10.あなたはわたしの光⑶




1.

少しずつ意識が戻って来たが一番に感じたのは、とにかく騒がしいということだった。何かは分からない。でも確実に鼓膜を刺激して来る。それは人の言い争う声のようだった。

(誰か…口論してる…?ひとりは…蘭さんの声…。その後ろで騒いでるのは…竜胆さん…?それと…もうひとり…いる。この…声は――)

「早く帰れよ、テメー」
「いいからオマエはベッドに戻ってろよ!また傷口開くぞ、バカがっ」
「うっせえ、灰谷!オレが離れた隙にに何かする気かよっ?二人きりにさせると思うのか?」
「あ?オマエ、オレにケンカ売ってんの。買うよ?いつでも」
「三途も兄貴もいい加減にしろって!が――って、おい、兄貴…が目開けてる…!」
「はあ?!うるせーぞ、竜胆……って、?!」
「あ?!どけ、灰谷!」

そんな会話をボーっとした頭で聞きながら、ボヤけた人影を眺めていたは、随分とリアルな夢だなと思っていた。だが次の瞬間、蘭の後ろにいたであろう人物が蘭を押しのけ、の視界に飛び込んで来た時、は何度か瞬きをして自分の顔を覗き込んでいる男の顔を見つめる。次第に焦点が合って来た時、その人物が大好きな人だというのを脳が理解した。

…分かるか?」
「春…千夜…?」
「良かった…大丈夫か?」

そっと頬に触れて来る手の温もりにピクリと瞼を震わせたは「夢…?」と小さく呟いた。何故か酷く怖い夢を見ていた気がする。大好きな春千夜が、もう二度と会えない場所に行ってしまうような、そんな見たくもない悪夢。凄く、怖かった。

「バーカ…夢じゃねえよ」

でもいつもの皮肉めいた笑みと言葉に、は「ウソ…ほんとに春千夜だ…」とかすかに微笑む。そして唐突に思い出した。

「……春千夜…っ」
「バカ、急に起き上がんな!」
「春千夜…ケガは?!」

春千夜が撃たれた。その悪夢のような現実を思い出したは、目の前の春千夜にしがみついた。その瞬間、春千夜が「痛っ」と顔をしかめている。よく見れば春千夜は車椅子に乗っていた。

「痛ぇよ、バカ…」
「ご…ごめん…え?私…何で…」

そこで自分が何故ベッドに寝ていて、大怪我をした春千夜が車椅子に乗ってるんだろうと改めて疑問に思う。室内を見渡せば、古い診療所のような部屋だった。そこで春千夜の後ろに立っている蘭と竜胆にも気づく。

「蘭さん…竜胆さん…?」
「おー。気がついて良かったよ」
「ったく…いきなりぶっ倒れたから焦ったっつーの」
「……倒れた?私が?」

どうやら本人は自覚がないらしい。春千夜は深い溜息を吐いて「オマエ、丸一日以上、意識なかったんだぞ」と苦笑した。丸一日以上、と聞いても驚く。

「ウソ…何で…え、春千夜、いつ気づいたの…?」

が駆けつけた時はまだ手当てが終わったばかりで血が足りないという話を聞かされた。それは覚えている。その後、医者の黒木に「助かるよ」と言われたことで凄くホっとして、それで…そこから記憶がない。春千夜は困ったように項垂れると、

「オレはオマエが倒れてから次の日の朝、気が付いた。でも目ぇ開けたら目の前に灰谷兄弟がいて、は意識がないって言うし、オレもワケ分かんなかったわ」
「え、うそ、ごめん…私、先生に春千夜は助かるって言われて凄くホっとしたら急に体の力が抜けて…」
「…ったく。普通こういうのってオレが目を開けた時、がそばにいるもんじゃねえの。何で寝起きに灰谷兄弟のツラ、拝まないとなんねーんだよ」

春千夜が苦笑気味にボヤくと、後ろで聞いていた蘭と竜胆が「悪かったな…」と口元を引きつらせる。

「車椅子に乗せてこの部屋に連れて来てやったの誰だと思ってんだよ」
「…チッ。オレは頼んでねえ。ひとりで乗れるし」

プイっと顔を反らす春千夜に、今度こそ蘭の額に怒りマークが浮かぶ。

「はあ?痛い痛いつって騒いでたの、どこの誰だっけ?!」
「そりゃオマエがバカ力で無理やり引っ張るからだろーがっ…つぅ…」

怒鳴った瞬間、傷口に響いたのか、春千夜が顔をしかめた。

「おいおい…まだ完全に塞がってないんだ。あまり大きな声出すなよ」

そこへ黒木が顔を出した。

「騒がしいから何事かと思えば…お嬢さんが気づいたならオレを呼ばねえか」
「…悪い」

蘭は苦笑交じりで肩を竦めると、「もう大丈夫だな」と言った。

「んじゃーオレと竜胆は忙しいから、そろそろ帰るわ…。三途のせいで寝不足だし」
「…あ?」
「ほーんと…あちこち駆けずり回って寝てねえしな。帰って寝ようぜ、兄貴」

二人は嫌味を言いつつ、病室を出て行こうと歩き出す。それを見ていた春千夜は気まずそうな顔で舌打ちをすると、

「この埋め合わせは…必ずする」
「……は?」
「……色々…助…かっ…た」
「…マジ?」

片言ながら――二人への礼は相当不本意だったらしい――春千夜の口から自分達に向けて精一杯の感謝を伝えられ、蘭と竜胆は驚愕の表情で振り向いた。出会ってから今日まで、春千夜が二人に礼を言ったことなどない。あまりにレアな光景で、蘭は恐々とひとこと。

「オマエ…マジで中身、三途か?」
「あ…?」
「兄ちゃん…アイツの背中にファスナーついてるかもよ」
「テメエ、そりゃどーいう意味だ!ぶっ殺すぞ!!」

からかわれてると気づいた春千夜が案の定キレる。その様子を見た蘭と竜胆は互いに顔を見合わせ吹き出した。

「やっぱ三途だわ」
「三途はこうじゃなくちゃなー」
「あぁ?!バカにしてんのかっ!」
「うわ、いつものウザさが戻ってるし、帰ろうぜ、竜胆」
「そーだなー。んじゃー怪我人は大人しく寝とけよー。、しっかり看病頼むなー」
「は、はい」

棒読みで言いながら帰っていく竜胆にが慌てて体を起こす。それを見た春千夜が「バカに返事なんてしなくていいから寝とけ」との体を寝かせた。

「で、でも私は大丈夫だよ…。多分寝不足もあって殆ど寝てたようなものだし…春千夜こそ、ちゃんとベッドに戻って」
「いや、でも…」
「彼女の言う通りだ」
「…黒木のおっさん…」

後ろで見守っていた黒木が苦笑気味に春千夜の車椅子を掴む。当然、二人も梵天に関わった時から顔見知りだ。

「そう血の気が多いんじゃ、いつまた倒れるか分からんぞ。大人しくしとけ」
「チッ…分かったよ…んで?いつ帰れんの」
「そーだなァ…安定してきたらだから一週間は入院してもらおうか」

ニヤリと笑う黒木を見て、春千夜の目が一気に吊り上がった。

「は?そんな入院してられっか!明日には退院させろ」
「おいおいおい…オマエさん、死にかけたって分かってんのか」
「生きてんだからいーだろが」
「ったく…誰のおかげで助かったと思ってんだ。オマエさんの仲間が輸血に協力してくれたんだぞ?」
「そいつらには報酬を考えてる。おっさんにもたっぷり払ってやるから明日退院させろ」
「ちょ、ちょっと春千夜…お医者さんを買収しないでよ」

二人の会話を黙って聞いていたも、春千夜の我がままには慌てて口を挟む。医者を買収して退院させろという患者など見たことがない。黒木もそう思ったのか、笑いながら「金は好きだがオレも一応医者なんでね。却下」と澄ました顔で応えた。春千夜の顏が見る見るうちにげんなりとしたものへ変わっていく。

「…はあ。オレ、病院嫌いなんだよ…」
「でも早く治さなきゃでしょ?明日から仕事帰りに毎日寄るからここいて?そしたら私も安心」
「…

可愛い恋人の頼みなら、と思うと、そこは「分かった」と素直に頷く。そしての方へ顔を寄せると、艶のある頬へちゅっと口付ける。

「ぜってー毎日来いよ?」
「う…うん…」

黒木の前でキスをされたのが恥ずかしいのか、頬をほんのり染めながらもしっかり頷く。黒木は黒木で二人のイチャつきを見せられ、渋い顔だ。

「イチャイチャするな。独り身のオレには目の毒だ」
「あ~、そういや黒木のおっさん、嫁に逃げられたんだっけ。かわいそーに――」

春千夜が皮肉るように笑うと、黒木は徐に拳を振り上げ、春千夜の頭頂部へゲンコツを振り下ろした。どうやら"嫁に逃げられた"というワードは地雷だったらしい。ゴンっという鈍い音と共に「いったっ!」という春千夜の悲鳴が上がり、は思い切り吹き出してしまった。

「いってーな!患者を殴る医者がどこにいんだよっ?」
「ここにいる。ったく人の傷を抉りやがって…オレの心を治療してくれる可愛い子はどこにいるのやら」

黒木は溜息をつきつつ、春千夜の車椅子を強引に押しながら、「じゃあお嬢ちゃんは少し休んだら退院していいからね」と笑顔で言った。

「このバカはオレが預かっておくし、明日またおいで」
 「あ?バカは余計だろっ」
「は、はい。お願いします」

文句を言う春千夜をよそに、は慌ててベッドから出ると、黒木に頭を下げた。




2.

「んで?どう?三途は。退院した後もちゃんと大人しくしてる?」

あれから二週間が過ぎ、退院してマンションへ戻って来た春千夜は、それでも大事を取って今も仕事を休んでいる。というより九井が休ませた。本人はすっかり痛みも引いたらしく、一週間も黒木に監禁されたことで力が有り余っているようだ。

「はあ…大人しく…はないです」
「ぶははっ。やっぱそーか」

困ったように眉を下げるを見て、九井は思わず吹き出した。あの春千夜が病院のベッドで一週間も大人しくしていたのだから、そろそろ限界だろうとは思っていた。

「でも今日までは家にいてってお願いしたら、渋々頷いてくれました」
「そっか。でもも休んで良かったのに。そばにいたいだろ?」
「…そ…そういうわけには…。春千夜さんが入院してた間に少しずつ溜めてた仕事も残ってますし…」

ニヤニヤしている九井を見て、は薄っすら赤くなりつつ、目の前のパソコン画面に視線を移す。そもそも梵天幹部が手の回らない仕事をする為にはこの会社に入ったようなものだ。表の仕事だから適当でいいと、春千夜の正体が分かった時に言われたこともあるが、そこは性格上、きっちり仕事をしたかった。

「皆さんにとっては隠れ蓑の会社でも私には大事な仕事なので、お給料分はしっかり働かせて頂きます」
「はいはい。そこは助かってるけどな」

キリッとした顔で言い切るを見て、九井も苦笑するしかない。その時、九井のケータイが鳴った。見れば蘭からで、九井はに「じゃあ、あまり無理するなよ」と声をかけてから事務所を後にする。

「もしもし。蘭さん?」
『おーココ。オマエ、今どこ?』
「もちろん事務所で仕事中です。どうかしましたか?」

こんな時間に蘭が起きているのは珍しいと思いつつ、九井は窓の前に立って町並みを見下ろした。エントランス近くには組織の人間が目を光らせているのが豆粒くらいの大きさで見える。春千夜が襲撃された後、梵天も厳戒態勢になり、幹部の周りには常に部下が数人はつくようになった。春千夜のマンションも同じで、いつ誰に狙われるか分からない緊張感は今も続いている。

『三途を撃ったヤツ、そろそろ限界みてーなんだわ』
「……そう、ですか」
『まあ、モッチーが散々痛めつけたからなァ。三途が戻るまでは生かしとけつったんだけど、半分死にかけてっし、そろそろ三途に片付けて欲しいんだけど、アイツ、まだ家か?電話しても出ねーんだよ』
「まだ家のはずだけど…オレからもちょっとかけてみますよ」
『頼むわ。ああ、は?』
「今日もきっちり仕事してくれてます」
『マジで?アイツも三途のそばにいりゃーいいのにな』

蘭は笑いながら言うと、『まあ、この話はにバレねえように』とひとこと言った。いくら梵天のことを知っていようと、恋人が人ひとり始末する話など聞かせられない。蘭の言いたいことを理解し、九井はもちろん、と応えた。
そこで蘭の電話を切った九井は、すぐ春千夜に電話をかけた。この前のことがあっただけに電話に出ないというだけで少し心配になったのだ。だが春千夜の番号を押すと、3コールほどで相手が出た。

『…何だよ、九井』
「あれ…三途、起きてたんか」
『あ?起きてるに決まってんだろ。散々寝たからなー黒木のおっさんとこで。しばらく寝なくても平気だよ』

そんなバカなと思いつつ、九井は「いや、今蘭くんから電話来て、三途が出ないって言うから」と説明した。すると春千夜は思い切り嫌そうな声で、

『灰谷…?ああ…アイツらからの電話、着信拒否にしてっからな』
「………何で?」

まさかの答えに九井の目が更に細くなる。色々報告することがある時に拒否なんてものをされていたら連絡が取れなくて困ってしまう。

『あ?ウゼーからに決まってンだろ。灰谷のヤツ、兄弟そろって毎晩、からかい電話かけてきやがるんだよ。暇人だろ、アイツら』
「……マジで」

何やってんだ、蘭さんと竜胆さんは、と九井は口元を引きつらせつつも笑ってしまいそうになった。それでは拒否られても仕方がない。

『どうせ大事な用なら繋がらなかった時は九井に言って、オマエがこうして電話してくんだろと思ったしな』
「あっそう…。まあ…オマエの読みは正しかったわけだ」
『だろ?で…灰谷のヤツはなんだって?』
「あーそうそう。オマエを撃ったヤツがモッチーくんの拷問で弱り切って瀕死らしい。だから三途に後始末を頼みたいとかで」
『あーあのバカか…』

春千夜は思い出したように言いながらも、少し間をあけてから、『それ、灰谷か鶴蝶に任せるわ』と言い出した。それには九井も驚く。あの春千夜が自分を撃った人間を他の人間に任せるなどありえないからだ。

「マジで…言ってる?つーか人任せにしていいのかよ」
『…別に。撃たれた時は絶対コイツ殺すって思ったけどな…』
「じゃあ…何で」

九井が尋ねると、春千夜は言いにくそうに咳払いをした後、

『仕方ねえだろ…。に絶対家から出るなって言われてんだよ…っ』
「………」

照れ臭いのか、春千夜は少しキレ気味に言いのけた。当然九井は唖然として言葉を失う。まさかに言われたからという理由だけで、自分を撃った犯人を人任せにするなんて思わない。前の春千夜なら絶対に自分の手でカタを付けたはずだ。蘭もそう思ったからこそ、すぐには殺さず今日まで生かしておいたんだろう。

「…三途…」
『あ?何だよ…』
「オマエ……変わったなぁ」
「あっ?!」

シミジミと、感慨深げに言った九井に、春千夜がイラっとしたような声を上げる。その辺はあまり変わらないなと思いながら、九井は苦笑した。

「分かったよ。じゃあ…あの男は――」
『そりゃーもちろん……死体スクラップだろ』
「りょーかい」

春千夜の言葉を受けて、九井は笑みを浮かべながらそれを快諾した。




3.

『……終わったぞ』
「…フン。どうせ死にかけてたんだろ?」
『まあな。意識ねえからコッチもやった感なかったわ。ま、一応報告っつーことで。じゃあ…お大事に』

皮肉たっぷりの言葉を吐いた後、望月は電話を切った。春千夜は苦笑いを浮かべながらケータイをテーブルに置くと、ベランダに出て星の出て来た夜空を見上げる。今はただただ心が落ち着いていた。死にかけたせいなのか、今、自分が一番大事にしたいことを優先すべきだと、柄にもなく思ってしまったからなのかもしれない。マイキーへの忠誠は今もしっかり心の奥にある。それは未来永劫、変わらない。ただ、もう一人、大切な存在が増えただけだ。

「ただいまー!」

玄関の方から明るい声が聞こえて、春千夜はふと振り向いた。自分のところに愛しい人が帰って来る。以前にはなかった幸福感で、また一つ心が満たされていく。

「あ、春千夜、起きあがって大丈夫?」

息を切らせてリビングに飛び込んで来たは、少しだけ頬が赤い。手にはスーパーで買い物をしたのか袋を下げている。きっと仕事帰り、買い物を済ませて急いで帰って来たんだろう。その姿を想像して春千夜は微笑んだ。

「お帰り。もう大丈夫だって言ったろ?いい加減、横になんの飽きたっつーの」
「そ、そっか。あ…じゃあ急いでシャワー入って夕飯の支度するね」

は買い物袋をキッチンに置き、すぐにリビングを出て行こうとする。それを見た春千夜は大股で歩いて行くと、の腕を掴み、強引に自分の方へ引き寄せた。が驚いたように春千夜を見上げる。

「は…春千夜…?」
「まずは…ただいまのキスだろ」
「え、」

驚くの顔を見下ろしながら、春千夜はどこか不思議な気持ちになった。前は女にそんなものを求めたことはなく、恋愛ドラマみたいな関係など望んだこともなかった。欲を満たすためだけに、いい女をそばに置いていただけの薄っぺらな繋がり。なのにと出逢い、ひたむきな想いをぶつけてくる彼女に、いつの間にか本気にさせられた。

最初は周りにいない普通さが新鮮だった。遠い昔、自分が捨ててしまったものをの中に見ていたのかもしれない。気づけばその存在に癒され、心を許している自分がいて。そこで自分がどれだけ大きな緊張の中で生きて来たのかを悟った。

マイキーに心酔し、陰で支えながら突っ走って来た人生に後悔はない。でもこの先、その人生の中にもいてくれたら、という思いが日増しに強くなっていった。その想いを貫けば、の人生を大きく変えてしまうことになると分かっている。だからこそ一時は悩んだりもしたが、今回死にかけたことで覚悟が決まった。

「春千夜…?」

恥ずかしそうにほんのりと頬を染めたの顎を指で持ち上げ、顔を傾けながら唇を塞ぐ。その温もりにホっとするのと同時に、体が素直に反応した。触れた場所から熱が生まれ、ゆっくりと全身に巡っていく。

「…今すぐ抱きたい」

僅かに唇を放して呟けば、の瞳が大きく揺れた。