…急患ですかね」

黙ったままドアの方を見ているに気づき、みゆが首を傾げる。だがは閉院後の訪問者が誰なのか察しがついてしまった。
案の定、すぐに「~オレだけど~」という低音の声が聞こえてきて、みゆが驚いたように目をぱちくりさせている。

「え…先生の…彼氏さん、とか?」
「え?ま、まさか!えっと…ちょ、ちょっと待ってね」

とんでもない勘違いをされ、即座に否定したものの、ドアの向こうの人物は返事がないことでイラついたのか、ノックの音が徐々に大きくなっていく。ついでに「早く開けろってー」という催促まで追加され、は内心舌打ちをしながらも、すぐにカーテンを開け放つと解錠してドアを開けた。

「おっせーなぁ…何して――って、あれ?その子は?」

当然と言った顔で院内へ入って来た蘭は、みゆを見て不機嫌そうだった顔にすぐさま笑みを浮かべた。その変わり身の早さに呆れながらも、は「正面からは来ないでって言ったでしょっ」と小声で蘭へ苦情を言う。しかし当の本人はどこ吹く風で、みゆに向かって極上の微笑みを向けた。

「会うの初めてだっけ…誰?」
「え、えっと…先生の助手として入った田沼みゆです!」
「へえ、助手なんだ。可愛い子が入って良かったじゃん」
「………どーも」

嫌味な笑みを向けられ、はそっぽを向きながら応える。一瞬だけその場に寒々しい空気が流れた。その空気を壊したのは、突然登場したイケメンにテンションの上がったみゆだった。

「可愛いなんて…そんなことないですよー♡」

言葉とは裏腹に喜色を浮かべ、頬を薄っすら赤くしながら蘭の腕をバシバシと叩いている。知らぬが仏。蘭の正体を知れば、彼女は酷く後悔するかもしれない。
そんな反応に慣れているのか、蘭は「いや、マジだって。みゆちゃんモテんだろ」と、どこのホストだと突っ込みたくなるような返しをしていた。そもそも人がいる時には病院へ顔を出さないでと言ったはずなのに何で堂々と来るんだ。そう怒鳴りたくなる衝動をは必死でこらえていた。

「んっん!」
「あ?何だよ」

怒りを咳払いに変えると、蘭が煩わしそうな視線をへ向ける。その態度の違いに若干イラっとしつつ「何の用でしょうか、灰谷さん」と引きつった笑顔を浮かべた。みゆの前で普段のような会話は出来ない。
蘭は一瞬キョトンとした顔をした。

「用…?あー…そうだった。忘れてたわ」

またしても組織の誰かを治療しろと言われるのかと思ったが、今は傍にみゆがいる。余計なことは言ってくれるなと目で合図をしようとしたが、その前に蘭が笑顔で言い放った。

「オマエ、どうせ暇だろ?今からちょっと付き合えよ」
「……は?」

てっきり闇医者としての仕事の依頼かと思いきや、予想外の答えが返ってきたことで変な声が漏れてしまった。

「ど、どこに…?」
「んー?あー腹減ったし飯でもどう?」
「……はぁ?」

蘭からの突然の誘いに、今度こそ驚愕した。

(飯…?飯って言った?この男…)

この半年、蘭と顔を合わせるたび無理難題を言われてきたが、食事に誘われたことは一度もない。そもそも呑気に食事をするような関係性でもない。が唖然とするのは当然のことだった。その態度が否定的に見えたのか、蘭は僅かに眉間を寄せると「何だよ。嫌なのか」と、綺麗な顔で睨みつけてくる。

(嫌なのか…?当たり前じゃない…っ)

そう怒鳴りつけたいのを堪えていると、それまで二人のやり取りを見ていたみゆが、何故かキラキラと輝かせた目をへ向けた。

「あの~お二人はどういうご関係なんですかー?」
「…か、関係…?!」

これまで男ッ気のなかったを見てきただけに、みゆの好奇心が刺激されたらしい。突然現れたイケメンと雇い主の関係が気になってるようだ。

「コ、コイツ…じゃない…こ、この人はただの…」
「ただの…?」

純粋な瞳を向けるみゆにどう説明しようかと、は必死に頭を回転させた。絶対に反社組織の借金取りと悟られてはならない。

「この人はその…最近になって新しく契約した…せ…製薬会社の人なの!」

咄嗟に出た説明に対し、みゆは「え、製薬会社?」と驚いている。それも当然で、蘭は普段通り派手な高級スーツを着ており、どう見ても一般人には見えない。ついでに言えば三つ編み姿のサラリーマンなどいないに等しいはずだ。
製薬会社と称された蘭の頬もさすがに引きつっている。

「えー想像と違ったなあ。私はてっきり夜のお仕事の人かと…あ、すみませーん。失礼なこと言っちゃった」
「いや…」

みゆからのツッコミに蘭の笑みもますます引きつる。ついでに隣で吹き出したをジロリと睨みつけた。蘭の方もみゆに正体を知られない方が得策だと思ったようで、一応話を合わせるつもりのようだ。

「あ、じゃあ私はお邪魔なんで先に帰りますねー」

何となく二人の間にただならぬ空気を感じたのか、みゆがそそくさと帰ろうとする。それを見たは慌てて彼女の腕を掴んだ。

「一人でホントに大丈夫?」
「大丈夫ですよー。さっきはちょっと怖くなったけど、ホント家はすぐそこなんで。それにデート邪魔しちゃ悪いから」
「デ…っデートなんかじゃ――」

みゆは蘭が言ったことを真に受けているらしい。が否定しようとするより早く顔を近づけると「彼、先生に気があるっぽいし頑張って下さいねー」と耳打ちして笑顔で帰って行った。内心、どこが?!と思いながら見送っていると、不意に縛っている髪をぐいっと引っ張られた。

「いたっ…何する――」
「誰が…製薬会社の人間だって?」
「……う」

振り返ると、切れ長の瞳で見下ろしてくる蘭と目が合う。無駄に綺麗なんだよな、この人…と思いながら「仕方ないでしょ、あの場合っ」と言い返した。

「だいたい病院に直接来ないでって言いましたよね!バレたらどうするの?」
「別に終わった時間なんだしいーだろ。だいたいオマエ、助手を雇う余裕なんかあんのかよ。だったらあの女の給料分、返済にあてろ」
「それは…」

痛いところを突っ込まれ、つい口ごもる。多額の借金をしているだけに人を雇う余裕は確かにない。だが――。

「病院は一人じゃ無理なんだから仕方ないでしょ!それくらい大目にみてよ…」
「無理ならサッサとこの病院、オレらに引き渡せ。まあ、それでもオマエには闇医者続けてもらうけどな」
「……」

どっちにしろ同じ地獄じゃないか。
拳を強く握りしめながらはかすかに唇を噛みしめた。

「言ったでしょ…この病院は渡さない。ここを続けながら借金は返す」
「何年かかると思ってんだよ」
「何年かかっても返す」
「……フーン」

真剣な顔で応えた彼女を、蘭は呆れた様子で見つめてきた。冷たくも美しいバイオレットの虹彩が、を値踏みするように揺れている。最初に会った日も、こんな目で見られたことを思い出した。
この男の一存で事態が大きく変わってしまうのは百も承知だ。喉の奥が小さな音を立てた。

「は~相変わらず頑固っつーか…」

暫しの沈黙の後、蘭が深い息を吐いて苦笑いを零す。それまでの張りつめた空気が緩んだのを感じて、もホっと息を吐いた。

「ま…すでにここはウチの管理下にあるんだし、どっちにしろ弊害はねえからいーけど」
「え…?」
「要は病院の権利があろうがなかろうが、この土地一帯を東卍の縄張りに出来りゃいーんだよ。ここの持ち主であるオマエがオレらに所有されてんだから同じことだろ」
「しょ、所有ってそんな勝手に…」
「勝手じゃねえ。契約交わしてんだからなー」
「う…そうだった…」

楽しげに笑う蘭を睨みながら、病院を守る為、そんな契約を交わしたことを思い出す。今のはああするしか方法がなかったからだ。

「つーことでサッサと用意しろ」
「…へ?」

項垂れていると、蘭が「飯に行くっつったろ」と呆れたように返す。その一言に唖然とした。

「え…あれ本気だったの…?」
「じゃなきゃ、わざわざ迎えにこねえだろ。早くしろ。ああ、そんな地味な恰好じゃなく、もっとお洒落して来いよ?」
「は?お洒落って何でよ…」

だいたい行くとも言ってない。そう思いながら言い返すと、蘭は「ダサい女連れてたらオレが恥かくし~」と鼻で笑った。その言い草にムっとしてしまう。

「だったらお一人でどうぞ。そもそも何で灰谷さんとお洒落して食事に行かなくちゃいけないの?」
「どうせデートする相手もいねえんだろうし、可哀そうだから誘ってやってんだよ」
「よ、余計なお世話です!」

悔しいが当たってるだけにそんな返ししか出来ない。
これでも人並みに恋愛を経験したことはあるものの、獣医になることを優先していたせいで長続きした試しがなかった。おかげで夢は叶ったものの、現在に恋人という存在はいない。

「それに誰かさんのせいで寝不足だから早く寝たいの。ということでお引き取り下さい」
「……てめえ、マジで可愛くねえ女だな。だから男できねーんだよ」

の態度に頬を引きつらせた蘭が呟く。しかしその何気なく放たれた言葉は、予想外にも刃のようにの胸へ突き刺さった。以前、付き合っていた彼氏にも同じような台詞を言われたことがあったのを思い出す。
大事な試験前日にデートに誘われたのだが、は当然のように断った。きちんと理由を伝えたのだが、あっさり断られたことで腹を立てたのだろう。"可愛くねえ女~"という捨て台詞を残し、彼氏だった男は二度と連絡してくることはなかった。
忘れていた記憶と共に、ふざけんな、という怒りがの中に芽生える。

「可愛くなくて結構です」
「…あ?」
「自分の都合に合わせる女が可愛いと思うなら、そういう女性をお誘いください。わたしもそういう理由で女を選り分ける男とは食事をしたくないので」

いつにも増してきっぱりと拒絶したことで、蘭が珍しく呆気にとられたような顔を見せた。

「別にそういう意味で言ったわけじゃねえ…つーか…何でそんなキレてんの」
「キレてません」
「キレてんじゃん」

そっぽを向くの肩を掴み、自分の方へ向けさせる。その瞬間、彼女は「キレてないって言ってるでしょ…っ」と蘭の手を振り払った。しかし蘭と目が合うと小さく息を飲み、すぐに顔を背けてしまった。

「と、とにかく…食事には行かないし帰って」

そう言いながらエレベーターホールまで歩いて行く。だが途中、彼女がふと足を止めた。




◆◇◆


「明日、また閉院後に来て。包帯を取り換えるから」

はそれだけ言うと奥へと消えていく。その後ろ姿を見つめながら、蘭は怪訝そうに眉根を寄せた。

「…何で泣くわけ…?」

そう呟きながら、先ほど振り払われた手を見下ろす。あの時、彼女の目は確かに涙で滲んでいた。

「チッ…意味分かんねえ」

暫くの歩いて行った方向を見ていたものの、ふと我に返った蘭はそのまま病院を後にした。あの様子じゃ電話したところで無視されるだけだろう。

「…別に泣かなくてもよくね…?」

蘭からすればいつものようにからかっただけ。彼女だってそういう扱いには慣れているはずだ。涙を浮かべるほどのことじゃない。そんなに弱い女でもないはずだ。

「ってか怒らせてどーすんだって…」

蘭としては扱いにくい女を手なづけたい。その為に今日はとの距離を縮めるつもりだった。それもこれも自分達の都合のいい駒として使う為に必要なことだ。しかし逆に距離が一気に遠くなった気がした。

(どうもアイツ相手だと調子狂うんだよなー。ついキツい言い方になっちまうし…)

女でも男でも、蘭は人を手なづけることに長けている方だった。なのににはそれが通用しない。
他の人間がある意味、柔らかい紐ならば、彼女は真っすぐに伸びた硬い槍のようだ。変な小細工で曲げようとしても、決して曲がらない。
ただ、そんなが先ほど一瞬だけ見せた弱い一面に、蘭も多少戸惑っていた。

「あれ、兄貴?」
「おー竜胆か」

の病院から隣のある本部ビルまで歩いて行くと、ちょうど竜胆が出てくるところだった。おおかた飲みにでも行くんだろう。その後ろから東卍の金庫番でもある九井と、その相棒の乾が歩いてくる。

「あれ、蘭さん?どうしたんスか、一人で」
「あ?」
「確か例の女を食事に誘いだすって言ってましたよね」
「まだ誘ってないんスか?」
「あー…」

九井と乾に痛いところを突かれ、蘭は気まずそうに視線を反らす。その様子を見ていた竜胆の唇が楽しげに弧を描いた。

「あれれ~?もしかして…まーたフラれた?」
「は?フラれてねーから」

弟の生意気な物言いにカチンとして言い返す。だがその後の言葉が続かない。竜胆が見透かしたような笑みを浮かべているのがどうにも癪だった。

「マジで手強そうっスね~。あの女医さん」
「……ハァ。笑い事じゃねーから。イヌピー」

乾に苦笑され、頭をガシガシかきながら溜息を吐く。別に本気でもないはずなのに、やたらと気分が落ちるのは、意図せず泣かせてしまったせいかもしれない。別に泣かせた女は彼女が初めてというわけでもないのに、何故こんなにも罪悪感を覚えるんだろう。

はすでに東卍の手の中だ。蘭さんが手なづけなくても言うことを聞かせる方法はいくらでもあるんじゃないスか?」
「まあ、そうだけど」

九井の言葉に相槌を打ちながら、蘭は隣のビルを見上げた。4階部分の窓からは、かすかにオレンジ色の明かりが漏れていて、人影が薄っすらカーテンに映っているのが見えた。
この大都会では埋もれてしまうほどの小さな明かり。あの明かりが灯る場所を守る為、は無茶な契約を受け入れた。それは蘭からすると愚かしいことだ。ただ――。

「ああいうお堅い女を手なづけんのも一興じゃん」

軽く笑えば、三人からは「「「サイテー」っす」」と突っ込まれ、蘭は軽く吹き出した。
変わったものは手に入れたくなるものだ。それが自分の野望とは無関係なことだったとしても。