Purple Rain―02

Love phantom


あれは梅雨時期、少し肌寒い夜のことだった――。

静かな事務所内の仮眠室にかすかな雨音が響き始めたのは、私が眠りについて少し経ってからのこと。
ぽつりぽつりと窓に当たる音が刺激になったのか、ふと目が覚めて、眠気の強いぼんやりとした頭で徐々に強まる雨音を聞いていた。

(ああ、降ってきちゃったんだ…)

無意識にそんな思いが過ぎったのは、朝の天気予報を見ていたからだ。
でも夜半過ぎから雨だと予報士の人は言ってたし、今日は早めに帰るつもりだったから傘がなくても大丈夫。朝、自宅を出る時はそう思っていた。なのに帰りがけ上司の竜胆さんに書類の作成を頼まれてしまった。おかげで望まない残業を余儀なくされ、結果終電を逃してしまったせいで、仮眠室に泊まる羽目になった。
ただのバイトのはずなのに、と溜息が出る。
でも短大卒業後の就職が有利に働くと言われれば仕方がないかとも思う。
ここは主にナイトクラブや、カフェ、レストラン、シガーバーなど多彩なジャンルの飲食店を経営しているベンチャー企業で、扱う店が全てテレビや雑誌で取り上げられるほどの人気店が多い。
若者向けだけじゃなく、大人が寛げる空間まで見事に演出しているせいか、年齢問わず指示されていた。
私は本社近くの短大に入学したばかりの学生で、最近、大学前に出来たお気に入りのカフェの店長から、立ち上げたばかりの本社でバイト募集をしている、という話を聞いて興味本位で応募した。あんなにお洒落で素敵な店を持つ会社なんだから、きっといい所に違いない。なんて勝手に想像してたから、面接に受かった時は凄く嬉しかった。
この本社ビルも六本木の中枢にあり、バイトとはいえ、給料もそれなりに貰える。それに何と言っても最高なのは社員の人達だ。私の上司を含め、他の幹部達までイケメン揃いなんだから恐れ入る。
少し見た目が派手で怖い雰囲気もあるけど、顔面偏差値が高いのでかなり目の保養になる会社だ。
友達のリリに話したら凄く羨ましがっていた。
でも私には同じ大学に通う彼氏がいるし、バイト先で浮気をしようなんて思ってもいない。
だいたい全員が大人の男性って感じで、女子大生になりたてのお子ちゃまにしか思われてないだろうから相手にもされない気がする。
ただイケメンは正義と言いたくなるくらい、見てる分には楽しいというだけだ。
特に私の上司に当たる兄弟はどちらも美形を絵に描いたような二人で、優しくされるとついドキドキしてしまうこともあるけど、そこはシッカリと割り切って仕事をしているつもりだった。

(いけない…作成した書類、竜胆さんのデスクに持って行かなくちゃ…)

上司のことを考えていたせいで大事なことも思い出した。
時間はかかっちゃったけど、どうにか書類が完成したことでホっとして、ちょっとだけと仮眠室で休憩するつもりが一気に寝落ちしてしまったらしい。少しずつ覚醒していく中で、まだ竜胆さんはいるかなと心配になった。彼も残業があるからしばらくは事務所にいると言ってたけど――今って何時だろう?
そう思ったのと同時に、妙な違和感を覚えた。

(あれ…室内の電気…消えてる?)

目を瞑っていても部屋が暗いことくらいは分かる。だけど仮眠室に来た時、確か電気はつけたままだったし、消した覚えもない。ということは私が眠っている間、誰かがここへ来た?
もしかしたら竜胆さんが書類を受けとりに私を探しに来たのかも――。
そこまで考えた時、もう一つの違和感に気づく。

(あれ…このベッド、こんなに狭かったっけ…)

かすかに体を動かそうとした時、右腕に何かが当たった気がしてドキリとする。最初は壁かと思った。でもよく考えたら壁は左側、つまり反対側にあるのだ。右腕に当たるはずがない。

(まさか…幽霊…なんてことないよね…)

つい昨日、心霊物の録画番組を見たばかりで、そんな非現実的な想像をしてしまう。ただこのビルは会社を設立した際に新しく建てたものだと聞いてるし、そんな真新しい建物に幽霊が出るなんておかしな話だ。
ありえない。そう思いつつも少し気になった私はどうにか重たい瞼を押し上げるように目を開けた。

(やっぱり暗い…)

薄っすらと目を開けた時、まず最初に視界に入ったのは真っ暗闇。でも少しずつ目が慣れてきた頃、恐る恐る視線を隣へと動かして、腕が何に当たったのかを確認しようとした。でもまだ暗くてよく見えない。仕方ないとばかりに顔ごと右側へ傾けると、視界に飛び込んできた人物を見て思わず息を飲んだ。

「ら…――ッ」

名前を声に出しそうになり、慌てて口を閉じる。
隣で眠っていたのは、もう一人の上司で竜胆さんの兄、蘭さんだった。
いつもは上げている前髪をはらりと額に垂らして、スヤスヤと気持ち良さそうに寝ている姿は7歳も上には思えないほど無邪気に見える。
それに何より――。

(…近くで見ると更に迫力…綺麗すぎる…!男の人なのにまつ毛ながっ!)

更に目が慣れてきたことで、彼の整いすぎた顔がハッキリと分かる。
普段、それほど事務所に顔を出すこともない蘭さんを、こんな至近距離でマジマジと見たことはなく、つい、ここぞとばかりに見入ってしまう。弟の竜胆さんも綺麗な顔立ちだけど、蘭さんは更に中世的で美人という表現の方がしっくりくるくらい端正な顔立ちをしていた。

(って、見惚れてる場合じゃないでしょ、私!)

しばし美しいご尊顔を堪能していたものの、ふと我に返る。そもそもの話。何故、蘭さんが私の寝ているベッドに潜り込んできたのかが分からない。
最初から部屋が暗かったのなら気づかずに、ということもあり得そうだけど、私が寝た時は絶対に電気はついてたはずだし、そうなると気づかないわけが――。

(ん…でもこの匂い…)

蘭さんの付けている香水の香りに交じって、かすかにアルコールの匂いがすることに気が付いた。

(ひょっとして…酔ってる…?)

もしかしたら近くで飲んでて会社の事務所に泊まろうとここへ来たのかも。それで私に気づかず、いつものように寝てしまったとか。
確か蘭さんや竜胆さんは元々六本木の人だと話してたし、夜は大抵この辺で飲んでると言ってた気がする。
蘭さんの寝顔をジーっと見つめながら、そんな答えに辿り着く。それなら仕方ないか…なんて思い始めたものの、それでもこの状況はマズい気がした。
今夜、他に残業してた人はいなかったけど、もし竜胆さんが残っていたとして、こんなところを見られちゃ大変だ。
…かと言って、蘭さんを起こす気にもなれなかった。
酔っている人間が素直に起きてくれるか分からないし、例え起きてくれたとしても何を話せばいいのか分からないからだ。
業務に関わることで私に指示するのはもっぱら弟の竜胆さんで、蘭さんとは挨拶やコーヒーを頼まれた時以外、言葉を交わしたことはない。さすがにこの状況で話すのは緊張してしまう。出来ればコッソリ気づかれずに退場したかった。
でも――退場するには一つ、大きな問題があった。

(…起きたいけど壁側じゃベッドから抜け出すの大変そう…)

蘭さんと壁に挟まれた形だから、私がベッドから下りるには蘭さんを越えなければいけない。
どうしよう、という言葉が脳内でぐるぐる回る。

(仕方ない…なるべく静かに動こう…)

悩んでいても時間は過ぎていくだけだと、私は起き上がる決心をした。
まずは狭い中、どうにか上体を起こすことに成功した私は、次にかけていたタオルケットを全て蘭さんにかけておいた。風邪を引いてしまっては大変だ。

(よし、これで静かに這うようにして足元へ移動すればどうにか下りられるかも…)

そう思いながら手を前に出し、体を前のめりにした時だった。不意に隣で動く気配がしたと思ったら、長い腕が腰に巻き付いてきた。さすがに驚いて「ひゃっ」と声を上げてしまったのは仕方のないことかもしれない。しかもその腕に引き寄せられ元の位置へと逆戻り――だけなら、まだ良かった。

「あ、あの…っ」

唐突に抱き寄せられ、気づけば私の体は蘭さんの腕にすっぽりと納まった状態。ハイブランドの香水の香りが更に色濃く私の鼻腔を刺激して、心臓がキュっと変な音を立てた。
その時、頭の上から艶のある低音が聞こえてきた。

「んー…誰…サキ…?」
「……っ(誰よ、サキって!)」

つい突っ込まずにはいられないほどビックリした。
もしかして…彼女か誰かと間違えてる?
しかもマズいことに寝返りを打ったことで蘭さんが起きてしまったようだ。
私の頭を自分の胸元へ押し付けていた蘭さんは、何かに違和感を覚えたのか、急に体を離して不機嫌そうに呟いた。

「オマエ、帰れっつったじゃん…」
「え、あ…あの…」

やっぱり誰かと間違えているらしい。この状況、バイトの私はどうすべき?
普通に人違いです、と言ったところで気まずい状況は変わらない。
ただこのままというのも良くないのは分かっていた。

「あ、あの…蘭さん…私です…です」

自分の名前を口にしつつ、腕の力が弱まったことでつい顔を上げてしまった。それが良くなかった。
さっきと同様、至近距離で蘭さんの端正なご尊顔を拝む羽目になったばかりか、今度はしっかり目が合ってしまった。薄闇の中に光るバイオレットの虹彩が、それはそれは綺麗で――なんて言ってる場合じゃない!

「…おー…何か可愛い子いんだけど…」

寝ぼけ+酔いのせいなのか、それとも暗くてよく見えないだけなのか。
蘭さんはそんなことを言いながら私の頬へ手を伸ばしてきた。少し火照った綺麗な指先が撫でるように私の肌を滑る。驚きも確かにあったけど、たったそれだけのことなのに、触れられた場所からゾクリとしたものが広がって心臓が大きく跳ねた。
普段のビシっとしている蘭さんも素敵だけど、酔って柔らかい眼差しを向けてくる蘭さんは、何というかこう…かなり色っぽいと思う。反則すぎるくらい扇情的で、これが大人の男の色気か…とドキドキしてしまった。金縛りにでもあったかのように、熱っぽく見つめてくる瞳から目が離せない。
しばらくの間、蘭さんと視線を合わせたまま見つめ合う。でも不意に彼の表情が緩んで、かすかに微笑んだように見えた。

「…なぁ…キスしていーい?」
「……は?」

(聞き間違いかな?今、何かキスがどーのって聞こえたけど…)

理解できないほど予想外な問いかけだっただけに、ついそんなことを考える。でもその間に蘭さんの綺麗な指が私の顎をくいっと持ち上げてきた。

「え…あ、あの…」

やっぱりまだ誰かと間違えてる?
返事すらしていないのに、少しずつ近づいてくる蘭さんの顏を見つめながら、そんな疑問が過ぎっていく。
でも唇がもう少しで触れそうになった時、ふと我に返った私は、咄嗟に体が動いて飛び起きてしまった。

「あ、あの人違いです…!えっと私は…」
ちゃん…だっけ」
「え…」

てっきり誰かと間違えてるんだと思ったのに、蘭さんは苦笑交じりで私の名を口にするから思わず絶句してしまう。
驚いて振り返ると、蘭さんも欠伸をしながら体を起こし、足を床へ下ろした。

「いくら酔ってても可愛いバイトの顏くらい分かるって」
「か、かわ…?」

サラリと褒められ、かすかに頬が熱くなる。でも蘭さんは意味深な笑みを浮かべながら「まさか上司の寝込みを襲うような大胆な子とは思わなかったけど」と軽く笑った。

「な…」

驚きすぎて唖然とした。私が蘭さんの寝ているベッドに潜り込んだと思われてる?あり得ない。
ここで説明しなきゃとんでもない誤解をされたままになるのでは。
そう思ったら言わずにはいられなかった。

「ご、誤解です…!そもそも先にここで寝てたのは私だし、蘭さんが隣に寝てるのを見て驚いたくらいで――」
「ぶは…っ」
「……っ?」

必死に訴えかける私を見て、蘭さんは唐突に吹き出した。何がそんなにおかしいんだと、ついムっとしてしまう。
蘭さんは肩を揺らしながら一頻り笑うと、目尻に浮かんだ涙を――そこまで笑うか――指で拭った。

「うーそ」
「…え…?」
「オレがちゃんの寝てるとこへ潜り込んだんだよなー?ちゃんと思い出したって」

蘭さんはそう言って苦笑を漏らすと、再び小さな欠伸を噛み殺した。

「ここ最近、寝不足でさー。でも今日の会食はパスできねえし、行ったはいいけど結構そこで飲まされて。ちょっと悪酔いしたから家より近い事務所に寝に来たんだよ。そしたらベッド占領してる誰かが見えたけど、睡魔も限界で隣に勝手に寝かせてもらったってわけ」

だから驚かせてごめんな、と蘭さんは言った。
何だ、そういうことか、と納得しつつ、少しホっとしたけど、でもそれ以前にさっきの言葉は何だったんだという疑問は残る。
確かに蘭さんは「キスしていーい?」と訊いてきたし、何なら本当にしようとしてた気がする。

(あれって…セクハラなのでは…)

でもそこを指摘していいものかどうか迷ってしまった。
私としてはこんないい条件のバイトを辞めたくはないし、何なら将来はこの会社に就職したいと思ってる。だから今ここで上司の蘭さんに悪い心象は持たれたくない。
そんな空気を感じたのか、蘭さんは再び笑みを浮かべながら「もしかして…さっきのこと気にしてんの」と訊いてきた。

「え…」
「オレがキスしようとしたことー」

そこもちゃんと覚えてるらしい。蘭さんがニヤリとしながら私を見た。
ここはどう返すべきなんだろう、と首を捻ったものの嘘を言っても仕方がない。ここは素直に感じたことを伝えるのがベストだ。

「い、いえ…えっと…彼女さんと間違えたのかなと…思ってます」

蘭さんはあれの少し前、ハッキリと女性の名前を口にしてたし、それが一番しっくりくる答えだと思う。
なのに――蘭さんは急に笑い出した。

「別にオレ彼女なんていないけど」
「えっ?」
「いや、そんな驚く?」

驚愕といった表情をしてしまったらしい。蘭さんは私の顔をみて苦笑している。
だって普通は驚くと思う。こんなに美形で、メンズモデルも出来そうなスタイルのいい蘭さんがフリーだというのは嘘みたいな話だ。
それにこんなにいい会社の重役でもあるし、モテないわけがない。

(まあ、たまたまいない時期なのかもしれないけど…)

でもじゃあ、さっき口にしてた女の人は誰なんだろう。
いや、そもそも蘭さんは何で私にあんなこと――。

「なーに考えてんだよ」
「…ひゃぁっ」

一人あれこれ考えこんでいると、目の前にひょいっと美しいお顔が現れて飛び上がらんばかりに驚いた。思わず後退して壁に背中がぶつかるという漫画みたいなリアクションをしてしまったかもしれない。
案の定、またもや蘭さんに吹き出されてしまった。
酔ってるせいか、私の知ってる蘭さんよりも少しだけ砕けてるように見える。

ちゃんって思ってたより…」
「…へ?」
「いや、何でもない」

変に距離が近いせいか、勝手に心臓をドキマギさせていると、蘭さんはどこか意味ありげな微笑を浮かべて私を見ていた。

「っつーか、もう朝の4時じゃん。夕べは?残業してたのかよ」
「え、あ…はい…竜胆さんに書類の作成を頼まれて…」

そう応えながらも朝の4時と聞いて軽い眩暈がした。あと数時間もすれば、普通に会社が始まってしまう。
その前に一度家に帰らなくちゃ、なんて思っていると、蘭さんは呆れたような顔で溜息を吐いた。

「マジか。アイツ、部下を残して飲みに来たな…」
「え…飲みにって…」
「いや…竜胆も後から合流して一緒に飲んでたっつーか…」
「……」

蘭さんの説明を聞いて私は唖然とした。
必死に書類を作ってたのに、それを頼んできた竜胆さんはとっくに会社にはいなかったなんて。

(でもまあ…私の仕事が遅かったから仕方ないか…)

ショックではあるものの、自分の手際の悪さのせいでもある。帰りがけに書類だけ竜胆さんのデスクに置いて帰ろう。
そう思っていると、不意に蘭さんが立ち上がった。

「…目ぇ覚めたし、家まで送る」
「え…?」
「弟がちゃん一人で残業させたわけだし、そのお詫びに送るって言ってんだよ」

驚いて目をぱちくりさせると、蘭さんは苦笑交じりで私の手を引いた。

「疲れた体で始発の電車は怠いだろ?」

蘭さんは目も覚めるような魅惑的な笑みを浮かべて、私を自分の車までいざなった。

(っていうかこれ…飲酒運転なんじゃ…)

つい誘われるまま助手席へ乗ってしまったけど、車を発車させて会社の駐車場を抜けた時、ふと思った。
でも蘭さんは特に気にもしていない様子でハンドルを切っている。その横顔はやっぱり綺麗で、自然と見惚れてしまう私がいた。

(は…ダメだ…見惚れてる場合じゃないってば)

彼氏がいるのに他の男の人に見惚れてしまうのは良くない…と慌てて視線を蘭さんから窓の外へ移す。
雨はだいぶ小降りになって、白々と明けてきた空にもどんより雲ではなく、薄い霧のような雲が浮かんでいた。そんな中、静かに降り注ぐ雨はまるで天気雨だ。薄っすらと射す陽の光に乱反射して、キラキラと輝いている雨が綺麗だと思う。その光景に見入っていると、蘭さんがポツリと呟いた。

「綺麗だな…」
「そう、ですね…」

蘭さんも同じことを思ってたんだと思うと、ちょっと嬉しくなった。
すると何を思ったのか、蘭さんは途中で車を片寄せ、静かに停車させると、大きなビルとビルの間を指さした。

「こういう天気の時、この時間帯でここから見える空がすげー綺麗なの知ってる?」
「え…?」

促されるまま、蘭さんの指す方へ顔を向けると、そこには見たこともない色の空が広がっていた。

「え…何で…」

かすかに射しこみ始めた朝日のオレンジ色と、地球を映したような青色が交じり合い、空が紫色に染まっている。しかも鏡のようなビルの窓に映りこみ、視界一杯に幻想的な紫色の朝焼けが映し出されていた。
こんな綺麗な光景を、私は見たことがない。

「綺麗…」

無意識のうちにそんな言葉が零れ落ちる。あまりに非現実的な景色の中にいるせいだ。蘭さんも同じなのか、何を言うでもなく、目の前の光景を黙って見つめていて、その綺麗な瞳はこの景色と同じ色をしている。
その瞳を見ていたら、かすかに心臓が高鳴った気がした。

「雨も…紫色に見えるんですね」

ビルの窓に映る朝焼けに反射して、雨までが紫色だと気づく。それが更に美しい景色を作り出していた。

「この条件でしか見れない貴重なパープルレイン。綺麗だろ」
「はい、凄く綺麗――…」

そう言いながら蘭さんの方へ顔を向けると、不意に目が合った。蘭さんの顔にもかすかに紫色の光が当たって、滑らかな肌をいっそう艶めかせて見える。
本当に綺麗な人だな、と胸の奥が浅ましくもドキドキしてしまった。
それほど言葉を交わしたことはないはずなのに、こんな景色の中で見つめ合っていると随分と前から知っているような不思議な感覚になってくる。
だから自然と寄せられた彼の唇を、すんなりと受け入れてしまったのかもしれない。

「可愛いな…ちゃんは」

触れるだけのキスをして、僅かに唇を離したあと蘭さんが呟く。それが酷くドキドキして、胸の奥に熱が灯った気がした。

「さっきからキスしたいなーと思ってた」

蘭さんの大きな手で項を引き寄せられ、もう一度互いの唇が交じり合う。
紫色に染まる早朝の公道で、私たちは何度もキスを交わした。