
09.許されない 許されたい⑴
今週末に引っ越す――。
春千夜にそう告げられたは、てっきり今住んでいる春千夜のマンションに越すのかと思っていた。だが蓋を開けてみれば、春千夜が所有しているマンションは複数存在し、その中でが気に入った場所に越すということだったらしい。そこでの選んだマンションが――。
「で…結局ここから近い恵比寿にしたんか」
「マジで…?」
「はいっ」
九井と鶴蝶に満面の笑みを見せたは、先週よりもだいぶ表情が明るくなっていた。せっかちな春千夜の提案で先週末に引っ越しを完了させ、環境も変わったことで気持ちも落ち着いたようだ。
「え、じゃあが住んでたとこは引き払ったってことだよな。荷物とか大変だったろ。そんな数日で荷造りとか出来たわけ?」
九井が指折り数えながら素朴な疑問をすると、は困ったように微笑んだ。その視線の先には春千夜がいて、今は仕事の電話をしている。
「それが…家具とか全て部屋にあるし、後は私が必要なもの全て新しく揃えてくれたので、私が前に使ってたものは殆ど処分してしまったんです」
「は?全部…?」
「はい…オレと知り合う前のものは特に大事なもの以外は全部捨てろって…でもそんなに大事なものはなかったので結局、私が今のマンションに運んだのは衣類とか靴とか仕事用のパソコンくらいです」
「マジか、アイツ…」
の説明に鶴蝶も顔を引きつらせ苦笑している。そして九井も同じように苦笑いを浮かべて春千夜へ視線を向けた。それはやれやれといった表情だ。おそらく全て捨てろと言ったのは自分の知らないの過去を感じるのが嫌なんだろう。嫉妬深い春千夜の言いそうなことだと九井は思った。しかしがそれを素直に受け入れているのだから、九井が口を出すことでもない。
「で、新しく何を買いそろえたんだ?」
鶴蝶がコーヒーを飲みつつ、ふと尋ねた。
「えっと…ソファやテーブルなどはマンションに新品のがあったので、春千夜さんが最新型にしたいって言ったテレビと、私が気に入ったカーテン…あ、あと洗濯機がなかったんで洗濯機と…食器や鍋類…あとダブルベッドとシングルベッドです」
「…え、いや、ちょっと待て。その他のものはだいたい分かるけどさ。ベッドのチョイスおかしくねえ?なあ?鶴蝶」
「お、おう…そそそうだな…」
ベッドと聞いて顔を赤らめた鶴蝶を見て、九井の目が細くなる。コイツは何を想像してるんだと言いたげだ。
は質問に対して苦笑すると「実は…」と小声で話し出した。
「今の部屋に私用の部屋も用意してくれてて…」
「は?何で。同棲すんなら一緒に寝るだろ、普通」
「そそそうだよ、なあ」
「……(どもりすぎだ、鶴蝶)」
こういう話に疎い鶴蝶はいちいち照れてしまうのか、落ち着かない様子だ。そんな空気にも気づかずも少し恥ずかしそうに「でも個人的なプライベート空間も必要だろって言ってくれて…」と頬を赤らめた。惚気とも取れるその話を聞いた九井は密かに驚愕していた。あの粗暴な春千夜が、女性の繊細な心を理解してあげられているという信じられない事実に。それは鶴蝶も同じ思いだったのか、赤かった顔が今度は少し青ざめている。互いに顔を見合わせた二人の視線はそのまま春千夜へ向けられた。あり得ないと言った視線を向けられているとも知らない春千夜は未だ電話中だ。部下がヘマをしたのか、少し不機嫌そうに受け答えをしている。しかし普段と違うのは明らかに機嫌が悪そうなのに怒鳴っていないところだった。
「人間って…色々と変われば変わるもんだな…」
「あ…ああ…そう、だな。あの春千夜が部下のミスに怒鳴らねえなんて…」
「と暮らし始めて今は最高に機嫌がいいんだろ…どうせ」
その時、電話を切った春千夜がやっと二人の視線に気づいた。ふと顔を上げた瞬間に目が合い、九井と鶴蝶はサっと視線を反らす。
「……何だよ、テメェら…人の顔ジロジロと」
「い、いや…」
「べ、べべ別に…なあ?」
「はあ?気色悪い奴らだな…」
互いに引きつった笑顔を浮かべながら相槌をうちあっている男二人に、春千夜の顔もある意味引きつった。でもすぐにが傍にいるのを見ると「そこ!近いから離れろ」と威嚇は忘れない。前より丸くなった気はするものの、に関することだけは心が狭いようだ。
「それと」
「あ、はい」
「今からちょっと出かけてくるけど、オマエ、帰りは大丈夫か?道は覚えたかよ」
「だ、大丈夫です。だってこの裏だし…」
少し過保護気味の春千夜に、は少しだけスネたように言った。今度のマンションの良いところは会社から徒歩3分ほど。の選ぶマンションを悉く却下していた春千夜が今のマンションをOKしたのはそういった理由も含まれていたらしい。
「裏だけど、敷地が広い分、エントランスまで歩くだろーが。迎え寄こしてやろうか」
「い、いい。ほんとに大丈夫だから…この前春千夜に買ってもらった防犯グッズも持ってるし、マンション周りには警備の人もいるから」
心配そうな春千夜を見て、が小声で応えた。一応会社では上司と部下という線を越えないようにしているが、プライベートな話をすると、つい普段の会話になってしまう。せめて後ろで聞き耳を立てている他の上司二人には聞こえないようにと思ったのだ。
「ならいいけど…何かあったらすぐケータイ鳴らせよ?」
「うん…ありがとう」
今後は行き帰り、春千夜がいない場合はケータイを手に持つこと、そしてすぐ電話を出来るよう春千夜の番号を表示しておけと言われたのだ。さすがに過保護すぎるとは思ったものの、この前の恐怖は忘れていない。元カレはさすがに来ないだろうが、今も夜道を一人では歩けないは春千夜に言われた通りの対策をしていた。一度ああいった被害に合うと、とにかく夜に一人という状況が怖くなる。背後に人が立つのもあの夜を思い出すスイッチになるので、春千夜は九井や鶴蝶に「の後ろから声かけたり、立ったりするな」と頼んであった。
「じゃー行って来る」
「あ…そこまで送ります」
カードキーセンサ―で解錠して歩いて行く春千夜の後から、もくっついて行く。少し通路を進んでエレベーターホールまで行けば、事務所の方からは死角になっている為、そこは一瞬だけふたりきりの空間になる。
「…あ、あの…今夜の夕飯は…」
「あー…多分、食って来ることになっからオマエは先に食べてろ。マンション近くの店なら何でも運んでくれるし」
「…そう、ですか」
夕飯を作って待っていようと思っていただけに少しガッカリする。春千夜もその様子に気づき、事務所の方へチラっと視線を向けてからの頭へそっと手を乗せた。
「んなもん気にしねーで寛いで待ってろ。オレは別にオマエに飯作ってもらう為に一緒に住もうって言ったんじゃねえしな」
「…う…うん…」
そう言ってもらえるのは嬉しいが、も好きな人の為に何かしてあげたいという気持ちはある。何もしなくていいと言われるのも、それはそれで少し寂しい気もした。ただ当の春千夜が望んでいないならにとっても意味がない。
「…そんな顔すんなよ。行けなくなるだろーが…」
「ご、ごめんなさ――」
ハッとして顔を上げた時、くちびる同士が重なり目を見開いた。それは数秒にも満たない触れるだけのキスではあったが、一気に全身の熱が上昇した気がした。見れば春千夜の頬も薄っすら赤い。
「は…春千夜…?ここ、会社…」
「チッ。いーだろ、別に。誰も見てねえ。じゃーな」
春千夜も照れ臭いのか、プイっと顔を反らすとちょうど来たエレベーターに乗り込む。しかし扉が閉まる時、一言呟いた。
「…なるべく早く帰る」
そのたった一言で寂しい気持ちが半減するのだから、簡単だなと自分でも思う。
「行ってらっしゃい…」
扉の閉まったエレベーターを見ながら、は小さな声で呟いた。