17-望むなら絶対を約束




もしここが閑静な住宅街なら、東の空にゆっくり太陽が上がり始める頃、可愛い小鳥の囀りが聞こえてくるかもしれないような朝だった。
だが、ここは天下の六本木。
外が明るくなって来た辺りで聞こえてきたのは、派手に鳴り響くパトカーのサイレン音だった。
少しずつ覚醒していく意識の中で、竜胆は遠くに聞こえる騒々しい音を聞きながら、まーた誰かが何かやらかしたな、と思いつつゆっくりと瞼を押し上げる。カーテンは閉め切っていても薄っすら明るいので、その光が夜が明けたことを教えてくれた。

「ふあっぁぁぁ…」

盛大に欠伸が出た途端、目尻にじわりと涙が溢れてくる。丸一日以上は寝てたからか、寝すぎで眠たいというおかしな状態だ。
それでも竜胆は怠い身体を起こしてベッドに腰を掛けた。

「あー…寝すぎた…」

項垂れるように頭を垂れながら「兄貴じゃあるまいし…」と呟く。そして何故寝すぎたのかと自分のケータイを探した。
普段はだいたい寝ているとケータイが鳴る。それは友達からの電話だったり、チームの誰かからの連絡メールだったり。
そこで目が覚めて眠ければまた寝るし、起きられそうなら起きるのだが、今日はそんなこともなかったなと思いながら、ベッドの端に追いやられていたケータイを見つけて手に取った。

「あれ?電池切れ?」

画面が真っ黒で一瞬そう思った。だが自分で切ったのを唐突に思い出し、電源を入れる。ただ、何故わざわざ電源を切ったのかまでは忘れていた。

「おっかしーな…普段電源なんか切らねーのに…」

ブツブツ言いつつ表示された画面を見て、今が午前11時過ぎだというのを知る。朝かと思っていたが、すでに昼近いことに驚いた。

「マジ…?通りで腹が鳴るわけだ…」

さっきから地味に主張して来る腹の音に苦笑しつつ、これじゃマジで兄貴と変わんねーと自分に呆れる。すると電源を入れた途端、ピロンピロンと立て続けに通知が入った。

「んあ?何だよ、鶴蝶のヤツ…朝っぱらから…って、ココからも何か来てんな…って、兄貴からもメール来てんじゃん!え、起きてんの?」

中身を見る前に名前だけ確認しながら、まさかの蘭からメールが入っているのに気づき、慌ててドアの方へ視線を向ける。メールが送られて来たのは今から30分ほど前の午前10時半頃だった。一瞬部屋に様子を見に行こうかと腰を浮かしかけたが、いやその前にメールの内容を確認しなければ、とメールを開く。
そのままドアを開けてリビングに向かったが、そこには当然蘭はいない。いればメールなんて送って来ないで部屋に勝手に入って来るだろう。

「えーとなになに…?と……飯……なう?」

文章を一つ一つ改行して、最後にそのひと昔前のフレーズをふざけて送って来たであろう蘭のメールは、その文章の後にも何か文字が打ってあるようだった。仕方なくスクロールしていくと何やら画像が添付されている。それは美味しそうなオムライスの写真だった。

「は?これ"Lovely Egg "のオムライスじゃん!え、何で?」

"Lovely Egg "とは近所にある卵料理を専門に出すビストロだ。
三ツ星レストランのシェフが自分の趣味で開いた店ということで、味もさることながら店内の雰囲気も良く、近所ということもあって兄弟でしょっちゅう食事をしに行っている店だった。その特徴的なふわふわ感のあるオムライスの写真を見て、竜胆はすぐに蘭のお気に入りの店のものだと気づいた。いや、蘭だけじゃなく自分もお気に入りなのだから分からないわけがない。

「何で起こしてくんねーんだよ…」

途端に空腹だったのを思い出し、竜胆は深い溜息をつく。いや、徒歩2分もないくらい、このマンションから近いのだから、急いで行けば間に合うかもしれない。しかし竜胆は超寝起きで、いくら何でも一日以上寝ていた後でシャワーも入らず出かける勇気はなかった。
しかも"Lovely Egg"は比較的カジュアルな店ではあるが、三ツ星シェフが出している店だけあって近所のハイソな主婦達もやって来る。その中にボサボサの寝ぐせ頭で入って行くのはさすがに躊躇われた。

「はあ…テイクアウトして来てくんねーかなぁ」

そう思いながら他のメールをチェックすると、もう一通蘭からメールが入っている。何だ?と思いながら再び開く。

「えーと…"竜胆の……好きな……卵ホットサンド……テイクアウト注文なう"」

見ればまたしても画像が添付されており、そこに卵ホットサンドの写真が映っている。どうやら蘭が竜胆の為にお持ち帰り用のも頼んでくれたようだ。

「ってマジ?!いや、なうはいらんけど!さんきゅうー兄ちゃん!」

あまりの嬉しさにケータイ画面にちゅーっとキスをする竜胆。てっきり忘れられていると思っていただけに感激もひとしおといった感じだ。
そして蘭が帰って来るまでにシャワーでも入ってスッキリしておこうと、他のメールをチェックしながらバスルームへ向かう。鶴蝶からはトレーニングのお誘いだったので軽くスルーをし(!)九井からのメールを開く。

「…ん?ココ、また兄貴から何か頼まれたっぽいな…」

そこには先ほど蘭から電話が来て、のことで相談があると言われた旨が綴られている。その内容に竜胆も一瞬、フリーズした。

「…え、家庭教師…?!」

今の自分達からは全くと言って無縁のその存在に、竜胆はしばしポカンとその画面を眺めていた。



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「ほらー竜胆。餌だぞー」

と蘭がテイクアウトのホットサンドを手に帰って来たのは、竜胆がメールを見てから一時間後のことだった。
久しぶりに丸々一日以上も寝ていた蘭は、目が覚めた時にめちゃくちゃお腹が空いていた。それは一緒に寝ていたも同じだったらしく。蘭が目を覚ました時にはすでに起きていたのお腹がぐーきゅるるの大合唱をしていた。
それには寝起きに機嫌の悪い蘭でも爆笑してしまい、おかげで多少の眠気も吹っ飛んだ。

、シャワー浴びたらご飯行こう」

蘭の言葉にも笑顔で飛び起きて、すぐに出かける準備に入ったのだ。
その間、蘭は竜胆の部屋も覗いたのだが、気持ち良さそうに寝ている弟を見て起こすのは可哀そうだと…思ったかどうかは定かではないが、とにかくそのままドアを閉じたのだった。だからせめてテイクアウトでも、と思ったのだが、竜胆は待ちくたびれた様子でソファから起き上がった。

「おせぇよ、兄ちゃん!空腹で死ぬかと…っていうか絶対ソレ冷めてるよな?」

すでに死にそうな顔をしている竜胆を見て、蘭は軽く吹き出すと、テイクアウトの袋をテーブルに置いた。

「バーカ。送ったやつはオレとで食ったやつだよ。オマエのはちゃんと帰る少し前に作ってもらったっつーの」
「あ…ほんとだ。あったけぇ」
「だろ?」
「さんきゅー兄貴!食っていい?」
「いいけど、にもお礼言えよ?竜胆もお腹空かせてるかもってが言いだしたんだからな」
「……マジ?」

すでに袋へ手を突っ込んでいた竜胆は、帰宅後きちんと手を洗って戻って来たを見た。


「……え?」
「これ、さんきゅ」
「う、うん…蘭ちゃんがね、竜胆はそれが好きって言ってたから」

は少し俯きながら何やらモジモジしている。いつも不機嫌そうな顔で自分を見てくる竜胆にまさかのお礼を言われたことで照れているようだ。そんな態度をされると竜胆も途端に照れ臭くなってくる。

「なーに赤くなってんの?竜胆」
「な…なってねぇし!」

思い切り赤くなっているのだが、本人は気づいていない。プイっと顔を背けてテレビを見ながらホットサンドを食べ始めた。
竜胆のこういうところが面白くてからかっている蘭は内心(可愛いヤツ)と思っている。

「あっ。それより兄貴。ココに家庭教師を頼むってマジ?」
「ああ、それ。マジだよ」
「ってか何で?」

食べながら顔だけ蘭に向ける竜胆に、蘭はキッチンに飲み物を取りに行ったへ視線を向けた。

「だっても来年は高校生だろ」
「……は?」
「まあ、小学校途中から行ってねえみたいだし勉強追いつくか分かんねーけど――」
「ちょ、ちょっと待てよっ。兄貴、を高校に行かせる気かよ?」
「行かせる気満々だけど…何か?」
「い、いや何かじゃねーよ!今更が高校に入れると思ってんの?」

竜胆は驚愕したように蘭を見上げている。だが蘭も別に冗談でこんなことを言っているわけではなく。やはりがこれまで諦めて来た全てのことをさせてあげたいと、思ってしまったのだ。

「だからこの半年で追いつくように勉強させるんだろ?」
「だ、だからって何でココ?」
「アイツ、頭いーだろ」
「それだけ?!」

もう突っ込む要素満載過ぎて、竜胆も何から突っ込めばいいのか分からない。が来てからというもの、芸人のツッコミ担当ばりに突っ込んでる気がしてくる。
蘭はが持ってきたアイスコーヒーを受けとると、ふたりで竜胆の向かいのソファへ仲良く座った。

「そりゃ頭いい奴の方が勉強ちゃんと教えられるだろ」
「いや、そうだけど…はどうなんだよ。今更学校なんて行きたいのかよ」
に訊いたら学校に行きてぇって言ってた。な?」
「うん。わたし、学校行きたい」

蘭に微笑まれ、も笑顔で頷く。ニコニコと微笑みあうふたりは微笑ましいのだが、それを見ていた竜胆は今度こそ深い深い溜息をついた。

「行きたいつっても、オマエ…中身小学生だろーよ」

小学校途中から義兄による監禁をされ始めたは、外部との接触もなくこれまで長いこと生きてきた。成長過程を特殊な環境で過ごしたこともあり、未だ人より少々幼いままなのだ。そんな彼女がいきなり身も心も高校生の奴らに囲まれれば、おのずと未来は見えてくる。
今時のガキはなかなかにハードボイルドなのだ。

「おい、竜胆…人の奥さんつかまえて小学生って何だよ…」

その長い脚を組み、ソファに凭れて寛いでいた蘭が、不機嫌そうに目を細めた。言われた当人は気づいてないのか、きょとん、とした顔で蘭を見上げている。
蘭に睨まれ、竜胆も一瞬は怯みそうになったのだが、それでも現実を考えた上でその辺の問題を提起しようと思った。だが、その前に――。

「いや奥さんて…書類上は、だろ?」
「は?オマエ、夕べオレとが熱い初夜を迎えたの知らねーの?」
「…はあっ?」
「ぶ…っ!り、竜胆のあの顔…うくくっ」

思わず立ち上がった竜胆を見上げて、蘭が思い切り吹き出した。すぐに自分がからかわれたのだと気づいた竜胆の顏が赤くなっていく。

「そういう嘘つくんじゃねーよっ」
「…純情かよ、竜胆ちゃん」
「うっせぇ!」

ニヤニヤしている蘭を睨みつつ、竜胆は更に赤くなりながらも、ホットサンドにかぶりつく。人をオモチャにして楽しむのは蘭の悪いクセなのだと分かっていても腹が立つのは変わらない。

「でもさーは小学校から勉強してねえのに、いきなり高校受験できんの」
「さあ?でもやってみないことには分かんねーだろ?とりあえず小学校の勉強はオレが教えることにした。あとはココに頼むから」
「あ、兄貴が勉強教えんの?え、大丈夫かよ、それ」
「あ?オマエ、オレが優秀だったの忘れたの」

そう言われて小学校の頃のことを思い出す。確かに蘭は学校の勉強に関してはかなり成績が良かったのは覚えている。
ただ…素行が悪かっただけで。
中学の頃は少年院に入ってたので、あの頃から学校はふたりにとっても縁遠い場所になってしまった。

「いや覚えてるけど…」
「オマエの宿題も見てやったろ。いい兄貴だったよなぁ?」
「……いい兄貴?こんなのも分かんねーのか!っつってパンチやキックされまくった記憶しかねぇわ」
「そうだっけ」
「……(都合の悪いことは忘れてるよ、この人)」

竜胆は目を細めながら溜息をつくと、蘭にくっついてゴロゴロと甘えているを見た。この甘えたが高校受験?あり得ねえ、と言いたげにがっくり項垂れている。

「蘭ちゃん、冷蔵庫のチョコ食べていい?」
「いいよ。あ、オレの分も持って来てー」
「うん」

は笑顔で頷くと、再びキッチンへ走って行って冷蔵庫から出した黒い箱を二つ手に戻って来た。そのチョコレートは蘭お気に入りのショコラティエの店のやつで、一つはスイート、もう一つはビターと個別に買って来たらしい。
たった一粒でチロルチョコ100個以上は買えるくらいの値段なのを竜胆は知っていた。さすがにチョコ一粒でその値段は買う気にならない、と思ってしまうが、味はやはり最高級、らしい。
蘭は戻って来たを隣に座らせ、どれが食べたい?と優しく訊いている。女の子に対して、あんなに穏やかに微笑む蘭をあまり見たことがない竜胆は、兄貴の偽物かな?と首を傾げたくなった。あげくに優しくチョコを食べさせている姿は、竜胆からするとちょっとしたホラー映画を観ている気分だ。

「美味い?」
「うん、凄く美味しい」
「じゃあ、こっちの甘いのはが全部食えよ」
「いいの?」
「いいよ」
「ありがとう、蘭ちゃん」

が嬉しそうに蘭の腕にしがみつく。蘭に頭を撫でられている姿はしっぽを振っている犬のようだ。はたまたゴロゴロ喉を鳴らしてジャレている猫かもしれない。
この甘ったれが本当に高校に入れるのか?と竜胆もそこは心配になる。

「でもさあ…兄貴」
「あ?」
、高校行ったらぜってぇイジメられんだろ。ボケっとしてるしホワっとしてるし…周りについていけなさそうじゃん」
「は?そんな奴いたらオレが追い込みかけるから」
「いや、兄貴…高校生追い込むのはやめとこうか」
「あ?何で?つーかオレ達もあのまま学校行ってたら高校生だろーが。同じ世代のヤツ追い込んで何が悪いんだよ?だいたい可愛いをイジメる奴が悪くねぇ?え、オレの何が悪いわけ?」
「天竺四天王の兄貴が素人の高校生に対して追い込みかけるのは、戦車が三輪車をひき殺す並みの大事件なのに、オレは何も悪くねえって思ってるとこ…?」
「………」

恐る恐るそう言えば、蘭の目が半目になり、僅かに口が開いている。この何か言いたげな表情をしている時はあまり機嫌のよろしくない時の顔だ。焦った竜胆がいつでも逃げられるよう準備に入る。
その時、何を思ったのか、が蘭の開いている口にチョコレートを一粒入れた。

「…あま」

いきなり口内にチョコの甘さが広がって、蘭は隣にいるを見下ろした。

「あっ間違えて甘い方あげちゃった…ごめんね、蘭ちゃん」
「いいよ…ちょっと口ン中甘ったりぃけど」

蘭は苦笑していたものの、ふと何かを思いついたような悪い微笑を口角に浮かべながらを抱き寄せた。

「やっぱ甘いからこれはにやるわ」
「…え?ん…っ」

「は………っ?!」

蘭はの唇を塞ぐと、口の中にあるまだ溶け切っていないチョコの塊を、口移しで器用に舌を使い、の口内へと押し込んだ。ついでにチョコを入れられて驚いている彼女の舌を軽く絡めて舐めるのも忘れない。ちゅっという音と共に唇を放した頃には、の顏は真っ赤に染まっていた。
これまで何度かされた触れるだけのキスとは違う、ちょっぴり大人のキスに、の心臓がばくばくと音を立てている。

「ん、の方が甘いかもなー」

自分の唇についたチョコをペロリと舐めながら、蘭が満足そうに微笑む。も口の中にあるチョコより、蘭のキスの方が甘かったような気がして耳まで赤くなっていく。
そして、それを目の前で見せつけられた竜胆は口をあんぐり開けながら、やっぱり頬が赤かった。

「な…何してんだよ、兄貴はっ」
「何って…奥さんにキスしただけだろ」
「だーからそれは書類上の話だろ?あまり振り回すとのヤツ本気にしちゃうんじゃねーの」
「…振り回してるつもりねーし。つーか振り回されてんのオレの方な気がしてきたわ」

苦笑気味に言いながらも、蘭は真っ赤になっているの頬にちゅっと口付ける。その様子を見ていた竜胆は、いよいよ地球が爆発する日も近い気がしてきた。
あの蘭が女に振り回されてるなんて、そんなバカな話があるわけがない。しかも中身が小学生並みのお子ちゃまに。

「兄貴…どーしたんだよ…何かすげーらしくねぇぞ…?」
「…オレも自分でそう思う」

顔面蒼白の竜胆を見上げて、蘭も苦い笑みを頬に含んで応える。紙切れ一枚出しただけの関係だったはずなのに、隣にいる甘えん坊の女の子に、こんなにメロメロになるなんて想像もしていなかった。

「え、マジで言ってんの?年上好きの兄貴がどーしたってんだよ」
「あー年上なあ…。なーんか面倒だしもういいかなーってなってる」

ソファの背もたれに頭を乗せ、蘭がはぁっと溜息をつく。

「最初はイイ女だなーとか思って口説いて付き合うじゃん。んで、体の相性とか良ければなお最高で、年上ってオレも甘えられるし楽だなーとか思うわけ。でもだんだん口うるさくなるわ、性格キツイから癒されなくなるわで疲れるだけだし、終いにはストーカーババァみたくなってうぜぇし、年上もういいかなーってなって、ほんわか可愛くて甘えん坊のが意外にオレに合ってるのかも…って、今ここね」
「……あっそう…」

ひとしきり年上女に懲りた理由を述べられ、竜胆も口元が引きつる。

「やっぱ年上に憧れる年頃だったんだよ、前のオレは。あーきっと、いや、絶対そうだわ、うんうん」
「兄ちゃんが自己完結しちゃってるよ…」

ひとり納得している兄を見て呆れたように呟いた竜胆は、そこで唐突に思い出した。
"年上の元カノ"――?
そのワードで忘れてたものが一気に蘇る。

「あ」
「あ?」

突然竜胆が声を上げたことで、驚いた蘭が「何だよ」と凭れていた頭を起こす。すると竜胆は自分のケータイを見始め、何かを探しているようだった。

「やっぱそうだ。夢じゃねえ…」
「…何が?」

ひとりブツブツと何かを言っている弟を見て、蘭が怪訝そうな顔で身を乗り出す。竜胆はすぐにケータイ画面をそのまま兄の目の前に突きつけた。

「これ。アイツから電話かかって来たんだよ。夕べ!」
「あ…」

画面に表示された名前を見て、蘭はマジか、と言わんばかりの露骨な表情を浮かべた。

「…アリサ…?」
「もちろん出てねーけど。あまりにしつこく鳴らすから電源切ってオレもまた寝ちゃったんだけどさぁ。兄貴んとこにもかかってこなかった?」
「知らね。オレはと初夜の最中だったし」
「いや、してねーだろ!」

プイっと顔を反らしてうそぶく兄へ、ツッコミ担当化してきた竜胆もすぐに突っ込む。ただ、さすがに蘭も気になったのか、すぐにポケットからケータイを出すと着信の有り無しを確認をしている。

「やっぱねぇわ。つーかアリサから電話の着信あったら、起きてチェックした時に気づくし」
「…え、じゃあ何でオレにだけ電話してきたんだ?」
「さあ?今度はオマエに乗り換えようって魂胆じゃねーの」
「いや…あの兄貴命のアリサが弟のオレにそんな気起こすわけねぇじゃん」
「じゃあ竜胆利用して、またオレとヨリ戻そうとしてるとか?」
「げ…そっちの方がありえそうで怖ぇわ…」

あの執念深さを思い出し、竜胆はぶるっと体が震えた。
アリサというモデルの元カノは、とにかく蘭が好きで仕方ないというような女だった。今思えばよく別れられたなとも思うが、蘭は冷めたら一切、連絡もしなければ、相手からの電話やメールも全てスルーを決め込む。それは変な期待を相手に一切持たせないという昔からの蘭のやり方だ。家の前で待たれていても視界に入れずにスルーをかまし、ギャンギャン文句を言われようが聞こえないフリをしてやり過ごす。何も反応が返って来なければ相手もその内つらくなるようで、気づけば来なくなってた気がする。

「あれだけしつこかったし、またストーキングとか復活したら嫌なんですけど」
「あ?そん時はまたスルーしときゃいいじゃん」
「いや兄貴が良くても今はもいるんだし、アリサにのことバレたらヤバくね?何するか分かんねぇじゃん…」
「そう言われると……そう、だな」

そこで初めて蘭が不安げな顔を見せた。自分は良くてもにまで何かされたら、と思うと、途端に不安な思いがほむらのように広がっていく。
隣ではチョコを食べながらが「アリサ…って誰?」と小首をかしげていて、しかしその口元はチョコまみれで、蘭は小さく吹き出した。

「オマエ、どんだけ食べたんだよ。ここついてっぞ」
「あ…」

唇についたチョコを指さし、蘭が笑う。そして唇を寄せると、チョコのついたの唇をペロリと舐めとった。

「ん、ら、蘭ちゃん?」
「んーやっぱ甘ぇな…」

真っ赤になるを見て笑いながら、蘭はティッシュで残りのチョコを拭いてあげている。それを呆れ顔で見ていた竜胆は、大げさな溜息をつきながら「イチャついてる場合じゃなくねぇ?」とガックリ項垂れた。
何だかんだ蘭が幸せそうなのは竜胆も嬉しいが、やはり元カノ問題は心配だ。

「まあ、竜胆の言うようにアリサは危険だな…。、一人で外に出んなよ?オレか竜胆がいる時だけにしろ」
「え…」
「怖ーい鬼が近所をウロついてっかもしれねぇしさ」
「……お、に…」

蘭が怖い顔で両手を上げて襲う真似をすると、は目に見えて怯えた顔をした。でもそれくらい言っておかないと、が蘭と籍を入れたと知れたら何をされるか分からないと竜胆は思う。それくらい、アリサは面倒な女だった。
そこで竜胆があることを思い出し、再び「あ」と声を上げる。

「あ、兄貴…」
「え?」
「アリサって…オレ達のクラブに出入りしてんだよな…?」
「あー…まあ、そこで知り合ったしな」
「ってことは……聞いたんじゃね…?」
「何を」
「だから…兄貴が結婚したってこと」
「……誰から」
「いや、ほらクラブのスタッフは知ってんだろ。兄貴が籍入れたの…」
「あー…そういやお祝いのメッセージ来てたな…」

灰谷兄弟が経営するクラブの一つである店、以前京介が乗り込んで来た店の店長と副店長にだけは、婚姻届けで必要な証人のサインをもらっている。
あの日、その二名しか成人した知り合いがいなかったからだ。そして隠す気もなかった蘭は特に口止めをしていなかった。

「あの店、アリサも時々来てたよな。まあ最近は顔見せなくなったみたいだけど…」
「ああ…つーか面倒くせぇ…。アイツに話したかどーか、後で店長に電話して聞いてみるわ」
「蘭ちゃん…?」

深刻そうな顔で話しているふたりを見て不安になったのか、が蘭の腕にぎゅっとしがみついてきた。それを見た蘭も頬を緩ませ「心配すんな」と頭を撫でている。

「それより…後で勉強するためのもん買いに行かねぇ?教科書とかノートとか辞書とか」
「うん」
「って、その問題もあったか…」

と竜胆は頭を抱える。蘭は本気でを高校に行かせる気のようだ。
これまでが望んでも出来なかったことを叶える為に結婚したのだから、そこは仕方ないのかもしれない。そして家族が一人増えるのは意外と大変なんだな、とふと思う。
自分達だけなら、どうとでも回避できることでも、何の抵抗も出来なさそうながいたらそうもいかない。
学校のいじめっ子からも、危ない元カノからも守ってやらないといけないのだ。(※いじめられるというのは竜胆の妄想)
そして気づけばを"家族"と認めてる自分がいる。

「はあ…ま、何か変な家族ではあるけど…」
「あ?何か言ったー?」
「いーや、何も」

いつの間にか膝の上にを乗せてご満悦の蘭を見て、竜胆はジト目を向けつつ、こっそり小さな溜息をついたのだった…。



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