24-否定はいらない、肯定もいらない、ただ黙って傍にいて
静かな空間での微睡みの中、かすかな話し声をの耳が拾った。それが刺激となったのか、ゆっくりと覚醒していく合間にも誰かが話しているような声はしている。何を話しているのかまでは分からないが、聞き慣れた声じゃないことだけはにも分かった。
「……ん…」
重たい瞼をゆっくりと開けていきながら、無意識に隣にあるはずの体温を探す。しかし普段ならばしっかりと身体に巻き付いている腕の重みが今は感じられず、そこでの意識がハッキリしてきた。
「…ら…ん…ちゃん」
寝起きで口が開かず、もにょもにょとした口調で大好きな人の名を呼ぶ。しかし広いベッドの上にはひとり分の体温しかなく、そこで初めて蘭がいないのだと理解した。同時に、今日は出かけると話していたのを思い出す。
(そっか…蘭ちゃんは今日いないんだ…)
そう思うと途端に寂しくなったが、以前よりはひとりを怖くは感じない。確かな愛情を蘭が与えてくれることで、絶対的に孤独だった以前のの傷が、本人の気づかないところで癒えてきているのだ。それでもいつもそばにある温もりがないことはどんなに慣れてこようと変わらない。寂しいものは寂しい。はベッドの上で丸まりながら、自分のお腹へ手を置いた。鈍痛は未だに下腹部を不愉快に痛めつけているものの、寒気は消えている。毛布にくるまりながら薬を飲むかどうか迷っていると、またかすかに誰かの笑い声が聞こえて来た。やっぱり誰かいる。夢ではなかったと思った時、一瞬だけ蘭かと期待したが、すぐにそれは違うと気づく。竜胆でもない。聞こえて来たのは明らかに女性の声だったからだ。
(…誰かな?)
当然この家に女性は自分以外に住んでいないし、更には来たこともない。でもこの声は明らかにリビングから聞こえて来る。もそもそと布団から顔を出したは静かにベッドから下りると、聞こえて来るその声に耳を澄ませてみた。話す内容は聞こえないが、どうやら誰かと電話をしているようだ。そしてリビングにいるのはその人ひとりだけというのが雰囲気で何となく分かった。
(蘭ちゃんか竜ちゃんのお友達…?)
蘭や竜胆の声は聞こえないので、話してた通り今は出かけているのだろう。では家の主が不在なのにリビングで電話をしてる人は何故この家にいるんだろうと素朴な疑問が湧く。
それはに小さな葛藤を与えた。部屋から出て声をかけるか否か――。
足音を忍ばせてドアに近づき、ゆっくりとドアノブを下げる。そのまま静かに開けると、先ほど聞こえて来た声も今度はハッキリとの耳に届いた。
「…だね~!あははっ。…えー?今ぁ?今はね~ふふ…実は例の初恋の人の家ー。うん、マジでマジで。えー?そうそう、その幼馴染の!」
その女性、というより女子高生風の口調で話す女の子はソファに座りながら誰かと電話で話してるようで、ドアを開けただけでは姿まで見えない。はそっとドアのすき間から顔だけ出してみたが、位置的に無理があるのだ。リビングにいる人物からも当然の姿は見えていないので相変わらず楽しそうに会話を続けている。
「そうだよー蘭くんはこの六本木仕切ってる兄貴の方。うん、そう。え?あーそれがさー。今朝久しぶりに家に来てみたら出かけるから家にいてくれってお願いされちゃってー」
蘭の名前が出て来て、はドキリとした。やはりこの女性、蘭の知り合いらしいと分かった。しかも先ほど"幼馴染"という単語も聞こえて来たので、なりの解釈をした。
(このお姉さんは蘭ちゃんの幼馴染で、今日は蘭ちゃんに頼まれて家にいる…)
話の内容を整理するとこんな感じだろうとは考えた。
「なーんかさぁ。蘭くんが今いるチームの仲間が捕まったみたいでー。その人の妹を預かってるんだってー。で、その子は具合悪くて寝てるんだけどさー。うん、そう。だからここはお願い聞いて蘭くんにアヤっていい女じゃんって思わせようかなーと思って。えー?マジだって」
チームの仲間が捕まったという言葉に、は少し驚きながらも「預かっている妹」って誰のことだろうと考える。まさか自分のことだと思っていないは、今度は部屋の外へ足を踏み出した。
「そうだよー諦めてないもん、まだ。えーだって蘭くんカッコいいんだもーん。今日も久しぶりに会ったけど、マジで神。スタイルいいから特攻服もちょー似合うしー目が合っただけで腰砕けそうんなったわ。きゃははっ」
一歩、足を進めてリビングの方を覗いてみると、その人物はソファに寝転んでいるのか、姿は見えない。けど細い足が時折ぱたぱたと忙しなく動くのが見える。
(このお姉さんは蘭ちゃんのことが好きなのかな?)
ところどころ分からない部分もあるが、今の話の内容を繋いでいくと何となくそう感じた。良かった、いい人そう。
蘭を好きだという部分は自分と同じだと安心したはホっと息をついた。するとその女性は不意に身体を起こし、ソファに座り直したことでの目に蘭と同じような金髪が映る。
「でも蘭くん私のこと女として見てくれないからさー。やっぱ大人の女の方がいいのかなって――」
と言ったところでアヤは言葉を切った。何気なく後ろを見た時、見知らぬ少女が立っていて、自分のことをジっと見ていたからだ。
「あーごめーん。ちょっと切るね。うん。約束の時間までには行けると思うから。はーい。じゃねー」
の存在に気づいたアヤは一瞬ギョっとしたものの、友人との電話を早々に終わらせた。そのままソファから立ち上がり、笑顔を見せると「どーもー」と一応の挨拶をする。そして蘭と同じ2トンカラーの髪色をした少女は可愛らしい顔をしていることに、アヤは気づいた。
「こ…こんにちは」
未だ知らない人というのはも緊張してしまうのだが、ここに連れて来られた頃よりは社交的(?)にはなっていた。挨拶をしてくれた相手には挨拶で返す、という、母が生きていた頃に教えてくれた礼儀もきちんと覚えている。まともな"人"としてのマナーも蘭たちとの生活のおかげで少しずつ感覚は戻ってきていた。
「えっと…あんたが奥…さん?」
「…え、は…はい」
アヤは竜胆のついた嘘のせいで、苗字を言ったつもりだったが、は蘭の奥さんかと訊かれたと思い、素直に頷く。ここで微妙な勘違いが生まれてしまった。
「名前は?私はアヤ」
「アヤさん…。私は…です」
「ちゃんね。宜しくー。あのね、私、蘭くんと竜胆の幼馴染なの」
「幼馴染…」
「うん。今日はちゃんが具合悪くて寝てるから見ててくれって蘭くんに頼まれたんだ。で、体調はどう?」
「あ…えっと…まだ痛い…です」
アヤがここにいる事情が分かり、はホっとしながらも応えた。言った通り腹痛はまだあるのだが、知らない人と話している緊張で少しの間忘れていたが、思い出すと再び痛みを感じる。出来れば薬を飲みたいが、蘭に何か食べてからじゃないと飲んじゃダメと言われたので、どうしようかとキッチンを見た。
「そっかー。アノ日はきついよね~。私も毎回ダウンしちゃうくらい重い方なんだ。あ、薬は?」
「あ…あの…何か食べてからじゃないとダメだって蘭ちゃんが…」
「蘭…ちゃん?」
チームの仲間の妹、というわりに随分と親しげに呼ぶじゃないか、とアヤは少し違和感を覚えたが、どう見ても目の前の少女は自分より年下だ。絶対に蘭の好みに入らないという安心感がアヤにはあった。その為、きっと蘭は捕まった仲間という人と凄く仲がいいのだろう。その人の妹だから可愛がってるんだという勝手な解釈をした。
「あ、じゃあ何か食べる?って言っても、この家って酒とかツマミ程度しかなかったよね」
以前、来ていた時のことを思い出しながら、アヤはキッチンに行って大きな冷蔵庫を開けてみた。
「え、うそ」
そこにはアヤの予想を大きく裏切り、それなりに肉や野菜、フルーツといった食材が入っている。それは蘭がと買い物に行った際に揃えたものだったが、そんなことを知らないアヤは少しばかり驚いていた。蘭がたまに料理をするのは知っていたが、それでもここまで食材を揃えているのを見たことがない。以前ならここで"また新しい女か?"と疑ったりもしただろうが、蘭の歴代の恋人たちは料理をするようなタイプじゃないのを今はよく分かっている。さすがにこれだけではアヤもそんな風に思わなくなった。
「あー何か色々あるし何か作ってあげよっか。食べたいものとかある?」
「え…いいんですか」
「うん。蘭くんから頼まれてるし、お腹痛いなら暖かくして座ってなよ」
「…ありがとう御座います」
「いや、礼なんて別に…」
嬉しそうな笑顔でお礼を言われ、アヤはどことなくむず痒い気持ちになった。アヤの周りにはこんなに丁寧にお礼を言って来る友達はいない。それにこのという子はほんわかしていて険がないので、何となくアヤも優しい気持ちになってくるのだ。
「ほ、ほら。ちゃんとあったかくして座ってなって」
アヤはをソファに座らせると、近くに引っ掛けてあったブランケットを足元にかけてやった。
「ありがとう、アヤさん」
「い、いいってば。このくらい」
無邪気な笑顔を見せるに、照れ臭くなったアヤは素っ気なく応えてキッチンへと歩いて行く。自分の周りには絶対に寄って来ないタイプの女の子ということで、ああいう笑顔を向けられると、どんな顔をしていいのかが分からない。竜胆は否定するだろうが、言ってみればアヤは素直じゃない辺りが竜胆と似たタイプの人間だった。
一方、はここへ来て初めて女の子と知り合いになれたこと、そして優しくしてもらえたことが嬉しくて足にかけてもらったブランケットをぎゅっと握り締めた。金髪に派手なメイクと、見た目は少々怖いように見えるが、それを言えば蘭や竜胆も似たようなものだ。それに鶴蝶やイザナ、そして九井なども見た目はその辺の人より怖く見えるが、根は優しいとは思っている。だからアヤのことも同じように優しい人だと感じた。その時、部屋の方でケータイの鳴る音が聞こえた。短い音でメールだと分かったは自然と笑顔になった。買って貰ったケータイに連絡をしてくるのは蘭か竜胆くらいしかいない。はすぐに部屋へ戻ると、ベッドのサイドボードに置きっぱなしのケータイを開いた。
「やっぱり蘭ちゃんだ」
予想通り、それは蘭からのメールで"腹の具合はどう?もうすぐ帰る"という短いものだったが、は即座に大丈夫と返信をした。すると今度は折り返すように蘭から電話が入り、は笑顔を見せるとすぐに通話ボタンを押す。
「蘭ちゃん?」
『おー。起きたんだ』
「うん。さっき」
『腹は?痛くねぇの?』
「痛いけど…」
『マジ?薬…って言っても、何も食ってねぇもんな』
蘭は心配そうにしているが、は「今、アヤさんが作ってくれてる」と報告した。それには蘭もギョっとしたようで『は?』と変な声を上げている。
『あのアヤが…飯作ってる?』
「うん」
『………』
が頷くと蘭が一瞬だけ沈黙した。
「蘭ちゃん…?」
『あーいや、何でもない。つーかアイツと顔合わせたんだ』
「うん、さっき挨拶したよ」
『…で、大丈夫だったか?』
「……大丈夫?」
何のことかとが首を傾げた時、リビングの方から「ちゃん?」とアヤの声が聞こえて来た。を探しに来たのか、開いてるドアからひょいっと顔を出す。
「あ、ここにいたの?ご飯出来た――あ、電話中?」
「うん。蘭ちゃんから」
「え、嘘!蘭くん?」
蘭、と聞いてアヤの瞳が輝く。この時、何故自分ではなくに電話をしてきたのかという小さな疑問は沸いたが、大した気にも留めずアヤは蘭の部屋へ入った。
「蘭くん、なんて?」
「えっと、もうすぐ帰って来るって」
『おい、。アヤがそばにいんの?』
蘭にも聞こえたのか、電話口からそんな言葉が聞こえてくる。
「うん。代わる?」
『あーじゃあ頼むわ』
「うん」
は素直に頷くと、後ろで待っているアヤにケータイを差し出す。
「蘭ちゃんが代わってって」
「え、ほんと?」
アヤは嬉しそうな顔でケータイを受けとったが、その時の左手薬指に光る指輪に気づいた。この子、結婚してんの?と内心驚きつつ「もしもし、蘭くん?」と嬉しそうに電話に出る。
『あーアヤ?に飯作ってくれてんだって?わりぃな』
「え、いいよ、そのくらい。…っていうか何で蘭くんが謝るのよ」
『え?あ、いや…まあ、うちで預かってる子なわけだし?』
珍しく蘭の声に少しの動揺を感じ取ったアヤは僅かに眉を寄せながら、何気なく隣に立っているを見た。自分より年下の少女の左手には、やはり結婚指輪らしきものがはめられている。いわゆる恋人同士のお揃いでつける指輪にしては、高価なものだと見た目でも分かった。光り輝く石が敷き詰められているそれは、どう見ても本物のダイヤに見えるからだ。そしてふと蘭の部屋の隅にあるお洒落で可愛らしいハンガーラックが目に入った。そこにはどう見ても女物の服がギッシリとかけられている。
「……は?何で?!」
『あ?何が?』
アヤの口から思わず漏れた言葉に、蘭が訊き返す。
「ら、蘭くんの部屋に…何で女物の服がこんなにあんの…?」
『…は?オマエ、オレの部屋にいんの?』
「ご飯できたからちゃん呼びに来たの…。っていうか、この服の数、どう考えても元カノが忘れてったってレベルじゃないよね…。やっぱ新しい彼女出来たんだ」
『………』
アヤの言葉に蘭はすぐ状況を把握したらしかった。
『アヤ、それは帰ったら話すから、今はに飯食わせて薬飲ませてやって』
「……いいけど」
『頼むな』
と、蘭はそこで電話を切った。蘭に新たな恋人が出来たと知り、テンションが一気に落ちたアヤは溜息交じりでケータイをへ突っ返した。それでも、アヤはまさか目の前の女の子が蘭の新しい恋人とは思わない。
「はあ…。もう…蘭くんってば何ですぐ他の女と付き合うわけ…」
「アヤさん…?」
急に元気のなくなったアヤを見て、が心配そうに声をかける。
「どうしたの…?」
「んー?いや、アンタに言ってもね…。ああ、オムレツ作ってあるから食べなよ」
足取りも重くアヤは蘭の部屋を出て行く。その際、かけられた女物の服をぎろりと睨むのを忘れない。
「何よ…蘭くんてば女の好み変わったわけ…?あんな可愛らしい服を着るような女を選ぶようになったなんて――」
と、そこでハッと違和感に気づいた。恐る恐る振り返ると、後ろからはがついて来ている。そのが着ているモコモコのルームウエアが、蘭の部屋にかけられていた服の類と似ているような気がしたのだ。
「…まさか、ね」
「…え?」
「っていうか…蘭の部屋にあった女の子用の服さ。まさかちゃんのってわけじゃ…ないよね?」
思い切って尋ねてみたアヤだったが、が笑顔で「あ…あれは…わたしの」と応えたことで軽い眩暈に襲われた。
「嘘でしょ…」
「え?」
「だって…ちゃんは仲間の妹だって…。ってかその妹に手を出したってこと…?」
ひとりブツブツ言いだしたアヤに、はきょとん、とした顔だ。しかしアヤはふとの左手を掴み、薬指に光る指輪をまじまじと眺めた。
「アヤさん…?」
「これ…誰にもらったの?」
「え、これ?」
「どう見ても男からのプレゼントよね…っていうか結婚指輪に見えるんだけど…」
「あ、うん…これは」
とが応える前に、アヤはの指から指輪を外し、天井に翳した。
「あ、あの…アヤさん…?」
いきなり指輪をとられては驚いた。アヤは指輪の裏側を見て何かを確認しているようだ。
そしてアヤは見つけてしまった。指輪の裏側に彫られている名前とメッセージを。
その瞬間、アヤは驚愕の表情を浮かべた。
「"I'll be with you...Ran & ………?」
ついでに日付までが刻印されていて、それが一ヶ月ほど前だと分かる。それは間違いようもなく蘭がへ送った指輪であり、恋人へというよりは結婚相手に送るものだというのはアヤでも分かった。
「うそ、でしょ……?あの蘭くんが…結婚…?この…ちゃんと…?」
「あ、あの…アヤさん…?指輪…」
とが声をかけると、アヤは徐に振り向いた。
「ねえ…ちゃん…ほんとに…蘭くんと…結婚したの…?」
青ざめながらも最後の確認のように訊いてくるアヤに、は無邪気な笑顔で「はい」と応えてしまった。それはアヤにとっては死刑宣告を受けたくらいの破壊力があったらしい。アヤはフラフラっと後ろへよろけたかと思うと――突然大泣きし始めた。
それはそれはもう、泣き虫のでもビックリするほどの号泣で、アヤはわんわん泣いている。
「あ、あのアヤさん…どうしたの…?何で泣いてるの…?」
「ほっといて!もー蘭くんのバカァ!!最低!ロリコン!!うわーーーんっ!!」
遂には床に突っ伏して泣き始めたアヤに、も呆気に取られてしまった。
そしてアヤとのことが心配になり、急いで帰って来た蘭と竜胆の目に映ったのは、リビングで泣きわめくアヤを、が必死に宥めているという悲惨な光景だった…。
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「ほら、落ち着いたかよ」
ぐすっと鼻を啜るアヤに、蘭は溜息交じりで作ったばかりのココアをテーブルに置いた。ついでにティッシュを箱ごと渡すと、アヤは盛大に鼻をかんでいる。それを見ていた竜胆は「兄貴が結婚したショックで女捨てたな…」と顔をひきつらせた。だけはあまり詳しいことは理解しておらず、何故アヤが突然泣き出したのかは分かっていない。
「蘭ちゃん…」
「ん?」
「アヤちゃん、大丈夫…?」
「あー…ま、大丈夫だ――」
「全然っ大丈夫じゃないけどっ?」
つかさず突っ込んで来るアヤに、蘭の目が細められる。アヤはショックを通りこし、今は言いようのない怒りが沸いて目の前にいる幼馴染を睨んだ。蘭のせいで泣いているというのに、足の間にを座らせ、時折甘い眼差しで彼女を見つめている姿に、アヤは沸々と怒りが沸いてきたのだ。
「そこ!私の前でイチャイチャしないで!」
「あ?いーだろ、別に。オレとは夫婦なんだから」
「だからホッペにチューとかすんな!」
ガバっと顔を上げて文句を言うアヤを、蘭は遂にシカトする姿勢に入ったらしい。怒っている幼馴染を放置してに優しくココアを飲ませている。
「熱いからふーしてからな?」
「う、うん…」
「……(ぴきっ)」
アヤの額に血管が浮き出たが、蘭はどこ吹く風だ。代わりにアヤの隣に座っていた竜胆の顏が青ざめていく。この状況でも平然とイチャつき出した兄を、竜胆はある意味尊敬してしまった。そして今まで蘭の前では猫をかぶっていたアヤもさすがに開き直ったようで、普段竜胆に見せている気の強い性格を存分に披露している。
「ほんと信じらんない…。あれだけガキはタイプじゃないとか言ってたくせに私より年下を選ぶなんてっ!」
「好みなんて変わんだろー?それに言っとくけど以外の年下は今もタイプじゃねーよ」
「はあ?何が違うの?!」
「まあ、しいて言うなら……」
と蘭は考える素振りを見せて、これまでアヤを魅了し続けていた綺麗な笑顔を浮かべ、ニッコリ微笑んだ。
「ならそんなにギャーギャーわめかねーな」
「…む!」
アヤは口を尖らせつつも、気持ちを落ち着かせようと蘭の作った生クリームたっぷりのココアを一口飲んだ。
それがまた悔しいことに――。
「ちきしょう……美味しい」
「だろ?」
「…ふんっ。前の蘭くんだったら彼女の為にこんなことしなかったくせに!」
得意げな顔をする蘭にムカっときたアヤは思い切り顔を背けた。あの面倒くさがりの蘭が、こんなに凝ったココアを作ったのも全てはの為であり、泣いていた私の為じゃない!とアヤはそこも気に入らない。しかし美味しいものには罪はなく、蘭の手作りということもあり、アヤも素直にココアを飲む。
一方、隣でずっとアヤを観察していた竜胆は、内心意外だなと驚いていた。蘭との関係を知れば、蘭命のアヤが怒りを向けるのはだとばかり思っていたのだ。でも蓋を開けてみれば、アヤの怒りの矛先は真っすぐ蘭へ向かっている。蘭とが結婚した経緯をきちんと聞かされたアヤは、に対して一切暴言を吐かなかったのだ。これは竜胆でも予想出来なかった。
「…蘭くん…」
「…何だよ。まだ文句あるわけ?」
「その子と結婚して…幸せなんだ」
「あ?当たり前だろ」
「………」
ずっと好きだった幼馴染が、これまで見せたこともないくらいに柔らかい笑みを浮かべたのを見て、アヤはショックもあったが、どちらかと言えばホッとする方が大きく、そんな自分に心底驚いた。子供の頃からお互い複雑な環境で育ったために、アヤはいつも蘭や竜胆の後からついて行くような女の子だった。どんどん荒れて行く二人の後を追うようにアヤも不良の世界に足を突っ込んだけれど、二人と同じ景色を見た時、初めて気づいたのだ。自分なんかよりも、満たされないものをたくさん心の中に抱えている蘭は、それを発散させる場を求めていたんだと。
蘭は昔から兄という顔を崩さなかったし、自分を頼る竜胆のことを常に心配していて。それはこの世界に入っても変わらない。蘭はいつも竜胆やアヤより前を歩いていた。でも、じゃあ蘭を心配して癒してくれる人は誰なんだろう、と、アヤは思ったことがある。
大人になって恋人が出来た時でも、蘭は蘭だった。満たされないものを埋めるかのように年上とばかり付き合っていたけど、結局は相手に我がままを言われてダメになるのだから、蘭の心を癒す存在はいなかったということだ。なのに今、その蘭が満たされたような優しい顔で、という女の子を見つめている。まさか蘭を癒す存在が年下の、それも甘ったれた女の子だとはアヤも想像すらしていなかった。
結局――蘭は蘭なのだ。相手に満たして欲しいと思うのではなく、自分が満たされる相手を見つけられたということなんだろう。
「アホらし…」
「…あ?」
不意に呟いたアヤに、蘭がふと顔を向ける。遂には膝の上にを乗せ、デレている蘭を見ていたら、アヤは心底アホらしくなったのだ。同時に、自分の初恋が今やっと終わりを告げたことを悟った。アヤは蘭のこういう顔を見たかったのだ。本当なら自分が蘭にそうしてあげたかった、けれども――。
「私には蘭にそんな顔をさせてあげられないことくらい…分かってたよ」
「…は?何言ってんの?オマエ」
「べーつにー。新婚ボケしてる蘭くんには一生、複雑な女心なんて分かんないよーだ」
「別に以外の女心なんて分かんなくていーし」
「あっそー!ご馳走様!じゃー私、そろそろ行くわ。約束あんの」
アヤはそう言って立ち上がると、自分を見上げてる蘭とを交互に見た。
「お揃いの色にしちゃってバカップルじゃん。蘭くんもただの男だったって分かったよ」
「バカップル上等。つーかオレは昔からただの男だけどー?」
「……うん。そう、だね」
蘭のことを勝手に神化してたのはアヤ自身だ。自分の理想の中に蘭を当てはめて、気持ちを押し付けて、アイドルに夢中になる熱烈なファンのように蘭を追いかけてた。振られたのも当然だなと、自嘲するように笑ってしまった。
「蘭くん、バイバイ」
「おう」
「ちゃんはまた明日の夜ね。怖くないように私が泊まりに来るから」
「はい、ありがとう御座います」
「かーわいい! 蘭くんにはもったいないねー」
「うっせぇ」
アヤが笑うと、蘭はスネたように目を細める。いつも余裕しか見せなかった幼馴染のそんな顔すら初めて見るアヤは軽く吹き出した。更に蘭はムっとしたように口を尖らせたが、帰ろうとするアヤを見て「アヤ」と声をかけた。
「今日はありがとな。にオムレツ作ってくれて」
「蘭くんにお礼言われるなんて明日は雹が降るかも」
「はいはい。んじゃー気ぃつけて行けよ?」
「…うん」
優しい言葉をくれる蘭に、アヤはほんとズルいなあと心の中で思う。どれだけ素っ気なくしても、最後はいつもこうして気遣ってくれる。蘭はそういう男だった。また少し泣きそうになりながら靴を履いてると、頭にポンと何かが乗った。驚いて振り向けば、そこにはもうひとりの幼馴染の姿。
「もっと泣いて喚き散らすかと思ったけど、よく我慢したな」
「…何よ、竜胆。私があの子をイジメるとでも思った?」
「うーん…まあ」
素直に認める竜胆を、アヤはジロっと睨みつける。
「ちゃんに罪はないし。生い立ちのこと聞いてそっちの方が泣けてきたよ。だいたいあの子を責めたところで惨めになるだけでしょ。蘭くんがあの子を選んだんだから」
「へえ」
「…何よ」
「オマエ、いい女に育ったじゃん」
「何それ…今頃気づいたの?」
「チッ…。すーぐ調子ン乗る」
竜胆はアヤの頭をぐりぐりっと撫でると、
「暗いから気ぃつけてなー。ま、何かあれば呼べよ」
「…さんきゅ。でもこの六本木じゃ灰谷兄弟の幼馴染って言えば怖いもんなしだよ」
そう言ったアヤは数年前に三人で撮った写真を見せた。
「うげ、なつい。つーか、オレと兄貴は水戸黄門の印籠かよ」
「ぷっははは!そうかも」
アヤは思い切り吹き出すと、目尻に浮かんだ涙を拭った。竜胆も苦笑しながらアヤを見送る。リビングからは楽しそうに笑う蘭の声が聞こえてきて、二人は互いに顔を見合わせた。
「んじゃーまたねー竜胆。バカップルと同居は大変だと思うけど愚痴ならいつでも聞いてあげるから」
「…今度はオレがオマエに愚痴んのか」
「いつも私が竜胆に聞いてもらってたからね」
「ふん…ま、今度クラブで失恋パーティでも開いてやるよ」
「その前に蘭くんよりいい男、見つけてやる」
アヤはそう言って笑うと、竜胆に笑顔で手を振った。
「バイバイ、竜胆。明日の抗争、負けんなよ」
「おう」
竜胆も笑顔で手を上げると、元気に歩いて行くアヤを見えなくなるまで見送っていた。
|||
「、腹は?まだ痛い?」
のお腹へ手を置きながら訪ねると、は小さく首を振った。
「アヤちゃんがくれたお薬まだ効いてるから痛くない」
「そっか」
蘭はホっとしたように微笑むと、の頬にちゅっと口付けながら、ぎゅっと抱きしめた。こうして腕の中に収めると安心するのだ。
「蘭ちゃん、用事は終わったの?」
「ん-?あー何とか今日の分は。でもまた明日の夜は出かけなきゃなんねえんだよなあ…」
「え…夜?」
ふと不安そうな顔になるのこめかみに、蘭は唇を押し付けた。今日は昼間だったこととアヤがいたことでもそれほど不安にならずに待てただろうが、夜となるとひとり残して出かけるのは蘭も心配だった。なので明日は再びアヤにここへ来てくれるよう先ほど頼んでおいたのだ。
「でもアヤが泊りに来るって言ってたろ?」
「あ、そっか。じゃあ怖くない」
に詳しい話はしていない。抗争なんて物騒な話をすれば心配をさせてしまうかもしれないからだ。今日は隊長格をほぼ潰し、これで戦えるのは隊長不在の兵隊たちと、総長である無敵のマイキー、そして副総長のドラケンだけだ。しかしイザナはそのことでも秘策があるとかで、明日の抗争は天竺の勝利で終わると言い切っていた。だが逆に蘭は不安に感じていた。稀咲と半間も何やらコソコソと裏で動いてると鶴蝶も心配をしていたが、それ以降そのことについては聞いても何も話さなくなったからだ。何かヤバイことを企んでなきゃいいが、と思いながら、蘭は腕の中にいるを強く抱きしめた。
「…蘭ちゃん、どうしたの?」
「いや…何でもないよ」
心配そうな顔をするに笑顔を見せて、ふっくらとした唇に優しく口付ける。大事なものが出来ると、こんなにも気が弱くなってしまうのか、と内心苦笑した。愛情は人を強くもするが、時として弱くもするということを、蘭は初めて知った。もし自分に何かあればはどうなってしまうんだろう、と。
「兄貴、アヤ帰ったよ」
「…ああ」
竜胆が戻って来て、蘭はふと我に返った。その様子を見た竜胆は「どうしたん?兄貴。何か怖い顔してる」と向かい側のソファに座る。
がそばにいるのに、蘭がこういう顔をするのは珍しいと竜胆は思った。
「いや…何かずっと…嫌な予感がすんだよなぁ…」
「嫌な予感…?」
「明日の抗争…皆が言うほど楽に終わる気がしねえっつーか」
「兄貴…」
こんな弱気な兄を見るのは初めてのことだ。そうなると竜胆も多少なりとも心配にはなってくる。
「確かに…マイキーとドラケンのこともあるしな。でもこっちにはイザナと鶴蝶がいる。アイツらが負けるとこなんて想像できねぇけど…」
「…普通に…殴り合いだけならな」
「何が言いたいんだよ」
「…いや、いい」
蘭は首を振り、話を終わらせると、不安そうなを抱きかかえた。竜胆も騒動な話をに聞かせたくないと言う蘭の気持ちを察して、それ以上は何も言わないでおいた。
「寝ようか、」
「蘭ちゃん…明日…何かするの?」
やはり二人の会話や様子で何かを感じたらしい。部屋に戻った時、はどこか落ち着かな様子で蘭を見つめている。
「何もしないって。だからそんな顔すんな」
安心させるように言いながらをベッドに寝かせると、何かを言おうと開きかけた唇を優しく塞ぐ。今はただこうして腕に閉じ込めた、愛しい存在の温もりに包まれて眠りたかった。

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