I knew

第二十七幕:雨降って地固まる



どんよりとした心と同じく、今この部屋の空気もどよんとしていた。その後の経過を聞きに、珍しく寝坊助の兄貴が早い時間からやってきたせいだ。どこのクソガキだってくらいにピンポン連打をされ、久しぶりに熟睡できていたオレの安眠を見事に妨げてくれた。
オレが同じことをやったら絶対に飛び蹴りかましてくるクセに。
と、まあ、こんな感じで爽やかな目覚めにもならず、ついでにあることが原因でオレは鬱々とした気持ちで、未だネチネチとしつこい兄貴の嫌味をBGMにモーニングコーヒーを飲んでいた。

「そーか、そーか。早速チュウして仲直りしたってわけか。へえー兄ちゃんガラにもなく心配して損したなー」

嫌味のレパートリーがすでになくなったらしい。一周回ってまた最初のフレーズに戻ったようだ。でも最初の時と比べたら、めちゃくそ棒読みだから何か切ない。どうせ嫌味を言うなら、もっと丁寧に言って。雑にならないで。

「――んで…その幸せ絶頂のオマエが、何でそんなヘコんでんのー?」

オレが何の反論もしなかったせいか、飽きたらしい。これで兄貴の嫌味タイムは終了のようだ。ただ隣に座ってる兄貴はまるで自分ちのように、テーブルをオットマン代わりに足を伸ばし始め、オレの淹れたコーヒーをズズズっと音を立てて、最後の嫌みと同じくらい雑に飲んでる。どこの国の三つ編み王子さまかな?
まあ、そんな感じで早く話せよ的に睨んでくるから「…いや…幸せなのは幸せなんだけど、さ」と前置きをしつつ、昨日彼女と話し合った内容というのを兄貴に説明した。案の定と言うべきか、兄貴の目がまん丸になって、その後にかわいそーみたいな同情の視線へと変わる。まあ、分かるよ。そういう反応になるよな。オレでもきっと逆の立場ならそうなるわ。

「…マジかぁ。まあ…はああいう子だしなぁ…優しすぎるっつーか、何つーか、色々と人の気持ちを理解しようとする性格だからこそ、あんなに悩んじまったんだろうけど」
「…うん」

そんなのオレだって分かってる。だから彼女のとんでもない条件を考えることなく了承したわけだし。ただ気持ちが落ち着いてくると、さすがに憂鬱な気分にはなった。だって――。

「で、オマエはいつ、それ実行すんだよ」
「今日」
「そっか。ま、こういうのは早いに越したことねえ。それ済んだらもここに戻ってくんだろ?」
「うん」

そうだ。この憂鬱な条件を終わらせたら、その後は天国が待っている。そう考えたら、あいつに会って謝ることくらい屁でもない…と思う。
がオレとやり直してくれる条件。それはオレの浮気をバラしたあいつに会って、きちんと謝罪することだった。

――あの子がどういう気持ちであんなことしたのか全て分かるわけじゃないけど…竜ちゃんのことで傷ついたのは確かだと思うから、出来れば彼女には竜ちゃんからちゃんと謝って来て欲しい。

そう言われた時はビビったけど、オレはその条件を飲むことにした。これでも反省したし、確かに相手の女の気持ちなんて考えたことがなかったから、もし仮にあいつが最初から好意を持ってオレに近づいてきたんだとしたら、その気持ちを利用して弄んだことに変わりはない。お互い割り切った関係だと思ってたけど、あんなことまでさせたのは間違いなくオレだ。そこはちゃんと謝らないといけない。

「へえ、今回の件で少しは大人になったじゃん」

兄貴はからかうように笑ってたけど、少しは安心してくれたらしい。やっと安眠できるわと言って帰って行った。ってか寝てなかったから早かったんか、と思わず呆れたけど、きっとと会ってどうなったのか心配で、朝まで飲んでたパターンだな、あれは。やたら酒臭かったし。
まあ、でもオレも午後すぐに出かけるから、起こしてもらえたのはちょうど良かったかもしれない。

「シャワー入って用意でもすっか…」

今日の午後、一時。六本木ヒルズのカフェであいつと待ち合わせてるから、少し余裕を持って出かける準備を始めた。
にああ言われたものの、オレはこれまで手をつけてた女の連絡先を綺麗に削除してたから、どう連絡を取ろうか困ってたら、そこはが教えてくれた。先輩のケーコさんがあいつの連絡先を知ってたようだ。

「今はもうケーコ先輩がかけても出ないみたいだけど竜ちゃんなら出るかも」

そう言われたからが帰ったあと覚悟を決めて電話してみたら、彼女の言う通り、5コール辺りで相手が出てくれた。まだオレの番号を登録してあったようで、あいつはかなり驚いてたけど。
ちゃんと冷静に話をして「会って話したいことがある」と伝えた。あいつはオレが怒ってると思ってたと言ってたから、変に警戒させないよう昼間、ヒルズにあるオレの友達がバイトをしてるカフェを指定したら意外にもすんなり会うことを承諾してくれた。

――竜胆くんから連絡くれて凄く嬉しい。

そんな感じのことを言われたから、やっぱりあいつはオレのこと本気で好いてくれてたんだろう。でもその気持ちに応えてやることは出来ない。だからせめて、ちゃんと今までのことを謝ろうと思っていた。また、そうすることでとも今までの自分とは違う自分で向き合える気がしてた。

六本木ヒルズは相変わらず、平日の昼間だろうが関係なく混雑してる。人混みをひとりで歩いていると、当然知り合いにも遭遇する。あ、竜胆くん、お疲れっすと声をかけられ、軽く言葉を交わしたり、手を上げるだけで済ませたりしていると、数分もしないうちに待ち合わせ場所へと到着。
驚いたのは、あいつがすでに来ていたことだ。オープンスペースの席に座っていた女が笑顔でオレに手を振っている。その姿を見て、あいつはこんな顔だったっけと首を傾げそうになったのは、真昼間、それもこんな青空の下で会うのは初めてだったからかもしれない。
ただ、それだけじゃなく彼女は普段の派手なメイクとは違い、随分とナチュラルなメイクを施していた。ギャルっぽいイメージしかなかったから正直驚いたけど、そんな気持ちは噯にも出さずに、オレも軽く手を上げて席へと歩いて行った。

「久しぶり」
「うん、ほんとに…」

オレが声をかけると、彼女は少し照れ臭そうに頬を緩めながら「あ、竜胆くんは何飲む?」とメニューを差し出してきた。
彼女の座っていた席はいわゆるカップル席と呼ばれるようなふたり用のもので、椅子が並んで置かれている。でも謝罪するのに並んで座るのもおかしなものだし、オレは椅子を引いて少し距離を開けてから腰をおろした。

「あー…じゃあモカブレンドで」

そう応えると、彼女はすぐに店員を呼び、代わりに注文をしてくれた。どうやらオレの友達は遅番らしい。顔見知り程度の店員が注文を受けてくれた。
それにしても、と改めて彼女を見れば、随分と晴れ晴れとした顔をしてる気がする。あの夜はだいぶ様子もおかしかったが、あれだけのことをしたからこそ、スッキリして落ち着いたのかもしれない。
コーヒーが運ばれてくるまでの間、他愛もない「元気だった?」とか「急に連絡して悪かったな」なんて言葉を口にしつつ、どう切り出すかを考えていた。けど「そう言えばメイク変えた?」と言った時、彼女は気づいてくれて嬉しい、と頬を染めたあと、「こういうの竜胆くん好きかと思って…」と言い出したから、ちょっとだけ驚く。確かにどちらかと言えば濃いよりは薄い方が好きだし、そう思うようになったのはと付き合いだしてからだ。でも彼女にそんな話をした覚えもなく、またメイクを薄くしてくれと頼んだ覚えもない。以外の女がどんなメイクをしてようと、ぶっちゃけどうでもいい。
それより何よりオレが驚いたのは、目の前の彼女が何かを期待するような素振りを見せたからだ。

「ねえ、この後はどうする?竜胆くんはどこ行きたい?」

別にデートに誘ったわけじゃない。電話で話した時も、ただ「話がしたい」と伝えただけ。なのに彼女はすっかりデート気分でいることに、オレは驚きと共に、次に言おうとしてた言葉を詰まらせてしまった。そこへオレの頼んだコーヒーが運ばれてきたことで、ホっと息を吐く。とにかく誤解してるなら解かなければいけない。気分を落ち着かせようとコーヒーを口へ運ぶ。モカ独特の優しい酸味や香りが、少しだけホっとさせてくれた。

「あ、ここなんてどう?竜胆くん、ビリヤードとか好きでしょ」

彼女はそう言いながらスマホの画面をオレに見せてきた。そこは近所にあるバーで、昼間から営業してる店だ。兄貴と何度か、一度はも連れて行ったことのある場所だった。もちろん彼女と行くつもりはない。この辺でちゃんと説明しないと、また変なことを言いだしても困る。そう思ってオレは彼女のスマホを返すと、小さく深呼吸してから口を開いた。

「あのさ、今日キミを呼び出したのは…」
「うん」
「…ちゃんと謝りたかったからで、どこへ行くとかそういうつもりじゃないんだ。悪いけど」

どうにか目的を伝えることが出来たことで、オレはホっとしながらコーヒーを一口飲む。すると一拍置いてから彼女が「え…?」と驚いたようにオレを見た。いや、その反応、こっちが驚くんだけど、と思いつつ。口火を切ったのを機に本題を話すべく、オレは彼女の方へ体を向けた。

「お互い割り切った関係だと思い込んでキミを傷つけたこと、本当に悪かったと思ってる。だから最後にきちんと謝りたかった。今日はそれを言いに――」

と、そこまで言った時、彼女の異変に気付いて言葉を切った。さっきまでの笑顔は消え、彼女は俯いて何かブツブツ言ってる。

「…そんな…私はてっきり…謝るって…何?…」
「あの…大丈夫?」
「私の好きな竜胆くんは…竜胆くんは…そんなこと言わない…」
「なあ、聞いてる?」

オレの言葉は全く聞いてない感じで、ちょっとだけ怖くなってきた頃、彼女がふと顔を上げてオレと目線を合わせた。

「誰に…頼まれたの」
「え…?」
「あの子でしょ…私に謝れって言われた?」

いきなり核心を突かれて言葉に詰まる。女の勘というやつなのかは知らないが、彼女は自発的にオレが会いに来たわけじゃないと何となく察したのかもしれない。
オレが沈黙したことで自分の想像が確信に変わったらしい。彼女は「やっぱり…!どこまで人をバカにすれば気が済むのよっ」と唇を噛みしめた。それまでの穏やかな表情が一変して、あの夜みたいな、どこか不気味な目つきでオレを睨んでくる。それは本能的なものだったかもしれない。彼女に変な勘違いをさせないよう「いや、そうじゃない」と否定した。

「オレも本当にそう思ったから連絡したんだって。別にに言われたってだけじゃねえし――」
「うそ!私の…私の知ってる竜胆くんはこんなことで謝ったりしない…!なのに…あの子に言われたら私にまで頭下げるのね――」

最後、どこから声を出してるんだと思うくらい冷えた口調にゾっとした、その時だった。

「…あ…?」

腹の辺りに何かが入ってきた、と感じた瞬間、焼けつくような激痛が走った。咄嗟に立ち上がれば、ガタガタっと椅子が派手な音を立て、そこで初めて自分がその場に倒れたんだと気づく。彼女が冷めた目でオレを見下ろしてたからだ。そして、彼女のその手には小型のナイフが握られていた。

「きゃぁぁぁ!」

大きな音に気づいた周りの客たちが一斉にこっちを見て叫びだすのが聞こえる。異変に気付いた顔見知りの店員も店内からオープンスペースへ走り出てくるのがボヤケた視界に映った。その間も彼女はジっとオレを見下ろしたまま微動だにしない。震える手で腹の辺りに触れると、ぬるりとした赤いものが指先を濡らしていくのが気持ち悪かった。

「い…てぇ…」

そこでやっと自分が刺されたんだと気づく。急激に力が抜けていく感覚。今日は少し蒸し暑いにも関わらず、身体はどんどん冷えていく。血が一気に流れだしたせいだ。

「おい、この人、さ、刺されてるぞ!」
「きゅ、救急車!誰か救急車呼べ!」

すうっと意識が薄らいでいく中、最後に聞いたのはそんな騒がしい声だった。



◁▼▷


個人的に大事な睡眠を貪る時は、いつもスマホを完全にミュートにするオレが、この日に限って忘れていたのが幸いした。寝不足過ぎたのとアルコールも入ってたことが重なって、細かい作業をするのも面倒だったせいだ。
竜胆のとこから自宅マンションへ戻ってから三時間後。しつこく鳴り続けるスマホの音でオレは目を覚ました。

「…っるせぇ…」

モソモソと被っていたタオルケットから腕だけ伸ばし、スマホを探す。右へ左へと手を彷徨わせれば、四回目くらいで振動するスマホが指先に触れた。それを徐に掴むと、すぐに引き寄せ、しょぼついた目を開け相手を確認する。普段なら放置しとくが、途中で起こされた苛立ちをかけてきた相手にぶつけようと思っただけだ。
画面には竜胆のツレの名前が表示されていた。昔から六本木にはオレや竜胆と共通の知人友人が多い。その中にもオレと特に親しいヤツ、竜胆と親しいヤツといった具合に自然と分かれていく。それは性格的な相性だったり、趣味やノリが合うといったような理由だ。今、電話をかけてきてるのは竜胆の趣味仲間というやつで、時々オンラインゲームなどでも遊んでる男だった。
そんな男がオレに電話をかけてくるのは稀だ。というか初めてだった。知り合った頃に、一応連絡先の交換はしたが、特に用もないので連絡を取り合ったことすらない。この男は六本木ヒルズ内にある店でバイトをしてるから、その辺を歩くとしょっちゅう顔を合わせるくらいだった。
そんな男が何の用だ?と訝しく思う。もし下らねえ用だったら後でぶん殴りにいってやろ、と騒動なことを考えながら電話に出た。
だけど――オレの予想をはるかに超えた言葉をこの直後、聞かされる羽目になった。

『蘭さん…!竜胆くんが女に刺された!!』

その言葉は耳に入ってたが脳に届くまで少しの時間を要した。その間「は?」とか「何言ってんの」なんて返した気もするが、あまりよく覚えてない。とにかく、そいつの話が嘘じゃないと分かった時点でオレはベッドから飛び起きて、速攻で着替えてから家を飛び出した。
向かった先は港区にある一番デカい病院。刺された竜胆は意識不明のまま、そこへ運ばれたという話だった。受付に行くと、オレに連絡をくれた男や、そのツレがオレを待っていて、すぐに手術室のある通路まで案内してくれた。そこには他にも知り合いが数人いて、全員が事件のあった時、近くにいたらしい。直前に竜胆と挨拶を交わしたと教えてくれた。よく見ればそいつらの手や服にはべったりと赤いシミのようなものが付着している。それが竜胆の血だと気づいた時、オレの体が一気に冷えていくのを感じた。

「出血が酷いって医者が…」
「どこ刺された」
「えっと…こ、この辺りっス…」

オレが間髪入れずに尋ねると、泣きながらそいつが示した場所は、ちょうど右脇腹の辺り。そこなら内臓を傷つけてないかもしれないが、腸などが損傷してたら出血は相当なもんだったろうと想像する。ガラにもなく手が震えてくるのは弟を失うかもしれないという恐怖からだ。

「刺した女は…現行犯逮捕されて…警察に」
「…そ。なら良かった」

もし警察に掴まっていなければ――オレがあの女を殺してたところだ。
クソッと吐き出し、怒りを収める為に拳を握り締めた。まさかそこまでする女だと思っていなかった。あの女の異常性を見抜けなかった自分の甘さに心底腹が立つ。の職場に入り込み、あんな形で竜胆との関係をぶちまけたあの女のおかしな行動。あの時点でもっと警戒しとくべきだった。せめて今日、あの女に会うと聞いた時点でオレも行くべきだったと、心の底から後悔した。

「――蘭ちゃん!!」

そこへ現れたのは顔面蒼白のだった。病院に来る途中で電話をして知らせておいた。仕事中だったらしいが、抜け出してこれたようでホっと息を吐く。
はオレを見た途端、泣きながら抱き着いてきた。

「り…竜ちゃんは…っ?」
「…まだ手術中だ。オレも今さっき着いたばっかで詳しい話は聞けてねえけど…出血は酷いらしい…」

そう説明するとの身体から一気に力が抜けていく。慌てて背中を支えると、は自分のせいだと言って泣き出してしまった。きっとあの女に謝って来て、と竜胆に言ったことを悔やんでるんだろう。でもそんなのはのせいじゃない。は竜胆に謝らせることで、きちんと大人の男としてのケジメをつけさせようとしてくれただけ。そうしないとこの先、あの女や、自分と竜胆との間に蟠りみたいなもんが残ると思ったんだろう。
ただ不幸だったのは、その相手がまともな精神じゃなかったこと。この事件が起きた一番の理由はそれにつきる。
オレは震えながら泣きじゃくるの肩を抱いて「竜胆は大丈夫」と何度も言い続けた。


◁▼▷


「――って、マジで大丈夫じゃねぇか、この野郎!」
「…だっ」

オレが頭を殴ると、ベッドの上の竜胆が「いってぇな、怪我人殴んなよっ」とキレ散らかし始めた。でも今回はマジでダメかもしれないと、本気で怖くなった分の怒りの熱量が今、絶賛増幅中で、出来ればあと数発はゲンコツをかましたいところだ。ただに「蘭ちゃん、殴っちゃダメ!」と可愛いお叱りを受けたから、もう一発殴るのだけは我慢しておいてやった。命拾いしたな、竜胆。

「ったく…弟が助かって喜ぶとこだろ、ここ」
「喜びより怒りの方が上回ってんだよ、今」
「…ひでえにもほどがあるぞ、兄ちゃん」

竜胆はに甘えながら「兄貴はやっぱ鬼だった」と愚痴ってるけど、無事だからこそ怒れるんだろ。そこは理解しろと言いたい。手術が終わるまでの間、オレとがどんだけキツかったか知らねえくせに。
結局、竜胆の手術は二時間ほどかかった。手術が終わって執刀した医者がオレ達の方へ真っすぐ歩いてきた時の恐怖といったら、貞子が這って追いかけてくる映像を見た時の比じゃない。え?例えが雑だって?まあ、とにかくそこは雰囲気なんだから察しろよ、竜胆も。
そんなわけで、その医者に顔面真っ青だったであろうオレが「弟は…」と声をかけた。そしたら「大丈夫ですよ。傷は塞いだので出血も止まりましたし、すぐ目が覚めますから!いやあ、弟さんは運が良かったですねー」と、何とも爽やかな笑顔で言われてしまった。待ってた間の緊迫感は見事に消し飛んだ瞬間でもある。
何でも刺さったナイフはちょうど内臓を避けて間をスーッと入ったような感じだったらしい。短いナイフだったことも幸いして、神経も傷ついてなかったので後遺症も残らないでしょう、ということだった。それを聞いてホっとしたのはもちろんなんだけど、同時に何か拍子抜けって感じで、さすがにオレも呆気にとられてしまった。まあ、案の定がまた大泣きし始めたから、今度は宥めるのに必死になって、あとは警察からの軽い聴取とか、犯人の女との関係性だとかを少し聞かれて今に至る。
医者の言う通り、竜胆も術後一時間ほどで目を覚まし、「あれ、オレ生きてんじゃん」とすっとぼけたことを言うから、冒頭の制裁へと繋がったってわけだ。
全くヒヤヒヤさせやがって。こんなこと二度とごめんだぞ、兄ちゃんは。

「…心配かけてごめん。兄貴もも…」

オレの愚痴を一気に聞かされた竜胆は、急にしおらしい態度で謝ってきた。でもが「わたしのせいでごめんね」とまた泣きだすから、今度は竜胆が彼女を慰めてる。

「んなののせいじゃねえじゃん。オレが自分で蒔いた種だし、因果応報ってやつだろ、これ。オレがあいつをそこまで追い込んだわけだし」
「そんなこと…っ」
「そうなんだって。あいつをおかしくしたのはオレだから…まあ腹は立つけど、これであいつも気が済んだろ」
「竜ちゃん…」

あー…何か甘い空気になってきたし、オレ邪魔かもなーなんて思ったけど、あの女のことで思い出したことがあったから、竜胆にも教えてやった。さっき警察の人間から聞いた話だ。

「え、前科がある?あいつに?」
「ああ。何かさー、あの女、男に入れこみすぎるとこあるみたいで、前はホストクラブに通い詰めて散財したあげく、目当てのホストと体の関係持ったら持ったで男に執着してつきまといが始まったんだと。んで、最終的にはそのホストの本命の彼女っつー噂があったキャバ嬢を店の帰りに待ち伏せして刺そうとしたらしい。そん時はキャバの客がたまたま追いかけてきたことで阻止されて未遂で終わったようだけどな。襲われたキャバ嬢も推しのホストに迷惑かかると思ったみたいで、怪我はねえからつって被害届は出さなかったらしいわ。だから書類送検で済んだっつー話」

そこまで説明すると、竜胆は今更ながらに青くなって「マジか…」と唖然とした顔だ。も同様にそんなヤバい子だったんだ、と青くなってた。オレもその話を聞いた時はゾっとしたし、改めてあんな女に手を付けた竜胆を殴りたくなったけど、さすがに今はもいるし、また怒られるのは嫌だから、そこは我慢しておいた。

「ってなわけで、今後は知らねえ女に誘われても完全スルーしとけ」
「当たり前だろ…もう二度とあんなマネしねえよ」

竜胆はがいるからなのか、余計なことは言うなみたいな顔で睨んでくる。まあオレもそう思うけど、念押しの為にもう少しだけ意地悪しておくか。

「ほんとかよ。もう寂しくても平気か?」
「平気。さえいればいーんだよ、オレは」

竜胆いわく。前よりもずっと、今はの心を近くに感じるから寂しくない、とのことだった。
ったく、人に死ぬほど心配させておいて惚気てんじゃねえよ、竜胆のくせに。
でも、まあ雨降って地も固まったようだし、これでオレも今度こそ、本当に安眠できそうだ。
互いを見つめながら微笑みあうふたりを見てたら、心の底からそう思った。

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