
08.共犯者
「こんな日にまで来なくても良かったのに…」
九井は呆れたように溜息を吐いた。
朝、出勤してきた部下の頬が少し赤くなっていた。どう見てもぶつけたという感じではなく、誰かの手で明らかに叩かれたようなものだった。まさか春千夜に殴られた?と九井は大いなる勘違いをして問い詰めたのだが、そこから慌てて否定するの口から夕べあった出来事を聞かされたのだ。
「いえ、大丈夫です。今日中にやらなくちゃいけない仕事もありますし」
「そりゃそうだけど…はあ…。しっかし付き合ってた子にそんな酷いことするクソがまだいんだな…」
「…私もいけないんです。付き合ってた頃はそんな暴力的な人じゃなかったから油断してたし…きっぱり追い返せば大丈夫だって思っちゃって」
「いや、オマエは悪くねえだろ。ちゃんと別れたわけだし、どう考えてもその男が悪いんだよ。仕事のことでイライラしたからって別れた相手の家にまで押しかけて乱暴しようって普通は思わねえし、もうオレの理解の範疇を超えてるわ」
心底腹立たしいというように九井が吐き捨てる。も同じ気持ちだったが、代わりに春千夜や九井が怒ってくれたことで元カレへの怒りは浄化されていく気がした。
「んで?三途がソイツに制裁加えて帰したのか」
「た…多分…」
と応えながら春千夜のデスクを見る。今朝、が会社に行くと言い張ったので、渋々会社に送ってくれはしたものの、春千夜はそのまま他の事務所に顔を出すと言い残して行ってしまったのだ。
「私はその場面見てないんですけど、呻き声みたいなのは聞こえたから一発くらいは殴ったのかなって…」
「ふーん…。まあでも…あの三途がよく殴るだけで我慢したと思うわ」
「…え?」
「普通ならその元カレ、再起不能か、それこそ東京湾に撒かれててもおかしくねえ」
言葉の意味が分からなかったのか、は軽く首を傾げている。その姿を見て九井は「何でもねーよ」と苦笑を漏らした。多分その程度で済ませたのはの為だろう、と九井は考えた。あのキレやすい春千夜が自分の恋人を暴行しようとした男を生かして帰した理由など他に思い当たらない。冷静に見えたとは話していたが、実際にはその通りじゃないだろうことを、九井は嫌というほど知っている。
(アイツ…やっぱラグる気だな)
他の事務所に行ったと聞いていた九井はすぐ春千夜がやろうとしていることに気づいた。今すぐその男に何かあればが疑われる。彼女の家に行くまでに多数の目撃者や、同じマンションの人間ならある程度は争う声や怒鳴り声などを聞いているかもしれないからだ。しかし数か月後にその元カレが他の人間ともめて消えたならば警察もにまで辿り着かない。
(三途のことだ。念には念を入れて巧妙に複数の揉め事を用意するはずだ)
そうしてジワジワとその男の周りを包囲していく。人の目につく方法でソイツが消える状況を作り上げていくのが、梵天のやり方だ。といってもそれは素人が相手だった場合であり、裏社会の人間ならばもっと簡単なやり方で済む。
(バカな男だ。一時の感情でアイツの女に手を出すなんて)
何も分かっていないであろうを見ながら、九井は小さく息を吐くと、自分の仕事をするべく事務所を後にした。
「…じゃあ宜しく頼むわ。ああ、謝礼はたっぷり」
そこで電話を切ると、春千夜は軽く息を吐いた。時計を見ればすでに午後4時を回っている。朝からあちこちに手を回し、の元カレ消去の為に全てを整えた。あとは一か月後、仕掛けた罠が順番に発動していく手はずになっている。来年の今頃、トモヤはこの世にいないだろう
昨夜、トモヤを痛めつけた部下から色々と話を聞いた。どうやらトモヤはに振られたあと、むしゃくしゃしたのもあり会社の金に手をつけていたらしい。最初は少額だったがバレないことに味をしめ、次第に引き出す金額は大きくなっていった。その金で豪遊し、会社ではこれまで通りいい社員を演じていたようだが、今度会計監査が入ることになったことでトモヤは焦っていたようだ。
「ヤツは監査が入れば横領が発覚すると思い、苛立ってたようです。それで自分が横領をするハメになったのはさんのせいだと逆恨みしてたようですね」
部下からその話を聞いた時、春千夜の中で完全に「見逃す」という選択肢は消えた。下らない逆恨みの為にを暴行しようとしたことを春千夜が許せるはずもない。
「そろそろ終わる頃か…」
今日はそういう理由で事務所にも顔を出せなかった春千夜は一度事務所に戻ることにした。夕べの運転手にそう告げると、車は静かに走り出す。春千夜は軽く息を吐いてシートに凭れ掛かった。それをバックミラー越しに見ていた運転手の男は「大丈夫ですか?」と声をかける。
「夕べもあまり眠っていないんじゃ」
「…ああ。が眠れないみたいだったからな。付き合って起きてた」
「そうでしたか…。あの男…ちょっと治療費を渡しただけでヘコヘコしながら自分の足で帰って行きましたが、まさかこの後に地獄を見るとは思ってないでしょうね」
「ああいうバカはどうせ同じことを繰り返す。いない方がマシだろ。まあ…罠にかかって堕ちていくより先に横領罪で捕まるかもしれねえけどな」
「そうなれば刑務所の中で動ける人間を用意しますよ。梵天の為に動く人間は腐るほどいるので」
運転手の男は冷めた表情であっさりと言った。その言葉に春千夜も笑みを浮かべながら「どっちにしろ、アイツには地獄しかねえ」と呟く。夕べ、マンションに連れ帰った後もは少し怯えた様子だった。なかなか眠れないようで気分が落ち着くまで春千夜も一緒に起きて他愛もない話に付き合っていたが、何とか明るく振舞おうとするを見ながらやっぱり許せない気持ちの方が勝ってしまった。明け方近く、やっと眠りについたの寝顔を眺めながら、トモヤの消去法を考え、今朝すぐに実行に移したのはそういう理由もあったのだ。特に殺せ、とは言っていない。人を殺す時、春千夜は自分の手でカタをつける。今回は罠をしかけただけだ。生きるも死ぬも相手次第。ただ色々な罠を仕掛け、破滅させていくだけで人は簡単に死を選ぶこともある、というだけだ。
「今夜はぐっすり眠れるといいですね」
「そうだな…」
言った矢先から欠伸が出て、春千夜は目を瞑った。
「この中から選べ」
「え!」
仕事終わり、事務所に春千夜が迎えに来てふたりでマンションに帰って来た。まずはふたりでシャワーを浴び――もちろん別々――着替えを済ませて、さあ食事の用意をしようとがキッチンに向かおうとした時、春千夜に呼ばれた。リビングに戻ると、北欧風のガラステーブルの上に数冊ほどカタログのようなものが置いてある。よく見ればそれはマンションが載ったカタログだった。春千夜はそれを指しながら一言「この中から選べ」と言ったのだ。
「えええ選べって!これ…マンションのカタログでは…」
「そうだけど何か問題でもあんのかよ」
「も…問題…というか…え…?春千夜、マンションでも買うの…?」
風呂上りのビールを飲んでいた春千夜は、その問いに「ちげーよ」と苦笑いを浮かべた。
「このカタログのマンションはオレのもんだ。このマンション同様、自分用の部屋を確保してある。だから住もうと思えばすぐ住めるから好きなとこ選べっつってんの」
「………」
春千夜の説明にの思考が一時停止した。マジマジと目の前のカタログたちを手に取って眺める。どれも素晴らしい物件ばかりだった。だいたいが都内の一等地にあるタワーマンションで値段はあまり考えたくないほど0が並んでいる。
「こ…こここのカタログ…」
「…ニワトリかよ…」
驚きでどもりはじめたに春千夜が思わず突っ込んで笑う。しかしの耳には入っていないのか、頬を紅潮させながらカタログを穴が開きそうなほどにガン見していた。
「全部…は、春千夜の……え、春千夜のぉぉぉお?」
「…っうるせぇ…」
遂には大きな声で騒ぎ出し、春千夜は慌てて耳を塞いだ。のリアクションが面白いと思いつつ放置していたものの、想像以上に驚いている姿は初めて遊園地に連れて行かれた子供のように騒々しい。
「あのなぁ…オマエはどこで働いてんだっての」
「え…?えっと……」
苦笑いを浮かべた春千夜に問われて、は改めて考える。そうだ、ウチの会社は不動産会社だった。そこまで思考が回ったところで、確かに時々高級物件の契約書を作成したことがあるのを思い出した。
「え、でもああいうのって組織で持ってる不動産かと…」
「まあ、そういうのもある。でも他の奴らも個別でマンションは持ってんだよ。灰谷兄弟なんかオレより持ってるしな。バカみたいに買いあさってた時期があったから」
「え、じゃあ…九井さんや鶴蝶さんも?」
「ああ」
「………」
今の会社の裏には梵天という組織があることは知っていたものの、実のところは詳しい内情すら知らない。まさかそこまで大きな組織とも思っていなかった。
「…何だよ」
「う、ううん…。何か…違う世界のことでちょっと驚いただけ」
「怖くなったか…?」
春千夜が不安げに尋ねると、はすぐに首を振って「違うよ」と笑った。
「怖いとかそういう次元を飛び越えて驚いてるの」
「…何だそれ」
春千夜は変な女、と言いながらを抱き寄せて苦笑している。そっと背中に腕を回せば、すぐに強く抱きしめられた。真っ当な会社ではないと分かっていても、春千夜が裏社会の人間だと分かっていても、は逃げ出したいとも思わなかった。いい悪いの話ではなく、が春千夜から離れたくないのだから仕方がない。ふと顎を指で掬われ、顔を上げさせられるとくちびるが重なった。例え春千夜がどんなに悪人だったとしても、人を殺していたとしても、この温もりを手放せない。知っていながら見て見ぬふりをするのも罪なら、いっそ共犯者でいい。これまでの平凡な人生を、全て捨てることになったとしても。
「…で?どこに住みたい?」
ゆっくりとくちびるを解放しながら、春千夜が微笑む。それは美しい獣からの甘い誘惑だった。