家に女がいた。
条件反射でつい誰だ、と口にしたものの、見た瞬間にその存在が代行サービスのスタッフだというのを春千夜は気づいていた。
誰もいないはずの空間に他人がいたこと。そしてこれまで鉢合わせは一切なかったこともあり、多少は驚いたが、すぐに状況を把握した。
そもそも代行サービス以外でこの部屋に入れる人間はほぼいない。
青と白を基調にした明るめの制服を身につけ、しっかりとマスクをしている女は、可愛らしいキャスケットの下から僅かに覗く大きな瞳を更に丸くして春千夜を見上げていた。この遭遇は彼女の方も予想外だったらしい。大げさなほど頭を下げて謝罪し始めた。
だが春千夜は別の方へ意識が向いていた。
長い髪をしっかりと結び、爪が短く切り揃えられた指先。そして口元を覆ったマスク。
きちんと会社の規定基準を守ったの姿は、映像で見た時と同じく清潔感に溢れている。それが春千夜には好印象だった。
これまでの担当スタッフは、その辺りが足りていなかったからこそ、余計にそう見えた。
掃除は丁寧でも余計なことをしたり、人目がないからとマスクを外したり、暑いせいかネクタイを外して勝手にソファで寛いでいたスタッフもいる。
依頼主が不在なのをいいことに、僅かな堕落が垣間見えていたのを、この部屋に仕掛けてある監視カメラがしっかりと映していたのだ。
自分の立場上、何があってもいいように仕掛けていたものだが、そういう監視にも役立っていた。
春千夜が何度も担当を変えさせたのは、そういったことの積み重ねだったに過ぎない。
だがが担当になって以降、そういうことは一切なかった。いつもキッチリ細かく掃除をして、サボることなく最後まで丁寧な仕事をして帰っていく。
春千夜の中で初めて合格点が出たスタッフだった。そういう人材はそう簡単に出会えるものでもなく、彼女の淹れてくれたコーヒーもなかなかに美味い。
コーヒーメーカーで淹れるのだから誰が作っても同じ味のはずなのだが、久しぶりに自分以外の人間が淹れたコーヒーを飲んだこともあり、普段以上に美味いと感じた。
だからというわけではないが、予期せぬ遭遇をしたくらいでクビにしようとも思わなかった。なのに――。
(何でビクついてんだ…?)
部下からの報告電話を受けた後、一息ついての淹れたコーヒーを堪能していた春千代は、先ほどから怯えたような態度で自分を見ているに気づいた。先ほど言葉を交わした時以上にビクビクしている。
叱ったつもりもなければ怒鳴りつけたわけでもなく、普通に接したはずなのに、どことなく怯えている様子のに、春千夜は首を傾げた。
(そういや、さっき驚いたような声をあげてたよな…)
あの時は電話中、かつもすぐに「すみません」と小声で謝罪してきたこともあり、特に気にしてもいなかった。だが今のビクついた態度を見ていると、だんだん気になってくる。そこで春千夜が声をかけようとしたその時、が唐突に口を開いた。
「で、ではわたしはこれで…」
「あ?」
「えっと…仕事は済みましたので…し、失礼します!」
若干どもりつつも早口で言い切ると、はすぐにリビングを飛び出していく。あまりの素早さに声をかけるタイミングを失い、春千夜はしばしポカンとした顔で閉じたドアを見つめていた。
「…なんだぁ?」
顔を合わせた時は、相当驚いた様子だったものの、言動はちゃんと丁寧なものだった。それが今は逃げるように帰って行き、その姿があまりに最初の印象と違いすぎる。
何かビビらせるような言動をしたかどうか、考えてみても理由が思いつかない。
となると――。
(さっきの会話を聞かれたか…?)
一応、警戒して小声で話していたのだが、絶対に聞かれていないとも言い切れない。
(もし聞かれてたなら…マズい…か…?)
軽く舌打ちをすると、春千夜は急いでの後を追った。
先ほどかかってきた電話は、最近梵天幹部をつけ狙っていた雑誌記者を部下が見つけて拘束したという類のものだった。春千夜はいつもの通り「スクラップ工場に連れて行け」と伝え、ついでに「ソイツが嗅ぎつけた情報全て聞きだしてから監禁しとけよ。オレが後で始末する」とも言った気がする。
一番安心できる自宅という場所柄、ついつい普段のような会話をしてしまったのだ。
キッチンは独立している為、小声なら会話も聞こえないだろうという甘えがあったことを、春千夜は後悔した。
もしが春千夜の言葉に犯罪の匂いを嗅ぎつけたなら、このまま警察に駆け込まないとも言い切れない。
春千夜は急いで廊下へ飛び出すと、裸足のままエレベーターホールまで走った。ここは最上階なので一階からエレベーターが上がってくるまで多少時間がかかる。運が良ければ、まだはそこにいるはずだ。
とは言え、を捕まえた後、どうするかまでは春千夜も考えていなかった。
(…いた!)
予想通り、は未だエレベーターホールにいた。どこか落ち着かない様子で階数表示の点滅を見上げている。
春千夜はオートロックのある扉を抜けると、大股で彼女の方へ歩いて行った。
「おい」
「……っ」
春千夜が声をかけると、は明らかにギョっとしたような顔で振り返り、逃げ出しそうな素振りを見せた。だがこのホールには当然、逃げ場などなく、自然に体が動いたといった感じだ。その動作を見て、やはり彼女は自分に対して怯えていると春千夜は確信した。
「な、何で…?」
春千夜が追いかけてきたことで、はかなり動揺しているようだった。
「オマエ、ちょっと来い」
「え…ど、どうして――」
「いいから戻れっつってんだよ」
引き気味のの腕を春千夜が掴む。部屋に連れ戻し、会話を聞いたかどうか聞きだすつもりだった。
だが突然腕を掴まれて驚いたのか、は春千夜の予想外の行動に出た。
「き、きゃぁぁっ!ご、ごめんなさい!殺さないでっ」
「…ハァ?」
いきなり「殺さないで」と言われれば、さすがに春千夜も驚く。一瞬、どう言えばいいのか言葉に詰まった。ただ次の「誰にも言いませんから…っ」というの一言を聞いて、やはり会話を聞かれていたのだと思い込んでしまった。
「…どういう意味だ?そりゃ」
「…え…」
「誰にも言わないって…何をだよ」
「そ…それは…」
春千夜が問い詰めると、の目が左右へ泳ぐ。口元はマスクで隠れている為、あまり表情は分からないものの、明らかに怪しい態度だった。
「まあ、いい。その辺の話は部屋で聞く」
「…えっ」
「こんな場所で騒がれても迷惑なんだよ。こっちも裸足だしな」
自分の足元を指さし「ったく…汚ぇ…」とブツブツ言いながら引きずるようにの腕を引っ張っていく。しかし春千夜のその行動に驚いたは更に暴れ始めた。足を踏ん張り、梃子でも動かぬといった姿勢だ。
「だ、だから誰にも言わないって言ってるじゃないですか…っ」
「あ?だから…何をだよ?」
掴まれた腕を振り払おうとする暴れっぷりに、春千夜は一旦、足を止め、をジロリと睨みつける。
するとは動きを止め、恐る恐る春千夜を見上げた。
「だ、だって三途さん……ぼ…梵天の幹部さん…なんですよね…?」
「……は?」
全く予想外の答えが返ってきたことで春千夜も驚いた。彼女の言う「誰にも言わない」とは、てっきり監禁の話だと思ったからだ。
「何の話してんだよ…」
「と、とぼけてもダメです…。テ、テレビのニュースで見たんですから…」
「…ニュース?ああ…あれか」
どこぞのテレビ局のカメラマンが偶然、外を歩いていた自分達を映していたことは春千夜も知っている。だがそんなものは別に大したことじゃない。顔が割れようが、警察は今のところ梵天に手出しできるほどの物証を持っていないからだ。
「つーか…オマエがビビってんのはそれが理由ってことか?」
の言動から、ふとそこに気づいて尋ねると、すぐに「と、当然じゃないですか…」とか細い声で応える。
そこで初めて春千夜は自分の勘違いに気づいた。
「ってことは…さっきの会話は聞いてねーんだな?」
「…会話?何のこと…ですか…?」
「オレがさっき電話してたろ」
「…電話…?ああ…い、いえ…キッチンにいたので全然聞こえませんでしたけど…」
念の為、最終確認をすると、は怪訝そうな様子で首を振る。表情はあまり分からなくても嘘をついてないのは春千夜にも分かった。
「…チッ。紛らわしい」
「…は?」
呆れたように言い放ち、春千夜は溜息を吐いた。の態度が急におかしくなったのは、春千夜が梵天という反社組織の人間だと気づいたせいだと理解したのだ。だが別にそこを隠すつもりも、まして正体を知られたからといって彼女を殺すつもりもない。
――余計なことさえ言わなければ。
「…分かったか?」
そう説明しながらの顔を覗き込むと、彼女は呆気にとられた様子ながら、小さく頷いた。
「もしオレのことや家の場所を警察に垂れ込もうってんなら話は別だけどなァ?」
こんな風に怯えた人間はどう行動するか分からない。少しの脅しのつもりで忠告しておく。
だがの反応は春千夜が想像したものと少し違っていた。
「そ、そんなこと絶対にしません!」
「あ?」
今の今まで怯えていた女とは思えないほど、はハッキリと言い切った。どこか心外な、と言いたげだ。
「お客様の個人情報を誰かに話すことはしません!それが例え三途さんのような方だったとしても同じです!守秘義務がありますからっ」
「………」
ふんっと鼻息を荒げ、キリッとした態度で応えるの姿に、今度は春千夜が呆気にとられる番だった。こんな状況でも自分の仕事に対する誇りはあるらしい。
彼女の仕事っぷりは春千夜も評価をしていただけに、こういった人間が依頼主を裏切る行為はしないだろう…という結論に達した。
「…分かった。信用してやるよ」
「あ…ありがとう御座います!」
溜息交じりでひとこと言えば、はどこか嬉々としたように頭を下げた。その姿からは彼女の真面目な性格が見てとれる。
ただ事情も分かりホっとしたところで、春千夜には困ったことが一つ。
「…つーことで、とりあえず部屋に戻れ」
「えっ?ど、どうして――」
「手を貸せっつってんだよ。このまま部屋にあがれねえ」
言いながら自分の足元を指さすと、の視線も下がっていく。それを見て察したようだ。
「あ…裸足…?」
「バスルームに消毒用のウエットティッシュがあるから、取って来い」
「は、はい…分かりました」
春千夜が潔癖症ということを理解しているのか、事情を呑み込むのが早い。は素直に頷いた。
「それと…」
「まだ…何か…?」
オートロックの扉前に立ち、振り返る春千夜を、が不安そうに見上げる。春千夜は若干不機嫌そうな、それでいて困ったような顔でドアを指さした。
「オマエの鍵でここ開けろ」
「……鍵も持たずに飛び出したんですか…?」
「…うっせぇな。早くしろよ」
に指摘され、春千夜の瞳がかすかに細くなる。だがそれを見たはキョトンとしたように目を瞬かせ、小さく吹き出した。
「三途さんって…」
「あ…?」
「案外ドジなんですね」
「…あ?舐めてんのか、てめえ」
クスクスと笑われ、春千夜の頬がかすかに赤くなる。確かに突然の状況でいつもより冷静さを欠いていたことは事実。そこをドジと称されたことは気に入らないが。
ただ――彼女の笑う自然な姿を見て、怯えた顔をされるよりはよっぽどいいか、と、ふと思った。