03-無知故に無恥



東京六本木にある高級マンションの一室に、竜胆の呆れ声が響き渡った。

「何やってんだよ…風呂場で遊ぶ歳でもないだろーが!」

ずぶ濡れになった服を脱ぎ捨て、バスタオルで髪を拭いている兄の蘭を睨みながら、竜胆は鼻息荒く文句を言った。やけに風呂場が騒がしいと、様子を見に行けば、全裸のに抱きつかれている兄の姿が目に飛び込んできたのだから、怒りたくなるのも当然だ。だが当の本人は弟の文句を右から左へ受け流しつつ、自分の部屋へと着替えに戻る。

「なぁ、兄貴、聞いてんの?」
「聞いてねえ」
「何でだよ!聞けよ、オレの話もっ」

新しい服に着替えた蘭は髪を拭いていたバスタオルをギャンギャンうるさい弟に向かって投げつけると、「オマエのガキん時の服ってこの家にあったっけ?」と言いながら、今度は竜胆の部屋へ勝手に入って行く。竜胆はそれを横目で見つつ、溜息交じりで頭にぶら下がっているバスタオルを外して握り締めた。会話がかみ合ってないのはいつものことだし、蘭が傍若無人なのもいつものことだ。
だが今回は自分達の家に知らない少女を連れ込み、あげく風呂にまで入れて裸の少女――それも何気に美少女だった――と戯れていたのを見過ごすわけにはいかない。
いや、別に少女だから嫌だとかじゃなく、この際、美少年でもオッサンやオバはんでも、竜胆にとったら同じことだった。要するに、竜胆は二人の家に蘭が知らない人間を連れ込んで、あげく自分抜きで楽しげにしているのが気に入らないだけなのだ。
それを人は単純に――"嫉妬"と呼ぶ。

「ったく、兄貴のヤツ…あいつが人刺したの忘れてんじゃねーの?色仕掛けで油断させておいてグサっとか嫌だぞ、オレは!」

ブツブツ言いながら、最後は自分の部屋にいる蘭に向かって叫ぶ。なのに返って来る言葉は「小さい服とかねーのかよ?」だけだった。

「あの女が着られるような服なんか持ってるわけねーじゃん」

と呆れたように言い返し、竜胆も自分の部屋へ行こうとした。蘭が自分の服を漁り散らかしてるのでは、と心配になったからだ。でも歩き出した時、背後でバスルームのドアが開く気配を感じ、竜胆は何の気なしにそちらへ視線を向ける。そして再び叫ぶ羽目になった。

「はあ?!何で?!」

そこには素っ裸の少女、が立っていた。しかも全身ずぶ濡れで、表情のない顔を竜胆に向ける。自分が裸ということは特に気にもしてない様子だ。

「何で裸で出てくんだよ?!」

長い髪でかろうじて隠れてはいるものの、胸の膨らみがチラリと見えて、竜胆はすぐに目を反らした。女の裸を見たのは当然初めてじゃないが、この状況で会ったばかりの少女が全裸で目の前に現れれば多少の動揺はする。竜胆は舌打ちしながら手に持っていた先ほどのバスタオルを少女の方へ投げつけた。

「これで体くらい拭け!」

はキョトンとした顔で頭にかぶされたバスタオルを手にすると、それを体に巻き付けて不安げな顔で室内をキョロキョロ見渡している。そこへ蘭が戻って来た。

「は?、その恰好で出て来ちゃダメだろ。そこの狼に喰われんぞ」

は蘭の姿を見て安心したのか、すぐに駆け寄り蘭の服を掴む。それを見ていた竜胆は呆気に取られつつ、ついでに蘭が「狼」と称したのが自分のことだと気づく。

「誰が狼だ!つーか喰うか、そんな女!」
「仕方ねぇ…オレの服でも着てろ。デカいと思うけど」
「って、聞けよ、兄貴も!」

見事にスルーしてくる蘭の態度は、さすがに寂しくなってくる。理不尽かつ良いとこ取りの兄貴に思うことは多々あれど、何だかんだ兄弟仲は良い方だ。弟の自分より知り合ったばかりの少女を優先されると、やはり面白くはない。
そんな竜胆の気持ちを知ってか知らずか、蘭はの手を引いて自分の部屋へ入っていくと、何故かドアを閉めてしまった。

「む…何でドアを閉めんだよ…。いつも開けっぱのクセに」

蘭のこういった行動は"オレにかまうな"という意思表示であり、だいたいは彼女が来た時にやっていた。女がいない時はいちいち開閉が面倒という理由で竜胆の友達が来ている時や、寝る時以外は開け放している。なのに今はしっかりドアは閉じられていた。
やっぱ兄貴のヤツ、ヤルつもりで連れ帰ったんじゃねーだろうな、と不安に思った竜胆が、蘭の部屋のドアへ張り付く。そもそも少女はこれから敵になるであろう京介に飼われていた女だ。さすがに兄と二人きりにするのはマズいのでは、と心配になった。
その瞬間――ドアが勢いよく開く。当然のことながら、ドアへ張り付いていた竜胆の横っ面に思い切りぶち当たった。

「あ?竜胆、何してんの?眼鏡ズレてんじゃん。ウケる」
「~~~~ッ」(※痛くて言葉が出ない)

ひょいっと顔を覗かせた蘭は、右頬を手で押さえている竜胆を見ながらケラケラ笑っている。イラっとはしたものの、今のは自分の自業自得だ。何も言えないでいるところへ、蘭が手招きをしてきた。

「それよりちょっと来いよ、竜胆」
「……何?」

未だ痛む頬を擦りつつ、可愛い弟の異変には全く意に介してない兄に、竜胆は半目になりながらも蘭の部屋を覗き込む。そこにはがいた。

「可愛くね?オレのミニチュアみてーだろ」

蘭が頬を緩ませながら言った通り、先ほどの血まみれだった姿からは想像できないほどの、可愛らしい少女がそこにはいた。Tシャツを一枚羽織っただけのは長い髪を蘭と同じように三つ編みにして、またそれが似合っている。183センチもある蘭のTシャツはやはりブカブカだったらしく、一枚での膝まであるので、ちょうどワンピースみたいに見えるのも可愛い。濃いメイクと血痕で汚れていた顔も綺麗に洗い流されたのか、今は艶々に見えた。美意識の高い蘭が愛用している化粧水やら乳液で整えたらしい。色白のせいで頬の赤みが目立ち、お人形さんみたいだ、と竜胆は思った。

「なーに見惚れちゃってんだよ、竜胆」
「は?別に見惚れてねーし」

肘で小突かれ、ハッと我に返った竜胆は慌てて否定した。しかし兄には通用しない。

「まーたまた。赤くなってんよ、顏が」

蘭がニヤニヤしながら竜胆の顔を覗き込む。その何でも見透かすような蘭の態度にイラっとしつつ、竜胆も「暑いからだよ」とバレバレの言葉を返すだけで精一杯だ。

、おいで」

蘭が呼ぶとは従順な犬のようにすぐ駆け寄って来た。そして再び蘭の手を握り締める。まるで初めて親鳥を見た雛のように、その黒曜石のような大きな瞳は蘭だけを見ている。
目の前にいる竜胆の存在など初めからないかの如く振舞うを見て、竜胆はますます面白くないと思う。蘭と同様、端正な顔立ちをしている竜胆も当然ながらモテる。女の子にこれほどまで塩対応されたのは生まれて初めてだった。地味に男としてのプライドが傷つく。

蘭はと一緒に部屋を出てリビングの方へ行くと、すぐに「竜胆」と呼んだ。灰谷家では兄のいうことは絶対であり、竜胆は仕方なく言われた通りにソファの方へ歩いて行く。
そこで思い出した。昨夜の飲み会が終わった後は寝ていた為、広いリビングは散らかり放題だということを。
案の定、蘭は顔をしかめつつ「このピザとかポテチのゴミとか夕べ飲んだ時のだろ。片付けろよ」と言ってきた。しょちゅう散らかす竜胆とは違い、蘭は地味に綺麗好きだ。飲み会などで散らかすのは許されても、その後の片付けを怠けると機嫌が悪くなるのは竜胆もよく分かっている。

「…分かったよ」

ここは素直に聞くしかない。テーブルの上に放置したままのビールや酎ハイの空き缶。スナック類の袋といったゴミを渋々片付けていると、蘭は再び竜胆を呼んだ。全く人使いの荒い兄貴だ、とウンザリしながらも素直に蘭の元へ歩いて行く。無視すれば蘭の鉄拳制裁が待っているからだ。
キッチンからリビングに戻ると、蘭は隣にを座らせ、何やらケータイをいじっていた。

「何だよ、兄貴」
「ココに連絡して京介のこと調べてもらって」
「そりゃいーけどさー。その子、どーすんの?兄貴にめっちゃ懐いてるみたいだけど」
「とりあえずが何でんとこにいたか調べてから考える。こいつ、あんま話したがらないんだよな、あそこにいた時のこと」
「そりゃー売春なんかさせられてたんだし思い出したくもねーだろ」
「まあ…かもしんねーけど」

と首を傾げながら蘭は隣で自分を見上げてくるを見た。先ほど風呂場で自ら裸になったり、お礼代わりにキスをしてきたことを考えれば、男に対してそういう行為を抵抗なく出来るのは慣れているせいだからとも言える。だが、蘭としてはどこかスッキリしない。

「あ、そーだ。まだに名乗ってなかったな。オレは灰谷蘭、こっちは弟の竜胆」
「……らん?」
「そう。蘭って呼んで」
「………(オレのことはスルーかよ)」

蘭しか見ていないの態度に、少々ムっとしつつ、竜胆は僅かに目を細める。いくら助けてもらったからとはいえ、の態度は少しおかしい。15歳と言ってたが、こうして普通の恰好をすれば見た目は年相応。なのに精神的なものは、もっと幼い少女のようだ。

「あ、そーだ。、腹減ってる?何か食う?」
「…お腹…空いた」

蘭が尋ねるとはふと思いだしたようにお腹を押さえた。

「竜胆、何か作ってやれよ。スパとかあったろ」
「いや、そこはデリバリーでよくね?」
「んじゃーそれでいいから。、何か食いたいもんある?」

機嫌がいいのか、蘭はニコニコしながらに訊いている。まるで本当の妹みたいな扱いだな、と不満に思いつつ、竜胆は各ジャンルのデリバリーメニューを出してに見せた。

「寿司にピザにラーメン、カツ丼――」
「…チーズバーガー」
「は?」

デリバリーメニューの中にはない物を挙げられ、竜胆の口元が僅かに引きつった。こういう流れの場合、大抵は――。

、チーズバーガー食いたいのかよ」
「…うん」
「……(嫌な予感)」

のリクエストを聞いた蘭はやはりと言うべきか、その整った顔を迷うことなく竜胆に向けた。その目は明らかに"マック行けよ"と訴えている。言われる前から察した竜胆は、深い溜息を吐いた。新年早々、厄年かと思うほどついてない気がする。

「分かったよ…。行けばいいんだろ、行けばっ」
「あ、オレはダブチーね。あとはーポテトのLと…、ナゲット食う?」
「…食べたい」
「じゃあナゲットも。他は適当に買ってきて」
「はいはい…」

竜胆は半ば諦めの境地に入り、財布とジャケットを掴むと玄関の方へ歩き出す。だがふと足を止めた。兄とを残していくのは心配だ。京介も灰谷兄弟のことは当然知っている。向こうも警戒しているとの噂もあった。灰谷兄弟を消せば、六本木は容易く手に入るということを相手も分かっている。蘭が今夜あのホテルへ行ったのは気まぐれに過ぎず、知り合った状況を聞けば、それが罠ということもないだろうが、全身血まみれになるまで誰かを刺した女なのだ。やはり油断は出来ない。

「兄貴、気をつけろよ」

とりあえず振り向いてそれだけ言うと、蘭は鼻で笑ったようだった。

「誰に言ってんの」
「そうだけど…」
「オレが女の子相手だからって気を抜くとでも言いたいわけ?」

笑顔を浮かべているが、しかし蘭の目は笑っていない。竜胆が知る限り、蘭は慎重で常に冷静に物事を考える。いくら可愛い少女とて、それは同じなのか、油断などしていない。蘭の目はそう言っているようだった。

「いや…。つーか手は出すなよな」
「手を出されたのはオレの方だし」
「……は?」
「何でもねーよ。早く行って来い。の腹が鳴ってる」
「……はいはい」

手を出されたとはどういう意味だ?と首を傾げつつ、竜胆は部屋を後にした。
まあ心配だが兄貴のことだ。大丈夫だろう。何だかんだ言いながら、竜胆は蘭のことを信頼している。例え自分達に不釣り合いな少女をお持ち帰りして来たとしても。

「っはあ…この短い時間に色んなことありすぎて夕べの酒もすっかり抜けたわ…」

外へ出ると深い溜息を吐きながら、竜胆はマンション近くのマックへ足を向ける。通常なら、今頃はまだ酔っ払って夢の中のはずだった。なのに今、我が家には見知らぬ少女と兄がいて、竜胆はこの寒空の下、マックへお使いに出されてる始末。何だ、この状況…とボヤきたくもなる。

「何で兄貴もあんなガキ、連れてくんだか…」

すでに連れて来てしまったのだから文句を言っても仕方がないが、本来、兄の蘭はそこまで優しくもなければ親切な男でもない。見知らぬ女を放り出すのは心配だから、と自宅まで連れてくるような"いい人"でもない。自分が認めた相手以外は、どうでもいいと思ってるようなところがある。例え女子供相手でも、自分が気に入らなければ容赦がないのは、竜胆もよくしるところだ。その蘭が、何故あんな怪しげな少女の面倒を楽しそうに見てるのか、竜胆には不思議だった。

(とにかく兄貴の言う通り、京介を調べてもらうしかないか)

のことはそれから考えればいい。竜胆は自分をそう納得させた。その時、道すがら蘭と同様に知り合いの不良達に挨拶をされた。

「ちーっす、竜胆さん!」
「竜胆さん、お疲れ様です!どこ行くんですか」

その中の一人、キャップをかぶった黒髪ロン毛の男――名前は確かタツヤだった――に声を掛けられ、竜胆は溜息交じりで肩を竦めた。

「ウチの殿がダブチーご所望でね」
「殿?ああ、蘭さんか」

タツヤは笑いながら納得したように頷く。蘭に振り回される竜胆をしょっちゅう見てるからこそ、たった一言で状況を把握できたようだ。

「蘭さんって言えば…さっき猫のコスプレした子を抱えてましたけど、あれ何すか?新しい彼女さんにしちゃ、若かったけど」
「拾ったんだと」
「え、あれマジだったんスか!まさか家出少女拉致ったとか…いや、冗談っすよ?!」

言った後で慌てて撤回するタツヤを見て、竜胆が苦笑する。蘭がそこまでするほど女に困ってないことを、仲間はよく知っているし、竜胆も当然冗談だと分かっている。

「それが家出少女じゃねーんだと。あの子、に飼われてたらしい」

その名を出すとタツヤもすぐに察したようだった。六本木を手中に収めようとしてる存在は、仲間内でも把握している。

「なるほどね。は怪しげなサロンで家出少女なんかを働かせてるって噂がある…。相当悪どいことやってそうですよ?」
「デカくなる前に兄貴も潰したいみたいだし、まあやる時はタツヤにも声かけるわ」
「了解っす!そん時は数集めて駆けつけますよ」

タツヤは張りきったように言うと、再び仲間の方へと戻って行った。それを見送りながら竜胆もマックへ急ぐ。
灰谷兄弟は元々チームというものにさほど興味はなかったものの、ふたりの強さに目をつけた、当時六本木を牛耳っていた狂極の総長から「ウチに入ればソッコーで幹部クラスだ」と誘われたのをキッカケに、ふたりはチームというものに所属したことがある。それも実は狂極を乗っ取る為の、ふたりの布石だった。だがチームに合流してからも好き勝手に動くふたりを見て、総長は何かにつけて抑え込もうとしてくるようになった。他人に指図をされるのを嫌う蘭は、チームという狭い籠が面倒になり、乗っ取るよりチームの資金をごっそり盗んで狂極を潰す方向へと目的をシフト。そこから端を発し、例の灰狂戦争勃発へと繋がった。結果は圧勝。後日副総長が死んだことで、ふたりは少年院へ送致されたものの、当時最大の暴走族である狂極を潰したことで、二人に憧れた不良達が集うようになり、どこかのバカと抗争になれば無条件で仲間が大勢集まってくる。
今は少年院にいた頃、知り合った男との約束の為、とあるチームに身を置いていることは置いているが、今回のような個人的な問題でチームの手を借りるつもりはなかった。

(まあ…でも情報くらいは調べてもらってもいいよな…)

竜胆は蘭に言われたことを思い出すと、ケータイで九井一、通称ココと呼ばれる男へ電話をかけた。九井は最近チームに収集された人物だが、元"黒龍ブラックドラゴン"にいた人物で、去年チームに入った稀咲や半間よりは信用出来ると蘭が話してた男だ。
何でもガキの頃から金を稼ぐことに関して一流で、金持ちや裏稼業の人間から仕事を依頼されていたこともあるらしく、色んな界隈の情報にも精通しているとのことだった。

「あ、ココか?オレ、竜胆。ちょっと頼みたいことがあんだけど」

竜胆は九井にカンパニーの内部事情を調べてくれと告げた。すると案の定、九井は『あそこの内情ならよく知ってる』ということだったので、明日の昼間、六本木のトラヤカフェで落ち合う約束を取り付けた。
さすが九井、色んな悪党から仕事を請け負っていただけはあるな、と感心しながら、思ったよりも早く情報が手に入りそうだと竜胆は思う。
これなら蘭にも文句は言われまい。
少しホっとした竜胆は電話を切った後、今の最優先事項、腹を空かしている二人に餌を買って行こうと、マックへ入って行った。


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