
04.初めてのお誘い⑴
1.
厳重な防犯設備。ホテルのような豪華なエントランス。広くて綺麗なオブジェの飾られた廊下。そしてドアを開ければ新築のような匂い。どれをとっても素敵としか言いようがない高級マンション。そこに足を踏み入れたは、自分がまるで映画の世界に入り込んでしまったような感覚になった。
「適当に座ってろ。今、酒を用意するから」
春千夜はそれだけ言うとドアを開けてサッサと中へ入って行く。は緊張のあまり、両手をぎゅっと握り締めた。
ここは春千夜の自宅マンションで、も来るのは今日が初めてだった。春千夜とのデートは会社帰りに夕飯を食べに行き、その後に知り合いの店に飲みに行くことが殆どで、家に誘われたことは今まで一度もなかった。からも自宅に誘ったことはなく、また、春千夜の家に行きたいと言ったこともない。けれど、今日は特別だった。
2.
秋も深まって来たある日、仕事を終えて帰り支度をしていると、のケータイが鳴った。大きな画面には大好きな人の名前が表示されており、は自然に笑みがこぼれた。今日は昼頃出社して来た春千夜だったが、急用が出来たとかで夕方にはまた出かけて行った。定時ギリギリまで待ってみたものの、結局戻って来る様子もない。今夜は会えなさそうだな、と少々ガッカリしていたところへ春千夜からの電話が鳴ったのだから、がつい笑顔になってしまうのも当然だった。
『もう終わったのか?』
「うん。ちょうど帰り支度してたとこ」
『なら五分後、エントランスロビーにいろ。迎えに行く』
それだけ言って電話は切れた。は満面の笑みでスーツのジャケットを羽織ると、バッグを掴み、廊下へ走る。下りる前にトイレへ駆け込み、簡単にメイクを直し、アップにしていた髪も下ろした。部下の時間は終わり、今からはプライベートな時間だ。少しでも気分を変えたい。おかしなところはないかと最終チェックを済ませてからは急いでエレベーターに乗った。春千夜が気の長い方じゃないのはつき合う前から知っている。は腕時計を確認しつつ、春千夜との電話を切ってからきっちり五分後にはエントランスロビーに到着した。ビルの前にはすでに黒塗りの車が横付けされていて、が出口付近まで歩いて行くと、後部座席の窓が少しだけ下ろされた。
「乗れよ」
春千夜の顔が見えた途端、は笑顔を見せて車へと駆け寄る。運転手がドアを開けてくれるのを待ちきれず、先に自らドアを開ければ、中からすぐに腕が伸びての手を強引に引き寄せた。春千夜に抱き着く形で後部座席に乗り込む。
「春千夜、お疲れ様」
「おう。つーかオマエもだろ」
嬉しそうな笑顔を見せるに、春千夜は苦笑しながらも、の額にかかった髪を指で避けて軽く頭を抱き寄せた。お互いにたったそれだけで一日の疲れが癒されていく。
「今日はどこ行くの?」
腕が離れていくのを感じ、ちゃんと座り直したが尋ねると、春千夜は「たまには前に行った"灯篭"でも行くか?」と訊いて来た。その店は日本料理の店だ。和食好きのが気に入っていたのを春千夜は覚えていた。
「え、いいの?」
「最近ずっと洋食ばっかで飽きたしな」
との食事以外でも、春千夜が仕事で取引相手と食事をする際、だいたいがフレンチのフルコースだったりイタリアンレストランになる場合が多い。それは同席する灰谷蘭の好みで構成されており、店を選んで予約をするのも蘭なので春千夜が口を出す前に決まってしまうのだ。
「そうなの?じゃあ…和食にしよ」
「よし。――おい、灯篭に行ってくれ」
春千夜が運転手に声をかけると、車は静かに店のある方角へと走り出した。
「んで、今日はあれからどうだった?」
「ちゃんと無事に終わりました。あ、先方にはメールしておいたので――」
とが言いかけた時、春千夜がジトっとした目で見ているのに気づき、慌てて口を閉じる。仕事時間外なのに油断すると、つい敬語が出てしまうのだ。
「ごめん…頭切り替えたつもりだったんだけど…」
「ったく…オマエはほんと仕事熱心だよなァ。ま…九井が助かるって喜んでたけど、もう少し仕事量は減らすよう言っとく」
「え、いいよ…。今でも何とかこなせてるし…」
今は幹部についてる秘書はひとりなのでそれなりに仕事を回される。大変な時もあるが以上に書類仕事をしている九井や、それらをチェックする春千夜の負担を減らすために自分が雇われたのを理解しているは文句も言わずに与えられた仕事をきちんとこなしていた。しかし春千夜からすれば事務所でデスクに張り付き、一日中パソコンをいじっているが心配になることがある。前はそれが助かるなんて思っていたが、いざ付き合ってみると真逆のような気持ちになるのだからおかしなもんだな、と春千夜は内心苦笑いを零す。そもそも真っ当な会社でもないのだから多少の公私混同はしたくなってしまう。
「じゃあ、もうひとり秘書を増やすか」
「え…」
「オマエのサポート的な仕事をこなせる人間を入れてやる」
「で、も…」
「何だよ。嫌なのかよ」
不満げに目を細める春千夜に、は慌てて首を振った。春千夜の気持ちは嬉しい。しかし自分の為にわざわざ人員を増やすというのはどうも気が引けてしまう。
「嫌じゃないけど…私なら平気だし――」
「バーカ。オマエが万が一、病気でもして休んだらそれこそ困んだろーが」
「あ…そっか……」
春千夜に言われ、その可能性を考えていなかった。そんなに体が弱い方ではないと自負しているものの、寒い時期になると毎年一度は大きな風邪を引いたりする。もし忙しい時にそんなことになってしまえば、九井はもちろん春千夜も困ることが出てくるかもしれない。
「確かにひとりだと皆に迷惑かけちゃうことあるかもしれないよね…」
しゅんとしたように俯くを見た春千夜は深い溜息をはくと、彼女の頭に手を置き、くしゃりと撫でた。
「別にそういう意味だけで人を増やすつったわけじゃねえよ」
「え…?」
「オマエが休めねえだろ?どっか連れて行ってやりたくても」
「…春千夜…」
そんくらい分かれよ、と春千夜はどこか照れ臭そうに視線を反らす。いつもは素っ気ないが、きちんと自分のことを考えてくれてるのはも分かっているが、やはり言葉でハッキリ言われると数倍嬉しいと感じる。
「今年の夏は連休も取らせてやれなかったしな。その為のサポート要員だ。まあ下から引っ張って来てもいいけどよ」
下の階には一般社員がいて、それを管理する組織の人間も数人いる。その中の誰かをのサポートに回すことを春千夜は考えていた。
(また灰谷兄弟辺りにゴチャゴチャ言われそうだけどな…ウゼェ)
あの憎たらしいふたりの顔を思い出し、春千夜は今から少しだけ憂鬱な気分になってしまった。
3.
の好きな店で食事を済ませたふたりは、その後いつものように行きつけのバーで少し飲んで行くことにした。昼間にひとつトラブルを片付けたおかげか今夜は急な呼び出しもなく、春千夜の完全なフリータイムということで、もう少しと一緒に過ごしたかった。も同じであり、特に明日は日曜ということで仕事は休み。春千夜に時間があるなら遅くまで一緒に飲んでいたいなと思っていた。しかしバーについて一時間もしないうちに次から次へと組織の下の連中――それも灰谷兄弟の部下――がそのバーに集まり出し、「あれ、三途さんデートっすか?」「仲いいっすねー」といちいちからかうように声をかけてくることで春千夜の限界が来た。
「出んぞ…」
「え…」
不意に支払いを済ませ、の手を強引に引っ張ると、春千夜は真っすぐ店の外へと歩き出す。
「あ、あの…帰るの?春千夜」
バーに来てからまだ一時間も経っていない。せっかく今夜は長く一緒にいれると思っていたは少なからずガッカリした。にとって組織内の下の人間はあまり関わることがなく知ってる顔もいない為、特に気にならないのだが春千夜はそうじゃないのだろう。不機嫌そうに歩く顔を見上げながら、は寂しくなった。しかし春千夜は「帰らねえよ」と溜息交じりで苦笑いを浮かべている。
「今日は灰谷がひとつデカい仕事を片付けたみてぇだからな。そこの連中がこの辺で祝い酒と称して飲み歩いてんだろうし、見つかるとウゼェから場所を変える」
「そっか」
帰らないと聞いてはホっとしたのと同時に嬉しくなった。まだ午後の9時過ぎなので開いてる店ならいくらでもある。
「じゃあ、どこ行くの?春千夜の知ってる店?」
何の気なしに聞いてみると春千夜はふとを見下ろし、何を思ったのか彼女の手を掴んだ。春千夜の長い指に軽く握られドキっとしながら見上げると、春千夜ともろに目が合ってしまった。大きな瞳の淡い輝きが普段よりも優しく感じられて、の頬が僅かに熱を持つ。
「店じゃねえよ」
「え?」
「オレんちで飲み直すのは…嫌か?」
「…春千夜の…家?」
思ってもみない言葉だった。付き合い始めて三ヶ月は過ぎたが、互いに互いの家には未だ行ったことがない。はもちろん自分の家に来て欲しいと思ってはいたが、自分から誘うのも照れ臭く、ずっと言えずにいた。そして当然春千夜の家にも行ってはみたかったが、春千夜から誘われてもいないのに自分から言い出せるはずもなく。デートと言えばもっぱら外食をして飲むことが殆どで、その後はきちんと送り届けてくれる春千夜に、少しだけ不安に思っていたところだった。
"あー三途は潔癖症つー話だから他人を家に入れたり、自分が行くのは嫌なのかもな"
先日、春千夜がいない時、事務所で九井と仕事の合間に雑談をしていると、不意に「三途と上手くいってんの?」と九井に訊かれた。その時、はいとは応えたものの、そう言った心の不安を少しだけ聞いてもらいたくなり相談したところ、そんな答えが返って来たのだ。潔癖症と言うのは聞いていたが、そんなところにも影響するのかと少しだけ落ちこんでしまった。同時に春千夜とお家デートなんて夢のまた夢かと諦めかけていた。だからこそ余計に、春千夜から「オレんちで飲み直そう」と言われるとは思っていなかった。
がしばらく放心していると、春千夜は僅かに目を細めた。
「何だよ、その顔…嫌なのかよ」
「え…?あ、違うの!まさか春千夜が誘ってくれるとは思わなくて…」
「あ?何でだよ」
「だって…今までも何も言ってくれなかったし、春千夜は家に人を入れるの嫌なのかなあって思って…」
普通の恋人同士なら何も構えず言い出せたかもしれない。けれど春千夜は違う。裏世界の住人であり普通とは違う。そういう人間と関わるのは初めてのにしてみれば、男女の関係も自分には経験のない想像もつかないような付き合いになってしまうのかもしれないなと覚悟はしていた。だからこそ、あっさり家に誘われたことが余計に信じられなかったのだ。
の言葉に、春千夜は訝しげな顔で首を傾げた。
「オレ、嫌だなんて一度も言ってねえだろが」
「え、でも…」
「つーか…これまで自分のプライベートな空間に他人を入れたことがねえから…どう誘ったもんか分かんなかったんだよ」
バツの悪そうな顔で頭を掻く春千夜はどこか照れているように見えて、はふと笑みを浮かべた。
「何だよ?」
「う、ううん…。嬉しいなあって思って…」
「嬉しい?」
「だって…春千夜のプライベート空間に誰も入れたことがないなら…私が初めてってことでしょ?だから…凄く嬉しい」
素直に感じたことを口にすると、今度は春千夜が驚いたような顔でを見た。その顔は僅かに赤く染まっている。
「…チッ。そんなことくらいでバカじゃねえの」
「バカでもいいもん。嬉しいものは嬉しいし幸せ」
「あっそ…んじゃー行くぞ…(可愛いヤツ)」
照れ臭いのを誤魔化すように顔を反らした春千夜は、言葉とは裏腹にそっと優しくの手を繋ぎ、家の方向へと歩き出した。