25-ねえ、きいて。私の感情の悲鳴を。



2月22日PM.9:55 横浜第七埠頭――。


船の汽笛が遠くで聞こえた気がして、蘭はふと海の方へ視線を向けた。
港の方では暗い海を照らすライトがキラキラしていて、貨物船らしき大きな船が出航してくところだった。
時折吹きつけて来る冷たい海風を頬に受けていると、ピリピリとした寒さが全身を包んで、蘭は白い息を吐き出した。
2月らしい北風は、重苦しい気分を助長するかのように心も冷やしていく。
蘭とは逆に沢山のコンテナに座るチームのメンバー達は目の前の光景を見下ろしながら、戦い前の高揚を隠し切れずに皆が瞳をギラつかせていた。
コンテナーの一番上に座っていた蘭も下方へ視線を戻せば、正座をさせられている6人の男達が見える。その男達の目の前に転がっているのは、イザナによる一方的な暴力でたった今、意識を失った7人目の男だ。東京中のチームの頭をここへ呼び、全てイザナがひとりで屈服させた。

「今宵歴史が変わる。その"来賓"として東京中の不良のトップを集めた。新宿"音速鬼族"。吉祥寺"SS"。池袋"ICBM"。上野"夜ノ塵ナイトダスト"。他にも腕に覚えのある不良達、全てだ」

イザナが静かな声で話しだし、自分が倒した7人を見渡した。

「ふがいねーな!これが今のトップか?!」

男達の返り血を浴びたイザナの顔は表情ひとつ変わらない。殴り続けた拳は血にまみれ、それを払うようにイザナはプラプラと手を振っている。
正座させられている男達は、皆が目の前のイザナを見ながら同じことを考えていた。
黒川イザナ――。コイツは化け物だ、と。

「イザナ!」

そこへ鶴蝶が声をかけた。

「10時を回った。もうトーマンは来ねぇよ」
「…そっか」

イザナは特に感情を見せることもなく、鶴蝶の言葉を軽く受け止めたように呟いた。ズラリと辺りを囲んでいる天竺のメンバーはただ静かに、イザナの様子を伺う。
蘭もそのうちのひとりだった。このまま東卍が来なければ、抗争なくして天竺の勝ちとなる。
それならそれでもかまわなかった。いや、むしろ来てくれるな、とすら思っていた。
自分の知らなかったところで人死にが出た今回の関東事変は、すでに蘭の予想を超えたところまで来ている。

「三ツ谷とスマイリーはオレと竜胆で片付けた」

不意に四天王のひとり、班目獅音が口を開いた。

「壱番隊はムーチョが。オマエの判断は懸命だったぜ?九井」
「………」

九井は何も応えず視線を反らす。この班目という男は黒龍の九代目総長を務めた男だ。その頃から狂犬という通り名にふさわしいほどキレていた男だったが、東卍のマイキーに敗北をし恨みを持っているようだ。

「そしてマイキーとドラケンは――稀咲が潰した」

蘭は頬杖をつきながらコンテナーの上に立つ稀咲を観察していた。この男は今日、抗争前に東卍総長マイキーの実の妹を襲撃。
バイクに乗ったまま小柄な少女の頭をバットでカチ割ったらしい。蘭はそれをさっき鶴蝶から聞かされたばかりだ。
久しぶりに胸くそ悪い戦いになった、と蘭は妙な苛立ちを覚えていた。チーム同士の抗争で人死にが出ようと何とも思わない。
しかし抗争とは無関係の、それも相手総長の家族である少女を狙い、相手の心をズタズタにして弱らせるという稀咲が取った方法は、蘭にとって不快でしかなかった。
それを許したイザナにも不信感を抱くには十分すぎるほどの、愚行。

「今頃東卍の連中はお通夜みてぇになってんだろうなぁ」

稀咲と一緒にその襲撃を実行した半間修二が楽しげに笑う。それには蘭と同じような目を半間に向けた望月が「やり方は気に入らねえがな」と一喝する。

「イザナ」

そこへ元東卍伍番隊隊長、現天竺幹部の"ムーチョ"こと武藤が前に出て来た。

「"S62世代"…極悪の世代と呼ばれたオレらが見失ってた夢…今度こそテメェが実現しろ」

イザナが振り向き、耳に揺れるピアスがカラン…と音を立てる。

「トーマンはもう終わりだ」

イザナは静かに頷くとコンテナーの上に立ち、チームのメンバーを見渡した。

「天竺はこの先、いよいよ一つ上のステップへ行く。東京中の不良を抱えて、大人の闇社会に喧嘩を売る。ヤクザだろうが何だろうが関係ねぇ。逆らう奴らは全員ぶっ潰してオレらが日本の闇を牛耳るんだ」

両手を掲げ、誇らしげに笑うイザナの頭の中は、マイキーのことしか考えていない。
どこか歪んだ感情があるのは、蘭も気づいていた。それを知っていてこれまで手を貸して来たのは、どこまでも強いイザナに憧れていたからだ。
5年前、少年院で出会ったひとりの男に心身ともに打ちのめされ、それでも強さに憧れ、ついていくと決めた。
だからこそ、イザナには最後まで鶴蝶のように、最初の志のまま真っすぐな心と真の強さを貫き通して欲しかった。
そこまでしなければマイキーに勝てないのなら、オレはそれでも良かったんだ――。

その時、遠くからバイクの排気音が聞こえた気がして、蘭はふと顔を上げた。
もうひとり、その音に気付いたのは稀咲だった。

「いや…アイツ・・・は来るよ」
「は?何のことだ」
「しっ」

首を傾げるイザナに、稀咲は人差し指を口へ当てる。その時、他のメンバーにも近づいて来る数台のバイクの音が聞こえてきた。
それには鶴蝶も「まさか…」と唖然とした顔で呟く。しかし徐々に視界に見えて来た"東京卍會"の黒旗に、天竺のメンバーは一斉に沸き上がった。

「トーマンが来たぞぉ!!!」

その声と共に蘭がゆっくりと立ち上がる。

「来たのか…」
「兄貴…」

蘭の隣に竜胆が立つ。その表情は心が決まったかのような吹っ切れた顔をしている。稀咲の思惑通りに動かされている今回の抗争は気に入らないが、相手が来たとなれば迎え撃つしかない。

「やっぱやるしかねぇのか…」

蘭が苦笑交じりにコンテナーから飛び降りる。竜胆もそれに続いた。歪な感情から始まったこの抗争は、もう誰にも止められないところまで来ていた。


|||


「あ…雪だ」
「え?」
「アヤちゃん、雪が降って来たよ」

ベランダの窓に張り付いていたが笑顔で振り返る。雑誌を読んでいたアヤはふと顔を上げ「あ、ほんとだ」との方へ歩いて来た。
窓を開けると、ふわふわと白い塊が静かに落ちて来る。
東京で雪が降るのは滅多にないため、は嬉しそうな笑顔を見せながら、雲に覆われた真っ黒い空を見上げている。

「蘭ちゃん…大丈夫かなぁ…寒がりだから心配」

雪を見て喜んでいただったが、ふと蘭のことを思い出した途端、悲しげな顔になる。昨日から留守番続きだから本音は凄く寂しいんだろう。

「蘭くん、無駄なぜい肉ないからねー。筋肉多めだと普通体型の人より寒く感じるっていうし」
「そ、そうなの?じゃあぽっちゃりしてる方がいいの?」

がいつも太ることを気にしていると聞いていたアヤは思わず吹き出した。アヤがお土産で買って来たケーキも、我慢してひとつしか食べなかったのだ。

「そーだよ?多少ぽっちゃりの方が寒くないかもねー。だからちゃんも好きなケーキ我慢しないで食べなよ」
「…う…うん…。でも今日はもう遅いから明日食べる」

時計を見れば午前0時を少し回っていた。夕方、蘭と竜胆が出かけて行ってからすでに7時間は経っている。
こんなに帰りが遅くなるのは初めてで、は少し不安になってきた。
10時頃まで来ていたメールも全く来なくなったことで余計心配になのだ。だから普段はもっと早く寝るのだが、ついこんな時間まで起きてしまっていた。

「蘭ちゃん、いつ帰ってくるのかな…」
「うーん…朝方かもね。今日はチームで集まるって言ってたから」
「そっか…」

シュンとした様子を見て、アヤはそっとの頭に手を置いた。蘭には抗争のことをに言うなと言われている為、アヤも迂闊なことは言えない。

(確か開戦が10時って言ってたっけ。ならそろそろ決着はついてる頃だと思うんだけどな…)

とにかくどういう結果であれ、終わったら連絡を入れると言っていたので、来ないと言うことはまだ戦闘中なのかもしれない。
天竺と東卍の抗争は最大規模になる人数と言っていたので、それは仕方ないか、とアヤは溜息をついた。
ちょうどその時だった。アヤのケータイが唐突に鳴り出す。それもメールではなく電話だった。
ドキリとしてテーブルに置きっぱなしのケータイを見る。

「あ、アヤちゃん、電話!蘭ちゃんかな?」
「う、うん…そうかもね」

アヤがすぐにケータイを開くと、やはりそこには蘭の名が表示されている。
終わったんだ――。
そう思ったアヤは何となくホっとして息を吐き出すと、すぐに通話ボタンを押した。

「もしもしー?蘭くん?勝ったー?」
『…アヤ』

なるべく明るく電話に出たアヤだったが、蘭の声の異変はすぐに気づいた。小さく息を飲むと「うん…」とだけ返事をする。
蘭のこの様子だと、まさか天竺が負けたんだろうかと心配になった。だが蘭の言葉はアヤが思っていた内容と大きく異なるものだった。

『落ち着いて聞けよ』
「……な、何よ、そんな深刻そうに――」
『もうすぐここへ警察が来る。オレと竜胆は…おそらく捕まることになる』
「……は?」

捕まる、と聞いて、アヤの背筋に冷たいものが走った。

『詳しいことは話してる時間も余裕もねぇから大事なことだけ言う』
「……わ…分かった」

蘭が真剣なのだと分かり、色々聞きたいことはあるが今は黙って飲み込んだ。

『死人が出たけどオレと竜胆は関わってねえから心配すんな。けどチームの幹部として逮捕されることになると思う。オレ達はただの殴りあいしかしてねぇから、そこまで長くは入んねーと思うけど』
「は…入るって…」

死人と聞いてギョっとしたものの、ふたりは関わっていないと聞き、アヤはホっと胸を撫でおろした。しかし最後の言葉で心臓が嫌な音を立てる。

『…分かるだろ?』

蘭のその一言にアヤは言葉を失った。過去にふたりは傷害致死罪で逮捕、少年院へ送致されている。
今回は抗争、要は集団で決闘をしたようなものなので、決闘罪に暴行罪や傷害罪、武器などを用いていれば銃刀法違反などが罪状に科せられるだろう。
ふたりが手を下してないとはいえ、死人も出ているのなら未成年とは言え軽く見積もっても半年~1年は出て来られないかもしれない。

「…うそ…ど…どうすんの?逃げられないの?!」
『…わりぃけど…逃げる気はねぇんだ。オレも竜胆も』
「な…何でよ!何があったの?!」
『落ち着けって。そばにがいるんだろ?動揺させたくない』

蘭に言われ、アヤはハッとして振り返る。は話してる内容よりも、蘭と話したくてうずうずしているようだ。

『アヤ…』
「…ん?」
のこと仲間にも頼んであるけど…オマエにも頼んでいいか?』
「…え?」
『オレと竜胆がしばらく帰れないって知ったら寂しがると思うから、出来るだけ顔出してやってくれると助かる』

蘭の声は落ち着いていた。だからアヤも真剣に聞いた。

「そ…そんなの蘭くんに頼まれなくたってするよ!」
『…さんきゅ』

蘭はホっとしたように息を吐き出すのが伝わってきて、アヤは何故か泣きそうになった。

『ああ、あとオレの部屋、行って』
「え?」
『オレ達がいない間、の面倒見てもらう為用の口座、作っといたんだ』
「こ、口座って…そんな用意までしてたの…?」
『何があるか分かんねーからな』

こういう時まで蘭は蘭なんだ、とアヤは驚きつつ、にはちょっと待っててと声をかけて蘭の部屋へ向かう。

『ベッドの脇にあるチェストの一番下の引き出し開けて』

蘭に言われた通り、引き出しを開けると確かに銀行の通帳が入っている。だいたいは蘭の名義だが、2冊だけ名義のものがあった。

『その青い通帳の方がそれ。カードはに持たせてあるからアイツから受け取って。、金渡しても殆ど使わねーから』
「分かった…」
『暗証番号は竜胆の誕生日にしてあるからアヤなら分かるだろ?』
「…うん」
『それに必要だと思うものに使って』
「……う…ん…」
『……泣くなよ、アヤ』
「だ…だって…」

こんな時なのに、自分が捕まるという時なのに、最後までの心配をしている蘭に、アヤは泣けて来たのだ。
それほど大切な子をひとり残してまで捕まろうとしている蘭たちの気持ちはアヤには分からない。けれど、ふたりにそうさせる何かが今夜あったんだろうと察することは出来た。

は甘ったれだけど頼むな、アヤ』
「…わ…分かってる」
『じゃあ…に代わって』

アヤは耐えられなくなり、の元へ戻ると彼女の手に自分のケータイを渡した。そのまま竜胆の部屋に向かうと、中へ入って背中越しにドアを閉める。
ずるずると力なく座り込み、暗い室内へ視線を走らせると、起きた時のまま、布団がめくれている状態のベッドを見て、胸が締め付けられるようだった。
主のいない部屋はどこか寂しげで、堪え切れず涙が零れ落ちたのを合図に、アヤはふたりのこれからのことを思い、声を殺して泣いた。
5年前、ふたりが捕まった時も泣いたが、あの時よりも今は大人になった分、色んな思いが交差して胸が痛い。
ふたりがなるべく早く戻れるよう、アヤは心の底から祈っていた。


|||


「蘭ちゃん?!」

アヤからケータイを渡されたは、嬉しそうな声で蘭の名を呼んだ。電話口の向こうからは小さく息を飲むような気配がして「どうしたの?」と問いかける。

『いや…アヤと…仲良くしてた?』
「うん。アヤちゃんにご飯作ってもらって、さっき一緒にお風呂も入ったの。髪乾かしてって言ったら甘えるなって怒られたけど…」
『そっか…。も今度からは自分で乾かさないとな。来年は高校生なんだし』
「…あ、そっか…。じゃあ…今度から自分で乾かす…」

渋々と言ったように応えるに、蘭は軽く吹き出すと『…』と意を決したように口を開いた。

『オレと竜胆、今日からしばらく家に帰れねーんだ』
「…えっ?何で?お仕事…?」
『んー。まあ…そう、かな』
「……どれくらい?」

の声が次第に小さくなっていくのに気づいた蘭は、その質問にどう答えるべきか迷った。
本当のことを言うべきか、それとも今は言わない方がいいのか。

『ごめん…ちょっと長くなるかも』
「…そっか……」

蘭のいつもとは違う様子に気づいたのか、は理由も聞かず、ただ静かに受け止めたようだった。

「じゃあ…蘭ちゃんと竜ちゃんが帰って来るまで、わたしは勉強頑張る…」
『…おう。ココにものこと頼んでるから…』
「ほんと?ココちゃん来るの?」
『ああ。あ、でもココにはベタベタ甘えんなよ?甘えたら浮気とみなすから』
「…え、し、しないよ、浮気なんか」
『ほんとにぃ?、すーぐ他の男に甘えっから心配だなー』
「あ…甘えない」

蘭を心配させたくない一心で、が言い切ると、蘭は笑ったようだった。

『じゃあ安心かな』
「うん。心配しないで」
『はぁ…』

不意に蘭が深い息を吐き、は心配になり「どうしたの?」と尋ねた。顔が見えない分、何をしてあげればいいのかも分からない。
大好きな蘭の元気がないと、も悲しい。

『いや…を抱きしめたいのに…そばにいられないのがツラいだけー』
「……え…ッ」

おどけたように言う蘭に、の頬がすぐ赤くなる。でもも今、蘭に抱きしめられたいと思ってしまった。
いつもならすぐそばにいて、触れたい時に触れられたのに、今は隣を見ても蘭はいない。

『なるべく早く戻るから……、待っててくれる?』
「うん…待ってる…だから…早く帰って来て、蘭ちゃ…ん…」

最後は涙声になってしまった。今すぐ会いたいのに、会えないのがツラかった。

『泣くなよ…今すぐ飛んで帰りたくなっから…』
「…ご…ごめんなさい…」
『…まだまだ寒いから、ちゃんと温かい恰好して過ごせよ』
「うん…」
『じゃ…帰るまでオレの夢を毎日見るよーに』
「……うん」
『もう遅いから…電話切ったらすぐ寝ろよ』
「…うん。わかった…」
『じゃあな、
「あ…蘭ちゃん…!」

遠くでサイレンのような音が聞こえて来て、蘭が電話を切ろうとした時、は慌てて呼び止めた。

『ん?』
「…大好きだよ…蘭ちゃん…」
『…――』
「なに…?」
『……愛してる』

その一言を最後に電話は切れた。
蘭との繋がっていた時間が途切れたことで、の瞳にじわりと涙が浮かぶ。何故しばらく帰れないのか聞けなかったけれど、それは蘭にとって大切なことなんだろうと、そう受け止めて納得しようとした。それでも寂しいものは寂しくて、はすぐにベッドへ潜りこんだ。
そうすることで蘭の残り香に包まれ、ホっとするのと同時に余計に悲しくなる。
ここにひとり、取り残された気持ちになって、涙が頬を伝って行った。

「大丈夫…帰って来るって…言ってたもん…」

布団に顔を埋めながら、何度もその言葉を頭の中で繰り返す。
それでも、埋められない寂しさは胸の奥で悲鳴を上げていた―――。


―――2006年2月22日、関東事変。

神奈川最大の不良集団・横浜天竺と東京最大の暴走族・東京卍會の総勢約500名によるこの抗争は、逮捕者5名、及び死者3名を出す凄惨な結果で幕を閉じた。






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