キッチンより愛を込めて



この日、蘭は竜胆と共にチームとは別の裏の仕事で外に出ていた。九井に資金繰りのアドバイスを受けてからは更に順調で、飲食店や手に入れた不動産の運用などを手広くこなしている為、最近は何かとそっちの方で忙しい。その間、は家で留守番をさせているが、可愛い妻が心配なのか、蘭は定期的に電話をかけていた。

「おかしいな…」

夕方近く、蘭と竜胆は客とのテナント契約を終えてやっと全ての仕事から解放された。時刻はちょうど夕飯時。お留守番のご褒美としてどこか外で夕食を食べさせてあげようと、蘭がに電話をかけ始めた。しかし一向に出ないことで訝しげに眉を寄せる。二時間前や、一時間前に電話をした時は2コールで出たのに。
要は今日一日、一時間起きにかけていたのだが、その都度すぐには出てくれたのに、今は全く出る気配がないので少し心配になっただけだ。
寝てしまったんだろうか…とふと思う。はひとりで勉強をしていると時々うたた寝をすることがあるからだ。

「どうした?兄貴」
が出ねえ」
「寝てんじゃねえの」
「そうかもしんねえけど…さっきも電話したしケータイは近くに置いてるはずだ。鳴らしたらアイツすぐ起きるから」
「じゃあトイレとか」

と竜胆が笑いながらふざけて言えば,蘭がジロリと睨む。その可能性もなくはないが、竜胆がからかい半分に言ってきたのが蘭は気に入らない。その感情のままに無言で弟の頭頂部にゲンコツを食らわす。

「いってぇっ…よ、兄ちゃんっっ!」
「そりゃ痛くなるように殴ったからな」

殴られたところをヒーヒー言いながら擦る弟を尻目に、蘭はもう一度かけてみようと視線をケータイ画面に移す。
そのタイミングで蘭のケータイが鳴りだした。画面には愛しい奥さんの名前。蘭はすぐに「もしもし、?」と電話に出た。背後で恨めしそうな顔をして睨んでいる竜胆とは裏腹に、蘭はからの折り返し電話にホっとしたのか満面の笑みを浮かべている。しかし通話口の向こうから『蘭ちゃん…』という、か細い涙声が聞こえて来た瞬間、蘭の笑顔が固まった。

「どうした?泣いてんのかよ?」
『う…涙が…』
「え?よく聞こえねえし、もっとデカい声で」
『…目からどんどん涙が出て…止まんないの…凄く痛いし…わたし、何の病気…?』
「は?」
「どうしたんだよ、兄貴…」

一気に青ざめた兄を見て、竜胆もギョっとしたように声をかけた。だが蘭は「今すぐ帰るからジっとしてろ」と告げて電話を切ると、家に向かって走り出した。それには竜胆も驚いて後を追いかける。

「おい、兄貴!なんだって?何かあったのかよっ」
「分かんねえ!何か涙が出て止まんねえって言って泣いてんだよっ」
「はあ?何だそれ…兄貴が遅いから寂しくて電話してきたんじゃねえの?この前もあったじゃん、そんなこと」
「今の電話はそんな感じじゃなかったんだよ!目が痛いつってたし…いいからサッサと帰んぞ!」

慌てたように走って行く蘭を見て、竜胆はそれ以上口を挟むのはやめておいた。のことになると蘭はいつもの半分も頭が回らなくなるのは竜胆も分かっている。どうせこれで帰ったらが「寂しかっただけ」というオチなんだろうな、と苦笑しつつ、竜胆も急いで蘭の後を追いかけた。


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!」

全力疾走してきたおかげか数分後には自宅マンションに到着。竜胆に至っては息が切れてぜぇぜぇ言いながら玄関まで辿り着いた。ここまで本気で走ったのは小学校の運動会以来かもしれない。

「マ、マンションの…廊下まで…走ることなくね……?」

玄関に入った瞬間、靴を脱ぎ、その場でひっくり返った竜胆は激しい動悸を沈めようと深呼吸をしつつ、何とか体を起こしてリビングまで這って行った。蘭はすでに中へ飛び込んでを探しているようだ。リビングの方から「…!」と慌てたような声で可愛い奥さんを探す声が響いてくる。

!どこだよ?」

まずは自分の部屋から、と思いドアを開けた時、リビングの方で「蘭ちゃん…?」との声が聞こえてきた。蘭がすぐにリビングへ足を向けると、彼女が泣きながら抱き着いてくる。まずは頭を撫でて落ち着かせようと「どうした?何があったんだよ」と優しく問いかけてみたが、は蘭にしがみついたまま「目が…」と呟いた。

「蘭ちゃん…目が痛い…」
…ちょっと見せて」

すぐに屈むと顔を上げさせてから目を確認したが、は痛くて開けられないと首を振る。その間もポロポロと涙が零れて来るのを見て、蘭はその涙を指で拭いながら「いつから?」と聞いてみた。原因があるならちゃんと聞かないとどうしようもない。するとは「15分くらい前から…」と答えた。

「何もしてねえのに痛くなったのか?」
「……ううん」
「じゃあ…どこかにぶつけたとか?」

それも違うと言うようには首ふる。そして「あのね…夕飯作ろうと思って野菜切ってたの…そしたら急に…」と涙声で説明しだした。そこで蘭は気づいた。確かに家の中に入った時、何か知っている食材の匂いがしたことを。そこでに「ちょっと待ってて」と声をかけてから、すぐにキッチンへと向かう。そこには確かに料理をしている途中の状態でボウルやら包丁などが置いてあった。そしてまな板の上に散らばっていたのは――。

「は…?玉ねぎ…つーか、くさっ!」

よくよく嗅げばキッチンには玉ねぎの匂いが充満しており、切っていなくても目が痛くなるほどだ。蘭はすぐに換気扇を回し、窓を開け放った。

「蘭ちゃんも目が痛いの…?」

そこへ不安そうにが歩いて来る。だいぶ痛みと涙は引いたのか、今は目を開けているものの、確認するとの目が真っ赤に充血している。それを見た蘭は原因が分かってホっとしたのもあり、思い切り吹き出してしまった。

「…ったく…驚かせんなよ…」
「…え?」
の目を痛くした犯人はコレ」
「……玉ねぎ…?」

蘭がまだ皮の剥いていない玉ねぎを手にすると、は酷く驚いたように充血した目で蘭を見上げた。

「まあ、今まで触ったことねえんだし知らねえよなァ…。玉ねぎ切る時は少しの間、水につけておかないと目が痛くなんだよ」
「えっ!病気じゃないの?」

本気で心配していたらしい。安心したような笑顔を見せるに蘭も笑うしかなかった。

「ちげーよ。現に今はもう痛くねえだろ?」
「うん…急に涙も止まった…」
「ってか何を作ろうとしてたんだよ…。目も保護しないで、こんだけみじん切りしてたら、そら涙が止まんなくなるって」

まな板の上には細かくされた山盛りの玉ねぎが乗っている。傍らにはレシピ本が開いて置いてあり、そのページを覗くとハンバーグの写真が見えた。

「あ~、ハンバーグ作ってくれてたのか」
「…うん。さっきテレビで見てたら簡単そうに見えたから…蘭ちゃん好きでしょ?」
「うん、好き」

の気持ちが嬉しくて、蘭も頬が自然と綻ぶ。前に何度かやらかしている為、にはこれまで料理は殆どさせたことはなかった。しかしなりに「蘭ちゃんの奥さんになったんだから料理くらい覚えなくちゃ」と言って簡単な物から練習していたのは知っている。今日も美味しそうなハンバーグを作る料理番組を見て、蘭に作ってあげたくなったようだ。

「じゃあ今日は外食やめてハンバーグ作るか」
「え…」
がせっかくここまで玉ねぎみじん切りにしてくれたしなー。無駄にすんのは嫌だからオレも手伝うわ」
「いいの…?お仕事で疲れてるでしょ…」

途中から目の痛みに挫けてひとりで作れる気がしなかったは、蘭が手伝ってくれると知って嬉しくなった。しかし仕事から帰って早々手伝わせるのは奥さん失格だとも思う。そんな気持ちを察した蘭は「全然疲れてねえから」との頬にちゅっとキスをした。

がここにちゅーしてくれたら、もっと疲れが吹っ飛ぶかもなー?」
「えっ」

ニヤリとしながらの目線まで屈むと、蘭は自分の唇を指さした。そして鮮やかなバイオレットを隠すように目を瞑ると、の頬が薄っすら赤くなる。

「あれ、してくんねーの?」

なかなかキスをしてくれないことで蘭が片目だけ開けて苦笑する。出会った頃はの方からキスをしてくれたのに、最近は蘭に恋をしたことですっかり恥じらいが出てきてしまった。蘭にしてみれば前より安心なこともあるが、こういう時は少しだけ寂しく感じる。それでも目を瞑って待っていると、モジモジしていたからちゅっと可愛いキスを貰えた。しかし蘭には物足りず「お返し」と言いながら、の唇を今度はやんわりと塞ぐ。やはりお帰りのキスは新婚にとって最も大事なのだ。
そこへ竜胆が顔を出した。やっと呼吸も整ったようだが、心なしか顏がげんなりしている。

「何かリビングまですんげー玉ねぎ臭ぇんだけど…もしかして目の痛みの原因ってコレ…?」

弟に目もくれずイチャつくふたりに呆れつつ、キッチンの状態を見て一目で気づいた竜胆は、コレが原因であんなに急いで走って来たのかと思うと疲れが一気に倍増した。その場にしゃがみ込み「何が病気だよ…」とがっくりと項垂れる。いわゆる不良らしいウンコ座りスタイルだ。

「あ?ここは病気じゃなくて良かったなーって喜ぶとこだろ。そもそも玉ねぎが目に沁みるって知らないからしたら急に目が痛くなれば病気だと心配になんのは当たり前じゃね?」
「……はいはい。ったく結局こんなオチだよ…」

こうなれば蘭に何を言っても無駄だと分かっているので竜胆は反論することをやめた。今の灰谷家はファースト。これに抗っても痛い思いをするだけだ。
しかしと仲良くハンバーグを作り出した蘭がふと竜胆を見ると、その目を僅かに細めた。何か嫌な予感がする。

「ふーん…そんな態度なら竜胆はハンバーグいらねえんだな?」
「…は?」
の手作りハンバーグが食えない竜胆はかわいそうだよなー?
「ちょ、兄貴…?」
「えっ!竜ちゃんハンバーグ嫌い?」

が驚いたように振り向く。ちょっと変な方向に勘違いをしたらしい。それには竜胆も慌てて首を振った。

「嫌いじゃねえ!むしろ好きだよっ」
「ほんと?じゃあ竜ちゃんのは大っきく作ってあげるね」
「…うん(可愛い…)」

さっき泣いてたとは思えないほどニコニコしているを見て、竜胆の顔も僅かに緩む。竜胆本人は気づいていないが、すっかり自分も蘭の仲間入り――にデレデレ状態――をしている。

「良かったなー?竜胆」

可愛い妹――義姉だけど――の初めての手作りハンバーグが食べられるなら、蘭の意地悪も短距離走なみに走らされたことも、まあいっかと思えるから不思議だ。
先ほども言ったが、今では蘭に感化され、すっかりバカになっている自分に、竜胆は全く気づいていない。

「オレ、チーズインハンバーグがいい」
「ゼータク言うな、竜胆。つーかチーズねえから」
「マジで?」

ニヤケている竜胆に気づき、ジロっと睨みを利かす蘭だったが、不意にが「私もチーズ入れたい!」と言いだしたことで、がらりと表情が変わる。満面の笑みを浮かべ「じゃあ入れるー?」と即決。蘭の自分にだけ理不尽な塩対応に、つかさず竜胆の目が半分になっていくのは、こういう瞬間だ。
そして更に理不尽な現実が竜胆を襲った。

「竜胆がチーズ買って来てくれるんだよなあ?良かったなー?
「え…」
「え、ほんと?竜ちゃん」
「………お、おう…(兄ちゃんの鬼!)」

の嬉しそうな笑顔には勝てず、つい頷いてしまった。それを見てニヤニヤしている蘭に口元を引きつらせつつ、すでに筋肉痛になりかけている重たい足を引きずりながら、竜胆はとろけるチーズを買いに行く羽目になった。
今日も今日とて、ファーストな灰谷家なのである。


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