『2018年1月10日、午後3時40分頃。香川県××市にて窓が確認した特級相当の呪霊の祓除。派遣術師・五条悟(特級術師)。※補助監督・東京所属:伊地知潔高』
「…ハァ。5つ目終わりー…」
誰もいない事務室の静かな空間に、わたしのボヤき+カタカタとパソコンのキーを叩く音だけが響いている。窓の外は雪が舞い始め、それに気づいた時、小さな溜息が漏れた。
「ホワイトクリスマスだなぁ…どおりで寒いと思った」
なんて呟いたものの、到底ロマンティックとは言えない状況だった。
都心部からだいぶ離れた山の麓にある呪術専門高等学校。世間的には秘匿とされている呪術について学ぶ場であり、ここがわたしの母校、そして現在の職場だ。社寺を模して造られた外観は到底、普通の学校と呼ぶには無理があるけど、世間的には宗教学校とされてるので、これはこれでいいらしい。ここでわたしは四年間、呪術について学んだり、休みには都心に出て遊んだり、と学友たちと共に切磋琢磨しながら青い春を謳歌したこともある。でも結局わたしは呪術師にはならず、補助監督になることを選んだ。理由は簡単、わたしに術師としての能力が欠けていたからだ。命をかける現場に出向くには力不足と痛感したことで、ならばせめて仲間をサポートしたいと思った。
そう。だから、アイツの嫌がらせで残業する為に補助監督になったわけじゃない。
アイツとは――特級呪術師であり、わたしの同級生である五条悟だ。
――あ、これ今日中に頼むね~。
仕事を終わらせて、さあ帰ろうと思った矢先、ふらりと出張先から戻った悟は、わたしに出張先の任務報告書をまとめておいて、と、これまた面倒な作業を押し付けてきた。本来ならこれは同行した補助監督の仕事なのに、伊地知くんは旅先で悟にコキ使われた――かは定かじゃないが、熱を出して寝込んでるそうで、その代わりに仕事がわたしへ回ってきたらしい。同僚たちは同情の目をわたしに向けながらも、そそくさと帰ってしまったので、仕方なくこうしてクリスマスイヴに残業をしているというわけだ。
(悟のヤツ…絶対嫌がらせだ…)
わざわざクリスマスに残業させるなんて悟らしい。本当なら今夜は硝子と一緒に飲み会を開く予定だったのに――。
まあ、飲み会という名の合コンみたいなものだけど。
「あ~…何か腹が立ってきた…何でわたしだけ残業なんてしなきゃいけないの…?」
一向に終わりそうにない山積みされた書類を睨みながら、深々と溜息を吐く。今回の悟の出張は一週間。報告書をまとめ上げるのも一苦労だ。書類の入っていた封筒の中には領収書まで同封されていて、わたしは経理じゃない!と突っ込みたくなった。
そして三十三回目の溜息を吐いた時だった。事務室のドアが開き「お疲れ~」と弾むような憎たらしい声が聞こえてきたのは。
「悟…何しにきたの」
振り返ると、案の定の人物が歩いて来た。外は雪が降るくらい寒いはずなのに、コートも着ていなければ、鼻すら赤くなっていない。この男の術式は冷気さえ近寄らせないらしい。
「やだなぁ、怖い顔して。が一人寂しく残業してると思ったから差し入れ持って来たのに」
アイマスクのせいで分かりにくいけど、悟はへらっと口元を緩めて微笑んだようだった。その言葉にはさすがにカチンときて「誰のせいで…っ」と文句を言いかけたわたしの鼻先に、ぬっと大きな箱が現れた。淡いピンク色をしたそれは見覚えのあるお店のものだ。
「な、何よ、これ…」
「オマエと一緒に食べようと思って買ってきた。僕と一緒でここのケーキ好きだろ?」
「…好きだけど…そういうことを聞いてるわけじゃなくて!何でわたしが悟とケーキなんて食べないといけないの?」
「何でって…前はよく一緒にここのクリスマスケーキ食べたよね」
「…それは…」
悟のその言葉に戸惑った。確かに悟とはクリスマスを一緒に過ごして、ここのケーキをよく買っていた。何故なら、この五条悟はわたしの"青い春"そのものだから。
「いつの…話してるわけ?そんな昔のことなんて――」
と言いかけて言葉を切った。悟がケーキの箱を開けたせいで中身が見えたから。中には薔薇の形を模した淡いピンク色のクリームに包まれたケーキ。それは過去のわたしが、お店のパンフレットを見て、いつか食べたいと悟に話したものだ。
――このお店、ウエディングケーキもやってるんだね。可愛い!自分の結婚式の時はこれ食べたいなー。
――バーカ。普通、この手の背の高いウエディングケーキはニセモノだから食べる箇所なんてねーよ。
――えっそうなの?この薔薇のケーキ、凄く可愛いのになー。
――そんな食いたいのかよ。
――だって見た目が凄く可愛いし、美味しそうじゃない。
――フーン…じゃあオレがと結婚する時は、これを食べられるように丸ごとケーキにしてやるよ。
――え…それって…
――プロポーズだろ。どう考えても。
そんな若気の至りとも思える会話まで思い出して恥ずかしくなった。あんな熱に浮かされてる時の言葉を、バカみたいに信じてた頃もある。でもわたしと悟はそれから五年後、破局を迎えた。五条家の先代が引退し、悟が五条家の当主になったからだ。五条家当主に相応しい術式を持つ良家のお嬢様との縁談話が持ち上がったのを聞いて、わたしから悟に別れを切り出したのは、いつかを待つのが怖かったからに過ぎない。いつか来る別れを待つのは、あの頃のわたしには耐えられなかった。そんな弱い自分を知られたくなくて本音は言えなかったけど、悟も薄々は気づいていたのかもしれない。
――オマエの気持ちってその程度だったのかよ。
酷く冷めた表情でわたしを見た悟の顔は、今でも鮮明に覚えている。だけど、次の日からは少しずつ前のような関係に戻っていった。あの別れから三年。何で悟は今更こんなケーキを買ってきたの?と強くくちびるを噛みしめた。やっと自分の想いに区切りをつけられるようになってきたのに、こんなことされたら――。
「この三年、僕が何も感じてなかったと思う?の本音に気づかなかったとでも?」
「…悟…?」
アイマスクを外しながら一歩、悟がわたしに近づいて、彼の手が頬へ触れた。その懐かしい温もりに心臓が跳ねる。そっと顔を上げると、昔と変わらない優しい蒼の虹彩がわたしを見つめていた。
「五条家の古い体制を変えるのに三年かかったけど、まだオマエの気持ちが僕に少しでも残ってるなら、あの日の続きからまた始めたい」
普段の軽薄さはなりを潜め、珍しいくらい真剣に紡がれた言葉。まさか悟がそこまで考えてくれてたなんて、わたしは何も知らなかった。
躊躇いがちに繋がれた手を強い力で引かれ、次の瞬間には昔のように抱きしめられていた。
「こ、婚約者は――」
「そんなのとっくに破談だよ」
「……な…」
「僕が本気で他の人と結婚すると思ってたわけ?」
「だ、だって…」
あの頃はどうすることも出来ないと思っていた。御三家である五条家の当主には、自分よりも相応しい人がいると思ったから。普通の家庭に育ち、術師としても落ちこぼれのわたしが、どうして悟と結婚できると思える?
結局、わたしはその現実から逃げたんだ。悟の気持ちも考えず、傷つけて。でもこの世界から離れることもせず、悟の傍でサポートをしていく茨の道を選んだ。それはきっとズルい選択だったのかもしれない。けど、どうしても悟の傍にいたかったから、必死で恋に落ちる前の関係に戻すことに必死だった。
「バカだな、は」
悟はわたしの頭へ頬を寄せると、その大きな手で優しく髪を撫でてくれた。堪えていた涙が溢れて、胸が苦しくなる。冷え切った室内のせいで、余計に悟の体温を感じてしまう。
「もう一度…悟の彼女になってもいい…?」
悟にしがみつきながら、三年間封印していた想いを口にすると、僅かに体が離れて顎を持ち上げられた。
「僕としては奥さんになって欲しいんだけど」
「……なる」
間髪入れずに頷くと、悟は小さく吹き出して「可愛い」と呟く。わたしも悟も、昔に比べて随分と素直になった気がする。
「最高のクリスマスプレゼントかも」
そう言いながら、悟は身を屈めてわたしのくちびるを塞いだ。雪に触れていないはずなのに、悟からは冬の匂いがかすかにしている。触れあうくちびるも少しだけ冷んやりとしていた。
「もしかして…わたしに大量の仕事を振ったのって…」
僅かにくちびるが離れた時に、疑問に思っていたことを尋ねると「合コンに行かせるわけないだろ」と、悟はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、またすぐにくちびるを重ねてくる。どうやらわたしはまんまと悟の罠にはめられたらしい。肩越しに見える窓が雪で白く覆われる頃、「、愛してる」という懐かしい響きが、耳を掠めていった。