09.許されない 許されたい⑷



1.

が務めるSKK・ホールディングスには100人ほどの一般社員が働いている。闇組織のダミー会社にしては大がかりなものだった。もちろん一般社員のほとんどは会社の裏稼業のことなど知らずに真っ当な会社だと思って入社している。幹部全員が強面で派手な連中ばかりだということは、知らない人の方が多い。平社員と幹部の間を繋ぐ組織の人間は一見それと見えない風貌だからかもしれない。
この日、はその繋ぎである組織の人間と、一般社員が契約を取った普通の物件のことで報告を受けていた。と言ってもの業務は幹部が扱う物件に関することのみであり、普通の社員が交わした契約に関することは、その繋ぎの社員が全てを仕切っている。なので単に一ヶ月に一度の上と下との業務報告のようなものだった。会社全体の利益を把握しておきたいという九井に頼まれて、下の報告をがまとめて提出するようにしている。

「じゃあ今月分はこれで」
「はい。分かりました」

簡単な打ち合わせは10分ほどで終わり、は会議室を出た。下のフロアはが働いている最上階のオフィスとは違い、色んな部署が一つのフロアに混在している。今いるフロアは主に会社の内側で働く人が多い場所だ。そこの空気は前の会社を思い出させる。スーツを着た男女がそれぞれ自らの仕事に没頭している風景を眺めていると、本当に普通の会社にしか見えないのだから笑ってしまう。

(本当に普通の会社だったら…親にもきちんと話せるんだけどな…)

総務の人間が慌ただしく動き回っているのを見て、ふと苦笑が洩れた。職場を変え、住む場所を変えたことを報告してからは何度となく母親から「どういう会社なの」「引っ越し先はどう」といった内容の電話が来るようになった。詳しい話を出来るはずもなく、その都度は曖昧に応えてはぐらかしている。両親もそんな娘の態度におかしいとは感じているようで、「ホントにちゃんとした会社なの?」などと最近は訊いて来るようになった。前と同じ不動産会社なのに営業とは違い、秘書という肩書になったせいもある。

「お疲れ様です」
「お疲れ様」

すれ違った社員から声をかけられ、も挨拶を返しつつ、上に戻るのに専用のエレベーターホールへ歩いて行く。今日は春千夜を含めた幹部全員がそれぞれの仕事で外出しているので、上のフロアに戻っても今はしかいない。

「なーんか、この広い空間にひとりって寂しいな」

事務所に入って室内を見渡しながら独り言ちると、は今受けとって来た報告書をまとめてしまおうと自分のデスクに座った。これを一つにまとめ、九井に送信すれば今日の業務は終わりそうだ。時計を確認すると、定時まで残り一時間。最後の一仕事をしようと、パソコンのキーを打ち始めた時だった。ケータイが震動したのを感じて、は手を止めた。メッセージの類ではなく、電話がかかってきたからだ。表示は春千夜となっていて思わず笑みが零れた。

「もしもし」
『おう、お疲れ。そっちはどうだ?』
「特に変わりありません。今、下の報告書を受けとって戻ったところです」
『あー…九井の雑用か。んなもんがやらなくてもいいだろが』
「またそんなこと…。ちゃんとお給料分は働かせていただきます」

わざと畏まった言い方をすると、春千夜は笑ったようだった。実際、には裏方の仕事が向いていた。前の会社では営業に回され、本当に苦労したので余計にそう感じる。

「春千夜さんはいつお戻りですか?」

今、事務所には誰もいないので普通に話してもいいのだが、何となく会社にいると、普段通りに話すのは気が引けてしまう。春千夜も分かっているのか、軽く笑うと『そのことなんだけど』と言葉を続けた。

『オレもそろそろ終わりそうだから、どっか飯でも食いに行かねえ?』
「え、ほんとに?」

思わぬ誘いを受け、の顏が笑顔になる。つい嬉しくて普段通りに受け答えをしてしまった。今夜も遅くなるのかと思っていただけに、二人の時間が増えて顔がニヤケそうになる。

が終わる頃には戻れそうだから、オマエ、そこで待ってろよ』
「分かりました」

浮かれ過ぎた自分を律するように、今度はきちんと返事をした。電話を切った後、はすぐに仕事を再開し、報告書を作成していく。下が請け負った契約内容の他に、繋ぎの人から聞いたその他もろもろの話なども別にメモを作成して、九井が把握しやすいようにまとめておいた。

「これでよし、と」

春千夜とのデート効果なのか、予想ではギリギリと踏んでいた作業も定時15分前には終わっていた。

「終わったぁぁ…」

うーんと伸びをして肩や首回りを解しながら、はそれをすぐに九井へ送信しておく。3回チェックしたので大丈夫だろう。はすぐに席を立つと、レストルームへ急ぐ。デートの為にメイクを直して、髪型も簡単に整えた。もうすぐ春千夜が迎えに来る頃だと思うと、自然に心が弾んで来る。

「あ、電話…」

事務所に戻って来たところで電話の音に気づき、急いでデスクへ戻った。鳴っていたのは社内の電話で、相手は受付からだった。

「はい、もしもし」
さんですか?こちら受付ですが』
「はい」

受付から連絡が入るなんて珍しいと思いながら返事をする。今日のアポイントは一件もなかったはずだ。そもそも幹部は全員が出払っている。しかし受付からの連絡はの予想したものとは違っていた。

さんにお客様ですが、お約束をしていないとのことで連絡しました』
「え、お客様…?」
カナコ様という方です』
「…は?お…お母さん…っ?」

あまりに驚き、素で応えてしまった。まさかの人物が受け付けロビーに来ていると聞いて、は軽くパニックになった。

「あ、ああの!今下りるので待たせておいて下さい」

そう伝えてすぐには事務所を飛び出した。何でお母さんが会社に?という言葉がぐるぐる頭を回っている。そこで思い出した。まだ転職してすぐの頃、会社の住所をメールで送ったことがある。前の会社に親が尋ねて来ることは一度もなかったこと、いきなり転職して心配している両親を安心させたくて、いい立地にある会社に入ったことを知らせる為に送ったのだ。でもまさか何の連絡もなく会いに来るとは思わない。はエレベーターを下りながらケータイをチェックしてみた。やはり母親からの連絡は入っていない。

「もうー!何でいきなり来るかな…」

春千夜と夕飯デート、なんて浮かれていた気分が一転、どうしようしか頭に浮かばない。当然地方から上京しているので今夜はの家に泊るつもりでいるだろう。以前遊びに来た時も前のマンションに泊めたのだからホテルなどは予約もしていないはずだ。

(とにかく…何とか誤魔化してホテルに泊まってもらうしかない)

春千夜と住んでいるマンションには泊められないのだから仕方ない。そこでハッと我に返った。

「春千夜…!」

もうすぐ定時になる。は慌てて時間を確認すると、残り五分だった。一階に着いた瞬間、エレベーターを飛び出し、は受付前へ走った。その一画には来客用のソファやテーブルが置かれている。母親のカナコは確かにそこに座っていた。

、こっちよ」
「お母さん…っ」

呑気に手を振っている母を見て、は慌てて駆け寄った。カナコは昔からおっとりしていて物事にあまり動じないタイプだ。その母が「凄い大きな会社じゃない」と開口一番、言い出した。

「何でいきなり来るのよっ」
「だって最近のってば、殆ど会社の話をしないじゃない。前の会社の時は色んな話をしてくれたのに」
「そ、それは――」
「だから怪しい会社なんじゃないかってお父さんが心配しだしたから抜き打ちで見に来たのよ。でも見て安心したわ。こんな大きな会社だなんて。社内も綺麗だし」

カナコは呑気にロビーを見渡して感動している。

「こんな会社の秘書なんて凄いじゃない、
「そ、それは…だから…そ、それより私、これから用事があるの。だからお母さんはホテルに泊まって。私、今から探すから」
「えぇ?嫌よ、ホテルなんて…。引っ越したんでしょ?住所見たら会社のすぐ近くじゃない。用があるならアンタの家で待ってるわよ」
「ダ、ダメ!家は」
「どうしてよ」
「ど、どうしても…とにかく時間がないの。お願いだからホテルに――」

と言いかけた時、背後から「?」という声がして、心臓が体内で飛び跳ねた気がした。

「何やってんだ?…つーか、その人は?」
「は…春千夜…」

恐る恐る振り向くと、そこにはキョトンとした様子の春千代が立っていた。





2.

「あらー凄い豪華な料理!お洒落な盛り付けねぇ」
「どうぞ。遠慮しないで食べて下さい」
「あらそう?じゃあ頂きますー」
「………」

母のカナコは満面の笑みを浮かべて、目の前のアクアパッツァを食べ始める。その様子をジトっとした目で見ていたは、隣の春千夜に「ごめんね」と小声で謝った。

「何がだよ。別に何も気にしてねえけど」
「だ、だって…」
「いい機会だろ。オレもちゃんと挨拶出来て良かった。そのうちの実家に行こうかと思ってたところだし」
「え…何で…?」

春千夜の言葉にはギョっとした様子で顔を上げた。まだ付き合い始めて日も浅く、一緒に住みだしたのも最近だ。なのに春千夜が親に会おうとしていたとは思わない。

「そりゃ一緒に暮らし始めたんだし、その辺はオレでも考える」
「春千夜…」
「ダメだったか…?」

不安そうに訊いて来る春千夜を見て、は慌てて首を振った。ダメも何も、からすれば凄く嬉しいことだ。ただ、お互いのことをまだそれほど知らないうちに親に紹介するという選択肢がにはなかっただけで。本来、男の方がそういう先走った行為は嫌がると思っていた。なのに春千夜は当たり前のように母を食事に誘い、今夜はウチに泊まって下さいとまで言ってくれた。凄く驚いたものの、やはりその気持ちは嬉しい。

「ありがとう…春千夜」
「別に…普通だろ」

春千夜は照れ臭そうに視線を反らし、ワインを口に運ぶ。その横顔を見ると頬が少し赤みを帯びていて、こういうことに慣れていないのが伝わって来た。春千夜のそんな不器用なところもは好きだった。ふとした時に見せてくれる優しさも。さり気ない気遣いも。
春千夜が選んだ店は平日の夜でも客で賑わっていた。会社近くある人気のイタリアンレストランで、周りは家族連れかカップルが多い。自分達はどんな風に見えてるんだろうと思いながら、嬉しそうに料理を楽しんでいる母を見た。
最初に春千夜を見た時、あまりに綺麗な顔立ちで、カナコは芸能人だと思ったそうだ。自分の上司だと紹介すると、酷く驚いていた。不動産屋にもこんな派手な人がいるのね、と後でコッソリに言っていたが、外見の華やかさはカナコにしたら、それほどおかしいとは感じていないようだった。むしろ派手な上司が娘の恋人だということの方が驚いていたかもしれない。
その時、春千夜のケータイが震動した。

「ちょっと失礼します」

春千夜はカナコに声をかけると、静かに退席して通路の方へ姿を消した。大方、九井から報告書のことで連絡が入ったんだろう。

ってばいつの間にあんなイケメンの彼氏、捕まえたのよ」
「…えっ?」

春千夜がいなくなった途端、カナコはニヤニヤしながら身を乗り出して来た。きっとそのことを聞きたくてウズウズしてたのかもしれない。

「それに何で隠してたの?引っ越した時に教えてくれれば良かったのに。だってもう24だっけ?いい大人なんだから別に反対なんてしないわよ」
「で、でも同棲始めたって言えばお母さんもお父さんもすぐ結婚かって騒ぐじゃない…。春千夜とはまだ付き合い始めたばかりだから、そういうの困ると思って…」

心配してたことを伝えると、カナコは困ったような顔で苦笑いを浮かべた。前にそういう前科があったのを思い出したらしい。

「そういうことね。まあ…親としては結婚して欲しいと思うけど、そこは相手あってのことでデリケートな問題だし、もうそこまで口うるさくは言わないわよ」
「…ほんと?」
「春千夜さんもいい人そうだし、私が急に会いに来てもビビらずに、こんな素敵なお店に連れて来てくれたんだものね。もしかして…」
「え?」

急に含み笑いを浮かべると、カナコは小声で「春千夜さんの方がアンタとの結婚、意識してるんじゃないの」と言って来た。それにはの方がギョっとしてしまう。

「ま、ままさか…!」
「え、そーお?私にはそう感じたけどなぁ。普通はいきなり親が会社に来たらビビるわよー?しかも一緒に住んでるマンションに泊まってくれなんて言わないだろうし」
「…春千夜は優しいんだよ。わざわざ上京した親をホテルにひとりで泊まらせるのはかわいそうだって…」
「へえ、ほんと優しくてイケメンでお金持ちで最高じゃないの」
「……お母さん」

すっかり春千夜のことを気に入った様子のカナコに、は溜息が出た。いや、気に入ってくれたのは嬉しいのだが、実際の仕事を言うわけにはいかないので、カナコにはそのまま不動産会社の副社長ということにしてある。まあ半分は当たっているので全てが嘘というわけじゃない。それでも本当の正体を知ったら絶対に反対されるだろうなと少しだけ不安になったのだ。

「何よ、そんな溜息なんてついちゃって。大丈夫よ。お父さんには私がちゃんと話しておくから」

――結局、カナコは春千夜の存在を受け入れ、むしろ大いに気に入って次の日の午後、「あまりお父さんを一人にしておけないから」と地元へと帰って行った。



「色々とありがとね、春千夜。お土産もあんなにいっぱい持たせてくれて」
「いや」

新幹線の時間まで春千代は自分のベンツで東京観光まで付き合ってくれたあげく、カナコと地元で待つ父親に東京土産を買って渡していた。

「オレもこういうの初めてだからよく分かんねえし、あんなんで大丈夫だったか?」

マンションに戻り、ビールを飲んで一息ついた春千夜は、心配そうな顔で訊いて来た。大丈夫も何も完璧だったとが言えば、照れ臭そうに顔を反らしている。その様子を見て、は母に言われたことを思いだした。

"三途さんの方がアンタとの結婚、意識してるんじゃないの"

そんな話題はこれまでしたことはない。付き合いだしたばかりなのだから当たり前だ。でも親への対応を見る限り、も何となくそうなのかなと意識をしてしまう。

「あ、そうだ。今夜は――」

と言いかけた時、のケータイが鳴った。見れば九井の名前が表示されている。今日は母親が来てるなら休んでもいいよと言ってくれたのだが、にしか分からないものがある時はこうして何度か電話をかけてきていた。

「九井さんから。ちょっと待ってね」

春千夜が僅かに目を細めたのを見て、は説明してから電話に出た。

「もしもし。はい。お疲れさまです。え?ああ、その書類はまだ途中で…はい、すみません。今週末までですよね。明日にはとりかかります――」

それほど急ぎではないが、確認の電話だったらしい。他にも簡単な確認作業の話が続く。
その時――手にしていたケータイをひょいっと後ろから奪われた。

「え?」

驚いて振り返ると、春千夜がのケータイを耳にあてている。

「おい、いちいち急ぎでもねえのに電話してくんな。明日、事務所でやれ。分かったか?」

春千夜はそれだけ言うとサッサと電話を切ってしまった。二人の時間を邪魔をされてイラついたのだ。春千夜の暴挙には唖然とした様子で返されたケータイを見ろしている。

「は、春千夜…?」
「…オマエもまともに相手すんじゃねえよ。今日休めって言ったの九井だろ。電話来てもスルーしとけ」

春千夜は不機嫌そうに言い放つと、の腕を引き寄せ自分の腕の中に収めた。一気に距離が縮まり、の頬が赤くなる。こうして二人でのんびり過ごすのは久しぶりだ。

「で、今夜は、何だよ」
「え…?」

春千夜の体温を堪能していると、不意に質問され、顔を上げる。

「さっき何か言いかけてたろ。今夜は…何?」
「あ…」

九井から電話がかかって来る直前、確かに言いかけていたことを思い出す。でも今はこうして春千夜にくっついていたかった。

「何でもない」
「何だよ。気になんだろ」

本当は夕飯どこに行く?と聞きたかっただけだ。夕べは母親のせいで二人きりのデートがダメになったからだ。でもこうして春千夜に抱きしめられていると家で二人きりでいたいと思ってしまった。一応は母親に紹介も出来て気に入ってもらえたこともあり、気持ちもかなり楽になった。

「だから…今夜は…家で春千夜とご飯一緒に食べたり、お酒飲みたいなと思って…」
「そんなことかよ」

春千夜が軽く吹き出したのを見て「笑わなくても…」と口を尖らせる。そこへちゅっとキスをされ、一気に心臓が動き出した。

「何が食べたいんだよ」
「え…っと…」

そこまで考えていなかった。食材などはこの家にないので作るというわけにもいかない。

「デ、デリバリーで何か頼む?」
「オレは何でもいい。が食いたいの頼めよ」
「う、うん…」

そう言われてもパっとは浮かばない。ただいつもより時間はあるので春千夜と映画を観たりしたいなと思った。

「あ、じゃあ下のバルで軽めのオードブル頼んでワインでも飲まない?」
「好きにしろ。オレはが選ぶなら何でもいいから」
「う、うん…」

頭を撫でられ、優しい眼差しを向けられると、頬がかすかに赤くなる。春千夜に随分と甘やかされてる気がして嬉しい反面、少し照れ臭くなった。春千夜が身を屈めると至近距離で目が合う。春千夜の大きな瞳と長いまつ毛が視界いっぱいに見えた。鼻先がふれ、くちびるが重ねられる。やんわりと啄まれ、鼓動が更に速くなった。

「そんな顔されると押し倒したくなるわ」
「……えっ」

くちびるが離れた時、ボソっと呟かれ、の肩が跳ねた。腰を抱き寄せられ、距離がいっそう近くなる。またくちびるが塞がれる。春千夜の柔らかい舌が口内に侵入してのと絡まれば、それだけで身体が熱くなった。春千夜の体温や匂いに包まれると、全身の力が抜けそうになる。こんなことは今までの恋愛の中でも初めてで、身も心も蕩けそうなほどに、甘いキスを受けていた。