07.彼女の決断は⑵



"わりい。ちょっと仕事が入って遅くなる。例の話はまた今度な"

一度事務所に戻って来た春千夜が午後にまた出かけて行ってから一時間後、そんなメッセージが届き、は寂しい反面、少しだけホっとした。自分のドジのせいで引っ越し業者を調べてるとバレてしまったが、実際のところまだ一緒に住むという決断は出来ていないからだ。住みたいという気持ちはあるものの、一緒の空間で生活をすると考えると、色々と問題がある。普段、自宅でしているようなグータラした生活は出来ない上に、トイレや風呂といった場所も共同になるのだ。そこは最も個人的な空間なのでとしても恥ずかしいと思ってしまう。

(同棲とかしてる人達はその辺どうしてるんだろ…)

仕事を終え、帰りがけにコンビニに立ち寄りながら夕飯用にサラダやお弁当を買う。今日はオムライスにして、ついでに切らしていたビールもカゴの中へ入れた。自炊をすることもあるが、仕事で遅くなった日は帰ってから作るのが面倒でついコンビニに頼ってしまう。

(そうか…春千夜と住むなら、もうこんな風にあり合わせの物で済ませることも出来なくなるんだ…)

と言って春千夜が普通の会社員のように決まった時間に帰宅するのかと考えると、そこまで真面目に家事をしなくていい気もして来る。

(そう言えば…春千夜って何が好きなんだろ…。食事に行く時はだいたい軽くつまむ程度で殆どお酒を飲んでるしなぁ…)

付き合ってるのに恋人の好きな食べ物すらハッキリ分からないことに気づいて、は軽く落ち込んだ。

「はあ…今日はご飯食べて早く寝ちゃおうかな」

自宅マンションに着き、は独り言ちながら自分の部屋の鍵を開ける。その時、背後から足音が近づいて来て、いきなり肩を掴まれた。

「ひゃっ」


驚きの声を上げた時、聞き覚えのある声に名を呼ばれ、は慌てて振り向いた。

「ト、トモくん…っ?」
「今帰り?遅くね?」

懐かしい笑顔を見せる男。それは前の会社で付き合っていた元カレだった。

「な…何でここにいるの…?」

元カレのトモヤはスーツにコートを着ている。どう見ても会社帰りだ。

「何でってオマエに会いに来たんだろ?久しぶりじゃん。元気だった?」
「げ…元気、だけど…何の用?こんな時間に…」

今はすでに午後9時を回っていた。も春千代が遅くなると知り、少しだけ残業をしてきたのだが、この時間ならトモヤも残業か接待だろう。前の会社はかなりのブラックで時間外労働は普通に行われていた。

「オレは接待の帰りだよ。いつもより早く終わったし、久しぶりに"シーズン"で飲み直そうと思って」
「そ、そう…」
「覚えてる?前によく一緒に行ったよな」

覚えてるも何も、その店はがトモヤを連れて行ったのだ。マンション近くに隠家みたいな看板のない店を見つけて、トモヤと一緒に行ってから少しの間は常連だった。けれど前の会社を辞め、トモヤとも別れてからは一度も行っていない。

「んでは元気かなーと思って来てみたら、ちょうどオマエが帰って来るの見えてさ」
「…それだけ?じゃあ私は疲れてるから…」

普通、別れた相手の家に来ないでしょ、と思いながら、はドアを開けて中へ入ろうとした。しかし腕を掴まれ引き戻される。さすがにも驚いてしまった。

「何するの?離して」
も行かね?マスターんとこ。久しぶりにふたりでさ。ひとりでコンビニ弁当食うのもさみしーだろ?」
「…別に寂しくないよ。それに私、疲れてるの。行きたいならトモヤひとりで行けば?」
「何だよ…相変わらず冷たい女だな…。あっさり会社辞めて、オレとも別れるとか言い出すし」
「それは…」

前の会社で上司からセクハラやパワハラを受けていたことを相談したにも関わらず、トモヤが見て見ぬふりをしたから別れたのだ。それを冷たいと言うならトモヤも同じだと思った。別に上司に面と向かって何かを言って欲しかったわけじゃない。でもせめて相談くらい乗って欲しかったのだ。

「と、とにかく…もうここには来ないで」
「ふーん…もしかして…もう新しい男でもいんの」
「……関係ないでしょ?」
「いいじゃん、教えろよ。今どこで働いてんだよ。今カレってもしかして新しい会社のヤツ?」
「……」

どうして男というのは別れた女のところへ平気で来れるんだろう。別れたいと言った時点でとっくに気持ちはないと何故気づかないのか。正直トモヤのことは顔も見たくないというほど嫌になったわけじゃない。ただ気持ちが冷めただけだ。セクハラやパワハラ行為を受けて悩んでいる恋人を、庇うことも慰めることもしなかった男に。ひたすら自分の保身の為に動くトモヤを見て、いったいコイツのどこを好きになったんだろうと自分でも不思議に思った程度に冷めた。でもそれだけだ。未練もなければ今の会社に入ってからは一度も思い出したことさえなかった。なのに今こうして煩わされると本気で嫌になって来る。

「…おいっ?」

は応えることも面倒になり、トモヤを押しのけ玄関に入るとすぐにドアを閉めて鍵をかけようとした。だがそれより先にドアを引っ張られ、トモヤが中へ侵入して来る。その強引さに驚いた。

「入って来ないでよっ」
「いーじゃん。前は入れてくれてたろ?つーか無視とかすんじゃねぇよ。オマエ、何様?」
「きゃ…っ」

コートごと胸元を掴まれ、壁に押し付けられる。思っていたよりも酔っているのか、トモヤの口からは強いアルコールの匂いがした。

「は、離して…」

強い力で押さえつけられ、は初めてトモヤに対して恐怖を感じた。付き合っていた頃でもこんな風に扱われたことはない。情けない男だが暴力を振るうような男ではなかった。

「つーか今日イライラしてたんだよなァ。接待相手がクソ野郎でさー。そんな奴にヘコヘコしなきゃいけねーのマジだりーわ。だから酒でも飲んで帰ろうかと思ってたんだけど…」
「ちょ、何…っ?」

突然トモヤが唇を近づけて来るのを見て、は思い切り顔を背けると、胸元を掴んでいる手の力が緩んだことでトモヤを押しのけ外へ逃げようとした。だがすぐに肩を掴まれ、今度は玄関口のかまちのところへ押し倒される。強く背中を打ちつけ痛みで思わず声が跳ねた。

「…っや、やだっ」
「大人しくしろっ」

トモヤはの上から圧し掛かると、コートの中に着ていたスーツやシャツのボタンを乱暴に引きちぎった。ぶちぶちっという鈍い音を聞いて全身が総毛だつ。トモヤは無理やりを抱くつもりなのだと気づいたのだ。

「やぁっやめて!」
「いいだろ、別に。処女じゃあるまいし」

の身体にまたぐようにしながら、両手を抑えつけられたことで、は恐怖のあまり涙が浮かんで来た。

「オマエ、付き合ってる時はさせてくんなかったろー?だから心残りだったんだよなーオレ」

前の会社で付き合ったのは三ヶ月ほどだが、その頃はお互いに残業や接待などで忙しく、ゆっくりデートをする時間もなかったのだ。今思えば身体の関係を持つ前に別れて正解だったと思った。は唯一動かせる足を必死に動かし、押さえつけられている手もどうにかして外そうと暴れたが、トモヤは大柄でラグビーをやっていたと話してたように力も強い。小柄なが抵抗したところで敵う相手ではなかった。

「クソ、暴れんなって!」

両手を抑えつけるだけで精一杯な状況にイラだったのか、トモヤが手を振り上げた。静かな室内にパンッという乾いた音が響く。同時に頬がジンジンと熱を持ち、叩かれたのだと分かった瞬間、全身の力が抜けていくのが分かる。もし暴れたらまた殴られるという恐怖が、の身体を強張らせてしまった。急に暴れるのをやめたを見て、トモヤがニヤリと笑みを浮かべる。

「そうそう…大人しくしてれば痛いことしねぇから」

言いながら胸元に手をかけ、シャツを左右に引っ張るのが分かった。素肌に冷たい外気が触れ、無意識に身体を捩ってしまう。

「や、やめてっ」
「まーだ暴れんの?また殴られてえのかよ」
「やだ!――春千夜!」

またしても手を振り上げるトモヤを見た瞬間、は思わず大好きな人の名前を叫んでいた。

「はるちよぉ?誰だ、それ――」

と、トモヤが笑った時だった。背後のドアが徐に開き、トモヤがギョっとしたように振り返る。そこには男がひとり立っていた。

「あ?誰だ、てめぇ――ぐぁっ」

トモヤが文句を言いかけた瞬間、襟元を掴まれたらしい。凄い勢いで外へ引きずり出されていくのを見て、は唖然とした。だがドアが再び閉じた時、ハッとしたように身体を起こすと、ドアの向こうから「ぐぁぁ」という低い呻き声が聞こえて来た。

「え…な、何…?」

トモヤの陰になっていた為、からはドアを開けた人物が誰なのかまでは見えなかった。しかしかすかに残る香りは、が良く知っている人のものだ。

「はる…ちよ…?」

震える声でその名を呼ぶと、再びドアが開く。ふわりと甘い香りに包まれ、気づけば抱きしめられていた。

「おいっ…大丈夫かっ?」
「は、春千夜…」

すぐに頬を両手で包まれ、顔を上げさせられた。薄暗い中、春千夜の大きな瞳と目が合う。その瞬間、ホっとしたことで再び涙が溢れて来た。

「春千夜…!」

思わず首元に抱き着くと、背中に腕が回される。安堵感から恥ずかしいくらい涙が止まらず、しばらく春千夜に抱き着いたまま泣いていた。

「こ、怖かった…」
「…わりぃ。遅くなった」

仕事を終えた春千夜はドタキャンしたことを謝ろうとの家にやってきた。後はやはり引っ越す気があるかどうかをちゃんと聞きたかったというのもある。だがの部屋に向かって廊下を歩いていた時、かすかに聞こえた悲鳴に気づき、慌てて駆けつけたのだ。

「つーか誰だよ、アイツ…」
「………」
「言えねえ関係なのかよ…」

何も応えないに、春千夜が不機嫌そうな声を出す。は慌てて腕を離すと「違うっ」と春千夜の顔を見つめた。

「…前の会社で…少しだけ付き合ってて…でも会社辞めた時に別れた人なの…」
「……別れたヤツが何でここに?」
「分かんない。急に尋ねて来て…」
「チッ。そーいうことかよ…」

春千夜は何もかも察したように呟くと、の乱れた服を直し「着替えて来い」とだけ言った。

「え…?」
「聞こえたろ?着替えて来い。このままオレの家に連れて行く。反論は許さねえ」
「う…うん…」
「あと何日か分の着替えも持ってこい」

怖い顔で見つめる春千夜にドキっとしたものの、このままひとりになるのはイヤだった。そこは素直に頷き、着替えるために寝室へと向かう。それを待つ間、春千夜は一度外へ出ると、鼻血を垂らしながら座り込んでいる男の前にしゃがんだ。先ほど思い切り顔面を殴りつけたことで、トモヤの鼻がおかしな方へ曲がっている。

「おい、てめぇ…ふざけたマネしてくれたな…」
「…ひっ」
「誰の女に乱暴したか分かってンのか」
「す…すみません…っで、でも別に乱暴なんて…」
「嘘つくんじゃねえよ!の頬が赤くなってたのはオマエが殴ったからだろーがっ!」
「ぐあぁぁっ」

曲がっている鼻を指で強く掴むだけでトモヤがのたうち回る。それを見ながら春千夜はケータイで誰かに電話をし始めた。

「ああ、オレだ。ちょっと上に来い。五階な」

それだけ言って電話を切ると、春千夜はトモヤの足を持ってエレベーターの方へ引きずっていった。

「や、やめて!すみません、許して下さい…っ」
「うるせぇ。近所迷惑だろうがっ」

一度振り向き、横っ腹を蹴り上げると、トモヤは痛みで声にならない声を漏らし、途端に静かになった。そこへチンという音がしてエレベーターの扉が開く。

「春千夜さん、どうしたんです?」

そこに顔を見せたのは運転手をしている春千夜の部下だった。

「ああ、コレの処理頼むわ」

運転手の男は床で気を失っている男を冷めた目で見下ろした。

「…スクラップですか?」

春千夜相手に理由など聞かない。処理をされるほど、この男が何かをしでかしたのだと理解しているからだ。

「いや…コイツはの知り合いだ。ここに来るまでに目撃されてる可能性もある。今はまだ何もすんな。今日のところは脅すだけでいい。多分それでコイツも黙るはずだ」

本当ならばに手を出そうとした男は今すぐスクラップとして消してしまいたい。それをどうにか堪えて部下に任せた。

「分かりました。では…」

運転手の男は春千夜に一礼すると、トモヤの身体を軽々と抱え、再びエレベーターへ乗り込んだ。それを見送った春千夜が部屋へ戻ると、ちょうど着替え終わったのか、が大きなトランクを手に玄関へと出て来た。

「…終わったか?つーか海外旅行じゃねぇんだから」

大きなトランクを見て春千夜が苦笑すると、が恥ずかしそうに俯いた。あんなことがあったせいか、少し元気がないように見える。

「…大丈夫か?」

頬はさっきよりも赤みが増し、少し腫れているように見えて、春千夜はそっと頬へ手を伸ばした。

「こんなの大丈夫だよ…」
「…チッ。あの野郎…もっと痛めつけてやればよかった」

大事なに圧し掛かっている男を見た時、ワケの分からぬまま怒りが爆発しそうになった。だが冷静に対処しようという理性が働いたのは、ここがの住む部屋だったからだ。ここで暴れてしまえばを巻き込んでしまう。それだけは避けたかった。本当ならば、を傷つけ暴力まで振るったトモヤをこの手で殺したいとさえ思ったが、同じ理由で今夜は手を出すのをやめて部下に任せることにしたのだ。

「春千夜…アイツをどうしたの…?」
「別に死んじゃいねぇよ…ぶっ殺したかったけどな」
「……え」
「当たり前だろ…?あのバカはを傷つけた…あれくらいで済ませてやったんだから感謝して欲しいくらいだっつーの」

春千夜はやはり不機嫌そうに目を細めたが、ふとの頬に触れ「何も…されなかったかよ」と呟いた。その質問の意味に気づき、は真っ赤になりながらも「されてない」と首を振る。

「…キスも?」
「されてない」
「……そっか」

そこでやっと安堵の息を漏らした春千夜は、思い切りを抱きしめた。

「もしちょっとでもに何かしてたら……アイツ今頃スクラップ行き」
「…すくらっぷ…?」
「オマエは…オレのもんだろ?」

額を合わせ、真剣な顔で呟く春千夜を見上げれば、すぐにくちびるが重なる。何度も角度を変えながら啄む春千夜のキスで、も少しずつ落ち着いて来るのが分かった。もし春千夜が来てくれなかったら、と想像するだけでゾっとしたものの、助けに来てくれたことでの中の迷いが消えた。これから先、この家でひとりの夜を過ごすのは怖い。

「あ、あの…春千夜…」

僅かにくちびるが離れた時、が思い切って口を開くと、

「一緒に住む気になったかよ」
「えっ」

言おうとしていたことを先に言われて驚いた。思わず顔を上げれば、春千夜が意地悪な笑みを浮かべている。

「これでひとり暮らしは危ないって分かったろ」
「う…うん…」
「なら…オマエの答えは?」

は春千夜を一瞬見つめると、恥ずかしそうに目を伏せながらも「宜しくお願いします」と頭を下げた。その瞬間、下げた頭をくしゃりと撫でられる。

「決まりだな」

が顔を上げると、春千夜は笑みを浮かべながら、もう一度のくちびるに軽いキスを落として、華奢な身体を強く抱きしめた。