
05.初めてのお誘い⑵
1.
「ほんとにコレでいいのか?」
「春千夜と同じのでいい」
「酔っ払っても知らねーぞ」
春千夜は苦笑交じりで言うと、ウイスキーボトルの乗ったガラステーブルに氷の入ったアイスペール、そしてソーダの瓶を置いた。
「あ、私が作る」
「じゃあ頼むわ。グラスはキッチンにある。レモンは冷蔵庫。オレはちょっと着替えてくっから」
「う、うん」
「ああ、オレのは――」
「7:3…?」
「ちゃんと覚えてんなー」
春千夜は笑いながらの頭を軽く撫でると、スーツのネクタイを緩めながらリビングを出て行った。それを見送っていたはホっと小さく息を吐いた。
「ドキドキして苦しい…」
初めて春千夜の家に来たことではガチガチに緊張していた。想像していた以上に豪華な部屋だったこと、そして綺麗に片付けられている室内を見て、汚しちゃいけないと思えば思うほど緊張度数が上がってしまう。
「あ、グラスとレモンだ…」
ウイスキーボトルに手をかけたが、思い出してキッチンへと向かう。リビングが見渡せるカウンターキッチンで5~6人で作業が出来そうなほどに広い。
「うわ…シンクもピカピカ…普段使ってなさそう」
余計なものは一切ない。調味料といった類のものも見当たらないとこをみると、家で自炊はしないんだろうと思った。キャビネットからハイボールに合いそうなグラスを探して取り出す。
「うわ、これバカラだ…」
薄い淵を指でなぞりながら少し感動する。これで飲むとお酒の味が全く変わると聞いたことがある。グラスは薄ければ薄いほどいいらしい。
「割らないように気をつけよう…」
丁寧にそれを運び、あとは言われた通りレモンを取るのに恐る恐る冷蔵庫を開ける。他人の家の冷蔵庫を開ける時、何故こんなに緊張するんだろうと不思議に思う。
「わ、見事に何もない」
大きな冷蔵庫の中はミネラルウォーターや缶ビールのみで、あるのはお酒に使う為のレモンやライムといった柑橘系のものがいくつかあるだけだ。他にはチョコレートやチーズといったもの。料理用の食材などはなかった。
「男の一人暮らしって感じ」
ちょっと笑いながら少しだけ安心する。これで料理を作れそうな食材でも入っていたら他に女が出入りしてるんじゃ…と不安になるところだった。でも今のところ春千夜の部屋にはそういった様子は見られない。
"これまで自分のプライベートな空間に他人を入れたことがねえから…どう誘ったもんか分かんなかったんだよ"
先ほど春千夜が言っていたことは本当だったらしい。
「良かった…」
以前、春千夜に教えてもらった通りに作ったハイボールにレモンを絞りながら、つい笑みが零れる。そこへ春千夜が着替えて戻って来た。
「何が良かったんだよ」
「…ッ?あ…何でもない」
首を傾げつつ隣に腰を下ろす春千夜に慌てて首を振る。春千夜は怪訝そうに眉間を寄せたものの「変なヤツ」と苦笑いを浮かべるだけだった。
「あー気の利いたツマミはねぇけど…チーズとか食う?」
「う、うん…あ、私が――」
「いいよ。オマエは座ってろ」
言いながら春千夜はすぐに立つとキッチンへと歩いて行く。そんな春千夜を視線で追いつつ、そう言えば私服は初めて見たかも、と思った。普段は外で会うのが殆どだった為、春千夜のキッチリとしたスリーピースのスーツ姿しか見たことがない。だが今はラフな感じの白い長袖シャツに、同じく白のゆったりとしたリネンのズボン姿だ。普段よりも威圧感がなく、年相応に見える気がした。何より新鮮でまたドキドキが復活して来る。
「そーいや、昨日チョコもらったんだけど食う?」
「あ、うん…頂こうかな」
確かさっき冷蔵庫を覗いた時にあったチョコは高級ショコラトリーのものだった。思わず頷いてしまった。
「ほら」
春千夜はチョコやチーズを綺麗に盛り付けたモダンな柄の小皿をテーブルに置いた。適当に乗せて来るだけかと思ったは少しだけ驚いて隣に座った春千夜を見る。
「凄い、春千夜。盛り付け上手いね。綺麗」
「あ?そーか?こんなん普通だろ」
春千夜は袖を邪魔そうに捲りながら、ハイボールの入ったグラスへ手を伸ばす。普段隠れている逞しい腕や手首が露わになり、それがやけに色っぽく見えた。
「…ふ、普通じゃないよ。男の人は雑な人が多いもん。――あ、ありがとう…」
春千夜にもう一つのグラスを渡され、それを受けとる。しかし視線はつい長く綺麗な指に向いてしまう。意識しないようにと思ってはいても密室でふたりきりになったのは事務所のペントハウス以来なので緊張がなかなか解れない。
「乾杯」
「う、うん…乾杯」
春千夜がのグラスに自分のグラスを軽く当てると、チンっという綺麗な音が響く。バカラは鳴る音さえ素敵なのかと思いながら、飲み慣れていないハイボールを一口飲む。口をつけた瞬間、確かに他のグラスとは全然違うことが分かった。唇に当たる感触からして違う上に、お酒がスーっと吸い込まれるように入って来る。そしてレモンを絞ったことで爽やかな酸味とウイスキーの甘さがマッチしているハイボールは思ったよりも飲みやすかった。
「ん、美味しい!」
「このウイスキーは口当たりいいからオマエでも飲めんだろ」
「うん、美味しいからグイグイ飲めちゃいそう」
緊張しているのもあり、早くいい感じに酔ってしまいたい。そう思ったはハイボールを普段よりも早いペースで口へ運ぶ。
「オマエ、飲み慣れてねーんだからゆっくり飲めって」
「あ、そっか…でもちょっと緊張しちゃって…」
「…緊張?」
春千夜が身を乗り出し、の顔を覗き込む。その近さにドキっとして身を引いた。今はフカフカのカーペットの上でソファを背もたれにしながら並んで座っている。この距離感でお酒を飲むのも、そして話すことさえ初めてで変に意識してしまう。その上、未だに春千夜とはキスすらしていない関係だ。もしかしたら今日?と考えてしまう自分が恥ずかしかった。
「何で緊張すんだよ…」
「だ、だって…こんな風に室内で春千夜と飲むの初めてだし」
「あーまあ…そういやそうだな…」
言われて気づいた。正直言えば春千夜も初めて自宅に彼女を連れてきたのだから緊張はしている。しかし春千夜にとっては慣れた空間なのでほどの緊張はない。ただ――。
「つーか…そんな顔すんなよ…変な気分になんだろーが」
「…え…私、どんな顔してるの…」
ドキっとしたように顔を上げるの頬はすでにほんのり赤く染まっている。緊張と慣れない酒が回り、瞳もいつも以上に潤んで来た。春千夜から見れば誘われてるとしか思えないほどに色っぽく見えた。
「どんな顔って……だから…」
と口ごもる。この場合、素直に色っぽいから変な気を起こしそうだと言った方がいいのか、春千夜は少し迷った。しかし言いにくそうにしたのがいけなかった。はハッとしたように手で頬を隠すと、
「え、もしかしてメイクはげてる…?」
「は?」
何を勘違いしたのか、はワタワタとしながらバッグを開けてメイクポーチを取り出した。春千夜は唖然としていたが、がポーチから鏡を出しているのを見て慌てて止める。
「バカ、そーじゃねーから!」
「…え?」
鏡を覗こうとしたの手を掴み、その手から鏡を奪う。それをポーチに戻した後で、春千夜は軽く咳払いをした。だがはまだ気にしているのか、どこか落ち着かない様子で視線を反らしている。
「ほんとに…はげてない?」
「あ?はげてねぇよ…」
メイクがはげてるどころか、ますます頬に赤みがさし、恥ずかしそうにしているの表情が可愛すぎて、春千夜の男の部分を刺激してくる。春千夜にとってはこれまで遊んで来た相手とは違う普通の女の子ということもあり、付き合ったからと言って簡単に手を出すことが出来ない相手だった。しかし初めて自宅へ招き、いざこうしてふたりきりで酒を飲んでいると、それまで我慢していたものが簡単に崩れてしまいそうになる。
(つーか…キスくらい…してもいい、よな…付き合ってんだし)
未だ落ち着かない様子でハイボールを飲みだしたを見ながら、ふと邪な考えが過ぎる。とはいえ、のような普通の子とまともな付き合いをしたこともない春千夜にはそのタイミングがいまいち分からない。遊びの相手ならキスなどしないでヤることだけヤれれば良かったのだが、はそういう女とは全く違う。そうなると春千夜もまた変な緊張を感じ、酒の飲むペースが早まっていく。その間、他愛もない話を振って来るに相槌を打っていた春千夜だったが、ふと彼女の唇にチョコがついたままなのを見て、自然に指を伸ばした。
「ここ、ついてる」
「え、」
親指で唇についたチョコをグイッと拭い、それを自分の口へ運んで舐めとる。が驚いたような顔をしたが、その頬がじわじわと赤くなっていくのに気づいた。
「…何だよ…」
「う、ううん…ありがとう」
「………」
さっき以上に照れ臭そうな顔をするを見て春千夜の限界が来た。そのまま彼女の方へ顔を近づけ、唇を寄せていく。その空気に気づいたの鼓動が大きく跳ねる。ほろ酔いとはいえ、再び襲って来た緊張で身体がフリーズしたように動かない。あ、と思った時には春千夜の長いまつ毛が、至近距離で見えた。
「ん…」
顔を傾け、春千夜がそっと唇を重ねる。触れただけのキスで、全身が熱くなった気がした。僅かに離すと、は真っ赤な顔でぎゅっと目をつむっている。その表情が可愛くてもっと触れたくなった。もう一度唇を寄せ、優しく塞ぐと僅かにの身体が跳ねる。それごと抱きしめるように、の腰を抱き寄せながら、角度を変えて何度も触れるだけのキスを繰り返した。こんなに優しいキスをしたのも、キスだけでこんなに満たされて行くのも、春千夜は初めてだった。
「あ、あの…春千夜…」
僅かに唇が離れた時、が恥ずかしそうに顔を上げた。薄暗いオレンジ色の光の中で、潤んでいる瞳を見せられれば更に欲が煽られる。
「…イヤか…?」
その問いには慌てて首を振った。イヤではなく、ただ恥ずかしい。まるで少女に戻ってしまったかのようにキスだけでドキドキしてしまう。いい大人なのに、それはそれで恥ずかしいと思った。普段は素っ気ない春千夜が、まるで壊れ物に触れるかのように優しく触れて来るせいかもしれない。
「…イヤじゃない。嬉しくて…恥ずかしいだけ」
素直に思っていることを口にすると、今度は春千夜の頬がかすかに赤くなった気がした。もう一度、ふたりの唇が重なる。
「……今日、泊ってくか?」
ゆっくり唇を堪能した後で春千夜が呟けば、が小さく頷いた。
2.
「ん……」
ゆっくりと覚醒していく中、は喉の渇きと酷い頭痛を覚えて目を開けた。
「……ぇ」
ぼんやりと視界に入る天井は、見慣れた自分の家ではないことを告げている。ウチにはこんなお洒落な照明もなければ、そもそもこんなに天井も高くない。そこまで考えてすぐに夕べのことを思い出した。
「あれ…?私…」
昨日、初めて春千夜の家に招待されたこと、一緒にお酒を飲んだことはハッキリ覚えている。けれどその後のことは薄っすら程度にしか思い出せない。慌てて顔を横に向けると、目の前には春千夜の長いまつ毛が見える。ギョっとして起き上がろうとした時、身体が固定されていることに気づいた。
「…え…春千夜…?」
自分の身体に巻き付いているのは春千夜の腕だった。抱きしめるようにしながら気持ち良さそうに眠っている。そこで慌てて布団の中を覗いた。
「……ッ?!」
ふたりとも裸だった。すぐに布団を戻し胸元を隠すと、もう一度春千夜の寝顔をマジマジと眺める。
「も…もしかして…夕べ…」
思い返すが記憶がない。せっかく春千夜の家に初めてお泊りしたというのに、そこだけすっぽり記憶が抜け落ちている。ただ、ふたりが裸なのを見れば何かしたのは間違いなさそうだ。
「…嘘…どうしよう…」
そんなに飲んだつもりはなく、緊張はしていたものの的にはいつものペースで飲んだはずだ。問題なのはウイスキーをあれほど飲んだことはなく、このイヤな頭痛もきっとそのせいだと思った。
「失態だ…」
いくら酔ってたとは言え、春千夜に初めて抱かれたのを覚えていないなんて、と自分で自分を殴りたいくらいに落ち込んだ。その時、隣で寝ていた春千夜が「……?」と呟き、薄っすらと目を開けた。こんなに至近距離、しかもこの体勢で見る春千夜の整った顔は余計に迫力がある。
「お…おは…よ…」
「…おう…起きてたのか…」
春千夜は眠そうな顔をしつつも、かすかに笑みを浮かべ、自然にの唇へキスをした。その瞬間、の身体がまたもフリーズする。同時に夕べキスをした光景が頭に浮かんだ。
(ハッ…そ、そうだ…私、春千夜と初めてキス…したんだ…)
そこはかろうじて思い出し、顏が熱くなる。思ってた以上に酔ってしまったらしい。春千夜とどういう顔で向き合えばいいのか分からなくなった。まさか夕べ私達はエッチしたんですか、とは聞きにくい。いや絶対に聞いてはダメなやつだ。
「…二日酔い…大丈夫か?」
春千夜がふと思い出したように訊いて来た。それまで焦って忘れていたが、思い出すと頭の不快な痛みはまだ続いている。
「…え?あ…えっと…頭痛い…かな…」
「水、飲むか?」
「あ、自分でやるから…」
とは言ったものの。布団から出てしまえば裸だ。どうしようか迷っていると、春千夜が訝しそうに「どうした?」と訊いて来た。
「あ、あの…服…は…」
「え?ああ、だからそれは…」
春千夜はの言いたいことに気づいたのか、何かを言いかけて言葉を切った。そして不意に意味深な笑みを浮かべながら「覚えてねえのかよ」といきなりに覆いかぶさって来た。その突然の問いと体勢に、の表情が一瞬で固まる。それでも直に春千夜の肌を感じて耳まで赤くなった。
「あ、あの…春千夜…?」
「応えろよ。夕べのこと…どこまで覚えてんだよ」
「え…えっと……」
「キス…したのは覚えてるよなァ?」
ニヤリと笑う春千夜に、うっと言葉が詰まったものの、正直に頷く。二日酔いの寝起きからハードな展開で、は少しクラクラしてきた。
「その後のことは…?」
「だ、だから…その……」
「へえ…あーんなに大胆だったのに覚えてねぇのかよ」
「……っ?」
その言葉にギョっとして、は言葉を失った。酔っ払って何かやらかしたんだろうかと本気で焦って来る。もし万が一、自分から誘ったなんてことにでもなったら恥ずかしくて、もう会社に行けないとすら思う。そんなマイナスなことばかり考えていたら何故か涙が浮かんで来た。
「な…泣くなよ…」
の瞳がウルウルしてきたのを見て、最初はからかうのを楽しんでいた春千夜も一気に焦り出した。
「ジョーダンだって…んなことくらいで泣くなって…」
「……え…」
慌てたようにの濡れた目尻を指で拭いながら、春千夜は「悪かったよ」と苦笑いを浮かべた。その言葉の意味をしばし考える。冗談ということは…。
「だから…何もしてねぇって……つーか途中でオマエ、寝ちゃっただろ。マジで覚えてねぇのかよ…」
「ね…寝ちゃった……」
「結構ハイペースで飲んでたからな…まあ…美味そうに飲んでっからオレも止めなかったのがわりいけど…」
春千夜は困ったように言いながらも、の額に軽く口付けた。
「え、じゃあ…ほんとに私…途中で寝ちゃった…の?」
「ああ…」
「ご…ごめんなさい…私…」
まさか恋人に初めて抱かれようという時に寝るなんてとんだ失態だと言わんばかりに、再び泣きそうになる。これまでこんなに緊張した付き合いをしたことがなかったせいでもあるが、とんでもなく失礼なことをしたような気がした。なのに春千夜は怒るでもなく、慌てたように「だから泣くなって」との濡れた頬に触れた。
「いいんだよ、別に…。まあ…寝顔も可愛かったし…」
「…え?」
照れ臭いのか、顔を背けながらデレる春千夜を見上げながら、の頬も赤くなる。裸を見られたのも恥ずかしいが、寝顔も結構恥ずかしい。
「つーことで…」
ガシガシと頭をかきつつ、春千夜がふとの額に自分の額をくっつけた。
「今から続きでもやるか?」
「…えっ」
「イヤなのかよ…」
身体を起こした春千夜はスネたように目を細めるのを見て、はすぐに首を振った。それでも改めて春千夜を見上げると、もろに逞しい胸元が見えてカッと顔が熱くなる。色が白いせいで、やたらと色気があるような気がした。普段は縛っている髪を下ろしているのも初めて見る。の頬が徐々に熱を持ち、とてつもなく照れ臭くなった。
「イ…イヤじゃないけど……」
朝、それもこんな明るい時間に春千夜に抱かれるのは恥ずかしすぎて無理だった。はだけた胸元を隠しながらどう応えようか迷う。だが散々迷っている彼女の姿を見て、春千夜は突然吹き出した。
「そんな顔すんなよ」
「…え…」
「まあ…続きはまた今度な」
「春千夜…」
の気持ちを察し、春千夜は苦笑交じりで隣に寝転んだ。さすがの春千夜も、真っ赤な顔で恥ずかしそうにしているに無理強いは出来ない。こういうことは互いの気持ちが同じ時じゃないと意味がないと気づいた。ただ、こうして一緒に寝ているとを帰したくないとは思う。
「なあ…」
「な、なに?」
「ここで……オレと一緒に住むか?」
前から考えていたことを口にすると、が驚いたように身体を起こした。
「…春千夜…本気…?」
「…胸」
「え…?」
「見えてっけど」
「…っきゃっ」
あまりに驚き過ぎたせいで忘れていた。指摘され、慌てて布団で隠す。その姿を見て「そういうドジなら大歓迎」と春千夜が笑う。の顏が一気に首まで赤くなった。そういうところも春千夜には可愛く見える。まさかここまで本気にさせられるとは思っていなかった。
「まあ…さっきの話だけど…オレは本気だから考えとけよ」
優しく微笑む春千夜に、はただ黙って頷いた。