――連絡先教えてよ。
あの美しい雨を二人で見たあと、蘭さんはちゃんと私を自宅まで送り届けてくれた。そして車を降りる際、私にそう言ってきた。
彼氏のいる身で他の男の人、それもバイト先の上司に当たる蘭さんとキスをしてしまった気まずさがないわけじゃない。
なのに私は言われるがまま、彼に連絡先を教えてしまった。
――近いうち連絡するわ。
車を降りて家へ入ろうとする私の背中に、そんな甘い誘惑の声が追いかけてきた。
あれから3日――まだ蘭さんからの連絡はこない。
(ただの遊び…だったのかな…)
あの会社へバイトに行くキッカケになったカフェ内。窓際の席で外を眺めながら知らず知らずのうちに自分の唇へと触れる。なぞるように指を動かせば、あの時の熱が蘇える気がした。
蘭さんの唇は厭らしくて、私の唇を愛撫するかのように何度も啄んできた。触れるだけのキスであんなにドキドキしたのは初めてだ。自然と体が火照ってしまったのも。
あの日、私は家に帰ってからも眠ることは出来ず、シャワーを浴びて着替えたらすぐに出社した。だけどあの日は結局、蘭さんどころか竜胆さんまでもが姿を見せなかったっけ。
その次の日は竜胆さんだけが出社してきたから、例の書類を無事に渡すことが出来た。
もしかして蘭さんから何か聞いてるかと変にドキドキしたけど、竜胆さんは普段と変わらない様子で「ちゃんと帰れた?遅くまで悪かったな」と言うだけだった。
最終電車に間に合わず、私が会社に泊まったことは知らなかったみたいだ。
少しホっとはしたものの、よく分からない寂しさがこみ上げたのは何でなんだろう。
(あのキスも…蘭さんにとってはちょっとした戯れってことだったのかな…)
あの日からそんなことばかり考えていた。
「よぉ、お待たせー」
「……海斗」
学生らがそれぞれ下校していく姿をボーっと見ていると、不意に肩を叩かれ、我に返った。顔を上げると待ち合わせの相手が笑顔で傍らに立っている。彼氏の橘海斗だ。
「ちょっと講義が長引いちゃってさ」
「うん、でもそんなに待ってないよ。あ、で…これ」
慌てて笑顔を取り繕うと、バッグから財布を出し、中から二万円を抜いて海斗へと渡す。何でも先輩から急に飲み会に誘われたとかで、お金を貸してと言われたのだ。
本音を言えば人とお金の貸し借りはしたくない。それは彼氏でも友達でも同じだ。
自販機でジュースを買うくらいのものなら全然かまわないけど、やっぱり大きな金額になるとそれなりに揉め事へ発展する場合もある。
親しい相手とそんな理由で蟠りを作りたくないから、防衛策としてこれまでお金の貸し借りは意図的に避けてきた方だった。
だけど「今のバイトでいい給料もらってんだろ?」とまで言われると、そういう相手に正論を吐いても無駄な気がした。
「悪いな。次のバイト見つけたらすぐ返す」
「…いいよ、別に」
そう言いながら、本当にバイトを探す気があるのかなと思う。
大学に入って居酒屋のバイトをしていた海斗は、店長とケンカをしたとの理由で先月辞めたばかりだ。でもその後は「金がない」と言うばかりで、次のバイトを探す素振りもない。
だいたいまだハタチにもなってない上に、お金がないなら飲み会を断るべきだし、わざわざ彼女に借りてまで行く神経が分からない。
最近のデートもそんな理由で私ばかりがお金を出してる。その都度「返す」とは言うけど、私はすでに諦めていた。
"人にお金を貸す時はあげたものと思え"
離婚したお父さんがだらしない男だったらしく、よくお母さんがそんなことを言ってるけど、本当その通りだと最近になって実感した。
「何だよ。怒ってんの?」
私の態度が素っ気なかったせいか、海斗が困った様子で訊いてきた。
「…怒ってないよ」
呆れてるけど、と心の中で付け足す。
知り合った頃はこんなこと一度もなかったし、優しくて明るくて、ちょっとドジな海斗のことを好きだった。
中学の頃は先輩に憧れる程度の恋をしたくらいで、高校はお母さんの意向で女子高に入学したから、彼氏なんて当然出来なかったし、積極的な方でもないから高3になるまで出逢いも一切なかった。
でも高校3年になってすぐ、友達から塾で知り合った彼氏の友達だと紹介されたのが海斗だった。
サッカーをやってるとかで日に焼けた肌とひょろっとした細身の高身長に、明るく染めたサラサラな髪。少女漫画に出て来そうな爽やかイケメンの海斗に、恋愛初心者の私が惹かれていったのは当然だったかもしれない。
海斗から「付き合って」と言われたのは、そんな出会いから一カ月後のことだった。
好きな人から告白されて付き合う。いつも映画やドラマで見ていた世界に、私はすぐに夢中になって、海斗との恋愛にのめり込んだ。
求められるままキスをして、その一週間後に体すら許したのは、海斗のことが凄く好きだったから。
いや、今も好きなことは好きなんだけど――。
でも何だろう。今日は少しばかりイライラしてしまう。
「怒ってんじゃん。金貸すのそんなに嫌なら別にいいけど」
そう言いながらお金を私の方へつき返す海斗は、ちょっと不機嫌そうだ。何で海斗が怒るわけ?と思わないでもなかったけど、ケンカするのも面倒で、突き出されたお金を彼の手へ戻す。
「ホントに怒ってないよ、ちょっと疲れてるだけだし」
「…フーン。なら借りとくけど…」
すぐにお金をポケットへと突っ込んだとこを見れば、本当に返す気なんてなかったのかもしれない。
でも私にはもうどっちでも良かった。
「そういや何か疲れた顔してんな。今のバイト詰め込み過ぎじゃね?ちゃんと寝てんの?」
機嫌が直ったのか、海斗は私の顔を覗き込みながら訊いてくる。確かに少し寝不足気味かもしれない。
大事な授業がある日以外は、殆どの時間をあの会社で過ごしていた。
「そう…かな。まあ…まだ人手が足りないみたいで出来るだけ出てくれって言われてるから…」
「へえ…。随分とコキ使われてんだな」
「そういうわけじゃ…その分はちゃんと時給ももらってるし」
「あーだから最近は金持ちなんだ」
海斗は愉しげに笑ったけど、その顔を見て余計なことを言っちゃったかな、と思った。この様子じゃ今のお金を返す前に、また貸してと言ってきそうだ。
「…家にもお金入れたいし今の内から出来るだけ貯めておきたいの」
だからもう貸さないよ、というのを遠回しに伝えれば、海斗は分かってるのか分かっていないのか、「偉いじゃん」と笑うだけだった。
お母さんは私を育てる為に一人で頑張ってきた人だから、私も早く大人になりたいし、ちゃんとした会社で仕事をして、少しでも早く家計の手助けをしたいからこそ短大を選んだ。
海斗には前にその話をしたはずなのに、と少しだけ寂しく感じた。
「今日はバイト休みなんだろ?なら家でゆっくり休めよ」
「うん…そうするつもり」
「ああ、じゃあそろそろ行くけど、夜にでも連絡するな?」
海斗はそう言いながら素早く私の唇にキスをして、慌ただしくカフェを出て行った。
私は私で誰かに見られてないかが気になって、つい店内をキョロキョロしてしまう。でも午後の中途半端な時間だとお客さんもまばらで、皆がそれぞれスマホ画面に夢中だった。
少しホっとしながら、すっかり冷めたラテを飲む。
この間までの私なら今のキスだけでドキドキして嬉しくなってたんだろうな。
ふとそんなことを思った。
これまでの感じ方と随分変わった気がする。それもこれもきっと――。
(海斗の顔を見ても罪悪感なんて少しも湧かなかった…これってマズいよね…)
そっと唇に触れると、あの美しい朝焼けの中でされたキスが鮮やかに蘇ってドキドキする。ついさっき海斗に上書きされたはずなのに、蘭さんとのキスはなかなか記憶から消えてくれなかった。
(やっぱり…社交辞令かなぁ…)
一向に鳴らないスマホを眺めながら溜息をつく。
あの日、蘭さんは酔ってたし、バイトで入った女子大生にちょっと手を出したくなっただけなのかも。
だいたい大人の蘭さんが私みたいなお子ちゃまを本気で相手にするはずがない。少し考えればわかるはずなのに、バカだな、私。
って言うより、私は何を期待してたんだろう。
会社以外での蘭さんのことは何も知らないのに、あんな空気に流されて唇を許してしまうなんて軽率にもほどがある。
(ほんとバカみたいだ…)
自分で自分が情けなくなる。
ただ――そう思う一方で、あんな綺麗な大人の男の人に迫られて拒める女の子なんているのかな、とも思ってしまう。
案外私もミーハーだったのか。きっとちょろい女と思われたに違いない。
「ハァ…」
再び何度目かの溜息が出て、テーブルの上に置いたままのスマホをバッグへしまう。
海斗に言った通り、今日はバイトもないし、早く家に帰ってお母さんの為に夕飯を作っておこうと思った。
「ありがとう御座いましたー」
カフェの店員に見送られつつ、重たい足取りで駅方面に向かう。
外は梅雨特有のジメジメした空気で、湿った風が肌にまとわりつくのが気持ち悪い。駅までの数分の距離でさえ歩くのは億劫だった。
「あっつ~…」
数歩ほど歩いただけでジワリと額に汗が浮かび溜息が出る。仕方ない、と持ち歩いてるミニタオルを出すのにバッグの中へと手を突っ込んだ。その時、指先にかすかな振動を感じた。でもすぐにそれは止まり、この感じはメッセージの類だと気づく。
どうせお母さんから「遅くなる」だとか、リリから「今夜ヒマ?」なんていう他愛もないメッセージだろうな。
そう予想をつけながらスマホを取り出した。
「…え…」
スマホの画面には案の定、メッセージの通知がいくつか表示されている。中には確かにお母さんからいつものメッセージも含まれていた。だけど最新のものを開いた時、思わず「嘘…」という言葉が零れ落ちたのは、心のどこかで待ちわびていた相手だったからだ。
『今夜って空いてる?』
そのたった一行とも言えないようなメッセージを見た瞬間、胸の奥がざわりと音を立てて、何とも形容しがたい感情がこみ上げてきた。これまで感じたことのないものだから名前なんて分からない。
考えるより先に指が動いて「空いてます」と送っていた。
するとすぐにまたスマホが震動して"蘭さん"と通知が表示される。すぐにタップすると『じゃあ飯でもどう?』というメッセージが視界に飛び込んできた。
またしても胸の奥が変な音を立てて、指先が少し強張るくらいにドキドキした。
"はい、大丈夫です"
そう返信するのに、自分でも驚くほど迷わなかったと思う。
『じゃあ午後7時頃に迎えに行く』
蘭さんから秒で返信が届いたのも驚いたけど、待ち合わせじゃないんだ、というところにも驚く。
わざわざ迎えに来てくれるなんて、やっぱり蘭さんは大人だ。
すぐに「分かりました」と返信しながら、駅へと向かう足を速める。もう暑いとか怠いと言ってる場合じゃなかった。
これから帰って速攻でシャワーに入って汗を流す。それで少しでも蘭さんに釣りあうような大人っぽい服を選ばなくちゃ――。
この時の私はそのことしか頭になかった。
〇●〇
「え…じゃあ、その人とこっそりデートしてるってこと?」
友達のリリが驚いたように顔を上げた。まさか私が彼氏以外の男の人と頻繁に会ってるとは考えていなかったようだ。
「べ、別にこっそりでもないし…」
大学を囲む広い庭園内。そこに設置されているベンチに座りながら軽めのランチ中、リリに「最近が素っ気ないって海斗が心配してたよ。何かあった?」と訊かれ、最初はどうにか誤魔化そうとしたけど、勘の鋭いリリには通用せず、私はつい蘭さんとのことを打ち明けてしまった。
「それに食事をしてるだけで何もないから」
そう説明してもリリは疑っていたけど、私と蘭さんとの間には本当に何もなかった。
最初に食事に誘われてから一カ月。あの時も単に食事をしただけで、拍子抜けするくらい蘭さんは紳士だった。帰りもきちんと0時前には家に送ってくれたし、手すら握られなかったのだから笑ってしまう。
「え~ホテル誘って来たりもしないわけ?」
「ホ、ホテルなんてあるわけないよ。蘭さんは7歳も上だし私のことなんて女として見てないよ、きっと…」
そう言いつつ、じゃああの時のキスは何だったんだと思わないでもないけど、あの日はやっぱり酔っていただけなのかもしれない。
私にキスしたかったって言ってたけど、女の子なら誰でも良かったのかも…。
「でもさーじゃあ何でを誘うわけ?1回なら分かるけど、今夜で3回目なんでしょ?誘われるの」
「…うん」
確かにそうだ。最初の食事以降、蘭さんは定期的に連絡をくれるようになって、先週もまた食事デートを楽しんだ。でもリリが言うようなお誘いは一切なく、最初の時と同様、紳士的に振る舞い、私を家まで送ってくれただけ。
そして今日、つい先ほど蘭さんから"今夜、空いてる?"というメッセージを受けとったばかりだった。
「フーン。で…やっぱ今日も行くわけ?」
「えっ?えっと…まあ…」
何もアクションを起こさない蘭さんに拍子抜けしたのは事実だけど、誘いを断るという選択肢は今のところない。別に私は蘭さんと深い関係になりたいとか考えてないし、最近少し倦怠期気味だけど海斗という彼氏だっている。
でもじゃあ何で食事デートに行くんだと聞かれると、それはやっぱり楽しいから、としか言いようがない。
まず連れて行ってくれるのは、大人御用達の高級レストランで、学生の私なんかが到底入れないような店が多いし、しかも常に個室。そこで食べたことのないような料理を好きなだけ食べさせてくれる。
私がこれまで経験したことのない世界を、蘭さんは見せてくれる人だった。
蘭さんもまた「ちゃんと飯食うの楽しいんだよなー」と言ってくれている。何がどう楽しいのか分からないけど、世代が違いすぎて逆に会話が噛み合わないことも新鮮らしい。
あと蘭さんは男兄弟のみだから「ちゃんみたいな可愛い妹が欲しかった」とも話していたし、もしかしたら私はそんな立ち位置なのかなとも思ったりする。
「え、でもバイト先の上司なのに何か支障とかないわけ?」
「うん…今のとこ特に…。そもそも蘭さんはあまり会社に来ないし、直接上司ってわけでもないから…」
「そっかぁ…まあ大人の男性とのデートが楽しいってのは分かるけど。ほどほどにしときなよ。海斗に気づかれたら何もないといったとこで変に誤解されるだけだって」
「…うん…分かってる」
なんて応えながらも、蘭さんに誘われたらきっとまた同じように行ってしまうことも分かっていた。
蘭さんは不思議な魅力がある人で、何度でも会いたくなる人だから――。
「今日はエスニック料理にしてみたんだけど、ちゃん、エスニック系は大丈夫?」
いつものように家まで迎えに来てくれた蘭さんは、近くの高級ホテルの駐車場へ車を止めた。
「はい。エスニック系、好きです。蘭さんも?」
「オレ?オレはまあ普通…かなー。ってか今度の新店舗でそういう料理を出す予定でさー。若い子の意見が聞きたいんだよ」
「え…そうなんですね」
珍しいチョイスだと思ったけど、そんな理由だったんだ。それで私のことを思い出してくれたなら、それはそれで嬉しいかもしれない。
蘭さんの役に立てるなら尚更だ。
蘭さんにエスカレートされながら車を降りて――最初にされた時はビックリした――エスニックのお店へ向かう――のかと思えば、蘭さんはホテルのエレベーターへと乗り込んだ。
「え、あの…お店は…」
「ああ、今日は試食っつーことで部屋で食べることになってんの」
「え…試食…」
どういうことかと思って蘭さんを見上げると、彼はエレベーター内に設置されてる案内図を指さした。
「ここのホテルにシンガポール料理を出す店が入ってんだけど、そこの雇われシェフからうちの傘下で店を出したいって相談されたんだよ」
「え…うちの会社の傘下に…?」
「そう。前に竜胆とここに食べに来た時、そのシェフと話す機会があってそういう流れになってさー。んで今日は料理を色々と試食して欲しいっていうから来たってわけ。でも辞める前にオレと接触してんのバレても面倒だからルームサービスって形にしたんだよ」
その説明を聞いて納得しつつ、こんな高級ホテルに入ってる店のシェフがうちの会社の傘下に入りたがるなんて凄いと驚いてしまった。でもそれだけの勢いはある会社だと思うし、理解できる。そのシェフもこのホテルで雇われてるよりは自分の店を持ちたいだろうし、集客だって見込めると思ったから蘭さんに相談したんだろう。ただ、そんな大事な試食会に私が行っていいのかな、と少しだけ不安になった。
「あの…私なんかでいいんですか?大事な試食会なのに」
「なんかってことないだろ。これまでちゃんと二回食事に行ったけど、料理に対しての感想とか好みとか、かなり参考になったしな」
「え…そう、なんですか?」
「まあ、今日も普段通り気楽に頼むわ」
蘭さんは優しい笑みを浮かべて私の頭へぽんと手を置いた。そのさり気ないタッチにドキリとさせられるけど、心の中は少しだけ喜びが萎んでいく。
蘭さんが私を食事に誘ってきたのは、私くらいの年代の子の好みを知りたかっただけなんだ。
そう思ったら浮かれていた自分が急に恥ずかしくなった。同時にそんな自分にもドン引きしてしまう。
海斗っていう彼氏がいるのに、その場の空気で蘭さんにキスを許して、あげく誘われるまま食事に行って。
これだって立派な浮気だし、最低なことをしてる。
(何やってんだろ、私…)
というより、私は蘭さんとどうなりたかったんだろう。
「どーしたー?何か元気ねえけど、具合でも悪い?」
不意に身を屈めた蘭さんが私の顔を覗き込む。至近距離で目が合い、僅かに心臓が跳ねた。
「い、いえ。大丈夫です」
「そ?ああ、じゃあ部屋はこっちだから」
エレベーターが部屋のある階に到着してドアが開くと、蘭さんは自然に手を差しだしてきた。
どこまでも大人だな、と思いながらその手を掴む。
いつものようにエスコートしてくれる蘭さんが少しだけ遠くに感じて、妙な寂しさを覚えた。
(今日で最後にしよう…)
蘭さんの手の温もりを指先に感じながら、ふと思う。
これ以上、蘭さんに関われば、引き返せないところまで行ってしまいそうで怖くなったのだ。
でもそう決めた途端、二人の関係が変わるなんて、この時はまだ思ってもいなかった。
〇●〇
「今日はありがとな。マジで参考になったわ」
食事の後、蘭さんが新しいワインを抜きながら言った。
試食と称したシンガポール料理はどれも真新しいものばかりで、私も初めて食べる料理だったけど、その分、正直に感想を言えた気がする。
今度新しく出すエスニック料理の店は若い世代向けの店らしい。それを蘭さんがプロデュースするとのことで、かなり真剣に私の感想を聞いてくれたのが嬉しい。少しでも役に立てたなら来た甲斐があったかもしれない。
(でもこれで最後にしなくちゃ…)
楽しい時間が過ぎて現実が近づいてくると、改めてそ思った。
蘭さんといると自分が自分じゃなくなる。その感覚にやっと気づいた時、このままじゃいけないと感じたからだ。
ふとスマホの時計を確認すると、午後11時になろうとしていた。
食事をしてお酒を飲みつつ色々と話してたらアっという間に時間が過ぎたらしい。
もう帰った方がいいかな。そう思いながら注いでもらった白ワインを飲み干したところで蘭さんに声をかけた。
「あ、あの蘭さん。私、そろそろ――」
「ああ、今度はこっちの赤ワインも試飲してくれる?」
「え…」
向かい側のソファに座っていた蘭さんは、そう言いながらワインボトルを手に私の隣へと腰を下ろす。そう頼まれてしまうと「帰ります」の一言が言えなくなった。つくづく意志が弱いと呆れてしまうけど、私自身、きっとまだ蘭さんといたいと思っていたのかもしれない。この感覚が、危険だと分かっていたのに。
隣に来たことで蘭さんの香水がふわりと漂い、私の鼻腔を刺激してきた時、ついグラスを受けとっていた。
「い、頂きます」
本当はこの部屋に来た時あまりに豪勢で、緊張をほぐす為に飲み慣れないアルコールを口にしてしまっていた。おかげで今は結構酔っている自覚はあったけど、断る雰囲気でもなくワイングラスを口へ運ぶ。
ただ美味しいというよりは赤ワイン独特の渋みが口内に広がって、つい顔をしかめてしまった。
高級ワインなのは分かるけど、これを美味しいと思えないところが子供なのかも、と悲しくなる。
そんな私を眺めながら、蘭さんがふっと笑みを浮かべた。
「今日は未成年のちゃんに飲ませ過ぎたかもなー。悪い上司だろ」
「そんなこと…私が自分で勝手に飲んだんだから蘭さんのせいなんて思ってないです」
顔を上げると、蘭さんはかすかに微笑んでいた。私はこの顔に弱い。心臓が素直に反応してしまう。
せっかく終わりにしようと決心したのに、こうして密室に二人でいると、この時間を失いたくないと思ってる自分に気が付いた。心底、意志薄弱だ。
「ちゃんのそういうとこ可愛いと思うわ」
「…え?」
どういうとこを言ってくれてるのかが分からなくて、何度か瞬きをしながら蘭さんを見つめる。
身長が高い蘭さんはこうして並んで座っていても自然と見上げる形になるから、それがやけにドキドキした。
「…素直で真っすぐなとこ」
ボーっと蘭さんの綺麗な顔に見惚れていると、不意にそんなことを言われて頬が熱くなった。
蘭さんから私はそんな風に見えてるんだ…と驚く。全然そんなことないのに。海斗にだって「はマジで素直じゃねえよな」って言われるくらいなのに。
「そんなこと言ってくれるの蘭さんだけです…。素直じゃないってよく言われるし――」
そう言いかけた時だった。不意に蘭さんの手が私の火照った頬へ触れて、ビクリと肩が跳ねてしまった。
「素直じゃなきゃ、こんなにホッペ赤くなんねーだろ」
「…っ」
「オレの言うことに素直に反応してくれるとこが可愛い」
「蘭…さん…?」
頬へ触れた手が撫でるように動いて肩にかかった髪を梳いていく。その際、蘭さんの指先が首筋を掠めてドキッとした。
「ほら、体も素直に反応した」
「…っ」
今の動揺を見透かされたような気がしてカッと顔が熱くなる。いつもと同じように柔らかい笑みを浮かべているのに、何故かいつもとは違う空気を蘭さんから感じていた。
「真っ赤になっちゃってかわいー。つーか、そんな顔すっから今日は帰したくなくなったわ」
「え…?」
「って言ったらどーする?ちゃん」
蘭さんの綺麗な瞳に男特有の欲望が灯ったように見えて、胸の奥がざわりと音を立てた。
