07-この世の理も君の前では力なく
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それがあの子の名前です、と九井は言った。
灰谷兄弟の支配する六本木に新興勢力として入り込もうとしているカンパニーについて、情報を提供してくれた九井の話は、少なくとも蘭にとっては楽しい話でも何でもなく。ただただ、静かな怒りの炎を灯らせるだけだった。
九井は京介が会社を立ち上げる際、何度か仕事を頼まれたことがあると言う。その際に九井が知ったのは、京介が暴力でを支配しているという事実だった。
「元々あの子は赤ん坊の時に駅に捨てられていたらしくて、施設に引き取られた彼女を京介の両親が養子に迎えてる。でもその両親も事故で他界。京介が彼女の唯一の保護者になったんスよ」
「それが何で暴力で支配になるわけ?フツーなら兄貴が守るもんじゃねーの?その状況なら」
静かな怒りを乗せた言葉を蘭にぶつけられ、九井は苦笑気味に「オレも同じ意見ですよ」と言った。
同時に、六本木を支配し、現在は"天竺・四天王"でもある蘭が、一人の少女のために、それも敵とみなしている男の妹のために、怒りを見せる姿は、少なからず九井を驚かせた。灰谷兄弟、特に兄の蘭は目的のためなら手段も択ばず、また敵に対して一切の容赦もない無慈悲な男で有名だ。その蘭が、出会ったばかりの少女のことで怒りを露わにしている。まだつき合いの浅い九井でも、それは意外なことのように思えた。
「何故そうなったかは分からないんスけど…オレの目から見ても京介の妹への愛情は歪んだものでしたね」
途中から学校へも行かせなくなったことで、は普通の子が受けるような教育は受けられず、ただ京介の人形として傍に置かれる日々だったようだ。そして京介はが14歳になった頃から暴力以外に性的虐待を繰り返すようになったらしい、と九井は言った。
「は?何それ」
それまで黙って聞いていた竜胆も思わず顔を顰めた。いくら血が繋がっていなくとも、小さな頃から兄妹として育てられてきたはずなのに、どういう理屈でそんな酷いことが出来るんだと、竜胆は激しい怒りを感じた。同時に竜胆は目の前の蘭へ視線を向けたが、こうして見る限り表情には出ていない。だが、蘭の瞳は静かに伏せられ、仄暗い炎が揺らめいているように見える。
「京介は自分の客の相手を妹にさせてた。"そのためにオレが14の頃から色々と仕込んだ"と自慢げに話してたんスよ…」
「…チッ。マジでクソ野郎だな、京介は」
「オレも何度かちゃんの接待を…って言われたことがあって…京介がビップの接待で使うため、ホテル内に作った専用サロンに連れて行かれたことがあるんスけど――」
「はぁ?てめ、それどういう――」
まさかの九井の発言に竜胆が腰を浮かせる。それを見た九井は「違うっス!オレは何もしてもらってないし!」と慌てて首を振った。
「オレが上手く京介に頼まれた仕事を片付けたから、それを喜んだアイツが勝手にオレを接待しようとしただけで…」
「…ふーん」
「ホントですって!まあ…彼女はそういう行為をしようとしてきたけど、オレはハッキリ断ったし…。ただ…」
「…ただ?」
「ちゃんは"京介お兄ちゃんに怒られる"って怯えた顔で言うから、何か可哀想になって何もしてないことは京介には黙っておくって彼女に言ったんスよ」
九井の話だと、京介はに客の接待はさせるが本番まではさせてなかったようだ。あくまでが客をサービスする側で、サロン内ではにだけ売春をさせていなかったらしい。
「何だそれ。意味分かんねーな。客の相手はさせるのにヤるのはダメ?矛盾してねえ?からしたら同じ地獄だろ」
「だからオレも京介の愛情は歪んでるって思ったんスよ。心のどこかで妹を他の男には触れさせたくねえのかなって…。でも京介は飴と鞭を使い分けて妹を支配してた。自分の傍でしか生きられないように」
「…なるほどね」
それまで九井の話を静かに聞いていた蘭がふと呟き、視線を奥へと向けた。そこには蘭を待つの姿がある。どこか心細そうに所在なさげな様子で座っていた。
「だからはどこか幼い。知らないことが多いのも京介が何も教えなかったからだ。変に知識を持って自分の傍からいなくならないようにコントロールしたな」
「そういうことか…。で、はその接待中に客の一人と何らかのトラブルになって刺して逃げたってわけか。そこで兄貴と鉢合わせた…」
「ああ、そのことなんスけど、夕べの今日で調べた中にその話もあって詳細が分かりました」
と九井は身を乗り出した。さすが仕事が早い。夕べ竜胆が電話を入れた後、自分が関わってない間の件まで調べたようだ。
「が刺した相手は京介の新しいスポンサーで貿易会社の社長らしいんスけど、病院に運ばれて一命はとりとめたらしいっスよ」
「マジ?じゃあ…相手は死んでねーんだな?」
「何か所か刺されたみたいっスけど、そもそも小柄な彼女は力もないだろうし、致命傷には至らなかったようで。あと被害者の社長は彼女に刺されたとは言ってない。まあ相手が15歳の少女とバレたら自分も捕まるし。だからその辺のことは心配しないで大丈夫です」
九井の言葉に蘭は多少ホっとしていた。未成年の少女に性的サービスを受けようとした腐った大人がどうなろうと知ったことではないが、出来るならには自分と同じような罪状を受けさせたくはない。
「でも何ではソイツのことだけ刺したんだ?今までは素直に京介のいうこと聞いてたんだろ?」
竜胆がふと疑問を口にすると、九井は苦笑気味に「その社長、どうやらを襲おうとしたらしい」と説明した。
「は?襲うって…ヤっちまおうとしたってこと?」
「そうっスね。でもだけは本番なしって京介は決めている。なのにスケベ心を出して襲おうとしたらがパニくって刺したってのが真相らしいです。京介の部下に聞いたから間違いない」
「そうか。で?京介のヤツはを探してるのか?」
ふと蘭が顔を上げて聞いた。そんな状態で逃げたままの妹を京介が放っておくとは思えない。案の定、九井は「そうらしいっス」と頷いた。
「京介も必死で探してるとか。ただ蘭さんが関わったという話はオレも聞いてないんで、まさか一緒にいるとは思ってないはずです。ちゃんが二人と一緒でオレもビビったくらいなんで」
「じゃあ…のことは誰にも言わないでくれるー?」
「もちろん。あ、あと本題の方っスけど…」
と九井はポケットからUSBメモリを取り出した。そもそも九井にはカンパニーの内部事情と、その他、弱みになりそうなネタを探れと依頼してあった。でも九井がたまたまのことを知っていたおかげで、余分に情報を得ることが出来た。
「これに京介の裏稼業の証拠が全部入ってる」
「マジ?」
「コッチもああいう類のヤツと仕事する時はトラブった時のためにも保険かけてあるんスよ」
「怖ぇヤツ」
ニヤリと笑う九井に、蘭も苦笑いを浮かべながらUSBを受け取る。これで京介を潰す準備が整ったことになる。
蘭は腰に引っ掛けた財布の中から報酬として札束を取り出すと、それを九井へ渡した。
「また何かあったら頼むわ」
「はい。――って、こんなに?!」
九井はその札束を確認し、驚いたように顔を上げた。元の報酬の倍はある。
「今回は本題とは別にの情報ももらったからな」
「あ…ありがとう御座います」
「ま、どーせ半分はイザナに渡るんだろーけど」
「はあ…」
苦笑する蘭に、九井も頭をかきつつ笑う。九井はチームの資金集めをさせるため、武藤が東京卍會から引き抜いた――半強制的に――人材だ。イザナが九井の金を作り出す力を欲したことで、無理やり天竺に入れられたわけだが、金以外でも役に立つことを証明したな、と蘭は思う。
「ま、今回の件はオレ達の個人的な揉め事だからイザナには言わないでおいて」
「もちろん言いませんけど…。ちゃんはどうするんですか?」
「ん?ああ…事情は分かったし…。まあ、このままにはしておけねーよな~…」
蘭はふと天井を仰ぎながら何かを考えるように目を瞑った。にもし帰れる家があるならを潰し、彼女を自由にした後で帰してやろうと思っていた。だが、蓋を開けてみればはそのの人間。京介を潰したらの帰る場所もなくなるということだ。
ただし、京介の元へ帰したところで、にとったら地獄の日々が待っている。
"助けて――"
ふとに言われた言葉を思い出し、蘭はゆっくりと目を開けた。あの言葉はやはり今の現状から助けて欲しいという、の哀願だったんだろうか。あの京介が唯一の家族だなんて、にとっては不幸でしかない。
「…やっぱソレしかねぇか…」
「え?何か言った?兄貴」
ポツリと呟いた蘭に竜胆が問いかけたその時、三人が座るテーブルの横に誰かが立つ気配がした。
「…蘭ちゃん」
「え…?ああ、ごめん、」
心細かったのか、蘭を見つけてやってきたは不安げな顔で立っていた。蘭は彼女の手を引き寄せると、そのまま自分の隣へ座らせた。と面識のある九井は気まずそうに視線を反らし、竜胆に至っては僅かに目を細めて唇を不満げに尖らせている。
「ちょっと仲間と話し込んじゃって。パフェは食べ終わった?」
「うん…」
は蘭のそばに来れて嬉しいのか、僅かに笑顔を見せたあと、ふと目の前にいる九井を見た。その刹那、瞳が大きく見開かれる。
「…ココちゃん?」
「ひ、久しぶり」
は何度か会った九井のことを覚えていたらしい。少し怯えた表情で蘭にしがみついた。九井は京介と仕事をしていた相手だ。自分を連れ戻しに来たと思ったのかもしれない。
「、大丈夫だって。ココは連れ戻しに来たわけじゃねーから。今はオレ達の仲間なの」
「………ッ?」
その説明に、は更に驚いた顔で蘭を見上げると、「…ほんとに?」と小さな声で尋ねる。よほど兄が怖いらしい。
「ほんとー。っていうか、ココに全部聞いた。のこと」
「…わたしの…こと?」
「うん。ああ、あとココには今回オレ達のために仕事をしてもらったんだよ」
は少し驚いた顔をしていたが、同時にホっとしているようにも見える。ココが京介絡みで動いてないと聞いて安心したようだ。
の怯えた姿を見た時、やはり京介の支配を恐れているんだな、と蘭は痛感させられた。これ以上京介の元にいれば、は一生"人"として生きられないだろう。
「あ、そーだ。オマエが刺しちゃったオッサン、助かったって」
「…え?」
「それとのことは警察にも話してねえみたいだから、もう心配すんなよ」
「……ほんとに?」
「ああ、誰もを追いかけてこない」
「……うん…」
「それと…オマエの兄貴のことはオレに任せろ」
「え…っ」
アッサリと言った蘭に今度こそは驚きの声を上げた。何度も目をパチパチとさせ、言われたことを反芻している顔だ。それがリスのように見えて、蘭の口元が自然に緩んでいく。
「元々潰すつもりでオマエの兄貴のことは調べてたんだよ。そのついでに困ってるを助けても何も問題ねえ。だよな?竜胆」
言いながら隣に座る竜胆を見る蘭の顏はどこか楽しげだ。こういう顔の時は心底やる気を出している証拠で、竜胆も苦笑いを浮かべながら頷いた。どうせやることは同じだ。
「乗りかかった船っつーことでね」
「はい、決まり。んじゃー帰るか」
蘭はそう言いながらに微笑むと、呆気に取られている九井に「また何か分かったら連絡して」と声をかけ、と二人で先にカフェを後にした。
それを見送りつつ、竜胆は溜息交じりで立ち上がると、大量にある荷物を再び手に持つ。
九井はそれを眺めながら「すげー買い物しましたね」と苦笑した。
「しかも全て女の子用のショップ?」
「あーまあ。これ全部のだし」
「え…」
「兄貴がの為に買ったもの。アイツ何も持ってなかったしさ」
呆れ顔で応える竜胆を見て、九井は再びポカンとした顔だ。
「何か…意外っスね」
「ん?」
「蘭さん。ちゃんと出会った経緯は聞いたけど…そこまで面倒見るなんて驚いた。蘭さんにしたら一応敵の妹なのに」
「まあな…。兄貴は時々オレでも何を考えてっか分かんねーよ」
はぁ、と息を吐きつつ、と手を繋いで歩いて行く兄へ視線を送る。長いこと兄弟をやっているが、未だに蘭を理解できないことがあるんだという驚きが、竜胆に溜息をつかせたのだ。
「…でもまあオレも安心しました」
「安心?」
「ちゃんのことは地味に心配だったんで…。京介の傍にいたらいつか死んじゃうんじゃないかって当時も思ったし。まあ他人の家のことなんっスけどね」
九井はふと窓の外を見ると、仲良さそうに手を繋いでいる二人を見て笑みを浮かべた。の仕事をしてた間、九井が何度か顔を合わせたことのある少女は常に怯えたような顔をしていた。全てを諦め、ただ兄に蹂躙される日々に未来など見えなかったんだろう。それはまるで元ブラックドラゴン総長、柴大寿の暴力に支配されていた姉弟と重なって見えて、九井の心に深く残っていたのだ。
でも今、蘭に手を引かれているの顏は、九井が知っている少女のものではなかった。
「彼女のあんな自然に笑う顔は初めて見たな」
「ふーん。でもま、あれは兄貴限定だ」
「え?」
どういう意味っスか?と問うように視線を戻すと、そこには苦虫を噛み潰したような顔をした竜胆がいた。
「アイツ、兄貴にしか懐かねーんだよ。オレのことはまるきりスルーでムカつくし、マジで野良猫っぽい」
「へえ…で、竜胆くんはそれが寂しいってことっスね」
「は?何でオレが寂しがらなきゃなんねーんだよ」
「いや、だって今そんな顔してたし…」
「してねーから!じゃーな」
ムっとしたように怒鳴った竜胆は荷物を抱えるようにしながらカフェを出て行く。その分かりやすい態度に軽く吹き出した九井は、二人を追いかけて行く竜胆を見ながら「天竺も悪くないじゃん」と苦笑交じりで呟いた。

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