26-ぼくの明日をあげてもいいよ
凍えるような寒い冬が終わり、春が来て、桜が咲く頃になっても、蘭は帰って来なかった。
最初の一ヶ月は泣いて過ごしていたも、毎日のように泊りに来るアヤと、勉強を教えに来てくれる九井のおかげで少しずつ元気を取り戻し、今は自分に出来ることをしながら蘭と竜胆の帰りを待っている。
「~!用意出来てるー?」
日曜日、いつものようにアヤは灰谷家のマンションへ来ると、ドアを開けて真っすぐにリビングへと向かう。今日は天竺の仲間であり、蘭の友人でもある鶴蝶が退院する日で、九井からその話を聞いたが迎えに行きたいと言い出したのだ。
抗争の事実は未だ知らないが、事故で怪我をして入院したと、九井が説明したらしい。そこで病院まで付き添うと九井が迎えに来たので、アヤはを九井に任せて、自分はその間に一度家に帰って着替えて来たのだが、リビングを覗いて深々と溜息を吐いた。
「…何してんの。ココ」
「あ、い、いや…寝ちゃって…」
呆れ顔のアヤに、九井は困ったような笑顔を向けながら、自分の足の間で猫のように丸くなっているを指さした。
は自分で着替えて九井とふたりでアヤが戻って来るのを待っていたが、朝ご飯を食べた後だからか「眠い」と言い出し甘えるようにくっついて寝てしまったと言う。
「はあ…こんなの蘭さんにバレたらオレ、殺されっかも」
「…だろうねー。なーんかこの前届いた私宛の手紙でも色々心配してたもん。ったくホント塀の中でも"嫁バカ"なんだから」
アヤは苦笑しながら九井にくっついて安心したように眠るを見下ろした。
蘭からは定期的にアヤの元へ手紙が届く。住所が鑑別所のものになるので、蘭は宛ではなくアヤに手紙を送り、宛のものはアヤが中身だけを抜いてに渡していた。
「でもちゃん、メールや電話じゃなくて手紙ってこと気にしてないの?」
「あー最初は何で?って私も聞かれたんだけど、と文通したいんじゃない?って言ったら嬉しそうに返事書きだして。まー後はテキトーに電波の悪いド田舎にいるってことにしてある」
「そっか…。その辺素直で可愛いよな、ほんと」
九井は笑いながら未だスヤスヤ寝ているの頭をそっと撫でた。それを見ていたアヤは「まさかココまで、こんな甘ったれに惚れたんじゃないでしょーね?」と上から怖い顔で九井を見下ろす。
アヤの言葉に九井はギョっとした顔で「ち、違う。誤解すんなっ」と首を振った。
――九井がアヤと会ったのは、あの抗争から三日後のことだった。
幹部の蘭たちが捕まることで、天竺の他のメンバーは何とかあの場から逃げ出し、他に誰も捕まることはなかった。蘭との約束通り、九井も警察の目をかいくぐって逃げ出した後は、落ち着くまで天竺とは関係のない昔のアジトに身を潜めていた。しかし頼まれていたが心配になり、このマンションへ来てみると顔を出したのはではなく、蘭や竜胆の幼馴染だというアヤだった。さすが灰谷兄弟の幼馴染というだけあり、気が強いアヤに年下の九井はすでにタジタジだ。
「オレには…他に好きな人がいるし」
「ふーん。どーだか。何せ、あのお姉さま大好物だった蘭くんまでがみたいな甘ったれちゃんに本気になったくらいだしねー」
「大好物って…」
アヤの言い方に九井は軽く吹き出した。会って数日後にはアヤが蘭のことを好きだったという話を聞かされ、こうなった事情も知っている。きっと口で言うほどアッサリ忘れたわけではないのだろうが、のことも可愛いようで、アヤはよく面倒をみていた。
「いけない。時間だからそろそろ起こして。私、のバッグ持ってくるから」
ふと時計を確認したアヤは、未だ夢の中にいるを指さし、自分は蘭の部屋へと走って行く。
ほんとの姉のようだな、と感心しながら、気持ち良さそうに眠っているを見下ろして、九井は苦笑交じりに小さな息を吐き出した。
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「お世話になりました」
鶴蝶は病院を出る際、治療や世話をしてくれた医者と看護師に挨拶をして、ゆっくりと歩き出した。
外に出るとすっかり日差しは春の陽気で、少し眩しいくらいだ。鶴蝶は目を細めながら雲ひとつない青空を見上げる。
あの時、稀咲に銃で背中を撃たれ、ドクドクと流れ出る己の血の感触と、指すら動かせず冷えて行く体に、自分は死ぬのだと感じた。
まさかイザナが自分を庇って撃たれるなどとは思ってもいなかった。
でも――ふたりで死ねるのならそれもまたいいか、とさえ思っていたのに。
三発もの銃弾を浴びてその場で息を引き取ったイザナとは違い、鶴蝶は出血多量で瀕死の重傷ではあったがギリギリのところで治療が間に合い助かった。
しかし助かったことは鶴蝶にとって何の喜びもなく、イザナをひとりで逝かせてしまった後悔ばかりが残った。
そんな鶴蝶に、もう一人の幼馴染の男が言った。
"そんなこと言うなよ。オマエを救おうとしたイザナがうかばれない"
天竺の夢も終わったと憔悴する鶴蝶に、それはカクちゃん次第だよ、と。
「オレ…次第か…」
ひとりで何が出来るのか、まだ分からない。けれど、こうして助かったことに何か意味があるのではないかと、鶴蝶は思い始めていた。
今の自分に出来ることはなんだろう。イザナに救ってもらったこの命で出来ること――。
それはやはり、イザナが追いかけた…いや、ふたりで追いかけた天竺と言う名の夢の続きを見ることだ。
「また一からやってみるか…」
照り付ける太陽を見上げながら、鶴蝶が呟く。
その時――「カクチョー!!」と明るい声が聞こえて、鶴蝶は振り返った。
そこには太陽と同じくらい眩しい笑顔で手を振る、少女の姿。
まずは蘭が出てくるまであの子のことを守るとこから始めるか、と鶴蝶は僅かに笑みを浮かべて、少女の方へと手を振り返した――。
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2006年9月――。
花冷えのする春も過ぎ、ジメジメとした梅雨も明けて、暑さで茹だるような夏も終わりに近づいて来た頃。学校帰り、コンビニで買い物をしていたアヤのケータイに、待ちわびていた知らせが届いた。
「……うっそ…!蘭くん?!」
着信に気がついたアヤが何気なくケータイを開くと、それは電話ではなくメールだった。差出人の名前を見て驚き過ぎたアヤは、思わず手にしていたプリンを床へと落としてしまった。当然中身は悲惨なことになっている為、棚には戻せない。
アヤは仕方ないとばかりに落ちたプリンを拾ってカゴへ入れると、すぐにレジへと向かった。
こうしてはいられない、早く帰って準備をしなければ。
アヤは会計を済ませると、コンビニを飛び出し、急いでの待つマンションへと走って行った。
「――どうしたの?アヤちゃん…顔が汗まみれ…」
いつも通り家で九井と勉強をしていたは、勢いよく飛び込んで来たアヤを見て目を丸くした。
「…ど、どうしたって…そりゃ…このクソ暑い中…走って来たのよ…」
肩で息をしながら、アヤは滝のように流れ出る汗を手で拭う。
「走って来たって何で…っていうかメイクはげてっけど」
「…ぐ…っうっさいわね!分かってるわよっ」
九井にぷっと吹き出され、アヤの目が吊り上がる。手にしていたコンビニの袋をテーブルに置くと、未だ笑いを噛み殺している九井をジロリと睨んだ。
「の好きな卵プリン買って来た。あーあと私、一回家に戻って着替えてくっからっ」
「…いいですけど。何でそんなキレてんスか」
「話はあと!あ、そーだ。ついでにリビング片付けておいて!」
「は?ついでって何のついで?それにこの辺の物、全部アヤさんのじゃないですか」
リビングの至るところにメイク道具やレディースコミック、ファッション雑誌等々、殆どアヤの私物で散らかっている。
毎日通う、というよりも今はほぼ泊まり込んで、いやここへ住んでいると言っても過言ではない。
そのせいで思った以上に散らかしてしまっていることはアヤも自覚していた。しかしアヤは「そーだけど!時間ないからマジでお願い」と九井に手を合わせた。
その慌てた様子に九井も訝しげに眉を寄せると、待ってるに「じゃあこの問題まで解いてみて」と声をかけてから玄関へ急ぐアヤの後を追いかけて行く。
「アヤさん?何かあったんスか?」
「え?あ!そーだ!言うの忘れてた!」
自分で思っている以上にパニくっていたらしい。アヤは声を潜めると「もうすぐ蘭くんと竜胆が帰って来るの!」とだけ告げた。
当然、九井も驚いたように「は?」という声とともに目を見開く。
「な…マジで?」
「こんなことで嘘なんか言わないってば。ほら!」
アヤは自分のケータイを取り出し、先ほど届いたメールを九井の顏の前へ突き出した。
そこには今朝、鑑別所を出たこと、これから美容室へ行って買い物をしてから帰るが、このことをには内緒にしておいて欲しいという趣旨の内容が書かれてあった。
「マジか…。ってか出所後にすぐ美容室ってとこが蘭さんらしいな」
「ねー?でも何でに内緒なんだろ」
「きっと驚かせてーんだよ。ってか、マジでリビング片付けないとダメじゃね?」
「だから言ったじゃない!蘭くん綺麗好きなんだから、あんなの見られたら絶対キレられる!」
「いや、だからってオレが片付けんの?あれ…」
「だって私、家に帰ってシャワー入って着替えて来たいんだもん!」
「いや、分かるけど…」
必死の形相のアヤを見て、九井は溜息をついた。
まあ、これだけ汗だくでメイクも崩れていれば、失恋したとはいえ初恋の相手である蘭に、そんな姿を見られたくないだろうな、とは思う。
その女心は理解できるが、何故自分がアヤの散らかした後始末をしなければいけないんだ、という気持ちはある。
とは言っても、せっかく蘭と竜胆が帰って来るのだから全員が気持ち良く再会して欲しいという気持ちの方が勝ってしまった。
「分かりましたよ…」
「ありがとー!ココ!じゃあ、ちゃんのこと頼むね!あ、あとプリン食べさせてあげて!」
「はいはい…」
慌ただしく帰って行くアヤを見送りながら、九井は呆れたように目を細めていたが、ハッと我に返り「こうしちゃいられない」と急いでリビングへ戻った。
先ほどの蘭たちのスケジュールを見れば今すぐに帰ってくるわけではなさそうだが、急ぐに越したことはない。
九井はまずの勉強を切り上げ、アヤの買って来たというプリンを食べててもらおうと、コンビニの袋を漁った。
だが、しかし…。
「は?これ…原型ねーじゃん…」
容器の中で無残な液体のようになっている物体を見て、九井はまたしても深い溜息と共に項垂れた。
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そして一時間後――。
「何で着替えてメイクするの…?」
鏡越しで目が合ったアヤに、は不思議そうな視線を向ける。
一度マンションに顔を出し、慌ただしく帰って行ったかと思えば、再び来たアヤに「、着替え手伝ってあげる」と突然言われたのだから当然だ。
しかしアヤもその理由を教えるわけにもいかずに「今夜は…外でご飯食べようと思って」と嘘で誤魔化すしかない。
「外…?」
「そう。だからも可愛くお洒落しよ?」
「うん」
そこは、素直に頷き、アヤはホっと息を吐き出すと、まずはアヤが選んだ夏服を着せていく。
冬にここへ来たは夏服を一着も持っていなかったので、暑くなる前にふたりで買い物へ行き、が気に入った服を何着か買って来たのだ。
しかし今日はアヤが選んであげた少し大人めの黒のノースリーブワンピースを着せてあげた。
今はすっかり髪も伸び、金髪との2トンだった色も元の髪色に戻っている。
蘭と久しぶりに会うのだから、少し大人になったを見てもらおうと、長い髪もアップにしてメイクは淡いピンク系でまとめると、大人可愛い女の子に仕上がった。
「んー我ながら天才!、めちゃめちゃ可愛いーよ?」
「…ほんと?」
照れ臭そうに笑うは半年前よりもどこか大人びている。蘭と会えない時間の中で、しっかりしなくちゃと色んなことを頑張って来たせいかもしれない。
ずっと傍にいてくれた蘭が突然帰って来なくなったことは、なりに考えるところがあっただろう。もしかしたら多少は気づいているんじゃないかと思ったが、はアヤに一切その辺のことは聞いてこない。
ただ、蘭が必ず帰って来てくれる、ということだけを今日まで信じて待っているように見えた。
「終わりましたよ~」
と、そこへリビングの片づけをしていた九井が顔を見せた。
「お、ご苦労ご苦労」
「…ったく。オレはちゃんの家庭教師で家政婦じゃねぇから…」
「ごめんってー!今度ご飯奢るから」
不満そうな九井を見て、アヤは笑いながら手を合わせる。
この半年の間、アヤと九井のふたりでの面倒を見ていたせいか、すでに主従関係が出来上がっているようだ。この間に時々鶴蝶も入った時は、かなり賑やかになる。
「おーちゃん、ちょー可愛いじゃん」
「…ありがと、ココちゃん」
「私の腕がいいのよ」
「……はいはい」
どや顔のアヤに、九井も慣れたもので軽くあしらいつつ、をリビングへ連れて行く。は嬉しそうな笑顔を見せて「ココちゃんも一緒にご飯いくでしょ?」と訊いてきた。
この可愛らしい顔が、もうすぐ倍の喜びで更に笑顔になるんだろうなと思うと、ガラにもなく九井まで嬉しくなる。
同時に、見守って来た日々が終わるのかと少し寂しくもあったが、別に会えなくなるわけじゃない。
いや、鶴蝶ならきっと泣いたかもしれないが、今日は用事があるとかでここには顔を出せないと言っていた。イザナを失ってからは何か思うことがあるようで、以前よりいっそう身体を鍛えだし、ますます強くなっているようだ。
そのうち蘭たちとチームでも作るのかもしれないな、と九井は思っていた。
「それで…どこにご飯行くの?アヤちゃん」
「え?あ…えーと…」
すっかり出迎える用意は出来たところで、は何を食べにいくのかとワクワクしている。の気を紛らわせるために時々連れ出しては、自称のボディガードの鶴蝶も入れて4人で外食をすることもあった。
は今日もそれだと思っているようだが、実際は本当に出かけるわけじゃない。
アヤと九井は互いに顔を見合わせ、蘭と竜胆が帰って来るまで、どう誤魔化そうかと考えていた。
「どーすんですか…」
「ど、どーするって何とか時間を稼がないと…そろそろ帰って来ると思うんだけど…」
「まあ、蘭さんだって早く帰って来たいだろうし――」
と言った時だった。インターフォンが鳴り響き、アヤと九井はハッとしたように息を飲む。その音はエントランスホールからのものではなく、この部屋の前から鳴らされている音だ。
「誰か来たよ?」
はキョトンとした顔で二人を見上げた。アヤと九井は無言のまま頷き合う。
「あ…じゃあ、出てくれる?きっと荷物だと思うし」
「え、いいけど…」
普段はインターフォンが鳴ればアヤや九井が出てくれるので、は少し驚いたような顔をした。それでも素直に玄関まで歩いて行くと「はーい、ちょっと待って下さいねー」と声をかけている。
他人事ながら、アヤも九井もこの時ばかりは緊張せずにはいられなかった。天竺と東卍の抗争で蘭と竜胆が逮捕されてから約半年、そのことを隠しながら何とかを面倒みてきた。最初は泣いてばかりだったも今はすっかり落ち着いて、蘭の話をしても泣くことはなくなり、仕事が終わったら帰って来ると信じて今日まで頑張って来た。
こんな時にその日々を思い出したアヤは、不意に胸がいっぱいになって来るのを感じた。
「…長かったなあ」
がドアを開ける音を聞きながら、アヤがホっと息を吐き出したように小さく呟く。
そんなアヤを見て、九井は労うように彼女の頭を撫でた。
「お疲れさま」
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玄関口まで歩いて来たは、アヤと九井の様子がいつもと少し違うことに気づいていた。と言って、ふたりが何かを隠していると気づいたわけじゃない。
(アヤちゃんとココちゃん、もしかして…いい感じなのかな)
何度となくコソコソ話しているふたりを、こっそり観察していたは思わず顔がにやけそうになった。大いなる勘違いなのだが、大好きなふたりが恋人同士になってくれたら嬉しいな、と思いながらサンダルを履く。それは竜胆のもので、当然足のサイズは大きかった。でも宅配の荷物を受けとるだけならこれで十分なので、普段からそれを借りている。
その時、もう一度チャイムが鳴り、は「はーい。ちょっと待ってくださいねー」と声をかけながら鍵を回し、ゆっくりとドアを開く。
「…わ…ッ?」
開けた瞬間、まず視界に飛び込んで来たのは大きな大きな花束だった。あまりに大きな花束なので、宅配してくれた人の姿も見えない。
「灰谷さんにお花のお届けものでーす」
「は…はい」
一瞬、花束の大きさに驚いてしまったが、は条件反射でそれを受けとろうとした。何故、いきなり花束が届くのかという疑問も少しある。
しかし、今聞いた声を思い出し、ぴたりとその手が止まる。
「…え…?蘭…ちゃん…?」
そんなはずはないと思うのに、自分が聞いた声は間違いなく蘭だった気がして、ゆっくりと顔を上げる。すると花束の後ろから、優しい笑みを浮かべた蘭が顔を覗かせた。
「声だけで分かるとか、さすが俺の奥さん」
「ら……蘭ちゃん…っ!!」
何で、とかどうして、という言葉が脳内をぐるぐると回っていたが、考えるより先に体が動き、は蘭に思い切り抱き着いた。その勢いで蘭の手にしていた大きな花束がばさりと足元へ落ちる。
「ったく…高かったのに、これ」
苦笑交じりでそれを拾ったのは、蘭の後ろに隠れていた竜胆だった。
「竜ちゃん…」
「おう。ただいま」
拾い上げた花束を肩に乗せ、竜胆も照れ臭そうな笑みを浮かべた。だがが竜胆に抱き着くことはなかった。蘭がしっかりホールドしているからだ。
「…会いたかった」
心の底から零れ落ちた言葉に、蘭は自分がどれほどに会いたかったのかを再確認した。は「蘭ちゃん…おかえ…り…なさい…」とすでに嗚咽をあげながら、蘭にしがみついている。
「ただいま、…」
「…蘭ちゃん…本物…?」
こうして抱きしめられているのに、確かめずにはいられない。蘭はの言葉に軽く吹き出すと、身を屈めて触れるだけのキスを落とした。
「本物だろ?」
泣き顔のまま放心しているを見下ろし、蘭が微笑む。腕の強さも、唇に触れた熱も、全てがこれを現実だと教えてくれた気がした。
「おーい、玄関先でイチャつくなって」
後ろでは呆れたように竜胆が笑っている。そのいつもの光景に、はやっとふたりが帰って来たのだと実感した。
「、そんな可愛い恰好してんのに足元サンダルって」
「だ、だって…アヤちゃんが宅配の人だって言うから…」
「アヤにはオレが帰って来るの内緒にしろって言っておいたの。を驚かせようと思って」
「お…驚いた…」
の素直は感想に、蘭は笑みを浮かべると、赤くなっている頬にもちゅっと口付ける。蘭と竜胆は出かけて行った時の特攻服ではなく、今はハイブランドのスーツを着ていた。
「蘭ちゃん…お仕事は…終わったの?」
「まあ、一応務めて来たな」
「…オレは二度とごめんこうむりたいね…」
苦笑する蘭に竜胆はウンザリ顔で応える。
「んじゃー久しぶりに我が家に入りますか」
「はーオレ、ビール飲みて~」
蘭はの手を引いて中へ入り、竜胆もその後から続く。そこへアヤと九井が顔を出した。
「お帰り、蘭くん、竜胆~!」
「うお!」
の代わりにアヤに抱きつかれ、竜胆は後ろへのけ反った。蘭に失恋した時ぶりに、わんわんと号泣しだし、竜胆は「何でオマエが泣くんだよ…」と苦笑している。九井もふたりの姿を見て笑顔になると「お帰りさない、蘭さん、竜胆くん」と声をかけた。
九井がふたりと顔を会わせるのはあの抗争以来だ。
「ココ…悪かったな、今日まで」
「いえ…早めに出られて良かった」
九井の肩へポンと手を置いた蘭は、労うように「ありがとう」と言った。
「いえ…こちらこそ」
蘭たち幹部が捕まったおかげで、九井や他のメンバーが逃げ切れたようなものだ。その蘭たちの不在を埋めるのは当然だと思っていた。
「そ、それより…何でふたりして、そんな恰好してんの…?」
今の今まで泣いていたアヤはふと冷静になり、蘭と竜胆のスーツ姿に首を傾げている。鑑別所にスーツを差し入れた覚えはないので、出た後に買ったのだろう。
「美容室に行ってスーツまで買いに行ったわけ?」
「あーまあ、暫く不在にしちまったから店とか回って来たしな」
「あ、そっか…」
自由の身になってすぐに仕事とは何とも蘭らしいとアヤは苦笑した。蘭はいつ何が起きてもいいように、自分達がいなくなった時の為のマニュアルのようなものを作っていて、部下などが今回それで店や不動産を守っていたようだ。
そういうとこまで蘭は蘭だな、とアヤは感心しながら、思い出したようにバッグからの通帳とカードを蘭へ返した。
「はい、これ。の夏服とか色々揃えて、後は女子の必需品その他もろもろに使ったよ」
「おう。アヤもホント、ありがとな。大変だったろ、の面倒みんの」
蘭は笑いながら視線を下へ移す。はこれでもかというくらい蘭にベッタリとくっつき、まるで猫のように甘えている。半年経っても甘えん坊は健在のようだ。
「ほーんと大変だった。お風呂入れば髪を洗ってーだの、出たら出たで乾かしてーだの、ご飯だって好き嫌い多いし、寝る時は手を繋いでだの、蘭くん、マジのこと甘やかしすぎ」
「そっかー?オレは大変だとは思わねーし」
「…げ。マジで嫁バカ」
「どうとでも。今日のオレは機嫌がいいから何言われても腹たたねーわ」
蘭はそう言うや否や、自分の腰にしがみついていたを抱えると、自分の部屋へと歩いて行く。は「ひゃ」と驚いた声を上げたが、蘭は気にすることなく笑顔でふたりの方へ振り返った。
「しばらく部屋にいっから邪魔しないでねー」
「はあ?ちょっと!出所祝いすんでしょ?!」
「準備だけしといて。あー竜胆――」
「……ドッピエッタでオードブルデリバリーね。ピンチョスもだろ?りょーかい」
戻って早々、コキ使われるという前の状態に戻った竜胆が溜息交じりで片手を上げる。九井は笑いながら「オレも付き合いますよ」と肩を竦めた。
「あーアヤは酒、調達係ね」
玄関に向かいながら、竜胆が振り返る。
「は?マジ?」
「兄貴はとふたりきりになりてーの。邪魔者は買い出し行けってこと」
「な…何よ、蘭くんてば帰って早々エッチする気?!そんなの許せな――んぐぐぐつっ」
「いーから行くぞ…。ったく、オマエ、まだ兄貴に未練あんのかよ…懲りねーなぁ?」
アヤの口を塞ぎつつ、竜胆が苦笑する。そのままアヤを無理やり引きずるように、三人は買い出しへと出かけて行った。
そしてを部屋に連れ込んだ蘭は、会えなかった分を埋めるようにキスをしていた。ベッドへ座らせ、そのままゆっくりと押し倒していく。
「…ん、ら…んちゃん…」
「…めちゃくちゃ会いたかった」
何度か唇を啄んだ後に、吐息交じりで呟けば、の瞳にじわりと涙が浮かぶ。
泣いてばかりじゃ傍にいてくれるアヤや九井に悪いと、は気づけば平気な振りをするようになっていた。けれど寂しい気持ちが消えたわけじゃない。
この部屋でひとりになった時、何度声を押し殺して泣いたかしれない。
蘭の温もりが消えた部屋はの不安を煽って行くばかりで、二度と会えないんじゃないかとすら思ってはこっそり泣いていた。でも約束通り、蘭はちゃんと帰って来てくれた。
目の前で優しい眼差しを向けている蘭は、夢の中の蘭じゃない。紛れもなく本物の蘭だ。
「わたしも…会いたかった…会いたかったよ…」
「…ごめんな。ひとりにして」
額を合わせ、濡れた頬にも口付けながら、蘭はホっとしたように微笑んだ。自分で決めたこととは言え、半年もの間、塀の中に閉じ込められた日々は相当きつかった。
5年前の少年院とは比べものにならないほど、早く出たいとそればかり考えていた。
「もう…二度とひとりにはしない」
「…蘭ちゃん…?」
「生き方は変えらんねーけど…もう絶対にをひとりにしねーから…だから…ずっとオレのそばにいて」
これほど真剣に女と向き合ったことはなかった。会えなくなって、これほどツラいと思ったことも。
「ほんとに…?」
は未だ不安げに蘭を見上げている。その震える唇にキスを落とし「ほんとに」と微笑む。
「オレの明日はにやるよ。明日も、明後日も、明々後日も」
指輪の光るの薬指にもちゅっと口付けながらそう言えば、の泣き顔が笑顔へと変わる。
「…わたしのも、あげる」
はそう呟くと、蘭の手をとり薬指に光る指輪へと口付ける。
突然現れた救世主は、にとって一生そばにいたいと思える大切な人になった。
「わたし…蘭ちゃんの為に生きてる気がする」
何度も死にたいと思った過去の自分を救ってくれたのは、間違いなく目の前にいる蘭だ。
「すげー殺し文句」
蘭は幸せそうな笑みを浮かべて、その小さな唇へ誓いのキスをするように、優しく深く、口付ける。
六本木の街で拾った子猫は、蘭の知らない感情をたくさん与えてくれる、唯一の女の子になった。
これまで失ったものはたくさんある。
けれど、それでも。ふたりでいれば、明日も一緒に笑える気がした。

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