
02.朝デート
今週、春千夜は何かと忙しかった。他の組織とのちょっとしたいざこざから始まり、余計な抗争が起きたせいだ。そこを上手く収めるまでに一週間もかかってしまったのは誤算だった。秘書であり今は愛しい恋人となったには簡単に説明し、空き時間をみつけては電話もしていたが、何せ事務所に戻るのは常に深夜近い。当然、普通の会社員として入って来たはとっくに帰宅していて会えることはなかった。でも面倒事は全て片付け、やっと時間に余裕が出来た春千夜が、朝、が起きる頃に電話をかけると、ワンコールで彼女が出る。
『もしもし、春千夜?』
「おう」
お互い気持ちを伝えあって付き合いだした日から約一ヶ月。の呼び方が「春千夜さん」から「春千夜」へと変わったのは、つい最近だ。春千夜が忙しくなる少し前、ふたりで食事をしたあと、飲みに出かけた時のこと。春千夜の顔見知りの女が声をかけてきたことがあった。その時、知り合いの女が「春千夜」と呼び捨てにしているのを聞いたが「私も春千夜って呼びたいな…」とスネたように言い出したのだ。いきなりのヤキモチモードになったにキュンキュンさせられた春千夜に当然、断る理由などなく。むしろ呼んで欲しい!と思いながら「あ?勝手に呼べよ」と大いなるツンで応えた。それ以降、はプライベートの時だけ春千夜と呼ぶようになった。
「起こちしまったか?」
『ううん。もう起きてた。春千夜は?また徹夜明け?』
「まーな。でもそれも夕べ終わったし、今日から事務所にも顔出せるわ」
『えっほんと?嬉しい!』
「………」
無邪気に喜ぶの声を朝から聞いた春千夜の脳内では"可愛い"かよ!というツッコミがいくつも飛び跳ねている。朝から心臓がフル回転し始めて、発作でも起きそうだと心配になるほどドキドキさせられた。
『あ、春千夜、朝ご飯食べた?』
「…あ?まだ、だけど…」
顏をニヤケさせながらも、口調はいつもの素っ気ない感じになってしまった。しかしは気にする様子もなく『じゃあ出社までに一緒にモーニング食べない?』と言って来た。その思いがけない誘いに春千夜の口元が自然に緩む。
「仕方ねぇなあ…付き合ってやるよ…眠いけど」
本当は会いたくて仕方がないクセに、あくまでツンを貫き通す。はそれでも『やったー!じゃあ用意したらすぐ家を出るね』と嬉しそうな声を上げた。
(やべえ、オレの彼女、可愛すぎだろーがっ)
前から行ってみたいと思っていた店があると言うの説明に耳を傾けながら、素直な彼女が可愛すぎるせいで、春千夜の語彙力は徐々に失われ、脳内が"可愛い"と"好き"で埋め尽くされて行く。とりあえず待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切ると、春千夜はすぐさま踵を翻した。実は一度家に帰って寝てから事務所に顔を出そうと思っていたので、自宅マンションもすぐ目の前に迫っていたのだ。だが今の春千夜にとっては睡眠時間よりも久しぶりにに会うことの方が大事だった。家まで送ってくれた部下は帰してしまった為、大通りに出るとすぐにタクシーを拾い行き先を告げた。普段は朝食を抜きがちな春千夜だが、と一緒にとなるとゲンキンなもので食欲が湧いて来る。きっとに先ほど"お茶漬けとおにぎりの店"の話を聞かされたからかもしれない。事務所の近くにあるというその店は最寄りの駅ビルにあるようで、が通勤の際に見つけたようだ。春千夜は電車移動などしないので、そんな店があることすら知らなかった。あまり道が混んでいなかったこともあり、タクシーが駅についたのは約束の時間より10分早い時刻だった。春千夜は支払いを済ませ、タクシーを降りたその足で駅構内へと入って行く。改札の前辺りで待っていれば、来た瞬間に分かるはずだ。
「そろそろ7時半か…」
まだ少し早い時間だと言うのに、電車が到着するたび改札からは大勢の人が足早に出て来る。制服を着た学生も多いが、大半がスーツを着た会社員だ。これから出勤なのかと思いながら、春千夜は黙って人の流れを眺めていた。普段こんな時間から出歩かない春千夜は、普通に働いてる人はこんな早くから職場に向かうのかと妙に感心していた。でも実際も梵天の事務所に入るまではこんな生活をしてたんだろう。いや、今だって自分達とは違い、朝早くから出勤して秘書の業務をこなしてくれている。幹部とは言っても春千夜たちが決まった時間に出社することなど殆どないのだ。
「春千夜…!」
人の流れを見ていた時、の自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、春千夜は寄り掛かっていた柱から体を離すと、改札口付近を見渡した。すると華奢なが人混みを抜けて走って来るのが見える。思わず笑みが零れた。だが次の瞬間、が誰かに押されたようで前のめりに転びそうになった。春千夜は素早く動いてすんでのところでの倒れて来た体を受け止める。
「っぶねぇな…」
「あ…ありがとう、春千夜…」
「気をつけろよ…。つーか明らかに今、後ろのヤツに押されたろ」
大学生風の男が前にいたを押しのけるようにして走って行ったのを見て、春千夜は舌打ちをした。本来ならとっ捕まえて一発くらいは制裁を加えたいところだ。
「だ、大丈夫。こんなの慣れてるし」
「オマエ、毎朝こんな混雑した電車乗ってんのかよ?」
「うん。通勤ラッシュの時間はいつもこんな感じなの」
「…げ…マジ?」
絶対に自分には無理だ。そもそも潔癖症気味なので他人が大勢乗ってる電車などは確実に発作が起きる。
「ケガしてねぇかよ?」
「う、うん。大丈夫」
の乱れた前髪を簡単に直してやると、は恥ずかしそうに頷いた。
「で、どこだよ。その店ってのは」
「あ、そうだ。こっちなの」
は駅の正面口から右にそれて歩き出した。春千夜も出勤途中の会社員たちと同じ流れで歩いていると、やたらと視線を向けられる。それも仕方がない。地味なスーツ集団の中に一際派手な髪色の春千夜はハッキリ言って目立つ。普通の会社員じゃないのは一目で分かるだろう。
(チッ。ジロジロ見てんじゃねぇよ…)
いつもの春千夜なら無遠慮な視線を向けて来る相手に対して怒鳴っていただろうが、今は隣にがいる。僅かな苛立ちもの明るい笑顔を向けられると忽ち消えていくから不思議だと思う。
「あのね、ここなの」
「へぇ。こんなとこに本当にお茶漬け屋があんだな」
外観はどことなく寿司屋みたいな感じだが、店内に入ると出汁や味噌汁のいい匂いがしてきて、春千夜の腹がかすかに鳴った。
「あー何か急に腹減って来たわ」
「私も。ここずっと気になってたんだあ」
無邪気な笑顔で嬉しそうに話すに、春千夜も自然に笑みが浮かぶ。そしてハッと我に返った。自分がこんなにも自然に笑える人間だったんだと改めて驚く。
「ここ座ろ?」
は奥のお座敷になっている席を選んで座った。春千夜も向かいに座ると、すぐに店員が水を運んで来る。
「うーん…お茶漬けも食べたいし、おにぎりも食べたい…」
「どっちも食えばいいだろ」
「でもそんなに食べられないし…。あ、おにぎりはテイクアウトも出来るって!お昼用に買って今はお茶漬けにしよう」
「好きにしろよ」
おにぎり一つで散々悩んでいるに苦笑しながらも、脳内でまた可愛いが大渋滞を起こしている。窓から入る太陽の光を浴びて笑う彼女は、本当に綺麗だ。そう言えば、と春千夜はふと気づいた。こうして朝日の中でと顔を合わせるのは初めてで、少しだけ照れ臭く感じた。
「春千夜は何にする?」
「オレは…やっぱおにぎりだな。さっきに話聞いてからずっとおにぎり脳になってるわ」
「おにぎり脳って。でも分かる」
春千夜の一言で楽しそうに笑うは、太陽の光が良く似合うと思った。アングラな世界で生きている春千夜には、少し眩しすぎるくらいだ。結局、はタラコ茶漬けを頼み、春千夜は定番の鮭とおかかのおにぎりを頼んだ。塩加減や米の硬さ、握り方がどれも絶妙なほどにふわふわで、随分と久しぶりに飲んだ味噌汁はやたらと美味かった。朝からちゃんとした朝食を摂ったのはいつ以来だろう。
「マジで美味いわ、これ」
「ほーんと。お茶漬けの出汁も絶妙で凄く美味しい」
お茶漬けが熱いのか、ふーっと冷ましながら食べているの頬が次第にほんのり赤くなっていくのを見て、春千夜の胸がかすかに鳴る。こんな風につき合っている相手と一緒に朝食を食べるのは初めてだった。これまで散々女と付き合っては別れるを繰り返して来た春千夜だったが、一緒にいてこんなにも心が穏やかになった相手はいなかったように思う。
「…春千夜?」
「あ?」
「食べないの?」
に言われて手が止まっていることに気付いた春千夜は「ああ」と一言、応えてから二つ目のおにぎりを食べ始めた。との穏やかな時間は春千夜の冷え切っていた心を温めてくれるような安らぎを与えてくれる。こんな風に感じたのは初めてだった。もっと同じ時間を共有したい。そう思うに十分な愛情が育っている気がした。その時、ふとが顔を上げた。
「春千夜」
「…ん?」
「…好き」
「は…?」
突然、何の脈絡もなく好きという言葉を向けられ、春千夜の心臓が壊れたのかと思うほどに跳ねた気がした。じんわりと顔の熱が上がって行くのが自分でも分かる。確実に赤くなっているような気がして、春千夜はプイっと顔を背けた。
「な…に言ってんだ、いきなり…っ」
「春千夜とこうして朝ご飯を食べてるのが、凄く幸せって思ったら言いたくなったの」
は照れながらも、こうして素直な想いをぶつけてくれる。逆に春千夜は女に対して、これまでも愛情表現などしたことがない。いや、そこまで愛情を持てた相手がいなかったのかもしれない。春千夜が執着したのは後にも先にもマイキーだけで、女という存在は男として必要ではあるが今みたいな愛情を持ってたかと問われれば答えはNOだった。なのに、だと伝えたくなる。初めて自分の中に生まれたものをつい口にしたくなるのだ。
「…奇遇だな。オレも同じこと思ってたわ」
「…え」
「オマエが好きだ」
「春千夜…」
「つーかサッサと食って事務所行くぞ…!遅刻すんだろーが」
「うん」
別に幹部なのだから時間などあってないようなもので、は上司である自分といるのだから遅れようが問題はさしてない。照れ隠しでつい言ってしまったが、もそれを分かっているのか何も言わず笑顔で頷いた。付き合いだして間もないふたりは手を繋いだこともなければ、キスもしていない。なのに春千夜の心は満たされていく一方だ。ふたりで食べる朝食は最高に美味しくて、とても幸せな朝だった。