犬と思えば怖くない―03

Ambivalent


風呂上り、缶ビールを片手にテラスへ出たは無意識のうちに溜息を吐く。今日一日、ずっとこんな調子だった。

(何であんなにムキになっちゃったんだろう…)

夕べ、蘭に対して感情のままキツい言葉をぶつけてしまったことを思い出しながら、何度自問自答をしたかしれない。今思えば大したことじゃないのに、と苦笑が漏れる。

――彼とのデートどうでしたー?

変に誤解したみゆに散々聞かれて、否定するのが大変だった。もったいないと嘆くみゆに「もっと気楽にデートしたらいいのに~」とも言われてしまった。ただ蘭は論外としても、誰であれ今はそんな気分になれないのだ。

――可愛くねえ女。

ふと元カレからの言葉を思い出す。
別に過去の失恋を引きずってるわけじゃない。あの時、自分の出した答えが間違ってるとも思っていなかった。
にとって獣医になることは、当時の恋人との時間よりも大切な夢であり、試験の前日、デートへ出かけるという選択肢はなかった。そもそも次の日に大事な試験を控えていると知っていながらデートに誘ってきた男の方が配慮に欠けているだろう。
なのに断られた腹いせのように「可愛くねえ女」と吐き捨てられた時は、さすがにも傷ついた。獣医になることを彼も応援してくれてると思っていたからだ。
その後、彼からの連絡が途絶えたことでフラれたんだと自覚した時、別れすら直接言えない人なのか…と多少ガッカリもさせられた。
不幸中の幸いだったのは、そんな思いやりにかける男と付き合っていても時間の無駄、と案外、簡単に吹っ切ることが出来たことだ。だからこそ引きずることもなかったはずなのに、夕べ蘭から同じような言葉をぶつけられた時、何かの箍が外れたように感情が昂ってしまった。

(別にいいけど…あの人にどう思われようと…)

友人でも好きな相手でもない。蘭は自分を支配する組織の人間なのだ。そんな男に嫌われようと痛くもかゆくもない。
ただ――夕べは人格を拒否されたような気がして、どうしようもなく孤独を感じてしまっただけだ。

「ストレスもあるのかな…」

ふと自分の中にある"孤独"を自覚し、夜空を見上げた。星一つ見えない漆黒の空は、にいっそう寂しさを感じさせる。女一人で反社の男と渡り合うのは想像以上にキツい。事情が事情だけに友達にさえ相談出来ないのだ。そういった不安がストレスとなり、これまでの我慢も限界に達し、蘭の言葉に過剰に反応してしまったのかもしれないな、と思った。

「それにしても…鳩が豆鉄砲みたいな顔してたな、アイツ」

夕べの蘭の顔を思い出し、小さく吹き出す。普段は余裕しゃくしゃくな態度しか見せない男が、呆気にとられる姿は案外面白い。

「でも…仕返しされないよね…」

生意気な態度であったことは間違いなく、は少しだけ不安になった。

「あとで来たら謝った方がいい…?」

ブツブツ言いながら室内に戻り、手にしたビールを飲み干す。
一応、昨日は医者らしく、蘭の怪我の具合を見る為、今夜も来いとは伝えたが、あんな態度を取ってしまった手前、少々気まずい。

「ハァ…あの無駄に整った顔でチクチク嫌味言われるのは拷問だ…」

元々とは無縁の世界の住人であり、あの手の人種は昔から苦手だった。借金さえなければ絶対に関わりあいたくない。
それでも幹部連中はまだマシな方だ。下っ端連中が怪我を負って来院した時は、それもう酷い態度だった。無駄に騒ぐので、入院している犬や猫たちが驚いて、特に犬は恐怖を覚えると吠えやすくなる。それが原因となり、男達も怒鳴る、暴れるは当たり前で、治療するにも一苦労、ついでに怪我の状態も普通のものじゃないものが多い。
拳で殴られた打撲痕は当たり前、酷い時はナイフで刺された傷や切り裂かれた傷もある。通常なら即警察に通報案件だが、契約にあるようにそれは絶対に出来ない。そもそも獣医のが人間の治療をしたとバレるのもまずいのだ。

(奴らはその辺も分かっててやらせてんだろうけど…)

結局、一度でも手を貸してしまったに逃げ場などないのだということだけはハッキリしていた。
その時、テーブルに放り出したままのスマホがけたたましく鳴り出す。

「…やっとか」

時計を見れば、もうすぐ午前0時になる頃。もっと早くに連絡がくると思っていただけに、は溜息を吐いた。

「まあ明日は休みだからいいけど…」

気怠そうに言いながらスマホを手に取る。しかし、そこに表示されていたのは蘭の名前ではなかった。

「…誰だっけ、この番号」

表示されている知らないナンバーに首を傾げながらも、組織の人間であることは何となく分かった。こんな深夜にかけてくる非常識な人間は他にいないからだ。

「もしもし…」

は少し警戒しながら電話に出た。


◆◇◆


女はいつにも増してやかましかった。食事をしている時も、バーに移動して酒を飲んでいる今も、休むことなく喋っている。
久しぶりに蘭から呼び出されたのが、よほど嬉しいらしく、会っていなかった間、自分に起きた出来事を楽しそうに語っている。
それも変な男からナンパされただの、職場の上司から口説かれただの、蘭にとっては何の興味も湧かない内容ばかり。そんな退屈な時間の中で気づいたのは、女が明らかに蘭の反応を伺っている、ということだ。
男の話を振って蘭に嫉妬させたいという女の浅はかさが垣間見えて、すっかり気分も萎えてしまった。

(これじゃ…ちっとも酔えねえな…)

ウイスキーのロックを飲んでも、度数の高いウォッカを数杯流し込んでも、今夜はほろ酔いにすらならない。隣の女がやかましいことを差し引いても、飲めば飲むほど頭が冴えていくばかりだ。

「ねえ、聞いてる~?蘭さん」
「あ?あー…」

目の前の水槽を泳ぐ熱帯魚を眺めながら生返事をしていた蘭の腕に、女が不満げな様子でしなだれかかってくる。ついでに自分の腕を蘭の腕に絡めてきた。肘の辺りに柔らかいものが押しつけられているのは気のせいではない。

「そろそろ…お店出る?」

女の赤い唇が寄せられ、蘭の耳元で囁く。声に独特の艶が交じり、更に豊満な胸を押しつけてくる。蘭を誘っているのは明らかだ。

(何を喰ったらこんなに育つんだよ…)

内心ツッコミつつ、女の問いに応える気も失せ、蘭はカウンターに置いてあるスマホの時計を確認した。あと数分で深夜の0時になるところ。脳裏に生意気な女医の顔が浮かんだ。

――明日、また閉院後に来て。包帯を取り換えるから。

怒っていたくせに、最後は医者らしい言葉を投げかけてきたを思い出し、蘭は無意識に苦笑が漏れた。

「あ~何か思い出し笑いしてるー。他の女のことでも考えてるんでしょ~!」
「別に」

女が拗ねた口調で言いながら、蘭の頬を指で突く。その手をやんわりと払いのけ、スツールから立ち上がった。

「悪いな。用を思い出したから帰るわ」
「えー!何でー?」

スマホを手に取り、歩きだした蘭の背中に、女の甲高い非難の声が飛んできたが、それを無視してバーを出る。女の下らない話に辟易したせいで、すっかりその気も失せてしまったのだ。

「ま…暇になったしな」

独り言ちながら、自宅マンションとは逆方面へと歩き出す。行くつもりはなかったものの、何となく足がそちらへ向いた。

(またいきなり行けば怒るだろうし連絡でも入れておくか…)

午前0時が少し過ぎたのを確認し、蘭は履歴の中から最近頻繁にかけている番号を表示させる。だがタップしようとした瞬間、先にスマホが震動し始めた。

「…あ?イヌピー?」

電話をかけてきたのは乾だった。他のメンバーはともかく、乾は急用以外、かけてはこない。何となく胸騒ぎがした。

「もしもーし、どーした?」
『蘭くん…!大変だ…!イザナくんが――』

応答した瞬間、乾の慌てたような声が耳を劈く。普段、冷静な乾がこれほど取り乱すのは珍しい。嫌な予感がした。

「落ち着け、イヌピー。イザナに何かあったのか?」

なるべく冷静に尋ねると、乾は一言『…撃たれた』とだけ呟く。蘭の顏から血の気が引いた。

「誰に――」
『詳しいことは後で話す…今、イザナくんを例の病院に連れてきたとこだ。蘭くんも来れるか?』

――例の病院。

この状況で連れていける場所は一つしかない。蘭は即座に理解し「すぐ行く」とだけ応えて通話を終えた。

「…イザナ…!無事でいろよ…っ」

自然と走りだした蘭は、酔っ払いで溢れている歩道から車道へと飛び出し、反対側へ渡ると目的地を目指す。 とにかくイザナの容体が心配だった。
もう少しで夢が叶うというのに、トップを失うわけにはいかない。
元々東卍の総長だった佐野万次郎はある事情で行方をくらまし、ナンバー2だった稀咲は自分の犯した罪から逃れる為、事故死を装い、今は海外逃亡をしている。なので実質、今の東卍を仕切っているのはイザナだった。そのイザナが何者かに銃撃されたとあれば、さすがの蘭も動揺を隠せない。

(クソ…どこのどいつがイザナを…)

焦燥が全身を駆け巡る中、これまで潰してきたチームや組織を思い出す。かなり強引なやり方で従わせてきたのだから、敵は星の数ほどいるだろう。ただ使用されたのがナイフといった類ではなく、銃というのも気になった。この日本で銃を手に入れられる組織は限られてくる。

「まさか…舟木…?」

今まさに追い込みをかけようとしている日本最大の組織が頭に浮かび、蘭は拳を握り締めた。

「あ、兄貴!」

目的地が見えてきた辺りで、黒塗りのベンツが横付けされる。窓から顔を出したのは竜胆だった。どうやら竜胆も乾から連絡を受けてすっ飛んで来たらしい。二人は合流すると、急いで病院の中へと入って行った。


◆◇◆


何度か顔を合わせたことのある乾という男が、グッタリした男を支えながら訪ねて来た時、は軽い眩暈に襲われた。少し前に連絡を受けていたものの、撃たれた傷だと聞いて「それはさすがに無理だ」と断っていたからだ。

「おい、早く診てくれ!」
「そ、そんなこと言われても…わたし、銃創なんて初めてなんだってば…」

知識として習ったことはあれど、獣医を目指していただけに、その辺を熱心に勉強した記憶もない。しかし乾はお構いなしに怪我をしている男を処置室へと運んでいく。
撃たれた男はイザナと言うらしい。乾が何度も声をかけてはいるが返事をする気力はないようだ。ただ呼吸は乱れているものの、イザナという男の意識はあるようだった。

「早くしろ!」
「わ、分かったから怒鳴らないでよ…」

動揺した様子の乾にせっつかれ、 はすぐに自身の手を消毒し、手術用の手袋をはめながら処置台の上に寝かされているイザナの方へ歩いて行く。獣医とはいえ医者のはしくれ。こうなれば怪我人を前に逃げ出すわけにもいかない。これがもし動物だったなら、は迷うことなく助けようとするはずだ。

(…そう。人間だって犬や猫と同じよ…(!)落ち着いて、わたし!)

自分にそう言い聞かせながら、出血しているらしいイザナの肩を確認した。だがスーツを着ている上に大量の血で染まっている為、良く見えない。
仕方ないとばかりに、医療器具の中から大きなハサミを手に取れば、それを見ていた乾がギョっとしたように歩みよる。

「おい!何する気だ、てめぇ――」
「邪魔しないで!このままじゃ傷口が見えないから服を切るの!気が散るから黙っててよ!」
「う…」

のあまりの剣幕に、さすがの乾も後ずさる。普段の地味な彼女を知っているだけに、その豹変ぶりに驚いたのだ。
よく見ればの額には大量の汗が浮かび、ハサミを持つ手は震えている。銃創の治療は初めてと言うだけに、彼女も緊張しているようだ。そこに気づいた時、乾は「大丈夫か?アンタ…」と聞かずにはいられなかった。

「大丈夫なわけないでしょ?わたしは獣医で本来人間なんて診たことなければ銃で撃たれた人を治療するのも初めてなの!でも…やるしかないじゃない…怪我してる人が目の前にいるんだからっ」
「…でも手ぇ震えてんぞ」
「へ…平気よ。大きな犬だと思うからっ」(!)
「……(東卍のトップを犬扱いかよ…)」

内心呆気にとられ、乾の口元が引きつる。蘭がいつも話してるように、この女医は一筋縄じゃいかないらしい。

「…チッ…誰がデカい犬だって…?」
「イザナ…?」

その時、グッタリしていたイザナが僅かに口を開いた。だがすぐに「動かないで」とに怒鳴られる。初対面の、それも女に怒鳴られたことがないイザナは、ムっとしたように彼女を睨みつけた。

「クソ生意気な女…だな…」
「生意気で結構。怪我人は大人しくしてて。気が散る」

そう言いながらもはイザナのジャケットや中のシャツを慎重に切り裂いていく。布が傷口にこすれるたびイザナの口元から荒い息が漏れるものの、一度も「痛い」とは言わない男に、は少しばかり感心していた。

(この人、初めて見るけど誰なんだろ…)

普段、この病院に顔を出すのは蘭や弟の竜胆、鶴蝶や乾といった幹部連中だが、イザナは初めて見る顔だった。
褐色の肌、柔らかそうな白髪には緩いパーマ。そして蘭とは違うタイプの端正な顔立ちをしている。細身で小柄なだけに、中世的な男だと思った。

(彼も幹部…なのかな…それとも更に上…?)

乾の慌てぶりを思い出し、ふと思う。東卍という組織がやってることはヤクザ顔負けなのに、随分と若い人間が多い。

「よし…傷口が見えた…」

邪魔な衣類を切った場所から引き裂けば、銃創独特の傷口が現れ、ホっと息を吐く。簡単に血を拭いながら、まずは弾が体内にあるかどうかも検査しなければならない。

(まずはレントゲンで確認して…って言っても動物用だから上半身全ては無理がある…)

ここにある機器は当然、人間用のものとは大きさも異なり小さい。撃たれた肩付近のみ写るようにするほかなかった。

「乾…さんだっけ?彼をこっちへ運んで下さい」

検査機器の準備を整えて乾に声をかける。最初は動揺したものの、今は医者として目の前の怪我人を救うことしか考えていなかった。


◆◇◆


蘭と竜胆が院内へ入った時には、すでに検査や治療は終わっていて、イザナは毛布の敷かれた大きな処置台の上に寝かされていた。普通の病院とは違い、ここは動物病院。人間様のベッドなどあるはずがない。聞けば大型犬用の台だと、複雑そうな顔をした乾が教えてくれた。蘭が心配していた怪我の具合もそれほどひどくはないと聞き、改めてホっとする。

「んで…先生・・は?」
「あー…あの女医さんなら一旦自宅に戻った。何か疲れたっつってたし…」
「はは…まあ…銃で撃たれたヤツの治療なんて初めてだっただろうからな」
「マジでテンパってたからオレも焦ったけど…。まあ…そこは医者だけに最後はちゃんと処置してくれて助かったっス…」

乾は苦笑交じりで溜息を吐いている。しかしすぐに蘭を見上げると「イザナくんを撃ったヤツのことなんスけど…」と言った。

「詳しく教えろ」

蘭は乾を廊下へ促すと、竜胆のいる待合室へと歩き出した。



◆◇◆


治療を終えた後、全身の力が抜けそうになったは、後のことを乾に任せて自宅へと戻って来ていた。手についた血を必死に洗い落とし、綺麗になったところでホっと息を吐く。自分の手を見下ろせばかすかに震えていた。銃で撃たれた人間の処置をしたのは初めてだ。当然、冷静になった辺りで急に怖くなった。

「…とりあえず…死ぬような傷じゃなくて良かった…」

イザナの肩を貫いた弾は貫通していたようで、体内には残っていなかった。そして大事な血管も損傷などは見られず、でもどうにか対処できるくらいの傷だったのも幸いだった。軽傷とまではいかないが、後遺症などは残らないだろう。そう説明した時、乾は心底ホっとした様子だった。

「それにしても…あの男が彼らのボスだなんてビックリ…」

治療後、乾からイザナの正体を聞かされ、は驚愕した。蘭や竜胆と大して変わらない年齢に見える。あんな若い男が東京卍會のトップだなんて信じられなかった。

「確か警察でも手を焼いてる組織なのよね…何度かニュースにもなってるし…」

東卍のことは関わった時点でなりにも調べてみた。元々はただの暴走族だったらしい。そんなチームが、何故今のようなヤクザまがいの組織に変貌したんだろうと不思議に思う。

「…ま…どうでもいいけど」

彼らが何者で何をしようとしてるのかは分からないが、がすべきことは借金を全額返済することだ。それに、とは思った。

(東卍のトップが誰かから撃たれたってことは別の組織と揉めてるってことだし…運が良ければ警察が動くような抗争に発展するかもしれない…そうなれば…)

――アイツらだってそのうち警察に逮捕されるかもしれない。

ふと都合のいい想像をしてしまう。そうなってくれればどんなに良いだろう――。
でもそうなった場合、一つ問題が残る。

(…わたしも法に触れるような治療をしちゃってるしな…)

事情はどうであれ、彼らの悪事に手を貸してるようなものだ。最悪の場合、も逮捕され、医師免許をはく奪されるかもしれない。

「…ダメだ…」

自分の手に手錠をかけられる光景が浮かび、ゾっとする。この蜘蛛の巣に絡み取られた現状を打破できる可能性は今のところ何もなかった。
その時、エレベーターの扉が開く音がかすかに聞こえた。病院から誰かが上がってきたらしい。

「もう…自宅スペースには来ないでって言ってあるのに…!」

文句を言いつつ、洗面所から顔を出すと、廊下を歩いて来たのは蘭だった。

「おー。大丈夫かよ」

に気づいた蘭が苦笑交じりで歩み寄る。自分のボスが撃たれたというのに、普段と何ら変わらない。

「…大丈夫なように見える?」
「まあ…心なしか疲れてるようには見えるな」
「仰る通り疲れてるのでサッサと帰って。ここはプライベートな空間なんだから」

踵を翻し、リビングへ向かう。しかしの言葉を無視するように、蘭も後からついて来た。

「ちょっと――」

ムっとしたが振り返り、文句を言おうとした。だが蘭は不意に足を止め、真剣な顔で彼女を見下ろす。普段の皮肉めいた笑みは一切ない。

「…助かったよ」
「…え?」
「うちの大将のこと」

何を言われるのかと思えば、あまりに予想外の言葉。一瞬、呆気にとられた。いつもの蘭であれば「医者なら助けるの当然だろ」くらいは言ってくるはずだ。
意外すぎての調子まで狂ってしまう。

「べ、別に…仕方なくやっただけだし」
「まあ…そうだろうけど、撃たれた人間診んの初めてだろ。なのに手際が良かったってイヌピーも誉めてたわ」
「イヌピー…?」
「ああ、イザナを運んできた乾だよ」
「……ああ」

ふと額に火傷の跡がある目つきの悪い男の顏が浮かぶ。見た目とは違い、随分と可愛らしいあだ名だ。

「あの撃たれた人…あなたのボスなんだってね」
「ああ。ま、その前に古い付き合いでね。死なれちゃ困る人間でもある」
「そう…」
「だから…サンキューな」
「……っ」

不意に柔らかい笑みを浮かべたかと思うと、蘭の手がの頭へ乗せられ、その動作に言葉を失った。いつもの意地悪な蘭はなりを潜め、優しく頭を撫でていく。

「んじゃーもう遅いし帰るけど、うちの大将のこと宜しく頼むわ。明日にでも迎えに来るし」

蘭はそれだけ言うと再びエレベーターへと乗り込む。そして静かに扉が閉まった時、の背中にぞわりとしたものが走った。

「何あれ…不気味すぎる…っ」

あまりに普段とは違いすぎる蘭の態度に鳥肌が止まらず、は軽く身震いをした。

「何アイツ…何か悪いもんでも食べたのかな…」

いつも嫌味か意地悪なことしか言ってこないはずの男から、予想外のお礼を言われて何となく気分が落ち着かない。新手の嫌がらせか?と思ってしまう。

「何がサンキューよ…。普段はそんなこと言わないくせに…そんなにあのボスが大事なわけ?」

ブツブツ言いながらキッチンへ行くと、冷蔵庫から新しいビールを出して飲む。慣れない仕事の後で気分が昂っているのか、酒でも飲まないと眠れそうにない。

「ハァ…いつになったら平穏な日々が戻ってくるんだろ…」

そうボヤきながらビールを煽る。
とりあえず明日が休みで良かった、と心の底から溜息を吐いた。


◆◇◆


「あ…包帯変えてもらうの忘れた…」

一階へ下りた蘭はふと自分の腕を見て呟く。本当はそれを目的に彼女の元へ行ったはずなのにすっかり忘れていた。予想以上に憔悴しているの顔を見た瞬間、どれだけイザナの治療が大変だったのか察してしまったのだ。気づけば自然と口かららしくない言葉が出ていた。何をお礼言ってんだか、と自分に苦笑が漏れる。

「まあでも…あれでアイツも少しはオレへの警戒心といたんじゃね?」

最後、蘭の言動に驚いたような顔を見せたを思い出す。女医を手なづける第一歩にしては、なかなかいい状況だったはずだ。普通の女ならアレで簡単に落ちる――はず。

(…ま、言ったことに嘘はねえんだけどな)

かすかに震えていた彼女の手を思い出し、軽く笑みを漏らす。
普段と違う彼女の一面を見て驚いたのは、蘭も同じだったのかもしれない。