
10.あなたはわたしの光⑵
1.
「…お、送っちゃった…」
スマホ画面をガン見しつつ、はうるさい鼓動を沈めるように大きく息を吐いた。隣で様子を伺っていた九井は「そんなに?」と思い切り吹き出している。恋人にメッセージを送っただけでそんなに緊張しなくても、と思いながら、どこか吹っ切れたような顔をしているを見て、それはそれでホっとした。午後から散々送るか迷っていたようだが、いざ退社時間が迫って来ると、は意を決したようにメッセージを打ち出し、それでも更にどうしようか悩みながら、遂に送信することが出来たようだ。
「なんて送ったんだよ」
「な…内緒です」
「えー散々相談乗ってやったのに、そこは内緒なのかよ」
頬を赤くしながらスマホを後ろに隠すを見て、九井は思わず笑ってしまった。と春千夜はつき合いだしてまだ日も浅いといったこともあるが、いい大人だというのにメッセージ一つ送るだけでこんなにも悩む姿を見ていると、どことなく初々しい感じがして少し羨ましくもなる。九井の一生を決めたと言っても過言ではない、遠い日の初恋を思い出してしまうからかもしれない。ふと懐かしい笑顔を思い出しかけた時、が突然「あっ」と声を上げたのを聞いて、九井は我に返った。
「すぐ既読になりました」
満面の笑みで振り向くを見て、九井はふっと笑みを漏らす。
「良かったじゃん。これで今夜は盛り上がるんじゃねーの、アイツも」
「そそ、そういうことは、もう気にしないことにします…!」
からかわれたのが恥ずかしいのか、は頬を赤くしながら視線を泳がせている。その姿を見ていると、何故春千夜がに惹かれたのか分かる気がした。自分を含めた梵天のメンバーが、これまで歩んで来た道は決して明るいものではなく、自ら薄暗い道を選んで生きて来た。知らないうちにどっぷりと裏社会に浸かり、様々な犯罪に手を染めては、人の死に触れることもある。決して表には出ず、路地裏でコソコソと這いまわる溝鼠と何ら変わりない。でも、だからこそ、キラキラと輝くものに惹かれるのかもしれない。ビルとビルの合間から差し込む一筋の光に、手を伸ばして触れてみたくなるように。
自分の光は遠い昔に失ってしまった。だからせめて、この二人が想いを成就できるようにと願ってみたくなるのかもしれない。
「春千夜さん、今からこっちに戻って来るみたいです」
返事が届いたのか、が嬉しそうな顔でスマホ画面を見せて来る。
(三途のヤツ…灰谷たちとの仕事を鶴蝶に丸投げしやがったな…)
本当なら今日は夜まで戻らない予定だったはずだ。何となく察した九井は苦笑を零すと、の頭にポンと手を乗せ、「良かったな」と優しく微笑んだ。
珍しく動揺した蘭から、春千夜が何者かに撃たれたという一報が入ったのは、それから一時間後のことだった。
2.
六本木の繁華街から外れた人通りもない狭いビル街。その一画にある廃れたビルの地下に、男が一人で営む病院があった。普段は滅多に人など来ないその小さな病院が、今夜は騒がしいほどに人の出入りが激しい。先ほどから人相の悪い男達がケータイで何やら怒鳴りながら動き回っているのを見ていた男は、呆れたように深い溜息を吐いた。
「おい、蘭!いい加減、落ち着いてくれんか。電話をするなら外でやれ。うるさくてかなわん」
手を止めることなく言うと、背後から「わりぃ。黒木さん」と珍しい言葉が投げかけられ、黒木と呼ばれた男の口元が僅かに緩む。灰谷兄弟とは長い付き合いで、二人の性格もよく知っているが、蘭が他人に謝罪する姿を見たことがある人間はそう多くない。
蘭は自分の部下たちに外へ出てろと命令してから、黒木の方へ歩いて来た。
「どう?助かりそう?」
「何とも言えん。弾はちゃんと摘出したし、幸い内臓は傷ついてないが、何せ出血量が多すぎた。今、輸血をしながら傷口を塗っているが、うちにある血液だけで足りるかどうか…」
「マジ…?コイツの血液型は?」
「オマエ、仲間なのに知らんのか。彼はAB型だ」
「AB…ね。男同士で血液型なんかいちいち聞くかよ」
蘭はケータイでメッセージを打ちながら苦笑気味に言った。しかし珍しくその綺麗な顔には焦りの色が見える。黒木は器用に傷口を縫いながら、今夜は珍しいことが続くもんだと苦笑した。
黒木はこの六本木で昔から闇医者のようなことをしている。最初は小さな診療所をしていたのだが、そのうち大きな病院に行けないような不良達が来るようになり、灰谷蘭もその中の一人だった。若い頃の蘭や弟の竜胆はとにかくケンカっ早い性格で、しょっちゅうケンカをしては黒木のところへ来るようになり、そのうち多額の報酬さえくれるようになった。
「金は好きなだけやるから、表沙汰に出来ないケガを負ったヤツを治療して欲しい」
いつだったか蘭からそう頼まれた時は、黒木も二つ返事で承諾し、今では梵天絡みの患者も多く診ている。今日みたいな銃創のある患者が普通の病院へ行けば、その時点で警察に通報されてしまう。そこから捜査が被害者にまで及べば、少なからず梵天という組織までが危うくなるので、それを避けるためには黒木のような医者が必要不可欠だった。
「おい、蘭。ちょっとそのライトをこっちに向けろ」
「あ?これ?」
「そうだ。オレの手元を照らしてくれ。暗くて見えにくい」
「…ったく。もっと綺麗なビルに移れって言ってんじゃん」
「フン…ここが気に入ってるんだよ。目立たずひっそりというのがオレの信条でな。それに治療に関する最新の装置はオマエさんが揃えてくれてるんだし、治療に関しては問題ない」
「あっそ。だったらケチんねーで電球くらい変えろよ」
古びた置き型ライトを黒木の手元へ向けながら、蘭は呆れたように天井の電気を見上げた。もうすぐ切れそうなのか、さっきからチカチカと点滅しているのが微妙にイラっとくる。蘭が視線を戻すと、薄暗いライトに照らされた春千夜が横たわっている。元々色白の顏が、今は血の気もなく余計に白く見えて、まるで死んでいるかのようだ。
春千夜が銃撃を受けた時、その発砲音は店の中にいた蘭たちにも届いた。すぐさま外へ飛び出した蘭の視界に映ったのは、車の脇で血を流し倒れている春千夜と、春千夜を撃った人物と思われる男を取り押さえている運転手の姿だった。幸いまだ時間も早かった為、風俗街の人通りはなく、蘭はすぐに春千夜を黒木の元へ運ばせた。運転手の男も腕を撃たれていたが、弾は貫通していたので黒木に簡単な治療をしてもらい、今は九井とを迎えに行ってもらっている。
犯人の男は梵天と敵対している組織の下っ端だった。いわゆる鉄砲玉というやつで、梵天の幹部を誰でもいいから殺して来いと言われたらしい。それを聞いてハッキリしたのは最初に狙われていたのは蘭と竜胆だったということだ。しかし店から出て来たのは、まさかの梵天No.2。男は手柄欲しさに春千夜を殺すことを選んだ。その男は今、梵天所有のビルに監禁して望月が詳しいことを聞きだしているだろう。まだ男を殺す気はなかった。
(アイツは三途本人にオトシマエを付けさせる…必ず。だから……サッサと起きろよ、バカ三途…)
未だ目を開けようとしない春千夜を見下ろし、軽く唇を咬む。年下のくせに偉そうで、普段は憎たらしい存在でしかない春千夜だが、蘭は春千夜のことが気に入っていた。からかうと面白い。ただそれだけだと思っていたのに、こうして死にかけている姿を見ると、何とも言えない腹立たしさがこみ上げてくる。
「よし…止血縫合は終わった。後は輸血用の血が足りるかどうか――」
と黒木が言いかけた時、入口の方が再び慌ただしくなった。
「…灰谷!三途は…っ?」
黒木が顔をしかめるほど慌てて走って来たのは九井、そしてその後ろには今にも倒れそうなほど青い顔をしただった。
「今、治療が終わったとこ。でも出血がひどくて輸血の血が足りねーかもって」
九井はベッドの上に寝かされている春千代を見て、悔しげに顔をゆがめた。事情は来るまでの間に運転手から聞かされている。これまで膠着状態が続いていたはずの敵対組織が、今になって仕掛けて来た奇襲。激しい怒りがこみあげて拳を強く握りしめた。
「春…千夜…?」
そこへフラフラとが歩いて来た。突然春千夜が撃たれたと聞いた時は何の冗談かと思った。また蘭さんが驚かそうとしてる――。そう言って笑いたかったのに、顔面蒼白な九井を見た瞬間、それが現実のことなのだと悟った。正直、ここまでどうやって来たのかすらも覚えていない。頭にあるのは、何故ちゃんとした病院ではなく、小さな診療所のようなところに春千夜が寝かされているんだということだった。
「ウソでしょ…春千夜…!」
意識のない春千夜を見た瞬間、の目に大粒の涙が浮かぶ。ベッド脇に跪き、点滴の繋がった力のない手を握り締めた。
「…やだ…春千夜……私をひとりにしないでよ…っ」
「……」
春千夜の手に縋りついて泣き出したの肩に、九井はそっと手を置いた。
「コイツがオマエ残して死ぬわけねーよ…大丈夫だ…絶対」
その時、蘭が九井に目くばせをして部屋を出て行く。それを見た九井は未だ泣きじゃくっているを心配そうに見下ろしたが、この場は二人にしておこうと、静かに蘭の後を追った。
「おい、灰谷…どうなってる?治療は済んで大丈夫なんだろ?」
「まあ…多分としか言えねえけど…血を流しすぎたらしい。ここまで運ぶのにも時間がかかったしな」
「は?じゃあ…」
「AB型の血がいる。今、竜胆にAB型のヤツはここに来いって組織の連中に連絡させてっから間に合えば何とかなる」
調べたところ幹部連中にAB型はおらず、春千代の実兄である武臣に至っては連絡すらつかない状態だった。
「ったくあのバカ兄貴…こんな時に何やってんだ…」
九井が舌打ちをしながら目の前にある椅子を蹴とばした。武臣は梵天の幹部で相談役だが、普段は遊び歩いていて事務所にも殆ど顔を見せない。
「おいおい、暴れるなら出てってくれ」
そこに黒木が渋い顔で歩いて来る。九井も黒木とは面識があった。
「黒木さん、マジで三途のヤツ、ヤバイのか?」
「…うーん、何とも言えんな。ここに運ばれて来た時はすでに大量の血を流してたし」
春千夜を狙った男は三発の弾を撃った。一発目は手が震えて大きく外し、迎えの車に穴を開けた。だが男は再び狙いを定め、次は二発発砲。その弾が今度こそ春千夜の腹に命中し、一発は貫通。二発目は腹部に残った状態だった。一気に大量の血を流したことで春千夜は意識を失い、黒木の元へ来た時はギリギリの状態だったのだ。どうにか手持ちの血液で輸血をしているが、それが足りないということで、蘭も焦っていた。
「あんな見せられたら…絶対助けなきゃって思うわ」
「…灰谷…」
「ぶっちゃけ仕事放り出してに会いに行こうとした三途のバカが死のうがどーでもいいけどよ…。のこと考えたら…そうもいかねえだろ」
しかめっ面を背けて呟く蘭を見て、九井はかすかに笑みを浮かべた。何だかんだ言いながら、心配はしていると分かっている。
「それだけじゃなく…ケンカ相手がいなくなったら寂しいんだろ?」
「…チッ。ガキじゃねえんだ。ケンカ相手なんかいるかよ」
蘭の顏に、やっと笑みが浮かんだその時、またしても入口の方からバタバタと人が入って来る音がして、一服していた黒木が顔をしかめた。
「おい、オマエら、静かに――」
「兄貴…!いた!コイツら、AB型だって!」
部屋に飛び込んで来たのは竜胆だった。後ろに黒スーツの男を三人ほど引きつれている。
「先生!いくらでも血を抜いてください!」
「三途さんを助けて下さい!先生…!」
「だー!うるっさい!」
むさくるしい男達に囲まれた黒木は、かけていた眼鏡を外し、「血を抜いて欲しいなら、そこに並べ!」と怒鳴って奥の治療室へ歩いて行く。春千夜の傍には未だが寄り添っていた。
「…君は…彼の彼女さん?」
その声にびくりと肩を揺らしたがゆっくりと振りむく、その可愛らしい顔は涙で濡れていた。
「先生…春千夜…助かりますよ…ね…?」
涙を堪え、声を詰まらせながら訊いて来るに、黒木はふと笑みを浮かべた。
「君のような存在がいるなら…彼は絶対死なないよ。大丈夫。血をくれるっていう人間も見つかった」
「……え…」
「彼らは血の気が多いようだから、多少多くもらっても平気だろう」
黒木がおどけたように言えば、の顏にはかすかに笑みが浮かんだ。
「じゃあ…春千夜は…」
「うん、助かるよ」
「……っありがとう…御座います…!」
助かると聞いてホっとしたのか、ポロポロと涙を流し、黒木に頭を下げる。だがその瞬間、力なくその場に崩れ落ち、黒木は目が点になった。
「お、おい!蘭!今度は女の子が倒れたぞ!」
その声に、蘭と竜胆、九井が、治療室へすっ飛んで来た。