寒い冬が終わり、だいぶ春めいてきた日曜の朝、はいつものように目覚まし時計の鳴る音で目が覚めた。もぞもぞと手だけを動かし、音を止めると、ゆっくりと布団の中で体を伸ばす。固まった筋肉が動いて、じわりと体温が上がってくるのを感じた頃、よし、と一言呟いて体を起こした。
春先とはいえ、まだまだ朝は肌寒く、布団から出た途端、冷んやりとした空気が肌に触れる。寝起きは著しく体温が下がっているので、はすぐにバスルームへと向かった。
就寝前に入った風呂を追い炊き機能で温め直す為だ。温度は温めに設定し、朝風呂の用意をしながら歯を磨く。寝起きに風呂は良くないと聞くが、はこれをしないと頭がスッキリしないのだ。
歯を磨いた後、朝食の準備を始める。自分の分と姉の分。これが毎朝のルーティーンだった。
「あれ、起きてたの?」
コーヒーメーカーでコーヒーの準備をしていると、不意にトイレの方から水を流す音とドアの開く音。振り返ると姉の砂羽が欠伸をしながらキッチンに顔を出した。
「ううん、トイレに起きただけー…また寝る…ふぁぁ…」
再び欠伸をしながら、砂羽は寝癖のついた長い髪を掻き上げた。だが巻いた状態で寝てしまったらしく、指に絡まり「いたたっ」と顔をしかめている。それを見ては呆れたように笑った。
「またシャワー浴びる前に寝ちゃったんだ」
「だってアフターで遅くなっちゃったんだもん…」
「何時に帰って来たの?」
「んー…午前4時少し前…かな」
砂羽は言いながら「私にもコーヒー注いで~」と自分のカップを指さした。二度寝の前に飲みたいらしい。仕方なく棚から砂羽のカップを取ると、淹れたばかりのコーヒーを注いでテーブルへ置く。
「サンキュー」
「もう…仕事なのは仕方ないけど、もう少し早く帰らせてもらいなよ」
「そう簡単にいかないこともあんのー。盛り上がってる時に帰るなんて言えば空気がしらけるでしょ」
砂羽はいつもの言い訳をしながら美味しそうにコーヒーを飲んでいる。こうなると何を言っても無駄だ。は姉に構うことなく仕事へ行く準備を再開した。
高校を卒業し、施設を出た砂羽は念願だった夜の仕事を始めた。それはまだ学生だった自分の為だと分かっているので、もあまり強くは言えないのだ。
――と一緒に暮らす為にお姉ちゃん頑張るからね!
そう言ってくれた時はも嬉しかった。
砂羽はほど勉強が出来ず、成績も下の中といったところ。ただ要領が良く、人懐っこさも相まって夜の世界ではそのコミュニケーション能力を発揮しているようだ。容姿も童顔のとは違い、美人タイプでスタイルもいい。なのに気さくな性格なので、年上のおじさま達からも受けはいいようだった。
「今日も仕事だっけ?」
朝食の準備をしていると、砂羽がテレビを付けながら訊いてきた。
会社はシフト制なので休みはその月ごとに違う。ついでに言えばは休日の日でも早起きなので、砂羽はどっちなんだと言いたげに妹へ視線を向けた。
「仕事だよ。今日はちょっと予約が立て込んでるから少し遅くなっちゃうかな」
「そっか~。早く終わりそうなら夕飯は焼肉ご馳走しようと思ったんだけどなー」
「えー…久しぶりに焼肉食べたかったなぁ…」
「なら次の休みにでも行く?」
「ほんと?やった!」
大げさに喜ぶ妹を見て、砂羽は苦笑交じりで頷いた。
正確は違えど、姉妹仲は昔からいい方で、二歳下の妹を砂羽は可愛がっていた。
「それにしても予約いっぱい入ってるなんて凄いね。この半年で給料も地味に上がったんじゃない?」
「おかげ様で。まあその分、大変なことも増えたけど」
「家事代行って言っても私の仕事とそう変わらないとこあるもんねー。客に気に入ってもらえてなんぼってとことか」
「確かにそうかも…。細かな気遣いも大事だし」
「だよね。あ、そう言えば例の気難しい男、まだ担当してんの?」
コーヒーのお代わりを強請りながら、ふと思い出したように砂羽が言った。二度寝をするはずが、すっかり目は覚めたらしい。
「ああ…三途さんのこと?」
「そうそう。そんな名前だったっけ」
「今のとこ、まだ苦情は入ってないし担当してるよ。今日も最後の仕事は三途さんとこなの」
「へえ。それまでモンカスだったんでしょ?そんな男に気に入られるなんてさすが私の妹」
「モンカスって…そこまでのクレーマーじゃないってば」
と言いながらも、つい笑ってしまった。確かにが担当するまでは、スタッフが変わるたび何かしら苦情を入れてきたのは事実だ。だがが三途という客の担当になって以来、恐ろしいほど苦情を言ってこないらしい。主任の美紀からは未だに「ちゃんに頼んで良かった!」と感謝されているくらいだ。
あの急な依頼をされてから約半年。は定期的にあのタワーマンションへと出向いていた。
「でもまだ一度も会ったことないんだよね。本来は担当になったら最初に顔合わせくらいはするのに」
「へえ…若いんだっけ?その男。そんなに忙しい仕事してんだ。ま、あのタワマンに住めるんだしエリートって感じかもね。外資系?」
少しの興味が沸いたのか、砂羽が身を乗り出してきた。そう言えば三途の職業までは話していない。
「えっと…三途さんはBNTホールディングスで働いてるみたい。依頼書にそう書いてあったかな」
「…えっ?マジで?」
社名を口にした途端、砂羽が驚愕したように腰を浮かせて立ち上がった。その反応に少しばかり驚いたは「どうしたの?」と聞き返す。砂羽は困った様子の笑みを浮かべながら、再び椅子へと腰を下ろした。
「いや…私が働いてるクラブを経営してる会社もそこの系列だからさ」
「えっそうなの?」
「うん、まあ…BNTホールディングスは手広くやってるしね」
「そっか。お姉ちゃんとこの会社も飲食業界じゃ大手だもんね」
「まあ…そうなんだけどねー…」
は納得したように頷いたものの、砂羽はどことなく歯切れが悪い。そのうち「寝るわ」と言って部屋へ戻って行った。
最後に「あんたはその三途って男とは顔合わせない方がいいかもね」と言い残して。
「…どういう意味だろ」
途端にノリの悪くなった姉の態度を訝しく思いつつ、時間を確認したは「いけない!遅刻しちゃう」と慌てたようにバスルームへと走っていった。
+++
「はい、先ほど橘さん宅が終わったので、これから三途さん宅に向かいます。はい…そうですね。じゃあそうさせて頂きます。はい、失礼します」
主任の美紀に報告をして、は電話を切った。そのまま目の前のタワーマンションを見上げる。建物は淡いブルーのライトに照らし出されていてかなり幻想的だ。普段は日中に来ているこの場所も、太陽が沈んだ頃に来るとまた違った装いなんだと感心した。
普段ならこの時間にここへ来ることはない。ただ今日は予定が立て込んでいた上に、一件だけ予定になかった料理を頼まれてしまった。その為、最後の仕事は少しだけ時間がズレて、三途という客のマンションに到着した現在は午後5時を回っている。一応、連絡はしたものの、相手が電話に出ることもなく、仕方なしに留守電にメッセージを入れておいた。
念の為、美紀には報告したものの「多分この時間でも不在のはず」とのこと。そこは少しだけホっとしつつ、はロビーへ向かった。
(ここが終わったら直帰していいって言われたし、あともうひと踏ん張りだ)
いつものようにエレベーターへ乗り込み、小さく息を吐く。
ここの担当になってから早半年。今のところ心配していた苦情はなく、どうにか気難しい相手を満足させられているようだ。
依頼されていないことは一切せず、掃除はどれほど綺麗でも普段通りにきっちりやっていた。それが功を奏しているのかもしれない。
(でも今日はちょっといつもの時間からズレちゃってるし…出来れば不在であって欲しい)
そう祈りつつ、エレベーター内の鏡に映った自分を見つめる。"アイシング"の制服も春用の薄手に変わり、白シャツには可愛い水色の小さなネクタイ、ズボンも同じ水色に揃えており、腰には黒いエプロンを付けている。他社は地味な制服が多い中、"アイシング"はどこか可愛らしい印象だ。同じく水色のキャスケットも付いていて、はこの制服を気に入っていた。
(乱れたとこは…なし)
長い髪を一つに束ね、口元にはきちんとマスクを忘れない。身なりの最終チェックを済ませ、腕時計を確認する。午後五時半。仕事を終える頃には帰宅ラッシュにはまってしまうかもしれない。
「三途さん…メッセージ聞いてくれたかな…」
ふと気になり、独り言ちた。
掃除をする上で、三途からはハッキリとした時間指定はない。なのでそれほど気にする必要もないのだろうが、口うるさい客と頭にインプットしている為、普段と違うことをするのは多少不安なのだ。
ただこの家は部屋が多く面積も広いのだが、時間がかかるほど散らかってもいなければ、水回りが汚れていることもない為、仕事としては楽な方だった。
(インテリアのセンスもいいし、物がごちゃついてないから気持ちいいのよね、この家)
男の一人暮らしで、あそこまで綺麗に片付いているのは珍しい。
「ついた…」
最上階へつき、廊下へ足を踏み出す。いつものように二つ目のオートロックを開けて、三途宅のドア前に立つと、一つ深呼吸をしてから鍵を開けた。
「…え?」
ドアを開けた瞬間、センサーライトが付き、玄関が明るくなる。それはいつも通り。ただの視界にはいつもとは違う風景が飛び込んできた。
普段、この玄関に靴はなく、ガランとしているのだが、今は綺麗に磨かれた靴がきちんと揃えて置いてある。使用していない靴は普段からシューズボックスにしまってあるので几帳面な男にしては珍しいと思った。
(もしかして…帰宅されてる…?)
その可能性がないわけじゃない。不在がちとはいえ、一日中帰って来ないなんてことはないはずだ。
は少し不安になりながらも、いるのなら当然、部屋の主に声をかけた方がいいと思った。
「あの、すみません。"アイシング"から来たと申しますが…」
なるべく大きな声で呼びかけてみる。しかし数秒待っても返事はなく、どうしたものかと困ってしまった。ただでさえ時間が押している。これ以上遅くなるわけにもいかず、は意を決して室内へと足を踏み入れた。もし顔を合わせてしまった時は素直に謝り、事情を説明しよう。そう思った。
「失礼します」
リビングのドアを開ける時も一応声がけをしたが、やはり返事はなく、リビングにも家主の姿はなかった。
(やっぱりいない…?じゃあ一度帰宅して靴を履き替えた後、しまうのを忘れたってことかな…)
もしやバスルーム?と思いながら、キッチン奥にある入口前で耳を済ませてみたが、特に水音はしなかった。
ただ、この家は部屋数も多く、バスルームは複数ある。そのうちの一つは寝室にあるようなので、そこは調べようもない。
(仕方ない…仕事を終わらせちゃおう)
家主がいるかどうかを考えていても一向に仕事は進まないので、は一先ず掃除を優先することにした。
と言って、相変わらず綺麗に片付いている為、それほど時間はかからない。料理もしないのだろう。水回りも前回来た時と同じくらい綺麗だった。
「これで良し…と。やっぱりこの家は楽だな」
綺麗とはいえ、掃除をしないわけにもいかず、キッチンの水回りをしっかり磨いた後、一息つく。最初に間取りや部屋数の多さを見た時は大変そうだと思ったが、常に綺麗にしてあるので作業は他の家より早く済むのだ。だからこそ、何故家事代行サービスを利用しているのかが分からない。
(潔癖症なら尚更…他人に部屋をいじられたくないだろうし…変なの)
どんな理由があるにせよ、"お客様"の事情など詮索しないに限る。そう思い直しながら、は濡れた手を自分のハンカチで拭き、帰る支度をしようと歩きかけた…まさにその時。
廊下に通じるドアが無造作に開き、あまりの驚きでの足が固まった。
「…あ?誰だ?てめぇ」
どこか底冷えのする低い声が耳を刺激し、の肩がビクリと跳ねる。その声の主は上半身裸で腰にはバスタオル。手に持ったタオルで濡れた髪を拭きながら、殺気丸出しの目つきでを睨んでいる。その瞳は見たことがないくらいに美しい虹彩を放っているが、とても友好的に見えなかった。
(まさか――彼がこの家の…?)
その男はの想像をはるかに超えるぶっ飛んだ外見だった。
鮮やかな色をした髪と耳に連なる沢山のピアス、長いまつ毛に覆われた大きな瞳。そして引き締まった口元には二つの狂暴な傷跡がある。普通の会社員だろうというの予想とはだいぶ異なっていた。
「あ、あの…わたしは"アイシング"から来たと言います。在宅中なのを知らず失礼しました」
一瞬だけ混乱したものの、すぐにこの派手な男が家主だと気づき、慌てて頭を下げる。脳内では終わった…っという言葉がぐるぐると回っていた。ただでさえ気難しい相手。この遭遇が気に入らなければ担当を変われと言われかねない。
は覚悟を決めつつ、ひたすら頭を下げ続けた。
だが、不意に耳へ届いた言葉は「ああ、代行屋か…そういや今日だったな」という意外なほどあっさりしたものだった。
「あの…」
さっきよりも声色が優しくなった気がして、は恐る恐る顔を上げた。すると再び大きな瞳に見下ろされる。その迫力たるや、とても言葉では言い表せない。思わず息を飲んだ。
濡れたピンク色の髪から覗く、鋭くも綺麗な瞳、長いまつ毛がいっそう美しさを引き立てている。そしてスっと通った鼻筋に傷はあれど形のいい唇。全てにおいて完璧と言わざるを得ない容姿だった。
(何この人…イ、イケメンすぎるんですけどっ?)
ジっと自分を見下ろしてくる端正な顔立ちに、つい心の中で突っ込んだ。雰囲気はどこか迫力があるものの、こんな状況じゃなければときめいていたかもしれない。
その時、再び男が口を開いた。
「いつも掃除しに来てんのはオマエか?」
「…へ?」
いきなり初対面の相手にオマエ呼ばわりをされ、地味にムっとしたものの、そんな顔をするわけにはいかない。相手はお客様…と何度も心の中で繰り返しながら「そうです」と素直に頷いた。
男は「ふーん」と言いながら、そのままソファに腰をかけると「オレは三途だ。三途春千夜」と名乗ってきた。書類を見ているので名前は知っていたものの、実際に聞くと、そんな名前だったな…と思い出す。綺麗な名前だな、と最初に見た時の印象も同時に思い出した。
「はい…あの…三途さん。先ほど遅くなった事情を留守電に入れたんですが…」
少し冷静さを取り戻してきたは、とりあえず事情を説明して、謝った後に帰らせてもらおうと思った。だが案の定、春千夜は「留守電?」と眉を寄せている。どうやら聞いてはいないようだ。
「はい。実は他のお宅で予定外の料理を頼まれまして…こちらに伺うのが遅くなってしまったんです。本当にすみませんでした」
もう一度、今度は理由を添えて謝罪する。これで怒らせてしまったなら前任者同様、担当を外されてしまうだろう。
だがの緊張をよそに、春千夜は「そーかよ」と言いながら立ち上がった。その気配に気づいたは慌てて顔を上げたものの、春千夜のほぼ裸といった格好を見て、すぐに背中を向ける。視界に飛び込んできた見た目とは違う筋肉質な胸板は、やたらと男の色気を放っていた。
「何だよ」
「えっと…早く着替えないと風邪を引いてしまいます…」
「あ?あー…」
指摘されたことで思いだしたのか、春千夜はかすかに笑いながら廊下の方へ歩いて行く。どうやら寝室にあるバスルームを使用していたらしい。
(通りで気づかなかったわけね…)
この部屋の壁はどこも防音設備があるらしく、リビングで掃除機を使用したとしても他の部屋に音が漏れることはないということだった。きっと春千夜の方からしても、が掃除をする音には気づいていなかったに違いない。
数分すると、しっかりと服を着た春千夜が戻って来た。上下白のセットアップで部屋着といったラフな格好だ。
「んで?掃除は終わったのかよ」
「は、はい。先ほど…ちょうど帰るところでした」
「ふーん。まあ…いつも通り、しっかり磨いてんな」
春千夜は言いながら、キッチン台の上へ長く綺麗な指を滑らせた。埃が残っているかを確認したらしい。
一見、綺麗に見えて意外と細かい埃があったりするのをもよく分かっている。そしてそういう目につきにくい埃をこの男が嫌っていることも薄々だが気づいていた。春千夜から最初に担当を外された後輩の子は、そこを怠っていたと実際に聞いたからだ。
――だっていつ行ってもすんごく綺麗だったし棚とかオブジェは乾拭きもいらないかと思って…。
あっけらかんと言われた時は驚いたが、乾拭きをサボってることに気づいた春千夜の細かさも少し気になった。なので、この家の担当になった時、は最終チェックを徹底するようになった。おかげで今まで苦情を言われなかったんだろうと思っている。
その予想は当たっていたようで、春千夜はふとへ目を向けながら「オマエはこれまでの奴らと違って仕事が丁寧だよな」と笑った。
「依頼通り、余計なこともしねえし、助かってるわ」
「あ…ありがとう御座います」
てっきり遅くなったことや鉢合わせしたことを責められるかと思っていただけに、いきなりお礼めいた言葉を言われて拍子抜けしてしまった。ポカンとしながらも再び頭を下げると、春千夜はそのままソファへ座り、背たれに頭を乗せてを仰ぎ見てくる。
「なあ、あんた帰る前にコーヒーだけ淹れてくんね?」
「…へ?」
「コーヒーだよ。そういうのも仕事の内に入ってんだろ」
「あ…は、はい。すぐに」
普段、掃除しか依頼をしてこない相手だけにすっかり油断していた。慌ててキッチンへ向かい、設置されているコーヒーメーカーのスイッチを入れる。挽きからドリップまで全て全自動で出来る優れものだ。機器の隣に置いてある豆はブラジル産の高級豆だった。
(てっきり人の作ったものは口にしないタイプだと思ってた…)
豆をコーヒーメーカーにセットしながら、ふと思う。さっきはどことなく冷たい印象だったが、思っていたよりは気難しい感じがしない。
その時、ふと聞こえた電子音。チラっと視線を向ければ、春千夜はスマホを手に誰かと話し始めた。少し距離があるのと、声を潜めているので内容までは聞こえない。ただ何となく春千夜の横顔をボーっと眺めていた。
(ほんとに綺麗な顔してる…喋らなかったら女の子と間違われそうだし。肌も色白で女のわたしより綺麗だったもんね…。特に手なんかスベスベしてるの見ただけで分かるし、ガサガサのわたしとは大違い…)
ふと自分の手を見下ろし、苦笑いが零れた。この仕事をしていると、どうしても手が荒れてしまう。念入りに手入れはしているものの、どうしてもカサついてしまうのは避けられないのだ。
(マスクもしてるから頬も荒れちゃうし…)
普段は仕方ないと諦めていることでも、男に負けてると思うと、何となく侘しくなってくる。
――オレはの手、好きだけどなー。一生懸命さが伝わるし、自分の仕事を頑張ってる手だからさ。
その時、ある人物に言われた言葉を思い出した。"アイシング"で営業マンをしているの同期、市本俊介だ。この時のことがキッカケで、一方的に片思いをしてかれこれ一年になる。
(俊介が認めてくれてるんだし惨めになる必要なんてないか…)
コーヒーをカップに注ぎながら、ふと思う。会ったばかりの美形を前に、珍しく落ち込みそうだった心が少しだけ楽なった気がした。
(よし。このコーヒーを彼に出したら早く帰ろう)
そう思いながらカップを手に春千夜の方へ歩いて行く。ただ未だに電話中なので声をかけるタイミングが見つからない。どうしよう、と考えている時、視界に気になるものが飛び込んできた。
(…あれ…腕に…タトゥーしてる…?)
さっきは気づかなかったが、電話をしながら春千夜がシャツの袖をまくったのを見て、自然とそこへ目が向いた。
右腕に何やら変わった模様が彫られている。
(でもあのタトゥー…どこかで見たことあるような…)
どこで見たんだっけ?と首を傾げながら、春千夜を眺める。
(それとも…三途さんを見かけたことでもあったかな…)
アレコレ考えたが、あれほど派手なイケメンを一度でも見かけたなら絶対に覚えているはずだ。でも本人に会ったのはさっきが初めてで間違いない。ではやはりタトゥーの方に見覚えがあるんだろうか。いや、でもあの鮮やかなピンク色の髪は――。
(あ…そうだ。テレビ…)
どこかの店舗に車が突っ込む。煙が上がって逃げまどう人々。そんな映像が頭に浮かんだ。そして――。
――抗争の末、車両ごと突っ込むという暴挙に出たのは梵天所属の男であることが判明しました!そしてこれは当局が初めて映像に捉えた梵天の幹部達です…!
どこか大げさに話す女性アナウンサーの声と共に映し出された映像。そこには見るからに反社と分かるような男達が徒党を組んで路地裏を歩く姿が映っていた。その中に一際目立つ髪色の男がいた。
「…あっ」
「…あ?」
思わず声を上げたに驚き、春千夜が怪訝そうに振り返った。