目覚めた時、すでに夕方近かった。一瞬自分がどこにいるのか分からず、慌てて体を起こすと二日酔いのようなぐわんとした揺れに襲われる。そこで甘い香りがすることに気づいた。
――この匂いはの家だ。
そして何故ここに?と考える前に、夕べの情事の光景が頭に浮かぶ。
「…バカか、オレは」
彼女を抱いた記憶。これは夢じゃない。そこに気づいた時、無意識にそんな言葉が漏れていた。
オレはベッドの上で、しかも服は着ていない。夢のはずがなかった。
ふと室内を見渡すと、チェストの上にオレの服が畳んで置かれている。彼女が畳んでくれたに違いない。そこで小さく息を飲み、隣を確認した。
「は?いねえじゃん…」
隣で寝ていたはずの彼女の姿がない。開け放されたドアから見える限り、隣のリビングにも彼女はいないようだった。
「え…どこ行ったんだよ…」
まだ少しの酔いが残った体を動かし、どうにか服を身につけると、恐る恐るリビングを覗く。でも思った通り、彼女の姿はない。他にトイレやバスルームなどを確認して回ったけど、どこにもはいなかった。
オレの部屋と間取りは同じなんだから、他に隠れるような場所がないことも分かる。まあ彼女が隠れるはずもないだろうけど。
完全にいないと分かると、今度は一気に不安になった。
あんなことをしたから彼女は怒ってどこかへ行っちまったのか?とも考えた。
ただ最初に仕掛けてきたのは彼女からで、怒ってると考えるのも違う気がした。
(それとも…オレと寝たこと後悔して出て行ったとか…?)
いや、後悔してるのはオレも同じだったかもしれない。
よりによって気持ちを告げる前に好きな子を抱いてしまうなんて、どんだけ節操なしなんだ、オレは!
いや好きだからこそ歯止めが効かなかったってのもあるけど、そこは我慢しろよ!ってか、せめて告白してからにしろ!
己の単純さと浅はかさに嫌気がさして頭を掻きむしる。誰かに思い切りぶん殴って欲しいとさえ思った。
それに…たとえばの話。実は彼女にその気があったわけじゃなかったんだとしたら、もう二度と会ってくれないかもしれない。
向こうもかなり酔ってたし、元カレと完全に終わったことで、寂しさとか虚しさみたいなもんがごちゃ混ぜで、単にオレに縋っただけだったとしたら?
相手がオレじゃなくても、誰でもいいから温もりが欲しいと思っただけだったとしたら?
それこそ彼女はオレと顔を合わせづらいだろう。
そう考えると、オレが起きる前に部屋を出て行ったのも納得がいく。
「…マジか…」
深い溜息と共に頭を抱えた。
これは完全にやらかしたかもしんねー。
せっかく仲良くなれてきたところだったのに、目の前の欲に溺れて、好きな子に手を出してしまうなんて最低だ。
たとえ彼女が寂しさを紛らわせたくて縋ってきたんだとしても、そこはオレが理性を保って断るのが正解だった。それをバカみたいにホイホイ乗っかってしまうオレは煩悩の塊だ。ただのやりチン男だ。
いや、違うけど!
相手がだったから誘惑に勝てなかっただけで、他の女だったら速攻で逃げ出してたはずだ。
「あークソ…!」
焦りと混乱、後悔。色んなもんが交じり合って頭の中がグチャグチャだ。
溜息交じりでソファに座り、背もたれに頭を乗せる。このまま部屋で彼女を待っていたい気持ちと、今すぐ帰った方がいいという気持ちがぶつかり合っていた。
「…ん…?」
どうしたらいいのか分からず、髪をグシャグシャと搔きながら頭を起こすと、何かが視界に入った。見ればテーブルの上に鍵とメモらしき紙がある。夕べ片付けた時はこんなものなかったはずだ。
「え、から…?」
すぐに紙を手にすると、そこには可愛らしい文字でこう書かれていた。
"千冬くんへ。ちょっと友達の家に行ってきます。鍵はポストの中へ入れておいて下さい"
たった二行の短いその文章を見た時、オレの中で"終わった…"という言葉がぐるぐると回りだす。
すでに抑えきれないほど溢れそうな彼女への想いが、絶望の淵に落ちていくのを、オレはハッキリと感じていた。
関係を持った後、男を置いて友達のところへ出かけていく女の行動が良いパターンだとは思えない。愛読してる漫画の中にも不穏な流れとしてそんな場面があったことを思い出す。
「終わった…」
今度は口からその言葉が零れ落ちた。
何とも表現しがたい虚しさに襲われたままソファから立ち上がると、テーブルの上の鍵を手に彼女の部屋を出る。その後は何も考えることが出来ず、無意識のまま鍵をかけ、メモにあったように彼女の部屋のポストへそれを入れた。
が何時に出かけて行ったのかは知らないが、外はすっかり夕焼け色に染まっていて、オレンジ色の夕日に照らされると、やたらと寂しさがこみ上げてくる。
それは自分の部屋へ戻ってもしばらく消えてはくれなかった。
(これからどうすればいいんだろう…)
一人でいるとそんな言葉ばかりが脳内にエンドレスで流れる。きっと、もう二度と彼女はご飯や、飲みに誘ってはくれないだろうし、あの可愛らしい笑顔を向けてくれることすらなくなるかもしれない。
もし偶然、顏を合わせた時でも互いに気まずそうな挨拶を交わす程度で終わりそうだ。
そんな光景を想像しては何度となく絶望した。
いっそ引っ越すか?と思い立ち、パソコンで物件を探したりもしてみたけど、つい数か月前にこの辺りの物件は散々探し回ったんだから、今のマンション以上に良物件があるはずもなく――。
重苦しい溜息と共にパソコンを閉じた。
「はぁ…今更実家には戻れねえし…」
ベッドの上に寝転がり、溜息をつく。現実問題、実家から店に通うのもキツい。いや、その前にお袋から出戻りの理由を聞かれても困る!
じゃあ、どうする?と、結局ふりだしに戻るだけだった。
このまま気まずい状態でここに住み続けるしかないという答えしか出ないんだけど。
「…ん?」
何十回目かの溜息が漏れた時、ポケットに突っこんだままのスマホが鳴りだし、気怠い体を起こす。ほんの一瞬だけ彼女かも!…と期待したけど、電話をかけてきたのは一虎くんだった。一人で堂々巡りをして煮詰まってたオレは、つい縋るように画面をスライドさせた。
『お~…千冬?夕べはどうだったー?』
一虎くんも起きたばかりなのか、大欠伸をかましながら訊いてきた。きっと昨夜の飲み会は場地さんと朝までコースだったに違いない。いつもならオレもそこに参加して同じように夕方まで寝てたはずだ。
けど――現実は違う。
こんなことになるならオレも夕べ二人と飲み明かしてれば良かった。今は心からそう思う。
「一虎くん…」
『…あ?どしたぁ?しょぼくれた声だして…って…あ!もしかして――フラれたとか…?』
オレの第一声はよほど情けない声だったに違いない。一虎くんは光より早くオレの異変を察知したようだ。
言ってみればフラれたわけじゃない。そもそも告ってさえいないんだから。
でも、そのせいでとのこの先の未来は――ないんだろうな。
「…実は――」
今日、起きてから数十回目の深い深い溜息を吐きながら、夕べの己の愚かな行動を、一虎くんに話し始めた。
△▼▽
『バーカ!今からでも遅くねえだろ』
懺悔のようなオレの下らない話を最後まで黙って聞いてくれてた一虎くんは、話し終えた途端にそう言った。
「え…いや、でも――起きたらいなかったんスよ…?それって向こうはオレと顔を合わせたくなかったからだろうし…」
『あのなぁ…確かに彼女は元カレの最低な行動で傷ついて千冬に縋ったんかもしんねーけど、そもそもの話、全く好きでもねえ男とヤったりしねーだろが』
「それは…まあ…いや、でも――」
『それとも、千冬の惚れた女は誰でもいいから寝るような女なのかよ』
「な…はそんな子じゃねえし…!」
思わず声を荒げてしまった。でも一虎くんは怒るでもなく逆に笑い出した。人がこんなに悩んでるってのに呑気な先輩だ。
『だろ?なら…オマエがやることは一つしかねえ。ちゃんと自分の気持ちを伝えろ』
「え…」
『それに出かけちまったのも彼女の方だって千冬とそうなったことで動揺したかもしんねーし、どう向き合えばいいのか分かんなかったってこともあんだろ』
「まあ…そうっスけど…」
ふと目覚めた時、部屋にがいなかった時の絶望感を思い出す。あの時はそのショックのせいで彼女がどう考えて行動したかなんて考える余裕もなかったけど、今になって思えば一虎くんの言うことにも一理ある気がした。
『とにかく起こったことを悩んでても仕方ねえんだし、もう一度彼女と会って話してみろよ。オマエから正直に話せば向こうだって本音を話してくれるかもしんねーじゃん』
「そう…っスね…」
一虎くんと話してるうちに、オレの心も次第に落ち着いてきた。さっきまでの"今すぐ消えてしまいたい"というネガティブな感情が少しずつ薄まっていく。
ふと思い出してパソコンを開けば、賃貸マンションの情報サイトが開きっぱなしになっていた。
このまま引っ越して彼女の前から消える…なんて、自分でもバカなことを考えたなと苦笑が漏れる。
「一虎くん…」
『ん?』
「オレ、ちゃんと彼女に自分の気持ち伝えてみます」
一虎くんに話を聞いてもらったおかげでゴチャゴチャだった頭の中がスッキリしてきた。やっぱり、このままと気まずいままの関係で隣人を続けるなんて嫌だ。きちんと告白しよう。
じゃないと彼女の弱みに付け込んで誘惑に乗っかっただけの最低男になっちまうから。
一虎くんはオレの決断を聞いて『頑張れよ』と言ってくれた。
『本音を伝えれば彼女もちゃんと千冬のこと、どう思ってるかは答えてくれんだろ。オマエの話を聞いてる限り、いい子みてーだし』
「そ、そうっスよね!じゃあ彼女が帰宅したら早速――」
だいぶ告白ムードが盛り上がってきた時だった。
突然部屋のインターフォンが鳴った。
『誰か来たのか?』
「そうみたいっスね…誰だろ」
言いながらも時計を見れば、すでに午後6時を少し過ぎていた。こんな時間に新聞の勧誘でもないだろう。といって、特に尋ねてくるような人物は思い当たらない。
いや、前ならだとすぐ分かったけど、あんな風に置手紙をして出かけて行ったんだから、それはないはずだ。
そう思いながらインターフォンのモニターを覗き込む。
「えっ」
『あ?何だよ、急にデカい声だして』
あまりに予想外でつい声を上げてしまった。
「か、かかか一虎くん…!」
『どしたー?そんな慌てて』
一虎くんは呑気に笑ってるけど、オレはとても笑えなかった。
「か、彼女が来た…」
『は?彼女って…隣の…?』
「い、今…部屋の前にいるっス…」
驚きすぎて上ずった声で言いながら、モニターを凝視する。
そこには普段と何も変わらない様子のが映っていた。
▽▲▽
「駅前でたこ焼き売ってたから買って来ちゃった!一緒に食べよ?」
「は…?た、たこ焼き…?」
早く出た方がいいと一虎くんに言われて電話を切った後、混乱した頭を整理しつつドアを開けたら、目の前にずいっとソースの香りがする袋を差し出されて呆気にとられた。
彼女は普段と全く同じような笑顔で部屋に上がってくると、慣れた様子で冷蔵庫の中から缶ビールを出し、オレの方へ差し出す。その一連の動作を見てると、夕べのアレは全てオレの妄想だったんでは?と思えてくるほどだ。
「カンパーイ」
夕べも散々飲んだというのに、は開けた缶ビールを美味しそうに飲みながら、これまた無邪気な顔でたこ焼きを頬張ってる。その間中、彼女はどうでもいいような話を延々と喋っていた。
「ここのたこ焼き美味しいよねー!あ、そう言えば駅前に新しくクレープ屋さん出来てたんだよ。今度そっち買ってくるね」
オレとエッチしたことなど忘れたかのように振る舞うその姿を見てるとオレは何も言えなくなって、ただ彼女の他愛もない話を聞きながら相槌を打つだけ。
一虎くんに貰った告白する勇気は、この時点ですっかり萎んでいた。そんな空気にすらならない。ってかの口から夕べの話題は一切でない。
オレはさっきと違う意味で頭が混乱していた。
結局、は一人で喋ってビールを一本飲み終えると「明日は仕事だから帰るねー」と笑顔で手を振って自分の部屋へと戻って行った。
「――マジで?」
次の日、店が終わった後で場地さんや一虎くんに彼女の様子を説明すると、さすがに二人は唖然とした顔をした。場地さんはある程度の流れを一虎くんから聞いてたらしく、「その感じじゃ告白すらさせてもらえなかったようだな」と苦笑いを浮かべた。口元は僅かながら引きつってる。でもオレの方は顔全体が引きつってたかもしれない。
「全然そんな空気にならなかったっス…ってか…どういうつもりなのか分からなすぎて頭の中がグチャグチャっスよ…」
彼女のことを考えると全身から力が抜けたようになる。昨日のの態度を、どう捉えればいいのかサッパリ分からない。
まるで関係する前のような接し方だった。
「そういうこと…なんスかね…」
「そういうって?」
「だから…あの夜のことはなかったことにしたい…とか?言いづらいから態度で表してんのかも」
「…う~ん…」
ポツリと言ったオレの言葉に、さすがの場地さん、一虎くんも困ったように顔を見合わせている。
そりゃそうか。当事者のオレに分からないんだから、彼女のことを知らない二人じゃ余計に分からないだろう。
「やっぱ諦めた方がいいんスかね」
自分で言って苦笑が漏れた。告白しようって決心したはずなのに、すっかり心が折れてしまっている。
オレってこんなに情けない男だったっけ?
これまでの恋愛経験なんて何の役にも立たない。女の子に本気になるって、こんなに切ないものなんだ。
そんなことを今更ながらに知るなんて、マジで情けねえ。
こんなんで、よく昔タケミっちの恋愛相談なんか乗ってたな、と恥ずかしくなった。
その時、ふと場地さんが「アホか」と呟いた。
「諦めるも何も、まだオマエは何もしてねえじゃねぇか」
「え…?」
その一言にドキリとして顔を上げると、場地さんは鋭い眼光をオレに向けていた。
「まあ順番が逆で先にヤっちまったもんは仕方ねえとして…そっから告白もしないうちに諦めるって?」
「場地さん…」
「な~にビビってんだよ!元壱番隊副隊長ともあろう男が情けねえ」
「いてっ」
バシンっと背中を叩かれ、前のめりになった。久しぶりの場地さんからの喝で、一瞬で昔に気持ちが引き戻される。あの頃もこんな風に場地さんはオレの背中を押してくれてたっけ。
「ゴチャゴチャ考えてんじゃねえよ。元々バカなんだから」
「そ、それは言い過ぎっス…」
背中を擦りながらジト目を向けると、場地さんと一虎くんは盛大に吹き出した。オレも釣られて笑うと、重苦しかった気分も軽くなった気がする。やっぱり東卍時代の仲間は最高だって、再確認する瞬間だ。
「これから彼女の家に行って告ってきます」
「覚悟決まったんか」
「うっす!」
場地さんから問われて昔みたいに手を後ろに組み、腹から声を出す。何故か不思議と気が引きしまった。
「んじゃあ、片付けはオレらでやっとくから、千冬はサッサと彼女んとこ行って玉砕してこい」
「すんません、じゃあ頼んます…ってか一虎くん、行く前からフラれる前提で言わないで下さいよ」
張りきって頭を下げたものの、そこが気になってずっこけそうになる。せっかく覚悟を決めたってのに、一虎くんは笑いながらオレを店から追い出した。
でもここまでされちゃ「やっぱ言えない」じゃ済まされない。
本当の意味で覚悟を決めて、オレは愛機にまたがった。
(ああなる前からのことが好きだったって、きちんと言おう)
大きくエンジンを吹かしながら、緊張をほぐすようにオレはアクセルを握った。