08-この世の理も君の前では力なく



九井から情報を得た蘭は家に帰ると自室へ引きこもり、パソコンで何やら調べ出した。暇になったは、その後ろで蘭から買ってもらった服や下着、靴にアクセサリー、化粧品などを出して嬉しそうに並べている。時々ドアの横にある大きな鏡の前で体に服を当てたり、アクセサリーを付けて見たりと、年頃の女の子らしいことをしては顔を綻ばせた。
義理の両親が亡くなった後は、こんな風に何かを買って貰ったこともなく、また他人に優しくされたこともない。義兄である京介に支配され、彼の望みを優先させるだけの地獄のような毎日だった。殴られるようになってからは学校にも行けず、唯一低学年まで通っていた小学校は卒業式すら出られなかった。
そのせいで友達もいない。
余計な知識を身に着けると困ると思った京介は、必要以上の情報をに与えなかった。テレビも見られず、本も読めず、外の世界のことは殆ど分からなくなった。
あのホテルの最上階が、にとっては世界の全てだった。
でもそこから一歩、外の世界へ踏み出したあの夜、蘭と出逢い、の世界が大きく広がったのだ。外の世界はこんなにも広かったというのを、京介と離れたことでは思い出した。

「あーやっぱ無理か…。ったく面倒くせーな、日本の法律は」
「………」

不意に声が聞こえてきて、は鏡の中の自分に向けていた視線を蘭へ向けた。蘭は帰って早々ノートパソコンの前に座り、何かを調べている。なりに邪魔をしてはいけないと、声をかけることは遠慮していた。毎日、京介の顔色だけを見てきたせいで、そういう空気だけは読んでしまうクセを身に着けた。
だが、すでに午後の2時。朝ご飯の後はカフェでパフェしか食べていないは、そろそろお腹が空いてきた。そしてが口にする前に体が空腹を訴えてくる。ぐぅぅ…っという情けない音が、自分のお腹から聞こえてきた時、は慌ててお腹を手で押さえた。ただ、静かな室内では殊の外それは大きく聞こえたらしい。蘭がふとパソコンから顔を上げて振り向いた。

「今のって…腹の音?」
「………」

ストレートに訊かれての頬がほんのり赤く染まり、その姿を見た蘭は軽く吹き出した。

「お腹空いた?…つって、もうこんな時間かよ」

蘭は時計を確認すると、大きく伸びをしながら立ち上がった。久しぶりに長々とパソコンを見たせいで、少し肩が凝ったかもしれない。軽く首回りを解しながらの前へしゃがむと、大きな手で彼女の頭をクシャリと撫でる。

「ごめん、気づかなくて。何か食う?」

が恥ずかしそうにしながらコクンと頷く。お腹が空いたと、ひとこと声をかければいいのに、それをしないで待っていたのかと蘭は溜息をついた。
が何かをする時、どこか人の顔色を見て来るのは京介のせいだったんだと、今なら分かる。

、今度からは自分が何かしたいと思ったら好きにしていい。誰かに遠慮することもないし聞く必要もない。分かる?」
「…好きに…していい?」
「そ。腹が減ったなら減ったって言っていいし、眠たけりゃ寝ればいい。がやりたいと思ったことを自由にしていいってこと」
「やりたいことを自由に…」

そう言われてもあまりピンとこないのだろう。は首を傾げながら蘭の顔をジっと見ている。その可愛らしい顔を見て、蘭はもう一度の頭を撫でた。

「ま、ゆっくり元に戻していけばいいから。とりま、は飯かな―――」

と言った瞬間、何を思ったのかはその手を蘭の頬へと伸ばし、艶のある唇を蘭の唇へと重ねてきた。二度目の不意打ちキス。蘭は再びギョっとしたように目を見開き、その拍子に後ろへ重心が傾き、思わず手をつく。

「ちょ…おい―――」

は何かを言いかけた蘭の唇を追いかけながらもう一度軽く啄むように口付け、膝立ちをしながら蘭の足の間へ体を入れると、首に両腕を回す。その積極的なキスに驚き、蘭は慌てての体を引きはがした。

「……ったく。何してんだよ」

蘭が呆れたようにの額を指で小突くと、は抱き着いたままキョトンとした顔をした。

「だって…したいことしていいって…」
「いや、だからって何でキスなんだよ」
「蘭ちゃんに……キスしたいなって思ったの…」

恥ずかしそうに俯きながら呟くに、蘭は一瞬呆気に取られていたが、不意に苦笑いを零した。最初にされた時のことを思い出したのだ。

「もしかしてまたお礼のキスとかか?だったら、もうそんなことしなくていいし、オレがオマエを自由に―――」
「違うもん…」
「…違う?」
「お礼じゃなくて……わたしが蘭ちゃんにキスしたかったの…」
「……は?オレ?」
「…うん。ダメ…だった?」

の頬は赤く染まり、その純粋な瞳が蘭を射抜くように見つめている。こんなひたむきな視線を向けられたのは蘭も初めてで、多少の戸惑いを覚えたが、でも悪い気はしない。むしろ自分を頼ってそんな思いを向けてくれるが、可愛いとさえ思う。
ただは大人の汚い部分を沢山見てきたはずなのに、その心は純粋すぎて危うさがあるのも事実だ。

「ダメっていうか…オレも男だしみたいな可愛い子にちゅーされんのは嬉しいんだけど、無防備にそういうことすんのは色々危ないだろ」
「危ない…?」
「他の男だったら今頃襲われてるかもしんねーだろってこと」
「他の人にしたいと思わない……」
「……あ、そう」

どう諭すか考えあぐねていたが、アッサリ言い切られては蘭も笑うしかなかった。は普通とは言えない環境で多感な時期を過ごしている。この、人より少しズレた感覚を元に戻すには、早く京介と決着をつけて、本当の意味でを自由にしなければならない。

「怒った…?」

蘭が黙っていることが不安だったのか、は心配そうに瞳を揺らしている。これまで京介の顔色ばかり窺っていたであろうにとって、相手の沈黙は何より怖いのかもしれない。

「怒ってはねえよ」
「…ほんと?」
「ほんとー」

蘭が微笑むと、も途端に嬉しそうな顔をする。こういう顔をしてくれるようになったのは蘭にとっても嬉しいことに違いなく。出来れば、ずっとには笑顔でいて欲しいと、ガラにもなく思う。

「とりあえずのもう一つしたいことすっか」
「もう一つ?」
「昼飯を食う」
「あ…」

思い出した瞬間、のお腹が鳴る。蘭は再び吹き出すと、首に回されているの腕を外そうとした。その時、またしてもが蘭の唇へキスを落とした。

「……っ?」

軽く啄まれ、ちゅっと小さな音が鳴る。本能的に蘭もキスを返しそうになったが、その前に唇がゆっくりと離れた。はイタズラっ子のような笑みを浮かべて「したいからしたの」と言っているその瞳は、薄っすら潤んでいるように見える。その大胆でいて無邪気な笑顔に、艶っぽさが見え隠れしている瞳は、蘭の心を揺さぶるには十分すぎた。少女から大人の顏へと変わっていく瞬間は、いつの世も男を惑わすものなのかもしれない。

「……はマジでオレを惑わしてくるよなァ?」
「…まどわす?」
「そういう鈍感なとこは困んだけど…」

不思議そうに首を傾げるに、蘭は「はぁ」と溜息をついた。これが屈強な男相手なら平然と笑って挑める蘭でも、相手がとなると、どうも調子が狂う。
その時――コンコンとノックの音と同時にドアが開き、竜胆が顔を出した。

「兄貴ぃ~、そろそろ腹減んな―――にしてんだよっ?!」

部屋に入った瞬間、その光景に竜胆が固まる。膝立ちで両腕を蘭の首に回しているを見た竜胆は、またしても大騒ぎするはめになった。



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