09.許されない 許されたい⑵



(あと10分…)

自分の仕事を半分片付けてしまったは、腕時計を確認しながらパソコン画面に目を戻した。九井が新たに仕事を持って来なければ今日は定時で上がれそうだ。と言っても春千夜は仕事でいないのだから早く帰れても寂しいことに変わりはない。荷物の整理も日曜に全て終わってしまったので特にやることがないなと思った。

「あ、お母さんに引っ越したこと教えておかなくちゃ…」

ふと思い出し、ケータイでメールを打っていく。時々、田舎の名産などを送ってくれることがあるので新しい住所を知らせておかないといけない。ただ、何故引っ越したのか聞かれると思うと少し憂鬱になった。正直に恋人と住むことにしたと話してもいいが、そうなった場合、すぐに結婚か?という話になるのは目に見えている。今はまだ付き合い始めてお互いのことを知って行くのはこれからという時期だ。結婚を意識するには早すぎる気がした。

(お父さん、お母さん…ごめんね。私、普通の結婚は出来ないかもしれない…)

田舎でひとり娘の幸せを願ってくれている両親のことをふと思い出す。前の会社で恋人がいると話した時は「いつ結婚するの」としつこく聞かれた。このご時世に"女の幸せは結婚"と未だに思ってるような両親なので、会社を辞めたと同時にトモヤと別れた時も酷くガッカリされたのを思い出す。だから余計に引っ越しのことをどう説明しようか悩むのだ。結婚前の男女が一緒に住むなどと言えば「だったら籍を入れなさい」と言われるのは目に見えている。

「まだ言わないでもいいか…同棲のことは。会社の傍にいい物件があったからってことにしよう」

こんなことで親に嘘をつくのは気が引けるものの、今はまだ春千夜のことを話しても、良い方向には転ばない気がした。

(…ごめん、お母さん)

心の中で呟きつつ、は母親あてに引っ越したとだけ告げるメールを送信した。

その日の夜、春千夜の帰宅を告げるインターフォンが鳴ったのは午後11時過ぎだった。そして、春千夜はひとりではなかった。
思ってたよりも早い帰宅に喜んでモニターのところまで駆けていったは、画面に映る人物を見て目を見張った。

「…ら…っ蘭さん…っ?」

何故かグッタリとした春千夜に肩を貸し、モニターに向かって笑顔で手を振る灰谷蘭の姿を見て、は変な汗が出て来た。

「ななな何で…え?っていうか春千夜、どーしたの?」

ぐぐっと画面に目を近づけたところで、見える光景は変わらない。相変わらず春千夜はグッタリとした状態で、蘭は笑顔で手を振っている。だがなかなか出ないことに痺れを切らしたのか、もう一度チャイムが鳴った。

「ど、どうしよう…ってこれ…完全に私がいるってバレてるよね…?」

蘭の様子を見て、はガックリ項垂れた。またからかうネタを提供したようなものだ。

「と、とにかく開けなくちゃ…ううん、その前に出なくちゃ」

は深呼吸をしてからインターフォンの通話ボタンを押した。

「はい…っ」
~オマエの旦那を届けに来たから開けろよ』
 「るせぇぞ…灰谷…っ」
「は…はい…すみません…っ」

どうやら春千夜は酔っているようで蘭に絡んでいる。それを見たは慌てて謝罪しつつ、すぐにオートロックを解除した。しかしこの部屋に来るまで、あと二つはオートロックを解除しなくてはならない。そのたびにインターフォンが鳴り、はその都度解除をしていった。そしてようやく部屋のチャイムが鳴った時、の緊張はピークに達した。

「よぉー
「こ、こんばんは…蘭さん」

恐る恐るドアを開ければ、案の定ニヤニヤ顔の蘭が立っている。その横には蘭に支えられた春千夜がグッタリと項垂れながら、どうにか歩いているといった様子だ。二人からはかすかにアルコールの匂いがした。

「あ、あの…春千夜、どうしたんですか…?」
「まあ、それは後で説明すっから、まずはこのバカ、中に運ぶ」
「は、はい」

仮にも恋人の前で春千代をバカ呼ばわり出来るのは灰谷蘭くらいかもしれない。も蘭のノリには慣れているので、すぐに中へ通した。

「つーか、どこ運べばいいのー」
「え、えっと…」

寝室か、リビングか。は迷った。自分の部屋に他人を入れたことがないと以前にも話していたので、寝室に蘭を入れるのはマズい気がした。

「あ、ならリビングに…」
「りょー」

蘭はよいしょ、と春千夜を抱え直すと、そのままリビングに行き、ソファの上に放り投げる感じで春千夜を下ろした。

「はぁ~疲れたー。水いっぱいもらってい?」
「あ、はい。ちょっと待って下さい」

はすぐにキッチンへ向かい、ウォーターサーバーの水をグラスに注いで持って行った。

「どうぞ…」
「おーサンキュー」

蘭はソファを背もたれにしてカーペットの上に座り込んでいた。蘭もかなり酔っているのか、水を一気に飲み干して「は~」と溜息をついている。

「あ、あの蘭さん…春千夜と飲んでたんですか…?」
「おぉー、今夜はちょっとした報告もかねてオレが三途を呼んだの。部下がミスしたんで、それの後始末をすんのに」

そう言われて、先ほど春千夜が受けていた電話のことを思い出す。あれがそうだったのかとも納得した。けれど、こんなに酔って来るのは想定外だった。ソファに横になった春千夜の頬は上気していて、呼吸が少し荒い。蘭はの疑問に気づいたようで、ふと「気になる?」と笑みを浮かべた。

「え…?」
「三途が何でこんなに酔ってんのか」
「…はい。春千夜はいつもこんなに酔うまで飲まないし…」
「まあ、そうだよなー。オレも初めて見たわ、三途の泥酔状態は」

蘭は苦笑交じりで春千夜へ視線を向けると「まあ、オレが飲ませたんだけど」と笑った。その一言にが「えっ」と驚く。

「いや実はさー。仕事終わらせた後で飲みだしたんだけど、三途のヤツが10時に帰るとか言い出したから、ふざけんなつってオレが絡んだわけ」
「え…」
「んで、どーしても帰りてーならシャンパン二本空けてからなー?つったら、コイツも意地んなって全部飲みやがって、このザマー」

蘭は苦笑しながら、春千夜を見下ろしていたが、ふとへ視線を向けた。

「どうせ三途が早く帰りたい理由ってなんだろーと思ってちょっとした意地悪だよ。ごめんなー?」
「…い、意地悪って…」
「まあオレとしては半分冗談だったんだけどさー。三途も負けず嫌いだから一気にシャンパン飲むわ飲むわで、あんなもん一気飲みしたら泥酔コースだろ」
「…もう…だからって全部飲ませなくても…」
「や、オレ、止めたからな?まあ、でも三途はどーでもいいとして、コイツの帰りを健気に待ってるがかわいそーだと思ったから、寝そうになってた三途をオレが送って来てやったんだよ」
「それは…助かりました」

真相が分かったところで、自分の為にこんなになるまでお酒を飲んでくれたと思うと嬉しい反面、申し訳ない気持ちになって来る。

「つーことでオレは帰るけど…多分、覚えてねーと思うからオレが送ったことは内緒な」
「え、何でですか?」
「そりゃが待ってる部屋にオレが三途を送ったなんて知ったら、コイツ何してくっか分かんねーし。だから自分で帰って来たって言っとけ」

蘭の話を聞いて、確かにそうかもしれないと思った。機嫌が悪くなるのは間違いない。だったら蘭の言うように一人で帰って来たことにしよう。

「分かりました。そう伝えておきます」
「頼むねー」

と言って蘭は立ち上がると、一瞬だけ室内を見渡した。

「ってか三途の部屋って初めて入ったけど…こんな可愛らしいカーテンとか使ってんのなーウケる」
「えっあ、こ、これは…」

リビングのカーテンは南国風で、ベージュのカーテンにオレンジ色のシースルーがついている。どう見ても春千夜のイメージには合わない。蘭もそこに気づいたのか「もしかして…」と言いながら振り向いた。

「一緒に暮らしてる…とか?」
「…えっ」
「ぶはっ分かりやす!」

何も言ってないのにバレたらしい。ここで否定してもわざとらしいので答えられずにいると、蘭は「マジか、三途のヤツ」と大笑いをしている。

「まあコイツが自分の家にを上げてる時点でビビったけどなー。前の三途はぜってー誰も入れようとしなかったのに」
「…はあ」
「ま、いいんじゃねーのー?コイツもやっと人並みになったってことだろ」

蘭はそんなことを言いながら玄関の方へ歩いて行く。もすぐに追いかけると「あ、あの…ありがとうございました」とお礼を言った。何だかんだ言いつつも、こうして世話を焼いてくれるのが蘭らしい。

「おう。まー今度、またみんなで飲もうなー?もう三途は運んでやらねーけど」

そう言いながら、蘭は手を振りつつ元気に帰って行った。途端に静けさが戻り、は軽く息を吐くとすぐにリビングへと戻る。春千夜は未だグッタリはしていたものの、話し声で起きたのか「ん…?」と小さな声で呟いた。

「春千夜…?大丈夫…?」
「んー水…くれ…」
「あ、うん」

そう言われて、ふとテーブルを見れば蘭が水を飲んだグラスがそのままになっている。急いでそれをさげるついでに新しいグラスに水を注いで春千夜の元へ戻った。だいぶ意識がハッキリしてきたのか、薄っすら目を開けている。

「あれ…オレ…いつ帰って来た…?」
「え?あ…ついさっきだよ…はい、お水」
「おう…わりぃな」

はあっと大きな溜息を吐いた後、春千夜は美味しそうに水を飲み干し、室内を見渡した。何か気になるところがあるのか「あれ?」と首を傾げている。酔ってはいても自分の部屋の中に他人のいた空気を感じ取っているように見えた。春千夜はそういう鋭いところがある。

「さっき…誰かいたか?」
「…う、ううん。春千夜だけだよ」
「そっか…何か灰谷のバカの笑い声が聞こえた気がしたんだけどよ…」

その鋭い指摘にもドキっとしたものの「き、気のせいだよ」と笑う。すると春千夜はの方へ手を伸ばし、そっと頬に触れた。指先は少し冷んやりとしている。

「遅くなってわりぃな…灰谷に絡まれた」
「う、ううん、いいの…それにそんなに遅くないよ…」
「あ~まだ0時前か…」

と言いつつ欠伸を噛み殺す。

「春千夜、疲れてるでしょ。ちゃんとベッドで寝て?」
「あー…でも…その前にシャワー浴びねえと気持ちわりー」
「あ…そっか」

春千夜は潔癖症で綺麗好きなのはも知っている。外出先から戻ると必ずシャワーを浴びる習慣があった。

「あ、じゃあ着替え用意しておく」
「おー…」

フラフラっとしつつも、が春千夜の腕を支えて立たせると、「あー頭が回る…」と言いながらバスルームの方へ歩いて行く。ただ足元がフラついて危なっかしい。

「春千夜、大丈夫?」
「いや…やべえかも…ったく…灰谷のヤロー…」

頭が回るのか、春千夜は軽く壁に手をつき、息を吐き出している。それを見たはバスルームまで春千夜を支えて連れて行った。

「大丈夫…春千夜…」
「んーちょっと休めば…」

バスルームに入ったところで、春千夜は背中を壁に預けてその場にズルズルと座り込む。それを見ては思いついた。

「またお水持ってこようか」
「あーいい…いいから少しここにいろ」
「え、でも――」

離れて行こうとするの腕を春千夜が掴んで引き寄せる。その勢いのまま春千夜の体へ倒れ込むと、背中に腕を回された。ついでにギュっと抱きしめられる。たったそれだけでもホっとするのを感じた。春千夜の腕の中が一番安心感を覚えるようになっていた。

「あー癒される…」
「……私も…」
「なーんか……帰って来たーって気がするわ…」

苦笑交じりで言いながら、春千夜がの額に口付ける。そのままくちびるにもキスを落とし、熱っぽい潤んだ瞳でを見つめながら「会いたかった…」と呟いた。普段はあまり甘い言葉を言ってくれない春千夜だけに、の心臓が一気に跳ね上がる。思わず「私も…」と応えれば、耳にもちゅっとキスをされた。その甘い感触で肩が僅かに跳ねた時、

「…風呂…オマエも入るか?」
「…えっ?!」

耳元で囁くように言われ、カッと頬が熱くなった。春千夜がいつもと違う。そう思えば思うほどドキドキが増していく。

「……?」
「え、えっと…」

春千夜の大きな瞳は熱を孕んで揺れている。遂に覚悟を決める時かもしれない、と思うのだが、体の関係もないまま、いきなり一緒に風呂へ入るのは恥ずかしい。答えに困って黙っていると、春千夜が覆いかぶさってくる。再びくちびるをやんわりと塞がれた。驚いて春千夜、と言いかけたくちびるの隙間から、侵入した舌先がすぐに絡められる。ゾクリとして、じわじわ這いあがって来るような情欲が引きずり出されそうで怖くなった。

「ん…はる…ちよ」
……脱がせろ」

くちびるが離れ、春千夜がの手を掴んで、自分のシャツの胸元へ持って行く。どうしようもなく、顏が火照って来た。