12-指きりしたって、どうせ罰❷
朝、は目を覚ました時、自分がどこにいるのか分からなかった。けれど慣れ親しんだ匂いに気づくと一瞬で血の気が引いていく。今いる場所は、が毎日のように過ごしていた恐ろしい記憶しかない場所だったからだ。
「……ッ?」
見覚えのある一面大きな窓と、そこの前にある大きな机。そこに座る――義兄。
そしては自分が寝ている場所が自分の家のソファだということに気づいた。同時に蘭のことを思い出す。あれは夢だったのかと思った。ここから逃げ出したい気持ちが強すぎて、だからあんな幸せな夢を見たのかと。
誰かがこの場所から自分を救い出し、別の世界へ連れて行ってくれる。毎日毎日、そんな叶うはずもないことを願っていたから、誰かが助けてくれるのを夢見ていたから。
だからあんなに楽しい夢を見てしまったんだ、とは思った。じゃなければ今、自分がここにいる理由が分からない。
(灰谷蘭という綺麗なお兄ちゃんは、わたしが作り出した架空の人物だったのかもしれない…)
まるで夢から覚めたような気持ちになりながら、はゆっくりと体を起こした。すると机に座っていた京介がその視線をへ向ける。条件反射なのか、京介と目が合うだけではびくりと肩を揺らした。
「…起きたのか」
「…は、はい…」
いつものように兄の顔色を窺いながら返事をする。これで機嫌が悪ければ、京介はを何かしら理由をつけては怒鳴ってくる。はビクビクしながら兄の方を見ていた。
その時――の隣でモゾモゾと誰かが動いた気配がした。普段ならこの部屋には自分と兄しかいない。だからこそ余計に驚き、は気配のする方へ振り向いた。
「……?!」
「んあ…?あれ?オレ、寝ちゃってた?」
「…り…竜胆?」
のすぐ隣。ソファに寄り掛かるようにして寝ていたのは灰谷竜胆だった。そして、その竜胆の隣には見覚えのある男が呆れ顔で座っている。
(オッドアイ…額から左目尻までの大きな傷…この人は…かくちょーって人じゃ…)
夢じゃなければ確かに知っている相手であり、は言葉もなくその二人を見ていた。
「なーに寝落ちしてんだよ。見張りの意味ねーだろ!竜胆」
「だってオレも寝不足…って、あれ?つーか、今…オレの名前、呼ばなかった?」
竜胆は目を擦りながら、驚きで固まったままのを見る。彼女の代わりに応えたのは鶴蝶だった。苦笑しながら「あ~今、呼んでたぞ、確かに」と言いながらへ視線を向ける。
「な…何で…」
「マジ?オマエ、初めてじゃね?オレの名前呼んだの」
「何でふたりがいるの…?」
「あん?あーはずっと寝てたし知らないか」
あまりに驚いているを見て、竜胆と鶴蝶は苦笑いを零した。
「だ、だってここは…わたしの家…」
そう言いながら再び兄の方を見る。京介はやはりそこにいた。夢じゃない。でも、なら何故自分はここに戻されてて、しかも竜胆たちがいるんだろう、とは少しだけ混乱していた。
それに、一番傍にいて欲しい人が、ここにはいない。
「ら…蘭ちゃん…」
思わずその名を口にすると、竜胆がふと時計を見た。
「あー兄貴ならそろそろ戻って来ると思うけど…」
「…戻って…来る…?」
「あ~兄貴は…ほら、あれ!何か必要書類を取りに区役所?行っててさ」
「……???」
何一つ分からないといった顔をしているを見て、竜胆も苦笑いしながら「とにかくもうすぐ戻って来るよ」と肩を竦めた。
その時だった。部屋の両開きのドアがバーンと勢いよく開き、全員がそっちへ視線を向ける。そこへ夕べの恰好のままの蘭がグッタリした様子で歩いて来た。
「つ、疲れた…。つーか誰だよ…。こんな格好のまま出かけようって言ったの…。区役所でめちゃくちゃ視線独り占めしたっつーの」
「着替えるのめんどい言ったの兄貴だろーが。ってか太陽の下で見るとやっぱ派手だし、そら見られるわなー。ガウンの下は裸で何気にエロいし」
「あ?誰がエロいんだよ…?――って、!起きたのかよ」
グッタリしたまま愚痴っていた蘭だったが、竜胆の隣で目を見開いて固まっているに気づき、笑顔で歩いて来た。その手には大きな封筒が握られている。
「ら…蘭ちゃん…」
「ん?何だよ、そんな幽霊でも見るような顔して」
蘭は笑いながらの前にしゃがむと、頭をくしゃくしゃと撫でる。そして竜胆と鶴蝶に視線を向けると「特に変わったことは?」と聞いた。
「いや、京介も大人しいもんだ。アイツも必要な書類は用意できただと。さっき秘書が持って来た」
「あっそ」
「あ、つーか変わったことあったわ」
「何だよ、竜胆」
「がオレの名前、初めて呼んだ!」
「…マジで?」
は二人に見られて少し驚いたが「な、何でここにいるの…?」と先ほどから疑問に思っていたことを尋ねた。蘭までがここにいると言うことはやっぱり助けてもらったのは夢じゃないんだとホっとした。だが、ホっとしたらしたで、何故この家に皆が、それも京介までが一緒にいるのかが気になってくる。
そんなの気持ちに気づいたのか、蘭は笑顔での手を引くと、そのまま京介の前へと歩いて行った。しかしは京介の顔を見ると体がすくみ、蘭に握られている手にもグッと力が入ってしまう。
「大丈夫だ、。もうオマエの兄貴はオマエに酷いことなんかしねえから」
「……え?」
「オレと約束したから」
「約束…?」
「ってことで、京介。の身分証明書と印鑑は?」
「ああ、用意してある。これだ」
京介も自分が何をさせられるのかはまだ分かっていない。とりあえず六本木からの撤収と、とは今後一切関わるな、と蘭に約束をさせられただけだ。あとは養子縁組の離縁をしろと言われ、弁護士に必要な物を全て朝一で準備をさせたが、それをする前にもう一つ必要な書類が揃ってからと言われた。未だ蘭からの説明はなく、その最後の書類が何なのかは分かっていない。
「えーと?おー揃ってるな。これでよし」
蘭は何かを確認しながら頷くと、持っていた封筒の中からある書類を出して京介の前に置いた。
「んじゃーこれ。これにオマエの署名とハンコ押して」
「…ん…?こ、これは…?!」
「婚姻届けだけど?」
「…は?オマエ、何を…」
シレっとした顔で言ってのけた蘭に、京介も驚愕した。
ついでに後ろで控えてた二人も「「はぁ?!」」と同じような声を上げているところを見れば、蘭からは何も聞かされてなかったようだ。
「ちょ、兄貴!婚姻届けって何だよ?結婚すんの?と!」
「結婚つーか、コレが一番手っ取り早いし?」
「何が?!」
弟だけに、自分の兄が今まさに結婚しようとしている現実を知り、腰を抜かすほど驚いている。だが、それは京介や鶴蝶も同じで「何考えてんだ、アンタ!」と動揺しながら叫んだ
「はまだ15歳だぞ?そんなもん出来るわけ――」
「ほんとオマエ、兄貴失格だな…。今日は何日?」
「…今日…?」
蘭に訊かれ、京介はふとケータイのカレンダーを見る。1月22日木曜日、と日付はそうなっていた。
「ん…?あ…誕生日…」
「だろ?」
「誕生日?」
竜胆がフラフラしながら歩いて来ると、蘭は笑顔で「の誕生日だよ、今日は」と言った。この前、何気なく訊いたら意外にも誕生日が近くて蘭はそれを覚えていたのだ。
「っつーことで今日からは16歳。女の子が結婚出来る歳は?」
「…16歳」
「で、オレは18歳だから保護者の同意があれば問題なし。まあ親がいなけりゃそれもいらねーみたいだけどは一応、今はの養子だからな。京介、オマエの同意が必要なんだよ。養子縁組を離縁した後じゃはまた孤児に戻っちまうし、そうなると面倒な手続きあっからさぁ。オマエが保護者のうちに婚姻届け出したいわけ」
蘭の説明に京介はそうか、と頷いたものの。まさか婚姻届けを持ってこられるとは思わない。
「兄貴、何でそこまですんの?え?のこと好きなの?」
「うるせーなあ。一時のことだから気にすんなって」
「一時…?」
「そうだよ。養子縁組離縁したらはまた孤児に逆戻りだろ」
「まあ…そうだな」
「施設とか入れられるんだろうし、未成年の後見人は当然未成年じゃ無理だからオレは保護者にもなれねーし。そうなるとを面倒見るには結婚しちゃえばいんじゃね?ってなった」
「「「……(か、軽い)」」」
あっけらかんと答える蘭に、その場にいた竜胆、鶴蝶、そして京介それぞれ白目になった。一人だけが状況を分かっていないのか、キョトンとした顔で皆の顔を順番に見ている。蘭はそんなを見て目線までしゃがむと「の意見もちゃんと聞かないとな」と思い出したように苦笑した。
「はオレと一緒にいたい?」
「…蘭ちゃんと?」
「うん、そう」
「一緒にいたい…」
「即答かよ…」
竜胆が呆れたように項垂れる。言われた本人は嬉しそうに微笑むと「じゃあ、オレと結婚すんのはいい?」と尋ねた。その言葉を聞いた瞬間、の頬が次第に赤く染まっていく。
「け…っこん?」
でもそれがどういうものかは何となく分かる。自分が蘭と結婚、と想像すると胸がドキドキしてきた。
「そう。って言っても心配すんな。形だけだから」
「……形、だけ」
「の面倒を見るため」
「それは…結婚したら…蘭ちゃんと一緒にいられるってこと?」
「うん」
細かいことはよく分からないが、蘭とずっと一緒にいられるならは何でも良かった。
「じゃあ結婚する」
の同意も貰えて蘭も嬉しそうに微笑む。だがそこで納得できないのは弟の竜胆だ。「いやコイツ絶対分かってねーって」と言い出した。
「つか好きでもない女と婚姻届け出して戸籍汚すとかありえねーだろ」
「そんなもん、いちいち気にしてない。つかバツイチでもいーし。何か響きが大人じゃね?バツイチ」
蘭は言いながら笑ってるが、竜胆は全然笑えなかった。自分の兄が知り合ったばかりの少女を助けるために結婚するとか、将来バツイチになるとか、竜胆の中では本気であり得なかった。
それにこれは蘭一人の問題ではない。
「いや兄貴が良くてもまでバツイチ――」
「ってか離婚前提で話すのやめてくんねえ?しないかもしんねーじゃん」
「は?だってが成人するまでって…」
「まあソレ前提だけど、先のことなんか分からねえだろ、誰にも」
蘭はそう言って笑ったが、竜胆と鶴蝶は徐に目を細めた。二人は蘭の女の好みを良~く知っている。
(蘭がどう見てもお子ちゃまので満足するはずがない)
そう言いたげだった。
「つーことで京介。婚姻届け出したら養子縁組の方は離縁してもらうから」
「…分かったよ。でも何でそこまでするんだ?そこだけ本当に謎なんだが」
「ああ…オマエには妹に対する愛情なんかねぇんだし分からねぇよなぁ?」
「……ふん。それこそオマエに何が分かる」
「あ?」
「いきなり両親に死なれてと二人きりになった。コイツはいつまでも甘ったれでオレの苦労も知らずにいつまでも甘えてきやがる」
「…だから?」
「だから教えてやったんだよ!オレの苦労を…痛みを!血の繋がらないコイツを面倒見てやってんだからオレのいうことを聞くのは当たり前だろ!」
京介が苛立ちをぶつけるように怒鳴った。それを聞いていた鶴蝶が「てめえ…!」と拳を固めて京介の方へ歩いて来る。
だが鶴蝶が殴る前に、蘭が京介の頬を思い切り殴りつけた。
「…く…何すんだよ!」
「血の繋がりなんかどうでもいーだろ。ガキが兄貴を頼って何が悪い。なのに…オマエは頼ってきた妹を絶対にしちゃいけねえ汚いやり方で傷つけた。心を殺した。オレからすれば――オマエは"兄貴"失格だ」
「………」
蘭の言葉に京介が項垂れる。確かにまだ若いうちから7歳も離れた妹の面倒を見るのは大変だったろう。だからと言って心身ともに傷つけていい理由にはならない。
「ほら、サッサと書類書けよ。"兄貴"から解放してやっから」
そう言いながら蘭は京介の前に数枚の書類を放り投げた。それを受けとり、京介は全ての署名と印を押し、蘭へ渡す。
「ああ、それと。さっき話した金は数日中に振り込めよ?」
「…分かってる。名義で貯金してたものもあるしな」
「へえ。少しは兄貴らしいことやってんじゃん」
「うるせぇ…」
京介はバツの悪そうな顔をして視線を反らしたが、最後にふとを見た。未だに自分のことを怯えた顔で見てくる妹の姿を見て、そうさせてしまった自分の愚行に失笑しか出ない。
これでも、を妹として愛してた日々があったはずなのに。
「灰谷蘭…」
「あ?」
「のこと…宜しく頼む」
京介が呟くように言ったのを聞いて、蘭は「指切りでもする?」と言いながら、ふと笑みを浮かべた。
「ま、オレは元から優しい兄貴やってるんで」
「……嘘つけ!」
そこで普段から蘭に泣かされている竜胆から、苦情が飛んだのは言うまでもない。
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「んあー疲れた!眠い!」
途中で鶴蝶と別れ、家に帰って来た蘭は叫びながらソファへ倒れ込んだ。睡眠命の蘭が寝不足のまま徹夜したのは奇跡に近い。とりあえず婚姻届けは後日提出しに行くことにして、今はまず寝る、と蘭は決めた。
「はあ…オレも無理…寝るわ…頭ん中グチャグチャすぎる…」
竜胆も疲れ切った顔で溜息を吐く。がこの家に来てからというもの、気づけば色んなことに振り回され、さすがの竜胆も疲れていた。
あげく兄が婚姻届けを出すとか言い出し、もう何が何だか分からない状態で精神的にも限界に近い。そのままフラフラと自分の部屋へ入って行った。
「、オレちょっと寝るし、オマエは好きなことしてていーからな。腹減ったら適当に食べていいし」
蘭もソファから体を起こすと自分の部屋に向かって歩きながら、着いて来るへ声をかける。そして思い出したように財布を出すと「これ渡しておくから」と中から10万ほどにあげた。しかしは自分でお金を持たせてもらったことはなく、どう使えばいのかすら分かっていない。とりあえずお金を自分のバッグ――蘭から買って貰った――にしまうと、部屋へ入っていく蘭を追いかけた。
蘭は相当疲れた様子でガウンを脱ぎ捨てると、上半身裸のままベッドへと倒れ込む。
「蘭ちゃん寝るの…?」
「んー蘭ちゃん限界…」
そんな返しをしながらも、ベッドの脇に立っているの方へ体を向けると優しい笑みを浮かべた。
「やっと自由になれるな、も」
「……ありがとう、蘭ちゃん…」
「オレは…に笑顔が戻ればそれで満足だわ」
の手を握りながら言うと、蘭はその細い指先にちゅっと口付ける。
「起きたら誕生日のお祝いしよーな」
「…え?」
今のキスでドキドキしていたは、誕生日と言われて驚いたような顔をした。その顔を見て吹き出した蘭は「もう忘れたのかよ」との額を小突く。
「今日では16歳だろ」
「あ…そか…」
「…ケーキ買って来なくちゃ。あ、竜胆に行かせるか」
「…ケーキ…」
誕生部のお祝いすら、両親が亡くなってからはしてもらったことがない。ケーキと聞いての大きな瞳が輝いた。
その時、握られていた手を少しだけ引っ張られ、の体が蘭の方へ引き寄せられる。そのまま倒れ込みそうになり、慌ててベッドの端へ手をついた瞬間、蘭は少しだけ体を起こすとの唇にちゅっと軽くキスをした。
「ら…蘭ちゃん…?」
「いつも不意打ちされるから今日はオレからお返し~」
まさか蘭の方からキスをされるとは思わず、の頬が真っ赤になった。いつもは彼女の方が大胆なのに、と赤くなって固まっている姿を見た蘭は内心苦笑しつつ、「お誕生日おめでとう、」と言って最後に彼女をきつく抱きしめた。

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