09.許されない 許されたい⑶


ボタンを一つ一つ外していく指が震える。心臓がありえないくらい早鐘を打っていて、目の前の春千夜に聞かれてしまうんじゃないかと思うと、ますますそれは速くなっていく。一つ、外すごとに春千夜の白い肌や逞しい胸元が露わになっていくのが、どうしようもなくの羞恥心を煽り、同時に劣情を煽って来る。二つの異なる感情が指の震えとして現れていた。
残るは一つだけとなり、最後のボタンを外そうとした時、春千夜の手がの手を掴む。驚いて視線を上げると、普段よりは幾分か柔らかい眼差しをした瞳と目が合った。

「悪い…冗談」
「…え、」
「少し酒も抜けて来たし、もう大丈夫だから…は先に寝てろ」
「で、でも――」

立ち上がろうとする春千夜を追うように顔を上げると、くちびるが重なる。でもそれはすぐに離れていった。

「明日も仕事だろ。寝不足んなっちまうから早く寝とけ」

春千夜はの頭を軽く撫でると、そのままシャツを脱ぎ捨てた。男らしい骨格の背中が突然視界に飛び込んで来て慌てて視線を逸らす。

「じゃ、じゃあそうする…」

と、すぐに脱衣所を飛び出した。頬が熱く火照り、手で触れると指先の方がひんやりと感じる。さっきの名残なのか、相変わらず心臓はうるさい。そのままリビングには行かず、自分の個室に入って息を吐いた。ホっとしたような、少しガッカリしたような変な気持ちだ。

(やっぱり春千夜は今日も何もしないつもりなんだ…)

そう思うと急激に鼓動が静まっていくのを感じた。先ほどはあんなにも緊張して逃げ出したくなったというのに、春千夜にその気がないと分かると急に寂しく感じるなんて、自分でも勝手だなと笑ってしまう。
春千夜と付き合いだして三ヶ月。大人の男女なら体の関係になったとしても決して早くはない時間だ。なのに春千夜は未だにを抱こうとする素振りを見せない。初めて春千夜のマンションに泊まった時にそれらしいことがあったきりだ。それ以降はキス以上のことを何もしてこない。一緒に住むとなった時はさすがに何もしてこないことはないだろうと思っていたのに、いざ住み始めて三日目を迎えても、さっきのようにはぐらかされるのだからも首を傾げてしまう。

――まさか思ってるより愛されていない?

そう考えたこともあるにはあったが、春千夜の普段の言動を見ていればそれはないと考え直す。それに春千夜の性格を考えれば、大して好きでもない女と一緒に住もうとは、まず思わないはずだ。

――色気が足りない?

これは一番不安に思ったことだが、前に一度そうなりかけたことを考えると、これもないだろうとは考えた。となると、残るは一つしかない。

「…やっぱり…前に泊まった時、躊躇しちゃったから、かな」

あの時は朝で寝起きということもあり、恥ずかしさが勝ってしまった。春千夜も何となくそれを察してくれたのか、強引なこともせず、続きはまた今度、と言ってくれたのだ。でももしかしたら、まだ気を遣ってくれてるのかもしれない、と思った。

(続き…してくれてもいいのに)

ふとそんな本音が零れ落ちそうになり、ハッと我に返って思い切り頭を振った。

「ななな何、考えてんの、私ってばっ」

こんなことで悩んだのは初めてのせいで少し暴走しているかもしれない、と自己分析をしながら、改めて今までの交際歴を振り返ってみたものの、やはり付き合った相手はそれなりに手を出してくる男ばかりだった。と言っても、その中で実際そんな関係になった相手は片手で足りる。いや二人だけなのだから指二本分で足りてしまう。この乏しい恋愛経験の中に春千夜を当てはめて考えようとしたところで、分かるはずもなかった。それにエッチをしたと言ってもそれこそ片手で足りるほどの回数だった。理由はがあまりセックスに対して積極的でもなく、どちらかと言えば好きではないタイプだったからだ。トモヤ以外の男にはソレが理由でフラれたくらいに。

(あんなの全然気持ち良くないよ…)

以前のはそう思っていた。相手が悪いのか、が悪いのか。セックスをしても世間でいう気持ち良さというものが全く分からなかった。そんな気持ちが態度にも出てしまうのか、だんだん彼氏との関係が上手くいかなくなり、結局は別れてしまう。トモヤの時も一度そんな空気になったものの、それが怖くてなかなか踏み切れないまま、忙しさにかまけて何もしないまま別れたのだ。今思えば最低な男だったので、それはそれでしなくて正解だった。ただ春千夜の場合は違う。手を出されない方が不安だと思ったのは初めてだった。自分にもそういう感情があるんだとホっとする反面、春千夜のことをどんどん好きになっていく自分が怖いとも感じる。それこそ、これまでの恋愛経験など消し飛ぶくらいに――。

?まだ起きてんのか?」

その時、ドアの向こうで春千夜の声がした。ドキっとしつつ「う、うん」と返事をすると、ドアが静かに開く。シャワーを浴びて髪も乾かさずに出て来たようで、春千夜の髪は濡れたままだ。ふわりと甘い花の香りがした。

「早く寝ろつったろ。何してんだよ」

さっきより少しスッキリしたのか、足元がフラつく様子もない。

「ご、ごめん…考えごとしてた」
「…何を?」
「えっ?」

まさか何で春千夜が手を出して来ないのかを考えてました、とは言えず、無難に明日の仕事のことで、と応えておいた。明日は大きな契約を交わすことになっているので書類作成などで忙しいのは本当だ。春千夜もその言い訳を信じたのか、「だったら尚更、早く寝ろよ」と苦笑した。

「あ、じゃあ私も歯を磨いてくるから春千夜ベッドで待ってて」

言いながらすぐに部屋を出ようとした時、春千夜に腕を掴まれた。

「あー…オマエ、今夜はコッチで寝とけ」
「え…?」
「オレ、酒くせーし、まだかなり酔ってるから寝相悪くなっての顏殴っても困るしな」
「そんなの…平気だよ」

寂しくなってつい春千夜のバスローブを掴んでしまう。それを見た春千夜は困ったように笑みを浮かべた。

「いや、ダメだろ…オマエにケガさせたくねえ。前に深酒して事務所に泊まった時、横で寝てた鶴蝶の顔面ぶん殴ったことあっから。そん時、アイツ鼻血だしてブチ切れて最悪だったわ」
「え…そう、なの?」

まさか本当に前科があるとは思わない。鼻血と聞いてつい口元が引きつってしまった。

「まーこういう時の為にの部屋を用意したんだし、今夜はコッチで寝ろ。分かったか?」
「……うん」

額をコツンとされ、は仕方なしに頷いた。自分の個室に寝るのはここへ越して来てからは初めてだった。

「じゃあ…おやすみなさい」
「おう。おやすみ」

春千夜は身を屈め、に触れるだけのキスを落とすと、そのまま向かい側にある寝室へと入って行く。すぐ近くにいるのに、ドアが閉じられた瞬間、無性に寂しさを感じた。自分の為だとは分かっているものの、一緒に住んでいるのに距離があるようで悲しい。

(…我がまま、なのかな)

もっと春千夜と話したい。もっと春千夜を知りたい。ずっと、くっついていたい。
そんな風に思ったのは、春千夜が初めてだった。付き合っているのに、どこか片思いをしているような気持ちになり、やけに心細い夜だった。