10.あなたはわたしの光-⑴



1.


「ふあぁぁ…」

盛大な欠伸をかました時、ちょうど事務所に入って来た九井とバッチリ目が合い、慌てて口を閉じた。

「眠そうだな、。寝不足か?」
「い、いえ…すみません…」

九井に笑われ、は恥ずかしそうに頭を下げる。確かに少し寝不足気味かもしれない。ランチをとったあとの昼下がり。今日は朝から晴天で、冬にしてはポカポカと暖かい。眠くなる条件が揃いすぎていた。ついでに…。

「夕べ少し飲みすぎてしまって…」
「へえ、三途と?」
「ま、まあ…」
「相変わらず仲いいじゃん」

九井はニヤニヤしながらも作成した契約書のチェックをしている。

「そーいや夕べ、オマエに電話したらアイツ、勝手に切りやがったしな」
「え?あ…そうですよね…何かすみません…」

は思い出したように頭を下げたが、九井は笑いながら「別に気にしてねえよ」と肩を竦めた。

「確かに急ぎの用でもなかったのにかけたオレも悪かったし。気になったらすぐ確認したくなんのがオレの悪いクセ」
「そうなんですか?」

も笑いながら、眠気覚ましにすっかり冷めてしまったコーヒーを口へ運ぶ。

「まあ何でも把握しておきたい方かな、わりと」
「あ、九井さん、そういうとこありますね」

だろ?と九井は苦笑しつつ、

「しっかし三途はヤキモチ妬きだし大変だろ。ま、そんだけのこと好きなんだろうけど、実際アイツ変わったよなぁ」

苦笑気味に言いながら、九井は主のいないデスクへ視線を向けた。今日はこの事務所ではなく、春千夜は鶴蝶と一緒に別の事務所に顔を出している為に不在だ。梵天の資金源は不動産関係、詐欺商法、夜の商売が主であり、風俗、裏カジノ、クラブといった仕事を仕切っているのは灰谷兄弟だが、組織の資金源全体を管理しているのは春千夜と九井だった。

「好き…なのかな…ほんとに」
「え?」

ぽつりと呟いたに、九井が視線を戻す。さっきまでの笑顔とは違い、今は少し憂い顔で窓の外を眺めている。九井はの隣にキャスター付きの椅子を滑らせ、そこへ腰を下ろした。何となくが落ち込んでいるように見えたのだ。

「どした?アイツとケンカでもした?」
「…え?あ、いえ…」

隣に来た九井に気づいたは慌てて首を振った。

「ケンカとかじゃないんですけど…」
「じゃあ三途が浮気したとか…ってコレは絶対ないか」

言いながらも九井はひとりで納得した。前の春千夜なら分からないが、今はどう見ても一筋に見える。そもそも女遊びがピタリと止んだ。灰谷兄弟がからかい半分、あの手この手で春千夜好みの女を引き合わせ、手を出すかどうか試してみたりもしているらしいが、今のところ一切引っかからないと嘆いていた。何とも悪趣味な兄弟だと内心苦笑しながら、未だ元気のないの様子を伺う。ケンカをしたとかでなければ何を悩んでいるんだろうと、少しだけ気になった。突然上京してきた母親にも気に入られたと話していたのだから、他に落ち込む理由が分からない。

「ほんと、どうした?元気ないけど」
「………」

九井の問いには応えない。しかし何となく言おうか言うまいか迷っているようにも見えた。

「オレで良ければ相談に乗るぞ。もちろん三途にも他のヤツらにも内緒で」
「……九井さん」
「こう見えてオレ、口は堅いから」

春千夜にとっては大切な恋人だろうが、九井にとっては大事な部下のひとりであり、いつも明るい彼女が元気のない顔をしているのはどうにも気になる。今日は特に大事な仕事も急ぎの仕事もなく、比較的九井は暇だった。九井が暇ということはも暇ということだ。

「ほら、話せよ。何で元気ねーの?」

モジモジしているを見て、九井が苦笑交じりで尋ねた。最初は言いにくそうにしていたも他に誰もいないというのもあり、意を決したように顔を上げた。

「あ、あの…九井さんは恋人っていますか…?」
「オレ?まあ…それなりに」
「えっと…じゃあ…やっぱりそういう関係だったり…しますよね?」
「…そういうって?」

そう聞き返した九井だったが、の頬がじわじわと赤くなっていくのを見て今の質問の意味に気づいた。いきなり部下から意外な質問をされ、九井も少なからず動揺した。と言っても照れるような歳でもない。の意図は分からないが、九井は小さく咳払いをして頷いた。

「まあ…そりゃぁ…いい大人なんで」
「そ…そう、ですよね。すみません。変なこと聞いて」

自分で聞いておきながらは真っ赤になっている。そんな顔をされると九井としても困ってしまう。

「いや、それはいいけどさ…何でそんなこと…」
「それは…その…ちょっと気になって…」
「オレのセックス事情が気になんの?」
「……っち、違いますっ」

からかうように笑う九井には慌てたように立ち上がった。今度は耳まで赤くなっている。そんなに照れるなら聞くなよ、と突っ込みながらも、九井はが何を気にしているのかが分からない。

「んで?何が知りてーんだよ」
「だ、だからその…付き合ってるのに…」
「のに?」
「……のは…」
「え?聞こえねえって」

苦笑しながらの方へ耳を寄せる。

「だ、だから…付き合ってるのに……手を出さないのは…男の人にとってどんな理由があるのかなって……」
「……は?」

思い切って話し始めただったが、内容が内容だけに思ってた以上に恥ずかしい。九井も驚いたのか、目を丸くしてを見つめている。と言っても、九井は内容が気になったというよりは、その意味の方が気になった。

「手を出さないって……誰が」
「え…だ、だから……は…春千夜さん…が…」
「……嘘だろ?」

予想外の話だったのか、九井は唖然とした顔で呟いた。いや、別にが嘘を言ったとは思っていない。今の言葉は九井の驚きを表現したようなものだ。あの春千夜が、溺愛している恋人にまだ手を出していないという事実に心底驚いただけだった。だからこそ言っても仕方ないことを口にしていた。

「マジで…言ってる?」
「……え、やっぱり…変…ですか」
「いやだって…あの三途だぞ」
「あの…って…?」
「い、いや…」

思わず過去の話をしてしまいそうになった九井は慌てて言葉を濁した。いくらと付き合う前のことでも、彼女にしたら恋人の女事情を聞かされるのは気分のいいものではないだろう。

「つーか…オマエらそうだったんか…」
「あ、あのこの話、春千夜さんには…」
「言わねえよ。つーか言えねえよ。から聞いたなんて知れたらオレがブチ切れられる」
「え…」

まさか、とは笑ったが、実際春千夜はそういう男だというのを九井は嫌というほど知っている。と付き合いだして多少温厚になったが、前はとにかく短気で粗暴な男だった。

「で…は三途が手を出して来ないから不安だと。そういうことか?」
「う…は、はい…」

九井が話を戻すと、も泣きそうな顔で頷く。それを見て深い溜息が洩れた。春千夜がに手を出していない事実は九井も驚いたものの、何故?と聞かれれば、その答えは容易に想像できる。

「何を悩む必要があんだよ」
「え…?」
「オマエ、愛されてんじゃん」
「……っ?」

呆れたように苦笑しながら、九井は「心配して損した」と椅子に凭れ掛かり、天井を仰いだ。だがはそれだけじゃ分からないといった顔で身を乗り出した。

「な…何でそんな風に思うんですか…?」
「えー?分かんねえの?は」
「わ…分からないから悩んでるんです…夕べもふたりでお酒飲みながら映画観てたらいい雰囲気になったのに…何かはぐらかされてる気がして」
「ったく…」

と、九井は上半身を起こすと、ジっと自分を見つめているの額を指で小突いた。

「そりゃオマエが大事だからだろ」
「…え、大事って…」
「ま、これはオレの勝手な想像だけど…多分…アイツは普通の世界に生きて来たに対して引け目みたいなもん感じてんじゃねえのかな」
「え、な、何で…」
「そりゃまあ…オレ達はいわば裏社会の人間だしな。そんな自分が普通の子だったオマエの人生、壊していいのかって、アイツなりに葛藤があんじゃねえの」
「そんな…私は知ってて春千夜さんを好きになったんです…そんな風に思う必要なんて――」
「そりゃオマエはそう思うだろうな。でも…アイツの立場になれば…オレは分かる気すんだよ。オレにも一応、本気で好きだった女はいたしな」

九井の言葉にはハッとしたように顔を上げた。九井のそういう話はあまり聞いたことがない。

「ま、男なんて何歳になったって好きな子を幸せにしたいって本能で思うもんだから、その辺の矛盾と今、戦ってんだろ、三途は」
「…戦って…?」
「自分が幸せにしたい。でも裏社会に身を置いてる自分がそばにいれば、逆に不幸にするかもしれねえ。なのに手放せない。そんな矛盾があるから簡単に手が出せなくなってんだろ。それと…この前怖い思いをしたばっかのオマエに思い出させたくないとか?アイツがに手を出せねえ理由と言えば…そんなとこだろーなー」
「そんな…っ私はそんなのもう気にしてないし、春千夜がそばにいるから幸せなのに――!」

そこまで言ってはハッとしたように言葉を切った。九井が苦笑しているからだ。

「す、すみません…こんなの九井さんに言っても仕方ないのに…」
「オレはいいけど…まあ、それは三途に言ってやれよ」
「え…?」
「アイツ、絶対喜ぶだろ。案外、すぐ押し倒してくっかもな」

九井に笑われ、は頬が赤くなった。でも今言ったことに嘘はない。元カレに襲われかけたのは怖かったが、それをキッカケに春千夜と住む決心がついて、前よりも近い存在になれたことが嬉しい。春千夜がそばにいてくれたら、どんなことでも乗り越えられる気がするのだ。彼が何者でも関係ない。

「……春千夜に会いたい」

思わず今の素直な気持ちが口から零れた。九井の話を聞いていたら、確かに春千夜が自分に対してそういう気持ちを持っていたとしてもおかしくないと何となく理解出来た。大切だからこそ、色々な葛藤があって悩んでくれている。そう思うだけで春千夜の顏が見たくなった。

「だからそれ、本人に言ってやれって」

九井は笑いながらデスクの上に置いてあるケータイを取って、の方へ差し出した。





2.


「おい…!まだ終わんねえのかっ」

不機嫌そうに怒鳴りながら、春千夜は目の前のテーブルをガンッと蹴とばした。その態度に蘭と竜胆は思い切り顔をしかめつつウイスキーを口に運ぶ。

「テーブルを蹴るな。そして乗せるな。酒が零れたらどーすんだよ」

オーナー室の高価なソファとテーブル。そこに横柄な態度でふんぞり返っている春千夜を横目で見つつ、蘭は溜息を吐いた。

「あ?知るか!そもそもオレはこんな女ども興味はねえんだよっ」
「はいはい。オマエに興味あろうがなかろうが、オレはどっちでもいーんだけどね?これも仕事だから。つーか適当に選べよ。No.2のオマエには形ばかりでも目を通してもらわねえとなんねーの。マイキーが全て三途にチェックさせろって言ってんだからさ」
「ぐ…っ」

その名前を出されると春千夜も弱い。仕方なく目の前に重なっている履歴書の束へ渋々ながら手を伸ばした。
ここは灰谷兄弟に任せている風俗店の中の一店舗だ。定期的に他のメンバーに任せている場所を見て回らないといけない春千夜は、朝から数か所を回り、午後になってここへとやって来た。そこで灰谷蘭から「今度新しい子を雇うつもりなんだけど、オマエはどの子がいいと思う?」と、履歴書の束を押し付けられた。今は心底他の女に興味のない春千夜は「灰谷が勝手に選べよ」と言ったのだが、そうもいかないと言われ、さっきから何人もの女の写真を見せられている。やっと一束終わったかと思えば、まだあると言われ、遂にキレ始めたのだが、マイキーの名前を出されると春千夜もさすがに無視できない。一人ひとりチェックをしながら、横へ履歴書を放って行く。

「なあ、真剣に見てる?」
「見てねえ。どれもこれも同じ顔に見えんだよっ」
「はあ?オマエ、目まで悪くなったのかよ」
「あぁ?!目までってどーいう意味だ、コラッ!」

隣で笑っている蘭を睨み、春千夜が徐に立ち上がる。それを鶴蝶が「仲間同士でモメんな!」と一喝した。その鶴蝶の手にも女の履歴書がある。

「チッ…めんどくせえ…」
「あのな、この子達が稼いでくれるから梵天が潤うわけ。そこんとこ頭に入れとけな?」
「うっせぇぞ、灰谷!」
「オマエ、いちいちキレてて疲れねーの?」

さっきからキャンキャン騒いでる春千夜に苦笑しながら、蘭は春千夜のグラスにもウイスキーを注ぎ足す。

「ああ、この子よくない?おっぱい大きいし」
「あ?」

春千夜の持っている履歴書の一枚を蘭が指さし、覗き込んで来る。言われるがまま視線を落とすと、確かに巨乳を惜しげもなく披露している写真だった。

「しっかし面接で裸の写真を撮るか?オマエ、自分の趣味で面接やってねえ?」

鶴蝶が呆れたように言えば、蘭は「んなわけ…あるけど」と笑った。

「でも裸は大事なんだよ。こーいう店は。それにそこで渋るようじゃ風俗なんて務まんねえよ」

確かに蘭の言うことも一理ある。鶴蝶は納得したように手の中の履歴書を見下ろした。なのに春千夜は手にしていた巨乳の履歴書をポイっと放り投げ「デカすぎる」とひとことでバッサリ切り捨てた。

「はあ?おっぱいにデカすぎるとかねえから」
「あんだろ。オレはあんまデカいのは好きじゃねえっ」
「三途の好みなんてどーでもいーの。要は一般的な男向けだし、だいたいの男は巨乳好きだろ」
「はあ?男ってだけでまとめんな」
「はーもう話が進まねえ…つーか、オマエはおっぱいの小さいがいいんだろ?分かったから一回自分の趣味は忘れろ」
「あ?テメェ、は小さくねえ!ちょうどいい大きさだろが!」
「そーなの?ああ見えて実は着やせするタイプ?」
「…テメェ、灰谷!なにのおっぱい想像してんだ、コラァッ!」

ニヤニヤし始めた蘭を見て、春千夜がブチ切れる。それを横目に竜胆はひたすら静かに飲んでいたのだが、そろそろ限界だった。

「ってか、おっぱいおっぱい連呼すんな!真面目にやれよ、三途も兄貴もっ」
「「………」」

ソファの上で取っ組み合いをしていた春千夜と蘭が竜胆に一喝されてピタリと動きを止める。鶴蝶は鶴蝶で盛大に溜息を吐きつつ、何歳になっても男はガキなんだなとしみじみ思っていた。風俗嬢を選ぶだけの作業で何故こんなに騒げるのか不思議で仕方がない。

「ったく…三途のせいで竜胆キレただろーが」
「あ?オレをキレさせたの誰だよ」
「言っておくけど…全部チェックするまで帰さねえから。早くのとこに帰りたけりゃ――」

と蘭が言いかけた時、ぴろろんっという音が室内に響いた。一斉にその場にいた全員が自分のスマホを取り出す。だがその中で春千夜が「…?」と呟いたのを聞いて、半目になりつつ全員が再び一斉にスマホをしまう。

「つーか皆、同じ着信音かよ。変えれ」
「兄貴が変えれば」
「あ?竜胆、兄ちゃんに逆らうのかよ」
「いいから兄弟ゲンカもやめろ」
「うるせえ、鶴蝶。オマエは黙ってろ。これは兄弟の問題だ」
「あ?」

今度は灰谷兄弟と鶴蝶が騒ぎだし、春千夜は「ガキだな、アイツら」と自分のことを棚に上げて鼻で笑う。そしてすぐにメッセージを開いた。が仕事中にプライベートなメッセージを送って来るのは珍しいので何かあったのかと心配になった。だがそれを開いた瞬間、

"春千夜、会いたい"

その簡単なメッセージを見て思わず春千夜の顏が赤くなる。こんな風にストレートな思いをメッセージで送って来たのは初めてだった。

「あっおい、三途!どこ行く気だ、テメェ!」
「付き合い切れねえから帰る。風俗嬢は鶴蝶にチェックしてもらえよ」
「はあ?おま、職務放棄か!これからカジノの方にも行くんだぞっ」
「うるせえな…そっちは今度顔出せばいーだろ。マイキーにはオレから報告しとく」

それだけ言い残すと春千夜はサッサと風俗店をあとにした。外に出ると夕焼けが繁華街を赤く染めていて、眩しさのあまり春千夜は僅かに目を細める。そこへ迎えの車がスっと横付けされて、春千夜が足早に乗り込もうとした、その時――。パンっという乾いた音が背後で聞こえた。春千夜の動きが止まり、ゆっくりと振り向けば、そこには拳銃を構えた手を震わせながら、見知らぬ男が立っている。

「あ…?誰だ…テメェ…」
「わぁぁぁぁ…っ!」

そう言いかけた時、男が奇声をあげ、またしてもパンパンっという音が二回響いた。何が起きたのかと思考をめぐらした時、足の力が急激に抜けて膝をつく。

「……あ…?何…だ…」

腹部がやたらと熱い。震える手で触れると、生暖かいぬるりとしたものが指についた。

「春千夜さん…!!」

不思議なくらい周りの音は静かで、運転手の男が自分の名を呼ぶ声さえ、遠く聞こえる。

「…くそ…汚…ねぇ…」

道端へ崩れるように倒れた春千夜の脳裏に、のもとへ帰らないと…という思いが過ぎる。
ひとこと「…」と呟いた直後、春千夜の意識は途切れた。