女医と患者―04

Ambivalent


医者たる者、休みと言ってもやることはある。獣医のもそれは同じだった。
それでも普段よりは朝寝坊をし、ゆっくりと朝風呂に浸かった後は軽く朝食を食べる。その後は病院へ行き、入院している患者の世話をするのが常だった。
現在、入院しているのは猫のみで、マンチカンのクルミちゃんとブルーアビシニアンのファラくんだ。メスのクルミちゃんは大人しい性格だが、ファラくんはオス。かなりヤンチャで、いつもゲージの中をウロウロしながら、時々「ニャーオ」と抗議するように鳴いている。飼い主曰く、エジプトのファラオのような風格があるというので"ファラ"と名付けたらしい。言われてみれば、どこか気品のある顔をしている。淡いグリーンの瞳でジっと見つめられると、つい傅きたくなるのだから不思議だ。

「夕べは騒がしくしてごめんね。今、トイレを綺麗にするから。その後にご飯ね」

二匹とも懐っこく、が近づいても威嚇するようなことはない。こういう子は獣医としても世話をするのは楽なので助かっている。
まずはゲージの中のトイレを掃除し、すっかり空になっている水や餌の器を全て洗い、栄養値の高い食事を出す。お腹が空いていたのか、どちらも勢いよく食べ始めた。
二匹は先日、今流行りの急性胃腸炎で連れてこられた。下痢が酷かったので念のため入院させていたが、昨日から食欲も出てきたようで、だいぶ元気になってきたので明日には退院の予定だ。

「明日、ママが迎えに来るからね」

そんな言葉をかけながら病室の窓を開けて空気を入れ替える。猫に言葉が伝わるのかは別として、動物に話しかけるのも大切なことだ。自由気ままで懐きにくいと思われがちな猫だが、案外寂しがり屋の甘えん坊が多い。特に飼い主と離れて不安を感じている時、言葉をかけ続けることで見知らぬ相手であっても少しは安心してくれるようになる場合もある。要は敵じゃないと感じてくれればいいのだ。
犬でも猫でも、他の動物でも、植物にさえ言葉をかけるのは大事なことだと、は父から教わった。

「お父さん…今どこで何してんだろ…ちゃんと食べてるのかな…」

窓の外に広がる青空を見上げながら呟く。忙しい時には忘れていられるが、こんな休日の一時、やはり考えずにはいられない。突然いなくなった時はショックで怒りが先に立ったものの、冷静になって考えた時、あの父がただ逃げたようには思えなかった。借金を娘に押し付けて平然としてられるような冷酷な人間ではないからだ。

(電話くらいしてくれてもいいのに…せめて無事なことだけでも知らせてくれたら…)

父のことを思い、しばし、ぼんやり流れる雲を眺めていると、水面に小石を投げ入れるかの如く、小さな波紋が胸に広がった。

「そう言えば…何かわたし、大事なことを忘れてるような…」

何となく気にかかり、窓を閉めて病室を出る。だが処置室の前を通りかかった時、そこでふと足が止まった。

「あ…そうだった…」

何かに気づいて視線を向けると、そこには白髪の男が処置台の上で眠っていた。


◆◇◆


全身が痛い。目が覚めた時、まずイザナが思ったのはそれだった。右肩の辺りがジクジクするのは撃たれたからだろう。そこはすぐに思い出した。だがそれ以外に何故か背中が痛い。いや、背中の他に腰まで痛い。ついでに言えば、普段寝ている高級ベッドの感触ではない。まるで床にでも寝かされているような硬さだ。

「…ここ、どこだよ」

違和感を覚えてパチリと目を開けた瞬間、まず見えたのは真っ白な天井。全く見覚えがない。ただかすかに消毒液の匂いがして、自分が今どこにいるのかを思い出した。

「大丈夫ですか?」
「―――ッ」

すぐ傍で声をかけられ、イザナは慌てて体を起こした。同時に激痛が右肩に走る。

「…っつ…」
「急に動かないで。傷口が開いちゃう」
「…オマエ…」

イザナの背中を支えるように手を伸ばしてきたのは見知らぬ女。白衣こそ着ていないものの、それが夕べ自分を手当てした女医だと気づいた。激痛で意識が朦朧としていたものの、声はハッキリ覚えている。

「オレのことを犬扱いした医者か…」
「え…ああ…」

言われて思い出したのか、女が困ったような笑みを浮かべている。細身で色白。殆ど化粧っ気のない地味な印象だが、懐っこそうな可愛らしい顔立ち。蘭から聞いたまんまだな、とイザナは思った。

「だってわたしは獣医だし…撃たれた人は初めて診たから」
「…だろうな。オマエ、…つったか」
「うん。あなたは…イザナさん?」
「何で…」

と言いかけてイザナは言葉を切った。ここへ運んでくれたのは乾だ。彼女が名前を聞いていても不思議じゃない。それより――。

「おい…何でオレはこんなとこで寝かされてんだよ…」

自分が寝かされている物に気づき、イザナの目が半分まで細められる。硬いとは思っていたが、それもそのはず。ベッドですらない。これでは背中や腰が痛くなるのも当然だ。
イザナの指摘には呆れた様子で息を吐いた。

「仕方ないでしょ…?ここは動物病院なの。人様が寝るような病室もベッドもないんです。文句を言うならあなたを置いて行った部下の灰谷さんに言えば?」
「…チッ。蘭の野郎…」

が蘭の名前を口にすると、イザナは忌々しげに呟く。

「あ~…腰がいてえ…」

擦りながらどうにか足を下ろすと、が「立てます?」と手を差しだした。

「どうにかな…でも動くとあちこち痛い」
「でしょうね。軽傷とは言えないもの」
「つーか…痛み止めとかねえの」
「あることにはあるけど…」

イザナの問いに頷くと、はどこからか薬の入った袋を持って来た。

「犬用と猫用とあるけど…どっちがいい?」
「……っ?!」

に差し出された薬を見て、イザナの口元が盛大に引きつった。


◆◇◆


「ふわぁ…」

蘭は盛大な欠伸をしつつ目を覚ました。夕べはイザナの襲撃の件で幹部が集まり、朝方まで話し合っていたのだ。

「いってぇ…」

本部の個室にある革張りのソファから起き上がると、ジンジンと痛む腰をさする。夕べは酒も入っていたせいか、ベッドへ行く前にソファで眠り込んでしまったらしい。大きなソファでも蘭の身長ではどうしても足がはみ出てしまう為、無理な体勢で寝ていたのが良くなかったようだ。といって、イザナが寝ていた処置台に比べたらマシな方かもしれない。

「まだ昼過ぎかよ…」

スマホで時間を確認すると、再び欠伸が出る。蘭の場合、普段ならまだ寝ている時間だ。ただ今日は悠長に二度寝をかましている余裕はない。イザナを襲撃した相手、または組織を見つけ出すという仕事が待っている。
乾の話では夕べ、イザナは馴染みの女のマンションに行っていたらしい。これから舟木に抗争を仕掛けるという時に何をやってんだと思わないでもないが、自分も夕べは女と飲みに行っていたので、そこはスルーしておいた。
昨夜、午前0時前、イザナから乾のスマホに「迎えに来てくれ」との連絡が入り、乾はすぐに車で女のマンションへと向かった。到着した際、乾がイザナに電話。到着したことを伝えると、五分もしないうちにイザナがエントランスにへ下りてきた。そして車の方へ歩き出した時、植え込みの奥からパンっという短い発砲音。どこを狙ったのかは分からないが、弾はイザナの肩を撃ち抜いていた。

――撃ったヤツの姿は見えなかった。すぐに植え込みの辺りを探したが誰もいなくて…

乾は悔しそうに言っていたが、イザナの治療を優先したことは間違っていない。大事に至らなくて本当に良かったと、幹部全員が安堵していた。

(イヌピーの聞いた短い発砲音…それほど性能のいい銃じゃなさそうだ。改造銃か…?そんな粗悪品を舟木一家が使うとも思えねえけどな…逆に敢えてっつーパターンもあるか…)

寝起きながらも頭を働かせつつ、出来たばかりのコーヒーを注ぐ。香ばしい匂いが、寝ぼけた頭をスッキリさせてくれる。
使われた銃も気になるが、蘭は他のことも気になった。何故、襲撃者はイザナの女のマンションを知っていたのか。夕べ会っていた女はごく最近知り合ったんだと、以前イザナから聞いている。なのに行動パターンを知られているとなれば――。

「…尾行?」

普段イザナが一人になることはない。誰かしら幹部はそばにいるし、下っ端連中も大勢いる。ただ唯一イザナが単独で行動することがあるとすれば、女と会う時くらいだ。それを知ることが出来たのなら、イザナは常に監視されていたのかもしれない。

「鶴蝶に怪しい人間がいなかったか聞いてみるか…。つっても鶴蝶はココと昨日から大阪だっけ」

イザナの右腕でもある鶴蝶は、先日東卍の傘下に下った組織のところへ今後のことについて話し合いに出向いている。その組とは特に揉めたわけではなく、先方から傘下に入りたいと申し出があったのだ。そこでイザナの代理として鶴蝶と九井が出かけて行き、今は不在だった。

「やべ…そういや誰かアイツらに連絡してっかな」

イザナ襲撃の件でバタバタしていたせいで、二人に連絡するのをすっかり忘れていた。

「いや…イヌピーもテンパってたし忘れてっか…竜胆も然り…」

仕方ないと思いながらスマホを手にして鶴蝶の番号へ電話をかけた。だが数コール待っても出る気配がなく、蘭は舌打ちしながら部屋を出る。そこへ竜胆が歩いて来た。

「あれ…?兄貴…もう起きたんだ」
「おー。さっき起きたわ…まだ寝たりねえけどそうも言ってらんねえしなー」
「確かに。あ、じゃあ今からイザナくん迎えに行くのか?」
「…あ?オマエ、行ってねえの?」
「え?だって兄貴、夕べオレとイヌピーに舟木の身辺探って来いっつったじゃん。だから徹夜して今戻って来たとこだけど」
「……」

竜胆の説明にしばし蘭が固まる。確かに夕べ、そんなことを言った気もする。ただ酒も入っていたことで言われるまで忘れていた。

「ってことは…イザナはまだ病院かよ」
「兄貴が行ってねえなら…そうなるな。イヌピーもオレと一緒にいたんだし」

竜胆が神妙な顔で頷く。慌てて時間を確認してから、蘭はガックリ項垂れた。すでに午後1時を回っている。

「…イザナ、もう目ぇ覚ましたよな、多分」
「だろうな…」

目を覚まして傍に誰もいない上に迎えにすらこないともなれば、我がまま暴君である王さまは今頃イライラしながら待っているかもしれない。それを想像すると蘭はゾっとした。

「とりあえず隣に行ってくるわ…」
「行ってら~」
「……(他人事だと思いやがって…)」


グッタリした様子で歩きだす蘭の背中に、弟の能天気な声が追いかけてくる。イラっとした蘭は殺意100%の目つきで睨んでしまった。

「あ~…気が重い…どうせ撃たれてイラついてんだろうし…」

十代の頃からイザナを知っている蘭にとって、この後の展開が手に取るように分かってしまう。 王様気質のイザナには理屈が通用しないのだ。イザナを撃った相手のことを探していたと説明したところで、オレを放置する理由にはならねえだろ、くらい言われそうだ。

(ってか…アイツ、イザナと二人きりで大丈夫か…?)

ふと生意気な女医の顏が過ぎる。確か二人は初対面のはずだ。王様気質のイザナを前に、さすがの彼女もビビッてるかもしれない。

「いや…そんなタマじゃねえか…。むしろイザナに歯向かってたり…」

嫌な予感がして足を速める。あの生意気な女医にイザナがいつもの短気を起こして殴りでもしてたら大変だ。
イザナがこれまで女を殴る姿は蘭も見たことがない。ただはイザナの傍にいるような従順な女じゃないことだけは確かで。女に生意気な口を利かれることに慣れていないイザナがブチ切れないとは言い切れない。
今のところは自分達に必要な医者だ。暴対法が厳しくなってからというもの、都合よく働いてくれる医者を見つけるのは何気に苦労するのだ。と同じように借金で型にハメた医者は他にもいるが、普通の医者は警察にも目を付けられやすく、あまり表立っては使えない。そういう意味でも獣医のは都合が良かった。今、彼女に怪我をさせられても困る。
そう思いながら急くように病院へ向かう。しかし夕べイザナを運んだ処置室には誰もいない。蘭はすぐさまエレベーターに飛び乗り、女医の自宅へと向かった。一瞬、最悪な状況が蘭の脳裏に浮かぶ。

(まさかとは思うが…イザナのヤツ、に手を出してんじゃ…)

彼女がイザナのタイプとかけ離れてるのは分かっているものの、男と女はどう転ぶか分からない。白衣を着た女を見て、イザナが変な気を起こさないとも限らないと思った。

「おい、入るぞ――」

4階に到着するとノックもせずドアを開け放つ。だが、そこで蘭の目に飛び込んできたのは、イザナがを押し倒している光景――ではなく。

「あっつ…!冷ましてから食わせろよ、てめぇ」
「じゃあ自分で食べてよ。左手は動かせるんだしスプーンくらい持てるでしょ?」
「あ?持てるワケねぇじゃん。利き手じゃねーんだし」
「なら我慢して下さい。ほら、口開けて」

は言いながらもお粥らしきものをスプーンで掬うとイザナの口元へ運んでいく。その光景を唖然とした顔で見ていた蘭は、軽い眩暈を感じた。
何がどうなってこうなっているのか、誰か説明して欲しい。

「てか…蘭じゃねーか…?何そんなとこで放心してんだよ」

やっと蘭の存在に気づいたイザナが怪訝そうに眉をひそめた。撃たれた方の肩は包帯が巻かれ、ついでに腕も釣られている。動かさないようにと、がやったようだ。

「いや、それオレの台詞…」
「あ?」
「何してんだよ、大将…」
「何って…腹減ったから飯食ってんだろーが。オレはピザがいいっつったのに怪我人だからお粥にしろって言われて――」
「…マジか」

深い溜息と共に項垂れながらへ目を向けると、彼女は「何よ…その顏」といつもの不機嫌そうな顔を見せた。蘭に文句を言われると勘違いしたらしい。

「別に毒なんて盛ってないけど」
「いや…まあ…無事で良かった」
「…はぁ?」

その言葉の意味が分からなかったのか、は呆れ顔で「何のこと?」と眉をひそめた。こんな態度をされるのはいつものことだと思いつつ、蘭は近くのソファに腰を下ろす。とりあえず心配してた事態にはなっていないらしい。

(ったく…呑気に飯かよ…しかも食わせてもらってるとかイザナらしいっつーか…)

イザナも女にはモテる男だが、蘭とは少しタイプが違う。蘭は上手く裏で操作して女の方から来させるようにするが、イザナはドストレートに自分の方へ向けさせる。その点でも王さま気質なのは変わらない。

(しっかし…このが言われた通り飯を作ってやるとか、イザナのような男は苦手そうなのにな…)

いつも自分に食って掛かる印象が強いだけに、イザナへの対応はちょっと意外だった。
まあ、形的には医者と患者という関係だからかもしれないが――。
そんなことを漠然と考えていた時だった。スプーンで運んだお粥の残りがイザナの口元から一筋垂れた。それに気づいたが素早くティッシュで拭いてあげている。

「もう…子供じゃないんだから」
「てめぇが揺らすからだろ。しっかり持てよ」
「…偉そうに」
「あぁ?偉そうなのはオマエだろ。医者だからっていちいち指図しやがって。獣医のくせに」
「その獣医に治療されたの誰だったっけ」
「…チッ。うっせぇよ」
「……」

普通に言い合いをしている二人を目の当たりにした蘭の胸中に、驚きと同時に何とも言えない感情が広がっていく。東卍のトップ相手にビビることなく普通に接しているのも驚くが、イザナに対するの態度は、蘭に向けてくる刺々しさがないように見えたのだ。言い合いはしていても、どこか楽しげに見えてしまう。

(…なーんか…面白くねえな…)

イザナへお粥を食べさせるの姿を見ていた蘭は、もやっとするものを感じて小さく舌打ちをした。
蘭には常に冷えきった態度の女が、会ったばかりのイザナと親しそうにしている。どういう事情であれ、面白くないと思うのは男の本能なのか、それとも――。