Magenta...01



「誰だ?てめえ」

ダイヤモンドで出来てるのかと思うほどに美しい虹彩を持つ男が、その容姿からは想像も出来ないほどの冷めた声で呟いた時、この仕事を引き受けたことを、は初めて後悔した。


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「今日はまだ指名も入ってないみたいだからちゃんが初めてのお客様をお願いしてもいい?」

上司である主任の伊藤美紀から、そう訊かれたのは出社してすぐの時だった。
幼い頃、両親を事故で亡くしたは、姉の砂羽さわと二人、孤児として施設で育てられた。高校卒業と同時に、先に施設を出て一人暮らしをしていた姉のマンションで同居をすることになり、その際には、内定をもらっていた家事代行サービスの会社"アイシング"へ就職。
掃除、洗濯、料理がメインのこの仕事は、家事が得意な彼女にとってはやりがいのある、まさに天職だった。
"アイシング"の本社は港区にある。よって価格も高めに設定されており、利用客もそれなりに富裕層が多い。 だからというわけではないが、客層もよく、入社五年目のも、特に目立ったトラブルには未だ巻き込まれたことがない。
ただ顧客は医者や弁護士、大企業の社長、政治家、芸能人が多いため、それなりの仕事を求められる。会社のマニュアルも細かく設定されており、指導も徹底していた。しかしはそれをキツいと感じたことはなく、得意な家事を生かせるこの仕事が好きだった。入社してからというもの、同期たちの中でも人一倍熱心かつ丁寧に働き、そこを買われてか、を指名する客が最近はぐんと増えていた。
そうなれば当然、上司の受けもよく、こうして指名以外の客を任せてもらえることもある。

「分かりました。お客様は新規の方ですか?」
「いえ、去年くらいからウチのサービスを利用してくれてる方なの」
「え、じゃあ担当の方がお休みとか」

利用者の客はだいたい同じスタッフに仕事を頼みたがるもので、よほどじゃない限り担当は変わらない。それでも利用者側とスタッフのシフトが噛み合わないこともある為、その際は客に説明し、承諾を得られれば他のスタッフを手配することもある。新規以外で他の人間が仕事を任されるのはそういった事情が多く、今日もそんな理由かと思った。だが美紀は少し困り顔で首を振った。

「それがね。先方から担当を変えてくれって言われたの」
「え…何かトラブルでも…?」

は少しばかり驚いて尋ねた。
"アイシング"の客層はいいと言っても、トラブルが全くないわけじゃない。客とスタッフの相性というものが多少関係してくることも事実だ。だが美紀は「そういうわけじゃないんだけど…」と苦笑を漏らした
聞けば、その客の担当変えは今までで三回。あげく今月に入って二度目のことらしい。

「今日のお客様、三途さんって方なんだけど、最初の担当者に聞いた限りじゃ物凄く綺麗好きらしいのよね」
「はあ…でもそういうお客様も多いですよね」

とかく富裕層と呼ばれている人達には共通点が多い。その中の一つが綺麗好きという点だった。それぞれが豪邸や高級マンションに住んでおり、どの家も掃除など必要がないほど片付いている。時々、物に溢れてゴチャゴチャしている家庭はあるものの、だいたいは整頓が出来ていないだけだったりするので、汚れているのとはまた別の話だ。
"アイシング"ではそういった客を相手にしているだけに、スタッフの指導も徹底しているので、あまり苦情や担当の変更を申し出てくる客は少ない方だった。なのにこれまでで五回の担当変えはさすがに少し驚かされた。

「そうなんだけど…他の方よりも極度に綺麗好き…とうか潔癖症らしくてね。担当の子がどんなに綺麗にしても、次の日には必ず苦情の電話が入るの。まあ、それは掃除以外のことも含まれるからなんだけど…。結果、担当を変えてくれって話になっちゃって…」
「そうですか…。気難しそうな方なんですね」
「そうなの!」

何気に言った一言に、美紀が食いついた。よほど困っていたらしい。
最初に付けたスタッフはよりも後輩の若手だったらしいが、それがダメだったことで、次はベテランのスタッフを何人か送り込んでみたものの、結局は同じように担当変えを告げられてしまったようだ。

「こうなったらお客様から評判のいいちゃんに任せてみようかと思って。ほんとはあなたも指名のお客様だけで大変だろうから迷ったんだけどね」

本当に困ってるの、と美紀にお願いされ、は迷うことなく、その仕事を引き受けることにした。気難しそうな客と知って多少不安にはなったものの、掃除や料理などには定評があり、これまで苦情を言われたことは一度もない。
分かりました、と応えると、美紀は助かるわと大げさに息を吐き出した。言ってた通り、相当困っていたに違いない。

「三途さんのお宅は会社から近いし徒歩でも行けるわ。これ、依頼内容と三途さんちの合鍵ね」

早速、依頼書と鍵を渡され、は依頼の内容を改めて確認してみた。

(三途さんの希望は主に水回りやリビング、玄関の掃除か…。食事や洗濯は希望されてないみたい)

依頼書には他に一人暮らしと記されていて、不在がちとの記入もあった。
男の一人暮らしなら一番面倒なのが掃除の類だろう。他にも似たような客は多い。ただ、そういった男性客は食事や洗濯も依頼してくる人が常だ。

(外食が多い人もいるからこれは分かるけど、洗濯はなしって珍しいな…。それに…)

ふと最後の記入欄に追加の事項を見つけた。そこには禁止事項と書かれている。要は依頼主がして欲しくないことが記入されているのだ。

「えっと…禁止事項その一…勝手に頼んだ掃除以外のことをしない。その二.勝手にインテリアを移動させない。その三.勝手に観葉植物には水をやらない。その四.配達物には触れない。その五.絶対に寝室へは入らない…?何これ…」

随分と注文が多いなと思いつつ、首を傾げていると、それに気づいた美紀が苦笑交じりで「必ず守ってね」と言ってきた。そのニュアンスでは、今までの担当が何故外されたのかを理解する。

「もしかしてこれ…」
「そう。前はね、こんなに禁止事項は多くなかったの。寝室へは絶対に入るなってことだけだった。ただ担当の人が何か気に入らないことをするたび増えていって…」

その話を聞いてなるほど、と思った。きっと相手はスタッフが掃除以外のことをするとは思っていなかったに違いない。しかしスタッフが良かれと思ってしたことが、彼は気に入らなかったようだ。

「掃除の合間にテーブルに置いてあった配達物を整頓して置き直しただけだったり、観葉植物の土が乾いてたから水をあげたりしただけで、苦情が入って驚いちゃった」

美紀は溜息交じりで笑っているが、はもう一度書類に目を通して、十分に気を付けようと思った。他人にはちょっとした親切心でも、それを不快に思う人間もいる。潔癖症の人なら尚更だ。

(でも潔癖症の人が代行サービス頼むのも珍しい…他人が家に入るのを嫌う人も多いはずなのに)

それだけ掃除が負担だったのかな、と思いつつ、は早速、三途という客のマンションへと向かった。昼間は殆ど不在らしく、その間に依頼された掃除をしなければならない。

「ここか…ほんとに会社から近いんだ」

本社ビルから徒歩7分。目の前にある高級タワーマンションを見上げながら独り言ちる。港区の中でも一等地とされる場所なのだから、その辺のタワーマンションよりも遥かに豪勢だ。当然、ロビーには受付があり、コンシェルジュが二人、笑顔で出迎えてくれた。
身分を明かすと、びしっとオールバックにしたコンシェルジュが「伺っております」と応え、丁寧にエレベーターまで案内してくれた。ただの代行スタッフにここまでしてくれるコンシェルジュも珍しい。それだけ管理会社の指導が徹底してるんだろう。自分の会社と似てるなと思いつつ、恐縮しながらもエレベーターに乗り込むと、は緊張をほぐす為、小さく深呼吸をした。これまで豪邸や高級マンションで仕事をしたことは沢山あるので、こういった雰囲気には慣れている。だが今回は初めての客――それも気難しい――ということもあり、いつになく緊張が襲ってくるのだ。

(平常心、平常心…いつもと同じ仕事をすればいいんだから)

言い聞かせるよう、その言葉を頭の中で繰り返しながら、は最上階でエレベーターを降りた。そこで合鍵を使い、まずはフロアに入る為のドアを解錠する。一等地に立つマンションはセキュリティレベルも普通のタワマンより高いらしい。

(こんなマンションの最上階っていうと相当家賃も高いはず…三途さんって何してる人だっけ…)

依頼内容や禁止事項にばかり目が向いて、肝心の客の素性を知らないままだったことを思い出し、再び書類をバッグから取り出した。やはり普段より緊張しているようだ。

「えっと…会社は…BNTホールディングス…?え…あの?」

それはでも聞いたことのある社名だった。この港区に本社を構え、色々な株式会社の経営、管理をしているグループだ。そしてこのBNTホールディングスには黒い噂があった。

(確かこの会社を運営してるのが、あの極悪非道で有名な梵天だって、どこかのユーチューバーが動画上げて騒ぎになってたような…)

ただの再生数稼ぎのデマだとテレビでコメンテーターが発言していたのを思い出す。またそれに対して当のユーチューバーも反論動画を上げたことで、一時炎上騒ぎになっていたはずだ。毎朝見ている朝の情報番組でやっていたので、もそれくらいは知っていた。

「まさか…ね。ただの噂だし」

あまりに大手だから黒い噂もたてられるんだろうと気を取り直しながら、他の情報にも目を通しておく。

(年齢は25歳?わたしと二つしか違わないなんて…随分と若い人なんだな…)

その若さで大企業に勤め、これほどの高級マンションに住んでいるのだから、よほど優秀な人なんだろう。
少しの感心をしながら、記載されている部屋番号を探そうと歩いて行く。といっても、最上階に部屋は二つしかなく、二つ目のオートロックを抜けると、そこにドアは一つしかなかった。

「こっち側全部が家ってことか…広そうだな」

豪邸に見慣れているであっても、ちょっと驚きつつ、ドアの前に立つ。
どうか失敗しませんように!
心の中で祈りつつ、は意を決してドアを開いた。


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