03.恋に落ちた日


最初に好意を持ったのはの方だった。前の会社でセクハラを受けて退社したは、新しい仕事を探していた。そんな時、今の事務所の募集欄を見かけたのだ。特に派手に広告を打つでもなく、ひっそりと載せてあったその会社は主に不動産業務を行っているようで、元々同じ業種にいたの目に留まるのは必然的なものだったのかもしれない。

それまで大手の会社にいたは、大手ならではのブラックな面を見せられ続けて来た。だからこそ派手な募集ではなく、地味に雑誌の片隅に乗ってるような会社に惹かれたのだ。そこで他の誰かが決まる前に、と連絡をしたはすぐに面接をしてもらえることになった。先方は今すぐ人手が欲しいとのことで、主な仕事内容は会社のNo.2を含めた幹部たちの業務サポートをする秘書的な役割りだと言われた。これまで自分がしてきた営業職とは違うものの、本来は苦手な営業よりも裏方の仕事が好きなにとってはまさにうってつけの申し出だと思い、すぐに了承して面接へと向かった。だが、会社だという高層ビルを見た時には驚かされた。想像していた規模より遥かに大きなビルで、募集欄からイメージしたものとは大きく異なる。しかし面接の予約はしている為、一瞬怯んだものの、は心を決めて面接へと挑んだ。

面接官として現れたのは少し目付きの鋭い男だった。長い髪を後ろで一つに縛り、色は白髪に近いアッシュで、何とも派手な面接官には当然面食らった。しかし見た目とは裏腹に丁寧な話し方と説明で、はこの会社にいい印象を持った。後にこの時の面接官が社内では幹部兼経理責任者の九井一という男だと分かる。は持前の明るさと真面目さで面接を乗り切り、その場で「採用する条件」を全てクリアした。

「ウチの幹部…社員はだいたい口が悪いですが、その辺は気になりませんか?」

最後にそう問われた時、は「はい」と答えた。面接で聞くにはおかしな質問だとも思ったけれど、言葉が丁寧でも酷い上司はいる。前の職場がまさにそうだった。だからというわけではないが、真逆のような会社を選んだのかもしれない。もし合わなそうなら辞めたらいいだけの話だ。はそれくらい軽く考えていた。何より、ビシバシと感じる面接官の普通の会社員にはない雰囲気が気になった。自分の知らない世界の住人かもしれない。そんな少しの好奇心で、はSKK・ホールディングスという怪しげな不動産会社に入社することを決めた。

そこでの直属の上司となったのが、三途春千夜というド派手な髪色と美しい顔の口元に大きな傷を二つ持つ男だった。いや、初日に挨拶を交わしたNo.3の男の顏にも大きな傷があり、さすがにも驚いたのだが、怖いと言うより、そこでもやはり好奇心の方が勝ってしまった。特に上司である三途春千夜という男は、九井の言ったように口も態度も悪い上司だった。どう見ても普通の人間ではなく、裏社会の人間だろうと感じるほどに。いや実際そうなんじゃないかとも思っていた。幹部のうち二人も顔に傷がある。それも他人からつけられたような酷い傷だ。それでも、春千夜という上司は前の会社の上司のようにセクハラをするでも、無理難題を押し付けてを困らせるでもなく、通常通りの仕事をさせてくれる人物だった。単に粗暴なだけなので、も口の悪さに慣れていき、当初のように怯むということもなくなっていった。

「三途さん、コーヒー淹れ直しましょうか」

どこかのビルの賃貸契約書を作成して持って行った時、ふと春千夜のカップが空なのに気づいて声をかけると、その大きな瞳を僅かに向けて「…頼むわ」と応えてくれる。春千夜は不愛想だが、ただそれだけだ。の仕事に対し、褒めもしないが叱ることもない。いやミスをしたなら叱られるだろうが、の仕事ぶりは丁寧で早いと九井からも好評だった。主に書類仕事や、他の幹部の手が回らない仕事の補佐をしているので、何となくこの会社の内部事情も透けて見えて来る。おそらく真っ当な会社ではないだろうとも思っていた。

賃貸契約やテナント契約をする店舗なども、いかがわしい店だったり夜の商売だったりが主であり、それはある大きな組織が経営しているという噂があるのも同期に当たる社員から聞いたことがある。そこでも何となく気になり注意深くこれまでの契約書などを見返すと、確かに契約相手が偏り過ぎていることに気づいた。もしかしたらここはその組織のダミー会社なのではという思いが過ぎる。けれど自分にとっては大したことではないとも思う。にとっては働いた分の給料さえもらえればいいのだ。そしてこの会社の給料は前の大手会社よりも高額だった。

「では時間なので失礼します」
「…おう」

いつも通り素っ気ない返事が春千夜から返って来る。定時になり、今日はそれほど時間のかかる仕事も多くなかったことで、は残業することなく帰り支度を始めた。春千夜は夕方、事務所のある最上階に顔を出し、今はぼんやりとが朝から作成していた書類に目を通している。幹部の人間は昼、または夜に出社して明け方に帰ることも多いようで、今夜も春千夜はただ書類のチェックをする為だけに顔を出したようだった。少し眠たそうで何度か欠伸を噛み殺しながらの淹れたコーヒーを口へ運んでいる。その気だるそうな姿が、絵になる人だなと思った。

「ではお先に…」

帰り支度を終えたは最後にもう一度、春千夜へ声をかけてから、エレベーターホールの方へと歩き出した。春千夜は軽く手を上げただけで書類から目を離さない。が、ハッとしたように目を見張り、すぐに「ちょっと待て!」とを呼び留めた。はちょうど廊下に続くドアを開けるのに社員証をカードキーセンサーにかざしていて、振り向いたと同時にピっという音と共にドアが開く。

「ちょっと書類に不備があるから、まだ帰んな」
「えっ?私、ミスしてましたか?」

書類に不備、と言われ、は慌てて春千夜のところへ戻った。普段から慎重に仕事をしてきたのだが、今日は九井からたて続けに細かな仕事を割り振られ、それらを全てひとりでこなしたので、うっかりミスしてしまったかもしれないと心配になる。春千夜はパソコンで何やらチェックをしていたが、目の前に戻って来たを見上げて「オマエじゃねえよ」と溜息をついた。

「元の金額がミスってる。この参考書類を作成したのは九井か?」
「えっと、あ、これはそうです…」

昼頃に顔を出した九井は自分の仕事を少しだけ手伝って欲しいと言って来たので、も快くOKした。そして言われるがまま契約書などを作成し、上司である春千夜にチェックしてもらうため、先ほど提出をしたのだ。これで春千夜のOKが出れば契約書を先方へ渡せるはずだったのだが、春千夜が指摘したのは金額が間違ってるとのことだった。

「チッ。ココか。アイツにしちゃ珍しいミスだな。寝不足か…?」

言われてみれば、九井の顔色が悪かったことを思い出す。春千夜いわく0が一つ足りなかったらしい。たったそれだけでも後々面倒なことになりかねない。

「すみません…!私のチェックが甘かったせいです」

九井はいつも正確なので、つい今回も大丈夫だろうと思い込んでしまったのが良くない。これは明らかに自分のミスでもある。確認不足は否めない。しかし春千夜は怒るでもなく「悪いと思ってんなら…これ今から直してくれるか?」と訊いて来た。もちろんは頷いた。かくして急遽残業をするはめになったは、定時に帰るのを諦め、早速新しい契約書を作り直す作業を始めた。一般的で簡単なものなら一時間半~二時間ほどで出来る。今回は幸いにも金額表示ミスだけだったのでパソコン上で修正し、念の為に九井へも連絡をして一緒に契約書の確認を一つ一つ行った。最終的に修正したものでOKが出たので、それを印刷して春千夜の元へ持って行く。何だかんだで二時間近くはかかっていた。

「いいんじゃねぇ、これで」
「…良かった」

春千夜のOKも出たところで、はホっと息を吐き出した。時計を見ればすでに9時近い。今から電車で帰らなくてはならないは、すぐに支度を始めた。すると春千夜も何故か椅子から立ち上がり、手にしたケータイで部下に電話をかけている。

「ああ、オレ。車を正面に回せ」

そう言っているのを聞きながら、は珍しいなと思っていた。今日みたいに夕方事務所へ顔を出した場合、だいたい遅くまで残っているはずだ。この上のペントハウスで幹部同士、お酒を飲んだり、そこから繁華街へと繰り出す、なんて話も九井から聞いたことがある。それとも今から飲みにでも行くのだろうか。そんなことを考えながら片付けも終わり、はバッグを持って春千夜の方へ歩いて行く。

「あの…お疲れさまでした。三途さん」
「…おう。もう支度はいいのか?」
「え?あ…はい」
「んじゃ行くか」
「……え?」

てっきり車を待っているのかと思っていたが、どうやらを待ってたようだ。春千夜は「遅くなったから送ってってやるよ」と言ってサッサと廊下を歩いて行く。これにはも驚いた。

「えっ!あ、あの…三途さん?」
「早くしろ!モタモタしてんじゃねぇよ」
「は、はい…っ」

いきなり送ると言われて戸惑ったものの、疲れている時に乗る電車ほどキツイものはない。ここはお言葉に甘えて送ってもらおうと思った。春千夜はすでにエレベーターに乗って待っていて「おせぇよ」と仏頂面で文句を言って来る。は「すみません」と言いながら乗り込むと、静かに扉が閉まった。

「……」

こうして春千夜とふたりきりと言う状況はも初めてで、少しだけ緊張して来るのを感じた。春千夜はそれほどお喋りな方ではなく、事務所でも必要最低限の会話しかしたことがなかった。何か話題はないものか、と短い時間の中で考えるが、特に思い浮かばない。一緒に数か月は仕事をしているが、も春千夜のことを殆ど知らなかった。

「あ…そう言えば九井さんがミスのお詫びに今度奢ると言ってました」

唯一の共通点とも言える幹部の九井に言われたことを思い出し、春千夜に伝える。しかし春千代は特に興味もなさげに「へぇ」と言うだけで会話が続かない。それでもは必死になって話題を考えた。そうこうしているうちに一階へ到着し、春千夜はまたしても早歩きでエントランスへと歩いて行く。それを追いかけるように走って行くと、エントランス前には大きな黒塗りのキャデラックが止まっていた。春千夜の部下が運転席から下りて来ると、すぐに後部座席のドアを開けている。その光景には驚いた。いくらNo.2とはいえ、運転手付きのキャデラックが迎えに来るなんてただ事ではない。ウチの会社はそんな凄い会社だったのかとが思うのは当然だった。

「おら、オマエも乗れ」

先に乗り込んだ春千夜が身を乗り出し、車内からを見上げて来る。言われた通りはすぐに車へ乗り込んだ。

「オマエんち、どこだよ」
「あ、えっと…渋谷駅の近くで」
「マジ?一駅ならちけーじゃん」
「それもこの会社を選んだ理由です」
「ふーん」

春千夜は特に興味もなさそうな気のない返事をして「渋谷駅まで行け」と部下に伝えている。は初めて乗った幹部の車にドキドキしながら、広めの車内に感動すらしていた。何と言っても乗り心地が最高なのだ。ただ春千夜とこの距離感で接したことはなく、そこはやはり緊張している。こっそり隣を見れば、春千夜はケータイをいじりながら何やらメッセージを打っている。仕事の連絡か、それとも彼女さん?と持前の好奇心を発揮してしまう。

(それにしても…綺麗な顔だなぁ。男の人を綺麗って思ったの初めてかも。まつ毛も女の私より長いし顔に影出来てる…口元に傷があるのに全然マイナスじゃない。むしろ…プラスかも)

普段は仕事のやり取りのみなので春千夜の顔をマジマジとは見たことがなかった。ジロジロ見るのも失礼だと思って、視線すら殆ど合わせたことはない。綺麗な顔立ちだとは思っていたが、密室で見ると更に迫力がある。

「あの…お疲れのとこ送って頂いてすみません」

さっきと同様、何か話さなきゃと考えた結果、少し早めのお礼の言葉になってしまった。普通こういう時は降りる際に言うべきだ。しかし春千夜は「疲れるほど働いてねぇよ」と苦笑いを浮かべてを見た。もろに目が合い、の鼓動が僅かに跳ねる。春千夜が笑った顔をはこの時初めて見た気がした。その時、静かな車内にぐぅぅきゅるきゅるきゅる…っという音が響いて互いに目を合わせたまま固まった。鳴ったのはのお腹で、それに気づいた時、顏から火が吹き出したのかと思うほどに熱くなった。そして目が点状態の春千夜が「ぶはっ」と盛大に吹き出した時はの恥ずかしさが極限にまで達した。

「アニメみてぇな腹の鳴り方だな、オマエ」
「す…すみません…」

隣で腹を抱えて笑っている春千夜を見て、の顏が耳まで真っ赤に染まっていく。けれど、少しの笑みを見れただけでなく、文字通り爆笑している春千夜を見れたことで、恥ずかしさはあれど少し得した気分にもなった。

「オマエ、腹減ってんのかよ」
「…はい」
「あーもう9時過ぎか。そりゃ減るよなぁ」

クックと未だに笑いを噛み殺しながらも、春千夜は何を思ったのか身を乗り出し、部下に「行き先変更」と告げている。

「引き返して青山のAホテルに行け」
「は…しかし、ここではUターン禁止で…」
「いいからすぐ戻れっつーの」

運転している部下も驚いたのか、慌てたように「分かりました!」と返事をするや否や、対向車が切れたのを見計らって強引にUターンさせている。その行動に驚いていると「飯、奢ってやるよ」と春千夜が笑った。何度も春千夜の笑う姿を見られるなんて今日は盆と正月が一気にやってきたようだとバカなことを考える。そして今言われた「飯」という言葉の意味がやっと脳にまで到達した時、は更に驚いた。

「え…」
「腹減ってんだろ?残業させちまったからな。まあ、オレも腹減って来たし、ちょっと付き合え」
「は…はい」

驚きながらもここは頷くしか選択肢がないように思えた。まさか送ってもらえるだけでも贅沢だなと思っていたのが、上司に食事をご馳走になるなんてことまでは想定していなかった。は再び緊張して来るのを感じて、窓の景色を黙って眺めていることしか出来ない。車はどんどん渋谷から遠ざかってるようだった。

(そう言えばさっき青山のAホテルって言ってた…。確かそれって超ラグジュアリーな感じの高級ホテルだったような…)

と思った瞬間、ふと嫌な記憶が蘇る。前の会社で上司と一緒に営業に回った帰り道。あの時も時間が遅くなり、急いで帰ろうとしたら夕飯につき合えと言われ、半ば強引に近くのファミレス――しょぼいチョイスだった――に連れて行かれたのだ。そして更に遅くなった帰り際、厭らしく肩を抱いて「ここに入ろうか」とこれまた近くのラブホテルへ誘って来た。カッとなって腕を振り払い逃げるように帰ったけれど、次の日から待っていたのは執拗なパワハラだった。断られた腹いせに上司は事あるごとにへ無理な仕事を振り続け、毎晩遅くまで残業させられた最悪な思い出だ。だからこそ会社を辞めて転職したのだが、まさか春千夜も?と一瞬だけそんな不安が過ぎる。しかしここまで来て「やっぱり帰ります」とは言えない空気だ。が悶々としているうちに、車はAホテルのエントランス前で静かに停車した。

「行くぞ」
「は…はい」

どうしようと思いながらも車を降りたは、お洒落な外観を見上げながらホテルのロビーへと足を踏み入れた。そこは別世界のように煌びやかで、豪華なシャンデリアが高い天井からぶら下がっている。インテリアも変な派手さはなく、一つ一つが厳選されたもので統一され、何とも贅沢な空間だった。こんな高級ホテルはテレビや雑誌でしか見たことがない。

「おい、行くぞ。ボケっとすんな」
「あ、すみません…っ」

春千夜は慣れた足取りでエレベーター前まで行くと、すぐに中へ姿を消した。それを見たも急いで追いかけると、春千夜は呆れ顔で「オマエはいちいちおせぇな」と溜息をついている。すみません、と謝りながら「慣れてなくて…こういう場所」と付け足しておく。

はいわゆる"普通"と言われるような部類に属して生きて来た。普通の高校を出て、普通の大学に入り、それでも運よく大手の不動産会社に就職が出来た。しかし苦手な営業に回され、最低な上司に恵まれて――いらない恵みだ――しまったのは、やはり運が悪かったのかもしれない。普通に彼氏もいたけれど、こんな高級ホテルに連れて行ってくれるような男ではなかった。職場恋愛だったが、上司のハラスメントを相談しても当たり障りのない言葉しか言ってくれず、会社では目立ちたくないと庇ってもくれなかった。だから会社を辞める時についでに関係も終わらせて来たのだ。

心機一転、まさしくそんな心持ちで今の普通とは言い難い会社に入った。それまで地味なスーツを着たおっさん達に囲まれて仕事をしていたのが、今では煌びやかで派手な上司たちと仕事をしているのは、もそれなりに刺激的で楽しかった。でも、これは少し刺激が強すぎる。ホテルの上階に位置するレストランバーに連れて来られたは、次々に運ばれてくるお酒や食事に驚きながらも、目の前でのんびりグラスを傾けている上司、春千夜を見た。彼は食べるよりも飲む量の方が多いのではないかと思うほどにお酒を煽っている。はそれほどお酒は強くないのだが、緊張を解すのに同じようなペースで飲んでいると、不意に春千夜がを見た。

「食わねぇの?」
「えっ?あ…た、食べます…」

緊張のあまりお酒を入れ続けた体はやけに火照っている。空腹でこんなに飲めば、いくら何でも酔ってしまいそうだ。ここはやはり酔ってはいけないような気がして、は目の前のラム肉にナイフを入れた。

「柔らかい…」

口に入れると、肉がほろほろと溶けていく。しばし感動して余韻を味わっていると、春千夜は「美味いかよ?」と訊いて来た。が元気よく「はいっ」と応えると、春千夜が軽く吹き出した。美味しいというのが思い切り顔に出ている部下が面白かったのだが、本人は何故笑われているのか気づいていない。

「三途さんは食べないんですか…?」
「オレは勝手にやってるからオマエは気にしないで食え」
「…は、はい。頂きます」

会社では見せないような優しい笑みを見せつけられ、はたった今、口へ入れたばかりの肉を噛み忘れ、ゴクリと飲み込んでしまった。一瞬喉に詰まりそうになったのをどうにかワインで流し込む。今の笑みで心臓がかすかに速く鳴りだし、少しだけ戸惑った。普段から口の悪い春千夜を最初こそ怖いと思ったが、今ではすっかり慣れて全く気にならなくなった。むしろ今夜はその口の悪さと優しい笑みのギャップにときめいてしまってる自分に、は驚いていた。もし春千夜が前の上司のように「部屋を取ってるからオマエも来い」と言って来たならば、つい行ってしまいそうになるほど意識してしまっている。経験したことのない世界を見せてくれる春千夜が、にとっては王子様のように映っているのかもしれない。――しかしが想像したような展開は一切なく。食事を終えた後は「送る」と言って、再びふたりで車へ乗り込んだ。そこもの好奇心をくすぐった。その辺の男みたいにがっついていないところが素敵かも、と思わせる。そして本当に春千夜は家までをきちんと送ってくれたのだ。

「ありがとう御座いました。夕飯までご馳走になってしまって…」

自宅マンション前に車をつけてもらい、降りる前にお礼を伝える。

「別に大したことじゃねぇよ。まぁ…オマエはいつもひとりで頑張ってくれてっからな」

春千夜はそう言っての頭へ軽く手を置き、クシャリとひと撫でした。その瞬間、の胸が音を立てる。春千夜に仕事を誉められたことはないが、何気にちゃんと自分の仕事ぶりを見ていてくれたんだという事実に感激してしまった。

「ま、今後も宜しく頼むわ」
「…はい」

ニヤリと笑みを浮かべた春千夜の顔をボケっと見ながら返事をしたが、ふと我に返ってすぐに車を降りる。最後に「お休みなさい、三途さん」と声をかければ、春千夜は片手を上げて帰って行った。車のテールランプが見えなくなるまで見送っていたは、熱くなった頬へそっと手を添える。それは、お酒以外の熱だと何となく気づいていた。

「どうしよ…ドキドキする」

上司と一緒に残業をして、夕飯をご馳走になって、家まで送ってもらった。たったそれだけのことだ。なのに会社では見られない素顔は、意外なほど優しくて、またそのギャップがたまらない。最後までちゃんと上司として振舞ってくれたこともポイントが高く、に素敵な人だと思わせるには十分なほどだった。そしてこの日を境に、は会社へ行くのが更に楽しみになった。そしてたまたま聞いた春千夜の誕生日がもうすぐだと気づいた時、あの夜のお礼にプレゼントをあげたいと思ったのだ。普通の男とは違う春千夜だけに何をあげようかと散々悩んだ結果、彼が常に身に着けてるものをあげたいと考えて、耳を飾っている沢山のピアスを見て、これをあげようと思いついた。毎日チェックをしては春千夜が好みそうなものを一生懸命探して回り、やっとコレだと思うものを見つけて買った。その頃にはもすっかり春千夜に恋をしていた。それを自覚したのもこの頃だ。

「三途さん、喜んでくれるかなぁ」

彼氏でもない男の人にプレゼントを買ったのは初めてで、まるで少女に戻ったみたいにドキドキした。あとは春千夜の誕生日を待つばかりだ。




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「…って感じだったんです」

春千夜に片思いをしていた頃を、懐かしそうに語り終えたは、その時の気持ちを思い出しているのか、頬が何気に赤くなっている。その惚気話とも言えないような話を聞かされていた灰谷蘭と竜胆は、互いに顔を見合わせ苦笑いを零した。

…オマエさぁー」
「はい?」
「めちゃくそ、ちょろい女だな」
「えっ?そ、そうですか?」

は蘭の言葉に心底驚いたような顔をしている。世間的にはお盆休みに入った日の夕方、「暑気払いをしようぜ!」という名目で事務所にやってきた灰谷兄弟は、春千夜が不在なのを良いことにを飲みに誘った。そしてが入ったことがないというペントハウスへ招待し、そこで飲もうということになった。ふたりはと春千夜がつき合いだしたことを九井に聞いて来たらしい。「アイツのどこに惚れたわけ?」という質問をされ、も最初は渋っていたものの、大好きなシャンパンを飲ませてもらい、少しずつ思い出しながら一か月前のことを話し出したのだ。

「だって飯を奢って家まで送っただけだろーが、それ」
「え、そ、そうですけど…。何か素敵じゃないですか?普段は口も悪い春千夜さんがふとした時に優しい笑顔を見せてくれるのってキュンと来ちゃいましたけど…」
「…マジ?三途の笑顔なんか、誰か殴ってる時しか見たことねぇわ」
「オレも」
「え…そうなんですか?」

兄弟ふたりにバッサリ切られ、は少し驚いたものの、シュンとなってしまった。春千夜の魅力が伝わらないのが悲しいとでもいいたげだ。因みにつき合ってすぐの頃、春千夜を含めた幹部が梵天という組織に所属しているというのはも聞いている。何となく想像していたので驚きはしたが、は春千夜の本当の姿を知れてむしろ喜んだくらいだった。春千夜には「オマエ、度胸あんな」と笑われてしまった。

「んで?その三途はいつ来んだよ…せっかく祝い酒持って来てやったのに」
「あ…さっき蘭さん達が来てるってメッセージ送ったら、ソッコーで戻るからふたりには近づくなって……あっ」

自分で言いながら、春千夜の言いつけを守っていない現状に気づき、蘭と竜胆もニヤリと笑っている。

「あーあー近づいちゃったなあ?」
「アイツ、発狂すんじゃねぇの」
「え、そ、そうなんですか…?」
「だってアイツ、ちゃんにベタ惚れじゃん」
「まあ、三途って女経験あんのに女に慣れてねえとこあっからな」

蘭と竜胆はそんなことを言いながら笑っている。経験があるのに慣れてないなんてことがあるんだろうかとは疑問に思った。するとの考えてることを察した蘭がニヤリと笑う。

「だってアイツ、に誕生日プレゼント貰っただけで惚れたんだろ?そう考えるとアイツもちょろいな」

と笑いながらの顔を覗き込んで来た。

「そ、そんなことはないと思うんです、けど…」
「まあ、普段のを一番近くで見て来たのはアイツだから、それだけじゃねぇかもしんねーけど、みたいな普通の子に免疫ないってのも大きいだろ」
「あーそれだそれ。アイツの女、だいたい性格きっついのばっかだったもんな。ちゃんみたいな素直で可愛い子に好かれたことねぇんじゃね?」

本人がいないのを良いことに言いたい放題の灰谷兄弟に、の顏が次第に赤くなっていく。しかし元カノの話はやっぱり少し気になってしまう。

「春千夜さんの元カノ、蘭さん達は知ってるんですか…?」
「元カノォ?違う違う。オレが知ってる限り、アイツに特定の彼女なんかいたことねぇよ」
「…え…いないって…?」

黙ってふたりの話を聞いていただったが、気になる発言が飛び出したことでつい訊いてしまった。それにはさすがに蘭も「やべ…」と苦笑を漏らす。――その時、エレベーターの扉が開く音と共に、慌てた様子で春千夜が駆け込んで来た。

「…テメェ、灰谷!に何、酒なんか飲ませてんだよっ!」
「春千代…?!」
「げ…っ!三途のヤツ、めっちゃキレてんじゃん」

出先から急いで駆けつけたのか、春千夜の髪が乱れている。そして手には物騒な長物が握られていた。
それを見た蘭と竜胆は「アイツ、マジか」と顔を引きつらせながら立ち上がる。

「ああなると面倒くせえから退散すっかなー」
「え、蘭さん…?」
「逃げるが勝ちっしょ」
「り、竜胆さん…?」
「ま、後はちゃんがアイツをなだめてやってよ」

蘭は身を屈めると、わざとの耳元で囁くように呟いた。それを見ていた春千夜の目が更に吊り上がっていく

「テメェ、から離れろっ!」
「ぅわっ…ぶねーな、オマエ!殺す気かっ?ちゃんもいんだぞ!」

いきなり斬りかかって来た春千夜に、蘭がすぐさま体を引いた。それにはもギョっとしたが、まさか春千夜の手にある刀が本物だとは思っていない。レプリカの刀なんて持って可愛いとすら思っていた。

「うるせぇ!死にたくなきゃ、とっとと失せろっ!」
「ったく…すーぐ熱くなんだよなぁ、三途は…」
「兄ちゃん、あんま煽んない方がいいって。めんどくせーから」

蘭と竜胆は苦笑しながら、エレベーターに乗り込むと「あ、ちゃんがオマエを好きになった理由、聞かせてもらったからー」と笑顔で手を振った。その瞬間、の顏が赤くなり、春千夜は驚いた顔でを見た。

「んじゃーな。あんまツンばっかじゃちゃん可哀想だぞ。三途~」
「あぁ?!何言ってんだっテメェ!」

イラっとしたようにエレベータ―の方へ行きかけたが、すぐに扉は閉まりふたりは帰って行った。それを見た春千夜は軽く舌打ちをすると、手にしていた刀を放り投げ、すぐにの方へ歩いて行く。一方は投げられた刀が床に刺さるのを見て、本物?!と目が飛び出しそうになった。しかし驚いてる間もなく春千夜が目の前にしゃがみ、怖い顔で見下ろしてくる。そこでふたりに近づくなという春千夜の言いつけを守れなかったことを思い出した。

「あ、あの…ごめんなさい…」

シャンパンボトルを指でつまんでいる春千夜に素直に謝る。春千夜はジロリとを睥睨したが、落ち込んだようにシュンとしている姿を見ていると怒りも鎮火したらしい。溜息をついての頭にポンと手を乗せた。

「アイツらに何もされなかったかよ…?」
「うん…心配…してくれたの?」
「は?別にしてねぇし…」

春千夜は一瞬だけ言葉を詰まらせた後、ぷいっと顔を横へ向けた。その頬はかすかに赤い。しかし俯いてるはそれに気づかず、ますます落ち込んでいく。

「全然…少しも?」
「あたりめーだろ。自惚れんな」
「……ごめん」

素直に春千夜の吐き出す冷たい言葉を受け止めたのか、が悲しそうに目を伏せる。どことなく潤んで見えるのは気のせいじゃないはずだ。泣かしてしまったかと焦った春千夜は、目の前で小さくなっているの身体を引きよせ、自分の腕に収めた。

「は、春千夜…?」
「つーか…オレがいないとこで他の男と酒なんか飲んでんじゃねぇよ…危ねぇだろが」
「…あぶ…ない?」
「あんな女好きなヤツらとじゃ酔っ払ったオマエが何されるか分かったもんじゃねぇ」

そう言いながら抱きしめる腕の力がいっそう強くなる。それに気づいたは驚いたように顔を上げた。春千夜もそれに気づき、ふと下を見れば互いの目が合い同時にドキっとする。そこで初めては春千夜の頬がかすかに赤いことに気づいた。

「…やっぱり心配してくれてる」
「……チッ。うっせぇな。テメェは隙がありすぎんだよ。灰谷に誘われてペントハウスまで来やがって」

社内ならまだしも、ここはいわゆる梵天幹部のプライベートルームであり、寝泊まり出来る設備などが整っている、言ってみれば密室空間だ。そんな場所へ男ふたりとがいると聞かされ、春千夜は気が気じゃなかったのだが、当の本人がそういった状況を分かっていないのが腹立たしかった。

「オレとならいいけど…今後は他のヤツに誘われても来んじゃねぇぞ。あと酒も一緒に飲むな」
「…うん。分かった」

素直に頷くに、春千夜の顏にもようやく安堵の表情が戻る。そして改めてそのプライベート空間にふたりきりだということに気づいた。シーンと静まり返った室内と、目の前にはキラキラした町並みが見えて、幻想的な光景が広がっている。腕には愛しい彼女。至近距離で見つめ合っていると自然とそう言うムードになっていく。春千夜は抱きしめる力を緩めて、片方の手をの滑らかな頬へ添えるとゆっくりと身を屈めた。もその空気を察して慌てたようにぎゅっと目を瞑る。春千夜のくちびるがのくちびるへ近づき、そこでふたりは初めてのキスを交わす、つもりだった。

「何か酒くせーな、ここ!」

「「―――ッ」」

突如として静かな空間に雑音のような声が響き渡り、ふたりは慌てて身体を離した。その雑音を吐きだした張本人、鶴蝶がズカズカとソファスペースへ歩いて来ると、フカフカのカーペットの上で座り込んでいるふたりに気づき「うぉ!」と声を上げた。

「な…何だ、オマエら…いたのかよっ?ってか何で顔が真っ赤なんだ?ふたりとも」
「…うるせぇ!殺すぞ!」

一切空気の読めない男に苛立った春千夜が、再び刀を握り締めたのは仕方のないことだった。