18-君を傷つける全てのものから、守ってあげたいだけなんだ
元黒龍の幹部で、次に東卍の壱番隊、現在は天竺の幹部という立場に身を置いている九井一は、チームのトップである黒川イザナから資金集めが得意な人物として重宝がられている。だが、この日。九井は資金集めとは一切関係のない仕事を天竺・四天王の一人、灰谷蘭に頼まれ、六本木にある蘭のマンションまでやって来た。
「 ―――a : b = c : d ならば a d = b c である。比例式の外側の項の積と内側の項の積は等しい。ここまでは覚えた?」
「うーん……うん。解かった」
「よし。じゃあ次は方程式を使って問題を解いて行こうか」
「うん」
素直に頷く少女に、九井も自然と笑顔になる。目の前のこの少女、灰谷は蘭が目に入れても痛くないというほどに可愛がっている奥さんだ。
と言っても、九井が聞いたのはあくまで書類上は、ということだった。
未成年の蘭が天涯孤独になったを家族として面倒を見るのに一番手っ取り早いと思ったから、という理由を聞いた時にはさすがに驚いたが、何となく蘭らしいなと九井は思っていた。
こういうのも偽装結婚と言う部類に入るのかは分からないが、竜胆曰く実際には蘭との間に男女の関係はないということだ。ただ最近は蘭の気持ち的に嘘の関係が真になっていっているかもしれない、と竜胆が零していたのを思い出す。
(確かに…ちゃんの為にここまでするなんてな…。あの冷徹な蘭さんがまさか感情で動くとは)
先日、のことで電話をしてきた蘭を思い出し、ふと笑みが零れる。第一声で「を学校に行かせたいんだけどさ」と相談された九井は、元々頭がいいこともあり、彼女の家庭教師に抜擢された。
その突然の申し出には多少驚いたが、のことは九井も気にかけていたのもあり、オレに出来ることがあれば、と快く承諾した。
幸い今でも勉強というものは得意な方だ。もし小学校の時、あんな悲恋をしていなければ、きっと今頃は普通の高校生をしていたかもしれない。
一人の少女を助けるのに必要なお金を稼ぐため、あらゆる悪事に手を染めることもなく、いい大学を出て立派な社会人になっていたかもしれない。
九井は真剣に問題を解いているを眺めながら、ふと過去のある光景を思い出していた。
静かな図書館で居眠りをする、大好きな彼女の寝顔を。
「解けた!ココちゃん、出来た」
「…あ、うん。じゃあ見せて」
ハッと我に返り、が笑顔で差し出したチャレンジシートを受け取り、答えをチェックしていく。そして本当にこの子は義兄から虐待をされ、小学校途中から学校に行く事が出来なかった子なのか?と驚くほど、の解いた回答は全てが正解だった。
「凄い…全部合ってるよ。ちゃん」
「ほんと?」
「うん。ちゃんは頭がいいな」
九井が心底驚きながら褒めると、はとても嬉しそうな笑顔を浮かべた。その笑顔は以前、の義兄である京介と一緒にいた頃には見せたことがないほど、幸せそうなものだ。
京介と仕事をしたことのある九井は、その頃ののことも知っている。だからこそ、余計に蘭と出逢ったのはにとっても良いことだったんだな、と思っていた。
「じゃあ、次はこっち。これも今まで教えたことをきちんと活用すれば解けるから」
「うん」
チャレンジシートの二枚目を渡すと、は張り切った様子で受け取る。その一生懸命な姿勢は、九井の目にも可愛く映った。
姿勢だけじゃなく、外見的にも見違えるようだ。今日も蘭に髪をセットしてもらったのか、ふんわりとカールした髪が頭の高い位置で二つに結ばれている。
その垂らしている髪は結び目から毛先までの間が数か所ゴムで留められ、ゴムとゴムの間は少しづつ引き出されていた。
蘭が先ほど「玉ねぎポニーにしてやったの。可愛いだろ」とニヤケながら言っていたのを思い出す。
色も元々薄茶色だったが、今では蘭と同じように頭のてっぺんは黒いが、内側や毛先が金色になっていて――蘭の行きつけの美容院でやってもらったそうだ――それがまたカッコいい。服装もアシンメトリー になっているAラインの白いフリルワンピースを着ていて、色白のによく似あっている。
外見はすっかり洗練された六本木の女の子といった感じだ。
「最近、兄貴は着せ替え人形よろしくを着飾るのを楽しんでんだよ…」
と呆れ顔で笑ってたのは竜胆だ。そういう竜胆も九井から見れば、にデレてる兄貴の一人だった。
かけている眼鏡のデザインが変わっていて、それを指摘した九井に「ああ、がこれ竜ちゃんに似合いそうって言うから買い替えたの」とニヤケながら言っていたのを見た時、九井が思わず吹き出しそうになったのは内緒の話だ。
ついでに呼び方が「竜胆」から「竜ちゃん」になったらしく「蘭ちゃん竜ちゃんって同じ"ら"列でややこしくねえ?」と言ってる割には嬉しそうだった。
(ま、灰谷家が幸せそうで何よりだけど)
無理やり天竺に連れて来られたものの、思ったよりもアットホームなことにまで付き合わされてる現状は、九井にも予想外ではあるが意外と楽しんでる自分もいる。
これで長年相棒だった乾がいれば、もっと最高なのに、と九井は思う。
その時、がふと顔を上げた。
「出来たよ、ココちゃん」
「ん?どれどれー?」
二枚目のチャレンジシートを受けとり、回答合わせをしていくと、これまた全問正解となり、九井も少し驚いた。
「凄い。今回も全部合ってる。ちゃん、マジで頭いいんじゃね?」
「ほんと?学校に行ってる時はちゃんと勉強してたの」
「そっかー。あ…もうこんな時間だ。少し休憩にしようか」
「うん。あ、お茶淹れるね」
「え、いいよ。オレが――」
「大丈夫!いつもわたしが淹れてるから」
は無邪気な笑顔でそう言うと、キッチンの方へ走っていく。それを見送った九井は軽く息をつくと、ジャケットの内ポケットからケータイを取り出し、蘭へメールを送っておいた。
今、灰谷兄弟は仕事で出かけており、のことは九井が任されている。自分達が経営している店やら、所有しているビルに新しく店が入る等の諸々の件で、昼から二人で出かけて行ったのだ。二人が出かけると分かった時、は寂しがったが、その間九井に勉強を教えてもらえると分かると、聞き分け良く頷いていた。
「と二人きりだからって変な気は起こすなよ?ココ」
「ちゃんと距離は守ってな?アイツ、すぐベタベタ甘えたがるから」
「あーそれもあったわ。がくっついて来ようとしたら逃げろよ?」
出かける際、ちゃっかり九井に釘を刺して行った蘭と竜胆を思い出し、軽く苦笑を漏らした九井は、キッチンでアイスコーヒーを作っているを見た。
もちろん変な気を起こす気など、さらさらない。九井に忘れられない人がいることも、もちろんそうだが、のような純粋な女の子を傷つけるなんて九井には考えられなかった。暴走族なんてものをやっていても、九井の心根が優しいところは昔から変わらない。
(ま、あんなこと言ってもオレに預けたってことは、多少信頼はしてくれてるってことだろうな…)
灰谷兄弟から信用されてる証のような気がして、九井はふと笑みを零した。
そこへがアイスコーヒーのグラスと、九井がお土産に、と買って来たケーキを持って戻って来た。
「はい。ココちゃん。あとケーキも」
「え、オレの分も?ちゃん全部食べていいのに」
「いいの。太っちゃうからケーキは一日一つにしたの」
「太るって…全然太ってないじゃん。むしろ痩せすぎだと思うけど」
「えーだって竜ちゃんがそんなに甘いもん食ってたらデブるぞって言うから…」
は口を尖らせながら、それでも「頂きます」とケーキにフォークを入れている。
「竜胆くんはからかってるだけだから気にしないでいいよ。ちゃんはもう少し太った方がいいって」
「でも…太ったら蘭ちゃんに嫌われちゃうかも…」
「まさか。蘭さんがそんなことでちゃんのこと嫌わないだろ」
可愛い女心を聞かされ、九井も思わず吹き出した。ここに蘭がいればきっとデレてを抱きしめながらキスをしていたかもしれない。
「そうかなぁ…。蘭ちゃん細いから…」
未だに心配そうな顔をしながらも、やはりケーキの誘惑には抗えないのか、は美味しそうにモンブランを食べている
が、ふと見ればケーキを食べているの口元にクリームがついていることに気づく。
「ちゃん、クリームついてる」
「えっどこ?」
「ここ」
と九井が自分の口元を指さし教えると、は舌でそれを舐めとろうとして、某ケーキ屋のマスコット、ペコちゃんみたいな顔になっている。
九井が思わず吹き出すと、はキョトンとした顔をした。その顔が更に九井のツボを刺激して来る。
「何で笑ってるの、ココちゃん」
「い、いや…ちゃんがペコちゃんみたいな顔すっから…さ…くくく…っ」
「……ペコちゃん」
あんなに必死に舌を伸ばしたものの、クリームは未だにの唇に居座っている。それに気づいた九井は苦笑気味に「ちゃん、ちょっとコッチ来て。取ってやるから」と言いながらティッシュを取った。も素直に九井の方へ移動すると、隣に腰をかける。
「あー何か蘭さんの気持ち分かる気がしてきたわ」
「…え?」
「いや。こっちの話」
九井は笑いながら、の口元をティッシュで拭きとってあげた。以前、カフェで会った時、蘭もこうしてよくの口元を拭いてあげていたことを思い出したのだ。
「はい。取れた」
「ありがとう。ココちゃん」
口元を綺麗にしてもらったは嬉しそうに微笑むと、目の前にある九井の分のケーキが手を付けられていないことに気づいた。
「ココちゃん、食べないの?」
「ん?あーオレ、そんなに甘い物は食べないから、それもちゃん食べていいよ」
「………」
竜胆に太ると言われたことをまだ気にしているのか、はしばし考えている様子。
それを隣で見ていた九井は笑いを噛み殺しながらが答えを出すのを待っていた。
「…じゃあ頂きます」
「うん。食べて」
やはり誘惑には勝てなかったようで、は嬉しそうな顔でケーキに手を伸ばす。
さっきまでの心配顏はどこへやら。美味しそうにケーキをパクパク食べだしたに、九井が再び吹き出しそうになっていると、ピロンとメール着信音が鳴り響く。
「あ…蘭さんからだ」
「蘭ちゃんっ?」
も笑顔で振り向く。
「うん。さっきちゃんの勉強の様子をメールで送っておいたから、その返信かな、きっと」
「蘭ちゃん、いつ帰って来るって?」
やはり蘭がいないと寂しいのか、そわそわしながら訪ねて来るを見て、九井は笑いながら「ちょっと待って」とメールを開いた。
そこにはの勉強が順調に捗っていることを喜んでいる内容の文面と、後は帰りがもう少しかかりそうだからに夕飯食べさせてやって、という内容だった。
夕飯は近所の"Lovely Egg"でテイクアウトしてやって、とある。九井も灰谷兄弟が行きつけの店は何度か行ったことがあるので知っていた。
「蘭さん、もう少しかかるって。だからお腹空いたならオレが飯買って来るから言ってね」
「…うん」
蘭がまだ帰らないと知り、目に見えて項垂れたに、九井も苦笑いが漏れる。でも確かに今日の仕事の内容を軽く聞いたが、時間はかかるだろうと思っていた。
二人は六本木にあるクラブやバーなどを裏で経営している他に、数か所にビルを持っているようだ。普段は表立って動かないが、定期的にオーナーとしての仕事はやらなければならず、まさに今日はそう言う日だった。
その場へを連れて行くわけにもいかないようで、連れて行っても構ってあげられずにが暇だろうから、と蘭が言っていたので、今日は勉強もかねての留守番になったようだ。
時計を見れば、すでに午後四時になろうとしている。がケーキを食べ終わったら、また勉強の時間かなと思いつつ、蘭に了承の旨を伝えるメールを送信した。
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ピロンと蘭のケータイが鳴り、竜胆はふと顔を上げた。
「ココから?」
「うん」
蘭がケータイを開き、メッセ―ジを確認しながら頷く。その表情は少しだけニヤケていて、竜胆は訝しげに眉を寄せると、後ろから蘭のケータイを覗き込んだ。
「…お、ちゃんと勉強してるっぽいな」
「ああ…って何、勝手に見てんだよ」
背後にいる竜胆に顔をしかめつつ、蘭はケータイを閉じた。九井からのメールにはが必死に問題を解いてる姿の写メが添付されており、それを見て欄がニヤケていたのだ。
「何か今んとこ全部正解してるらしい。って元々頭が良かったんかもなー」
「…マジで?今日やってるのって中一で習う数学だっけ」
「そうそう。ココがわざわざチャレンジシート作って来てたじゃん。あれを解いてるらしい」
「へえ…、見た目ほんわかしててアホっぽいのにな」
「は?あの問題を全部解いたってことはオマエより全然頭いーから」
「……そこまで言わなくても」
蘭に冷たく突き放され、竜胆は思い切り目を細めて口を尖らせた。そしてその苛立ちを目の前で怯えているクラブの従業員に向ける。
床に正座させられているその従業員は二人が経営するクラブの新人スタッフだ。
「んで?話の続きだけど」
「だ、だから彼女のことはアリサさんには話してません…!」
「ほんとにぃ?」
そこへ蘭も歩いて来ると、にこやかな顔で「嘘ついてたらオマエ、ただじゃ済まないけど」と言いながら警棒を突きつける。
「ひぃっ…ほ、ほんとです!蘭さんが結婚したことは誰にも――」
ドカッっと顔の横の壁を蹴られ、従業員がビクリと肩を揺らす。
「でもオマエ、店長と副店長が話してるの聞いてたんだって?そんでその話を他のスタッフにペラペラ話してたみてーじゃん」
「そ、それは…そうですけど…」
「だったらもう誰に漏れててもおかしくはねぇよな?」
「す…すみません…」
首を窄めながら謝罪する男を見下ろしていた蘭は、警棒を自分の肩に乗せて軽く息を吐いた。
「ま、口止めしなかったオレも悪ぃから今日は許すけど…次、オレのプライベートのことをよそで話したら今度こそ…分かってるよな?」
「は、はい!もうプライベートの話は誰にもしません!」
床に頭を付ける勢いの男に、蘭は「もう行っていーよ」と告げた。その言葉に男は慌てて立ち上がると、二人に頭を下げて店内へと戻って行く。蘭と竜胆はそれを見送り、互いに顔を見合わせた。
「兄貴、いいの?あんな口の軽いヤツ、もっと制裁加えた方が見せしめになるんじゃね?」
「いいんだよ。この店はチームと関係ないオレ達の職場だ。なるべく穏便に済ませた方が経営的にもいい」
「まあ、そうだけど。じゃあアリサのヤツ、兄貴の結婚のこと聞いたわけじゃねえのかな」
「さーな。店長と副店長もあれだけ否定してたし、まあ、今のヤツが漏らした話がどこまで広がってるかだな」
蘭は面倒くせ、と言いながらオーナールームのソファに寝転がった。今日は昼からあちこちのビルを回ってテナントを借りたいと言う奴の書類などに目を通したり、判を押したりと地味な仕事を延々していたせいで疲れてしまったようだ。
その途中、クラブの近くを通ったことで思い出し、例の店長と副店長に蘭の元カノの話を聞こうとやって来たのだが、それは杞憂で終わった。
そこへ店長が直々に飲み物を運んで来た。
「蘭さん、これ新作のカクテルなんですけど、試飲してもらってもいいですか?」
「あーうん」
目の前のテーブルに綺麗な琥珀色のカクテルが置かれ、蘭は体を起こした。
「へぇ、美味いね、これ。度数高めだけどベースは151プルーフラム?サザンカンフォートも入れてるよな」
「さすがですね。そうです。それにレモンとライムを足してます」
「ふーん。フルーティだけどパンチあるし、間違って飲み過ぎたら泥酔コースじゃん。レディキラーなカクテルになりそう」
「蘭さんがお持ち帰りしたい女性を連れて来たらコレ出しますよ」
店長が笑いながら言うと、蘭は僅かに顔をしかめた。
「もう連れてこねーよ。オレが新婚なの知ってるだろ?」
「え、でもそれは書類上だけって言ってませんでしたっけ」
保証人のサインをした店長は不思議そうに首を傾げたが、蘭はシレっとした顔で「そうだっけ」と笑みを浮かべた。
「ま、メニューに加えてもいいんじゃね?バーテンにそう言っておいて」
「分かりました。それと…ケンジが相当ビビりながら戻ってきましたけど、やっぱアイツでしたか?アリサさんに話したのは」
「いや、話してはねえみたいだけど、それを客の前で他のスタッフに話したらしいから、もしかしたら漏れてる可能性もある」
「はあ…マズいですよね…彼女は」
蘭と付き合っている時、アリサはこの店にも乗り込んで大騒ぎしたことがあり、店長も彼女のヤバさはよく知っている。また些細なキッカケで乗り込んで来られたら、と思うと憂鬱になるのだ。
だがそれでもオーナーの元カノということで、そこまでは店長も言えなかった。
「まあ…アイツ出禁にしといて。オレも前までは放置でいいと思ってたけど、今はオレ達だけの問題じゃなくなったから」
「あの子の為ですか?」
ふと前に蘭が連れて来た可愛らしい少女の顏が浮かぶ。蘭はその質問には答えなかったが、ニヤリと笑みを浮かべて「頼むね」と店長の肩を軽く叩いた。
「さて、と。んじゃー次の仕事場へ行きますか」
「はあ…腹減った…。帰りに"Lovely Egg"で飯テイクアウトしようぜ…」
「へえ…。ま、いいけど」
「何だよ、その顔は」
意味深な笑みを浮かべながらオーナールームを出ていく蘭の後を追いかけ、竜胆が訝しげに眉を顰める。蘭は時々自分だけで納得して、こういう顔をするクセがあった。
「いや…前の竜胆なら"飯食ってこうぜ"だったなあと思っただけ」
「は?だから何だよ…」
「オマエが無意識のうちにがオレ達を待ってるだろうなってのを考えてるってことだよ」
「………別にオレは、」
と言いかけて言葉を切る。
確かに自分が無意識に家で待っているであろう存在のことを一ミリも考えなかったと言えば嘘になると思ったからだ。
そしてそれをいち早く見透かしてくる蘭に、これまでも散々味わわされた感情がこみ上げて来る。
「オレは、何だよ?」
「別に!サッサと終わらせようぜ」
未だニヤニヤしている蘭を睨みつけると、竜胆は仏頂面でクラブを出て行く。その背中が照れているようにも見えて、蘭は暫く笑いを噛み殺していた。
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「じゃあ、そろそろ終わろうか」
ふと時計を見た九井は、真剣に辞書と睨めっこをしているに声をかけた。
「あ…うん。もうこんな時間なんだ…」
も室内が薄暗くなっている事に気づき、窓の外を見た。日差しが降り注いでいたテラスは、今や夕日でオレンジ色に染まっている。
テレビの横にあるデジタル時計を見ると、PM:5.42と表示されていた。
「ちゃん、お腹空いたろ。オレ、そこの"Lovely Eggって"店でテイクアウトして貰って来るから待ってて」
「え、"Lovely Egg"?いいの…?」
「いいも何も、蘭さんから頼まれてるから」
九井が笑うと、はふと寂しそうな表情を見せた。
「蘭ちゃん、まだかな…」
「あーもうそろそろ帰って来るとは思うんだけどさ。オレもそれまではいるから」
「ほんと?」
「ほんと。ちゃんを一人には出来ないしな」
は未だに一人を怖がると聞いていた。九井がそう言うと、もホっとしたようだ。京介に監禁されていた時は、京介が一日二日帰らないこともあったようで、その時は一人でずっと部屋に閉じ込められていたようだ。その時のトラウマがまだ残っているらしい、と蘭が心配していた。
ノートや参考書などを片付け始めたのを見て、九井はもう一度「じゃあ行って来るけど、ちゃん何が食べてーの?」と尋ねた。
「えっとね…オムライス!」
「…了解」
"は多分オムライスって言うと思うけど"
蘭が言っていた言葉を思い出し、九井は軽く吹き出しながらも「ちょっと待ってて」とに声をかけ、蘭の部屋を出た。
「オレも何か食うかな…」
気づけば体が空腹を訴えている事に気づき、九井はと同じオムライスが食べたくなって来た。一度頭に浮かぶと絶対にそれが食べたくなるのは人間誰でもあることだ。
マンションを出て、二分もかからない場所にある店へ入った九井は「テイクアウトいいですか」と店員に声をかけた。
「はい。何にしましょう」
レジにいた女性がテイクアウト用のメニューを見せて来る。だが見るまでもなく注文は決まっている。
「オムライス二つ」
「畏まりました。そちらにおかけになってお待ちください」
女性は入口横にある待機スペースを手で示して、店の厨房へと歩いて行く。店内はこの時間ということもあり、すでに家族連れや女性客で埋まってるようだ。
何の気なしに店内を見渡した九井は、すぐに待機スペースにあるベンチに座ろうと、踵を翻す。が…その直前に目が合った女性が気になり、すぐに足を止めた。
いや、目が合ったという気がしただけだ。何故ならその女性はサングラスをしていたからだ。ただ明らかに自分を見ていたような、そんな違和感がある。
そして振り返った時には、その女性がすでに九井の方へ歩いてきていた。
「アナタ…前に蘭と一緒にいたわよね」
「え…?あ…アンタ、確か…」
サングラスを外し、突然話しかけて来たその女性に、九井は見覚えがあった。東卍から武藤に引き抜かれて天竺へ来たばかりの頃、蘭と付き合っていたモデルだ。
親睦会と称してイザナが飲み会を開くとなった時、場所を六本木にして蘭が自分の店で幹部の皆を接待してくれたことがあった。
その時、蘭には年上の彼女がいると知った。その彼女が蘭を探しに来てその場に顔を出したからだ。さすがにチームの手前、蘭は彼女が同席するのを嫌がり、彼女をその場から追い返したのを九井は見ていた。その後はまた別の場所に乗り込んで大騒ぎをしたことで、遂に蘭がキレて別れたらしいとしか九井は聞いていない。
「前に蘭さんと付き合ってた方、っスよね」
その彼女が何故この店に?と九井は疑問に思った。蘭と付き合っていた時に一緒に来て店を気に入ったということもあるだろうが、別れてからも蘭の住むマンションの近くをウロついているのも何か妙な気がした。
(名前は確か…アリサ、だっけ。蘭さんがキレるくらいに気が強くてプライドが高いって前に竜胆くんが言ってた女か?)
アリサは溜息交じりで「前に、ね。まあそうだけど」と肩を竦めた。
「君は蘭の家に来たの?」
「……答える義理はないと思いますけど」
「あら、どうして?」
「アナタは…何故この店に?」
「それこそ答える義理はないわよね?それとも蘭の元カノは出禁になるの?この店は」
「…ちょっと外に出ませんか」
アリサの威圧的な態度で他の客達が何やらモメていると気づいたらしい。二人の方をチラチラと見て来る。それを感じた九井はアリサを外へ促すと、彼女も素直について来た。
「えっと…何でオレに話しかけて来たんスか?」
「前に見かけたことがあったから。蘭も一緒なのかと思っただけよ」
「あいにくオレ一人ですけど」
「そうみたいね。でもまあ…君でもいいわ」
「…何がです?」
彼女の態度に九井も警戒しながら訪ねると、アリサは不意に鋭い目つきで九井を睥睨した。
「って女、知ってる?」
「………」
その名前を出され、九井は小さく息を呑んだ。何故アリサがの、それも名前を知ってるんだと驚く。
蘭の関係者から聞いたんだろうか。それに九井はアリサの態度も気になった。
二人はすでに別れているらしいが、彼女の態度を見る限り蘭に未練があるようにしか思えない。
「誰です?」
「すっとぼけるわねぇ。アナタ、蘭と同じチームでしょ。なら名前くらい知ってるはずよ?蘭と結婚した相手の名前はね」
「―――ッ」
「クラブのスタッフがペラペラ話してるのちゃんと聞いたんだから嘘ついても無駄よ?」
では全て知っているのか、と九井は内心舌打ちをした。彼女が何故この辺りを、それも蘭の行きつけの店に来ていたのか。
それはのことを確認する為なんだろうか。
(どうする…?ここは蘭さんに連絡した方が…)
蘭の元カノだと思ったから最初はきちんと応対していたが、こうなってくると別に気遣う必要もなさそうだと九井は判断した。
その時、後ろから「ココちゃん」という声が聞こえて、この時ばかりは九井も驚きが顔に出てしまった。
慌てて後ろを振り向けば、案の定が走って来る。
「な、何で来たわけ…?!」
「え…ご、ごめんなさい…。やっぱり一人でいるの怖くて…」
駆け寄って来たに、思わず声を荒げてしまった九井は、怯えた顔をしたを見てハッと我に返った。
「いや…ごめんな?大きな声出して…。今オムライス作ってもらってるから」
なるべく笑顔でに話しかけたが、九井の意識は後ろで怪訝そうに二人を見ているアリサに向いていた。アリサのこの様子だとの顔までは知らないらしい、と思った九井は、どうにか上手くこの場を切り抜けられないかと考える。だが先にアリサに気付いたが「このお姉さんは?」と九井に訊いて来た。
「え、ああ…彼女は…」
「ちょっと…その子、誰よ。アンタの妹?」
「違…」
と言いかけた時、がアリサに向かって「わたしはココちゃんの妹じゃなくて、灰谷です」と名乗ってしまった。
九井が思わず手で顔を覆った瞬間だった。
「は?灰谷…って…まさか…嘘でしょ?この子が蘭の…?」
アリサが予想していた人物像とは違ったのか、驚愕した表情で目の前のを見下ろしている。
「嘘でしょ…?アンタが蘭の結婚相手なんて…まだガキじゃない」
「おい…!言い方に気を付けろよ?この子を傷つけるようなら――」
「はあ?傷ついたのは私なんですけど!何よ、このガキ。蘭の奥さんがこのガキだなんて認めないからっ」
アリサは冷静さを失ったように大きな声を張り上げている。それに対しは怯えたようにビクリと肩を揺らして九井の後ろに隠れてしまった。
「アンタ、いい加減にしろよ。そんなんだから蘭さんにも振られたんじゃねーの?」
「何よ、アンタに関係ないでしょ?それより蘭はどこ?!近くにいるんでしょ?」
「知らねーよ。知ってても教えるつもりもねえけどな」
を庇うように九井はアリサの前に立つ。にこれ以上、酷いことを言われないようこの場を切り抜けないと、と九井の頭はそれだけを考えていた。
「あれ?ココじゃん」
「―――」
不意に名を呼ばれ、振り向くと、竜胆が驚いた顔で駆け寄って来る。そしてアリサを見た瞬間、「っげ」と声を上げた。
ついでにまでいるこの状況が、竜胆には理解できない。
「竜胆…?丁度良かった。蘭はどこよ」
「は?何でアンタがいんの?つか、ココ!を外に出すなって言ったろ?」
「い、いや…それが一人は怖いって出て来ちゃってオレも困ってたんスよ…」
「マジ…?つーか、この状況、兄貴にバレたらキレられっぞ…?」
「その蘭さんはどこに?」
「ああ、今そこで知り合いに声かけられてだべってる。オレは先に飯の注文して来てって言われて先に来たんだよ」
竜胆はそう言いながらの手を掴んだ。
「戻ろう。兄貴にバレたらココがキレられる」
「え…」
「ちょっと竜胆!待ちなさいよ!蘭はどこって聞いてるでしょ?」
を連れて帰ろうとする竜胆を追いかけて、アリサは更に大きな声を上げた。
「アンタさぁ…兄貴にハッキリ別れようって言われたよな?しつこいのもここまで来るとマジ怖いんですけど。アンタの事務所に苦情入れてやろうか?」
「…こっちは納得してないのよ。別れようって一方的に言われて黙ってられるわけないでしょ?それも散々無視して話そうともしないんだから」
「それはもうオマエと話す気がねーからだけどー?」
「…っ蘭?!」
そこへ蘭の声が聞こえて来て、竜胆と九井はギョっとしたように振り返った。蘭は明らかに不機嫌そうな顔で歩いて来ると、まずアリサをジロリと睨みつけた。
「オマエさぁ…まだオレに未練あんの?プライドとかねぇの?」
「アンタこそ、プライドないわけ?あんなガキと結婚なんて…嘘でしょ?」
「あ?」
そこで蘭はアリサが指を指した方向へ視線を向ける。その先にはココ、その奥に竜胆。そして竜胆が後ろへ隠すようにしているのは――。
「…?!」
まさかいるとは思わず、蘭はアリサを押しのけると慌ててへ駆け寄った。
「ちっこくて気づかなかった。何でオマエ、出てきてんだよ…。危ないって言ったろ」
「ご、ごめんなさい…蘭ちゃん。一人じゃ怖かったから勝手に出て来ちゃったの…ココちゃんを怒らないで」
「…分かった。怒らねえからそんな顔すんなって…」
泣きそうな顔で九井を庇うを見て、蘭の顏も緩む。笑顔を見せながらの頭を撫でると、すぐにその手を繋いだ。
「ココ、のオムライスは?」
「え?あ…」
不意に訊かれ、九井はハッと店の方へ振り返る。すると店のスタッフが紙袋を持ったまま店内から九井たちの様子を伺っていた。
料理はすでに出来ていたのだろうが、モメてるのを見て声をかけるタイミングが分からなかったんだろう。
入り口のところでずっと待っていたらしい。九井はすぐに店内へ戻ると、支払いを済ませてオムライスを受けとった。
「ちょっと蘭…待ちなさいよ。まだ話が――」
「オレに話す気はねぇっつったろ。二度とツラ見せんな」
「な…何よ、その態度!そもそも何で別れなくちゃいけないの?蘭と一緒にいたいだけなのに何でダメなのよっ」
「別にそこはダメじゃねーけど時と場合に寄るだろ。オマエはオレに恥かかせたから別れようって言った。ほら、ちゃんと説明したぞ。もういーだろ」
蘭はそれだけ言うと、竜胆に「オレにもオムライス頼んでおいてー」と言いながらと歩いて行く。竜胆はアリサに触れるまい、とそこはスルーして店内へと入ろうとした。
だが、その時だった。アリサは九井を突き飛ばし、蘭を追いかけて行くと、蘭ではなくの方に掴みかかった。
「何よ、こんなガキと結婚なんて許せない!どんな方法使ったのよ、コイツ!」
「い、たいっ!!」
アリサがの縛っている髪を掴んで思いきり引っ張ったせいで、小柄な体が後ろへと傾く。それを受け止めようとした蘭の手が空を切り、はコンクリートの上に勢いよく倒れ込んだ。
「…っ!」
蘭が慌てて抱き起こすと、は背中を強く打ったのか、呼吸が出来ないようだった。口をぱくぱくしながら、その大きな瞳からはボロボロ涙が零れ落ちていく。背中を強打すると、そのショックから一次的に呼吸困難を引き起こす場合があるのだ。
「息してねえ…」
「え…!!」
「ちゃんっ?」
竜胆と九井も青い顔で駆けつける。蘭は動揺しながらもの背中をさすり、呼吸困難に陥ってる口へ人工呼吸のように息を吹き込んだ。
するとが急に咳き込み、通常の呼吸に戻ったのか、驚いた顔で蘭を見上げた。
「蘭…ちゃ…」
蘭はホっとしたようにを抱きしめると、竜胆と九井も大きく息を吐き出した。
「アリサ…」
蘭は怒りを露わにしたような低い声で呟くとを九井に預けて、後ろに立っているアリサを酷く冷めた目で睨みつけた。
「テメェ…殺されてぇのかよ」
「な、何よ…ちょっと転んだだけじゃない!大げさ――」
「もう黙れ」
蘭は無表情のまま思い切り拳を固めて振り上げた。九井の目には、それがまるでスローモーションのように映る。
だが蘭が拳を振るう前に、バチンっという音がその場に響いた。
「……竜胆?」
アリサと蘭の間に割って入った竜胆が、アリサの頬を勢いよく引っぱたいたようだった。
「兄貴が拳で殴ったら、いくら何でもタダじゃ済まねぇだろ?顔の骨が砕けるかもしんねーし。今、兄貴が捕まったらが泣く」
「…オマエ」
竜胆の言葉に蘭はふとを見た。は涙を溜めた目で蘭を見上げていて、九井にしがみついてる手は震えている。
それを見た蘭は深い溜息をつくと「悪い、竜胆」と一言呟いた。
「アリサ。オマエ、もう二度と兄貴に近づくな」
竜胆がそう告げると、殴られた頬を押さえながら、アリサが怯えた顔で蘭を見る。
「女だから殴られないとでも思ってた?次はマジで殴られっぞ。まだモデル続けたいだろ?」
「……ッ」
竜胆のその言葉に今度ばかりはアリサも危ない男を相手にしていたと気づいたようだ。「わ、分かったわよ…」とだけ言うと、悔しさを滲ませた目で二人を睨みつつ、大人しくその場を立ち去った。それを見届けた竜胆もホっと息を吐き出す。実際、蘭が女に手を上げたことは一度もない。だいたいは別れたら諦める女が殆どで、たまにしつこく一度は会いに来てもスルーされれば、もう無理だと気づいて去っていくからだ。
でもアリサは自分のプライドを保つためにしつこく付きまとい、蘭の大切にしているに手を出したことで、蘭を本気で怒らせてしまった。
もし竜胆が先に殴っていなければ、蘭が拳で殴りつけ、大怪我をさせていたところだ。
「危ねぇなぁ…ったく…」
止めることが出来て良かった、と竜胆が安心していると、後ろから蘭の不機嫌そうな声が聞こえて来た。
「ココ、いつまで抱えてんの。はオレの奥さんだから」
「え?あ、す、すみません」
自分で預けといて文句を言っている理不尽な蘭を見て、竜胆はまた深い溜息をついた。これがなければいい兄貴なんだけど、という顔だ。
「、大丈夫か?どこか痛いとこは?」
「だ、大丈夫…。ちょっと背中が痛いくらい」
「マジか…ごめんな…?巻き込んで」
蘭はホっとしたようにを強く抱きしめると、その頭へ口付ける。アリサに引っ張られたことで乱れてしまった髪も、蘭の胸を痛くさせた。
「帰ったら直してやっから」
「…うん」
嬉しそうに頷くを見て、蘭もふと笑みを零すと、その小さな唇へ軽くキスをした。それにはも驚いたように「ら、蘭ちゃん、ここ外だよ…」と恥ずかしそうに俯いている。
「いいだろ、別に。が可愛いからしたくなっただけ」
「…で、でも…」
とが言いかけた時、ぐぅぅっという派手なお腹の音が響いた。
「ぶは…っ、腹減ったの?」
「う…うん…」
「じゃあ帰ったら一緒にオムライス食べるか」
蘭はの体を支えて立たせると、不意に竜胆の方を見た。
「それで…オムライスは?」
「あ…」
蘭のオムライスを注文するのをすっかり忘れていた竜胆は「ははは…」と笑って誤魔化しながら慌てて店内へと飛び込んで行った。

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