06.彼女の決断は⑴



仮眠から起きた九井がペントハウスを出て事務所に顔を出した時、秘書のが真剣な顔でパソコン画面を見つめていた。仕事でもしてるのかと思いつつ、九井は欠伸を噛み殺しながら事務所の中へ入った。

。仕事中悪いけど、コーヒー淹れてくれる?」

眠気覚ましにコーヒーが飲みたくなり声をかける。しかしは気づかない。未だにパソコン画面を見ながらマウスをしきりに動かしていた。

「…?そんな急ぎの仕事あんの?」
「…ひゃぁ!」

ひょいっと肩越しにパソコン画面を覗く九井に驚いたのか、は軽く飛び上がり、椅子から落ちて尻もちをついた。その驚きように九井の方が驚く。

「え…そんな驚く…?」
「こ、九井さん…っ?」

もやっと九井の存在に気づいたようで何度も目を瞬かせている。その表情が小動物みたいで可愛いと思いながらも、九井は苦笑交じりでの腕を掴んで体を引き起こした。しかしタイミング悪く、そこへ春千夜がやって来たことを二人は気づかなかった。

「…何やってんだ、九井…っ!」
「あ?」

後ろから冷んやりとした低い声が聞こえて振り向くと、そこには春千夜が今にも殴りかかってきそうなほど怖い顔で立っていた。

「ああ、三途か…ってか…何いきなりキレてんだよ」
「その手を放せ」
「え?あ…」

大きな瞳を吊り上がらせ、春千夜が指をさしてる場所へ視線を落とす。自分の手がの腕をしっかりとつかんでいた。そこで春千夜のキレてる理由に気づく。

「あ、いや、これは…違う!」

パっと手を放し、慌てたように両手を振る。しかし春千夜はその勢いのまま歩いて来ると、の手を引いて自分の後ろへ隠してしまった。

「オレがいないのをいいことにに何ちょっかいかけてんだよ?」
「は?ち、違うって!誤解!が椅子から落ちたから起こしてあげただけだっつーの!」

春千夜が何やら変な誤解をしていると気づき、九井はすぐに弁解した。いくら可愛いと思っている秘書でも春千夜の彼女になったのは分かっているのだから手を出すはずもない。も驚いたように「そ、そう、私のドジで九井さんは助けてくれただけです」と春千夜に訴える。二人から違うと言われて、春千夜も一応納得したのか、軽く舌打ちをする程度で終わった。

「…紛らわしいんだよ…」
「いや、フツー腕を掴んでただけで誤解しねえだろ」
「あ?んなの分かんねーだろが」

苦笑交じりの九井に、春千夜は再びムっとしたように睨みつける。その険悪な雰囲気をどうにかしようと、は「コーヒー淹れますね」と言って急いでキッチンへ向かった。それを見送りつつ、軽く息を吐いた春千夜が自分のデスクへ歩いて行くのを見ていた九井は「そんなに心配なんだ」とからかうように笑った。

「オマエには関係ねえ」
「いやいやいや…あんなことくらいで変な誤解されても困るし」
「チッ!」
「…舌打ちすんなよ」

春千夜がこういうヤツだというのは分かっているが、好きな女が絡むとここまで面倒くさくなるのかと思うと吹き出しそうになった。

(まあもボケーっとしてっから余計に心配なんだろうけど)

ふたりがつき合いだしたことは梵天の幹部全員が知っている。春千夜が話したわけじゃなく、灰谷兄弟が持前の口の軽さで皆に話してしまったからだ。おかげで春千夜は会うたび誰かしらにからかわれる羽目になったものの、逆に虫よけになるとプラスに考えたのか、今じゃ「に近づくな」と皆を牽制するようになった。その甲斐あって幹部の中にを口説こうとするような命知らずの人間はいない。まあ全員が腕っぷしは強いが、春千夜の容赦ない刀攻撃から逃げるのは確かに大変だし、仲間同士でのマジ切れ的なケンカはマイキーが良しとしていない。必然的に全員が触らぬ三途に何とやら状態だ。だから仕事上の必要最低限のこと以外は誰も彼女に近づかない。なのに春千夜は未だにと話すたび、殺気のこもった目で睨んでくるので、一応上司としての立場もある九井としても困ってしまう。
そんなことを思いながらのデスクへ視線を向けた九井は、パソコン画面を見てふと眉を寄せた。それは先ほどが真剣に眺めていたものだ。

「…なあ。って引っ越しすんの?」
「あ?」
「なーんか引っ越し業者調べてたっぽいし」
「………」

言いながら春千夜の方へ振り返る。なのに春千夜は無言のまま書類を手に固まっていた。心なしか頬が赤い気がする。

「三途?」
「…知らねえよ」

九井がもう一度声をかけると、春千夜はハッと我に返った様子でまたしても舌打ちをしてくる。何なんだよ、と思っていると、そこへがコーヒーを淹れて戻って来た。

「はい、九井さん」
「お、サンキュー」
「春千夜さんも」
「…おう」

春千夜は素っ気ないものの、からコーヒーを受けとり頬を緩めている。その光景を眺めつつ、九井は首を傾げた。知らないと言ったわりに引っ越しと言った時に見せた春千夜の顔はどこか嬉しそうだったからだ。

「なあ、。オマエ、引っ越すの?」
「…えっ?!」

春千夜が知らないなら本人に聞けばいいとばかりに尋ねると、予想以上に驚かれた。

「いや…何か引っ越し業者調べてるみてーだし」

とパソコンを指させば、は慌てたように自分のデスクへ戻り、観覧していたサイトを閉じてしまった。最初は小さな疑問だけだったのに、その不自然すぎる態度を見て九井の好奇心に火がついた。

「何だよ。そんな慌てて。もしかしてオマエら同せ――」
「…こっ九井さん…っ」
「うわ…」

ただからかうつもりだったのが、は一瞬で顔を真っ赤にして九井の腕を掴むとキッチンの方へ引っ張っていく。それに気づかず、春千夜はかかってきた電話に応対しているようだった。その隙にと言わんばかりに、はキッチンのドアをそっと閉める。その行動にはさすがに九井も驚いた。

「な、何だよ、いきなりキッチンになんか連れ込んで…こんなとこ見つかったらオレが三途に殺されるだろーがっ」
「あ、あの…引っ越しのことは春千夜さんの前では話さないで欲しいんです…」
「え…?」
「あ、いや、そうじゃなくて…まだ返事をしてないので私が引っ越しを考えてるとか言わないで欲しいというか…」
「……返事?」

は真っ赤な顔で恥ずかしそうにしている。そこで今までの流れを思い出し、九井は何となく話が見えてきた。

「あ~もしかしてオマエ…三途から一緒に住もうとか言われた?」
「え…あ…」

はそこで自分が口走ってしまったことを気づいたのか、しまったという顔をする。どうやら図星だったようだ。

(なるほど…だからさっき三途は驚いたように固まってたのか…)

が見ていたサイトの話を振った時、春千夜は一瞬驚いたように固まり、顏も赤くなっていた。一緒に住もうと言ったのは春千夜からで、その返事はまだ保留中。でもが引っ越し業者を調べてる事が分かった。つまりそれはが一緒に住むことを前向きに考えているという証でもある。

「え…で?は三途と一緒に住むって決めたのかよ」
「ま、まだ…ハッキリとは。ただ一応…引っ越し業者いいとこないか調べてたんです…」
「あ~そういうことね」

まだ決めてないのかと九井は苦笑した。ならば春千夜は今か今かとの返事を待っているはずだ。とはいえ、あの春千夜が女と暮らすことを考えてるなんて意外過ぎると九井は思った。まず三途春千夜という男は潔癖症であり、細かいことにもうるさい。他人と何かを共有するのも極端に嫌がる傾向にある。そんな男がいくら愛しい恋人だからといって、一緒に住もうとまで考えるのは九井の中では大きな驚きだった。

「あの…このことは他の皆さんには内緒にしておいてくれませんか…?」
「もちろん、それはいいけど。まあ…蘭さん達にバレたら更にこの事務所以外にも広まりそうだしな」

ふと灰谷兄弟のニヤニヤ顔を思い出し、苦笑が洩れる。もその辺りを心配してたようで「そうなんです…」と恥ずかしそうに笑っていた。
その時――事務所の方から「!」と春千夜の呼ぶ声がして、ふたりはドキっとしながら顔を見合わせた。

「やべ…こんな場所にふたりで籠ってんの見られたらまーた怒り出すぞ、アイツ」
「そ、そう…ですね。では私が先に出ます」
「おー、オレは後からこっそり上に戻るわ」

軽く手を上げると、は軽く会釈してから急いでキッチンを出て行った。残された九井は手に持ったカップにコーヒーを注ぎ足しながら、ふとあの三途がねえと独り言ちる。と付き合いだした時も驚いたが、まさか同棲を考えるまで本気になるとは思っていなかったのだ。

「ま…そうなればアイツも少しは落ち着くか?」

と考えたものの、いやそれはないか、とすぐに打ち消す。もしが一緒に暮らすことを承諾したとしても、春千夜のあの性格で他人と暮らせるものなのか想像も出来ない。

「余計に束縛されそー」

手に入れたら入れたで今度は他人に奪われるのが怖くなる。春千夜の嫉妬深さを見ていると、九井は何となくそう感じた。

「ってオレも人の心配してる場合じゃねぇか」

相変わらず決まった恋人も作らず、事務所に詰めて仕事ばかりしている現状を思い出し、九井は溜息交じりで肩を竦めた。