「え、それで家まで送ったのかよ」
驚いた様子で振り返ったのは、銀色の長髪の男。梵天の金庫番である九井一だ。
とバッタリ遭遇した夜が明けて、次の日の午後。春千夜は定期報告を受ける為、梵天の本拠地である渋谷の事務所に顔を出していた。
「ああ…あの女が余計なことをした時、住んでるとこ知っておいた方がいいしな」
「それって例の女だよな。やたらと綺麗に掃除をしてくっつー…」
「まあ…でも会ってみて分かったが、アイツは組織の人間じゃねえ。ただのクソ真面目な女だ」
「なら外れってことか…。組織の人間なら何か情報とれるかもと思ったけど、他のメンバーんとこに来てるスタッフも今のとこ怪しい動きはねえみたいだな」
他の幹部も春千夜と同じく"アイシング"を利用している。それも全て愛田興業を探る為だ。
「今んとこオレらの名前は割れてねえから一人くらい当たるかと思ったが…」
「雑誌記者なんかも最近はオレらの周り嗅ぎまわってるし、どこで漏れても不思議はねえけどな」
言いながら、夕べ部下から報告を受けた記者の始末をどうするか考えていた。梵天がここまで大きくなれば面倒な問題も増えてくる。警察だけじゃなく、他の連中でさえ、梵天の全貌を暴こうと躍起になって探ろうとしてくる。春千夜からすれば、それらはただの命知らずで愚かな連中だ。
「ああ、じゃあ三途んとこに来てるスタッフ、また変更すんのか?ただの素人なら呼んでても意味ねえだろ」
「…あー…」
九井に言われて咄嗟に言葉が出なかった。
――わたし、今の仕事が好きなんです。家事をするのは昔から得意で、まさに天職というか…。
夕べ、照れ臭そうに話していた彼女の顔が過ぎったせいだ。
「いや…まだそこまで決めてねえけど」
「でも組織の人間じゃねえんなら、また難癖つけて変えた方がいいんじゃねえの」
「分かってる。でもまあ…アイツが来ると色々楽なんだよ」
「え…今回の計画であんだけ知らねえ人間に掃除されるんの嫌だってごねてたくせに?」
九井は驚愕といった表情で見ていたパソコンから顔を上げた。確かに九井が今回の計画を提案した時、最後までごねていたのは春千夜だ。
何となく気まずい空気になり「うっせーな」と顔を反らした。
「別にあそこはオレの自宅じゃねえし――」
「でも普段からプライベートで使用してる部屋だから嫌だって騒いでたろ」
「……(よく覚えてやがんな、コイツ)」
九井のツッコミに春千夜の目が少しずつ細くなっていく。ただ何となくを切るというのは、少しだけ抵抗があった。そう感じてしまうのは、夕べの生い立ちを聞いてしまったからかもしれない。
(別に…オレが気にすることじゃねえけどな…)
そう思いながら、窓の外へ視線を向ける。
夕べ、思いがけずの姉と遭遇した春千夜は、半ば強引に二人の住む部屋まで連れ込まれてしまった。
△▼△
「さ、どうぞどうぞー!狭いとこですけど」
明るい口調での姉、砂羽は春千夜を部屋へ招き入れた。何度も帰ると言ったにも関わらず「妹がお世話になってるんだしお茶の一杯くらいご馳走させて下さい」と言ってきかないのだ。マンション前で押し問答をしているのも疲れた春千夜は、車を近くの駐車場へ止め、渋々姉妹についていく羽目になった。
「すみません…姉はちょっと強引なところがありまして…」
「…ちょっと?」
「う…」
恐縮しながら小声で謝罪してくるを睨みつけると、亀の如く首を窄めて「いえ…かなり」と言い直す。
どうやら本当に申し訳ないと感じているようだ。
普段の春千夜なら怒鳴りつけて帰っていただろうが、何となくその姿を見ると怒る気にはなれなかった。
仕方ないと諦め半分で部屋に上がるとリビングへ通された。
自分の部屋と比べさほど広くはないものの、姉妹二人で住むには十分な間取り。しかも綺麗に片付いていることに春千夜は感心した。
が仕事ではキッチリ掃除をしているのは知っているが、自宅だけは散らかっているという人間もいる。だがここは春千夜が気にならないほど、部屋は整頓され、埃すらない。きっとが普段からマメに掃除をしてるんだろうと想像できた。
(まあ…この姉の方は正反対っぽいけどな)
たかがコーヒーを淹れるだけでキッチンに物が溢れていくのを眺めながら、内心苦笑した。がその横でこまめに姉の使ったものを洗い、しまっていく。家事の上手い人間は何かをしながら、同時に片付けていくものだ。先ほどが春千夜のコーヒーを淹れていた時のことを思い出しながら、ふと笑みが零れた。
「はい、お待たせしました」
どうにか無事にコーヒーを淹れて運んできた砂羽は、人当たりのいい笑顔でカップを置いた。接客業でもしているのか、その仕草は綺麗だ。
ソファに座っていた春千夜は「どうも」と応えつつ、の方へ視線を向けると、彼女は気まずそうな顔で砂羽の隣へ座った。未だに仕事の制服を着たままなので、何となく部屋の空気からは浮いてる。砂羽もそう感じたのか「着替えてきたら?」と声をかけた。
「い、いいの。三途さんもいるし」
「別にアンタのいないとこで変な話なんてしないってば」
妹の心配を察知したのか、砂羽が呑気に笑っている。人の僅かな心の動きを察することには長けているようだ。
水商売でもしてるのかと春千夜は感じた。雰囲気から見て、クラブで働いているのかもしれない。
「それで…三途さん、はちゃんと仕事できていますか?」
「え?ああ…そうですね。いつも綺麗にしてもらって助かってますよ」
当たり障りない笑みと言葉で返すと、砂羽は「なら良かった」とホっとした様子だった。
普段、粗暴な春千夜でもこれくらいの演技はできる。昔も一時、心を許した相手には終始敬語で話していた。その相手が、春千夜の崇拝する佐野万次郎を裏切るまでは。
「それにしても妹のお客さんがこんなに若くてイケメンなんて驚いちゃった」
「ちょっとお姉ちゃん…失礼だってば…」
「え、何でよ。褒めてるのに」
妹に窘められ、砂羽はキョトンとした顔で笑う。
「それで三途さんはどんなお仕事をされてるんですか?」
「お姉ちゃん…っ」
事情を知っているはヒヤリとした顔で砂羽の腕を小突いているが、春千夜は顔色一つ変えずに答えた。
「…株式会社を多数保有して管理、指揮をする仕事をしてます。オレ個人はまあ…いわば管理職みたいなもんですよ」
BNTホールディングスは九井が始めた事業だった。持前の才を生かし、大手株式会社を取り込んでいったことで今や巨大会社へと変わり、世間でもその名は広く知られている。反社組織がやりがちな幽霊会社とは違い、実際に利益を上げている一般会社を所有することで、法に触れずに梵天が儲かる仕組みだ。
「へえ、お若いのに管理職を任されるなんて、三途さんは優秀なんですね」
「…いえ。そんなことはないですよ」
「またまた御謙遜を」
そんな他愛もない会話をしている間、は落ち着かない様子で二人へ視線を送っている。それに気づきながら、砂羽は気づかないふりをしているように見えた。
「がそんな方の元で好きな仕事をさせてもらえてるようでありがたい話です」
「…好きな仕事…ですか」
「この子は私と違って昔から家事が得意で。ああ、私とこの子は施設で育ってるんですけど、当時から施設長のお手伝いなんかも率先してやってたんですよねー。私はサボってばかりだったけど――」
「施設?」
「ちょっと…お姉ちゃん、余計な話はしなくていいからっ」
さすがに言いすぎだとばかりにが口を挟んだものの、砂羽は「別に隠すことでもないじゃない」と笑っている。
「幼い頃、両親が事故で亡くなって、私とは孤児になったんです」
「ああ…それで施設に?」
「はい。まあでも特に不幸だと嘆いて生きてないんで気にしてません」
あっけらかんと言い放つ姿は、確かに本心を言っているように見える。も諦めたのか、溜息交じりで姉の話を聞いていた。
「なので子供の頃から自分のことは自分でしてきました。まあ私は家事全般が苦手なので、こうして一緒に住み始めてからは主に妹に任せきりですけど――」
「それはお姉ちゃんが親代わりになって色々頑張ってくれてたからでしょ?私は家事しか出来ないし…」
「そういう当たり前のことを当たり前に出来る人は地味に凄いんだってば」
の言葉に砂羽が労うように言って頭を撫でている。そんな姉妹を見ていると、お互いがお互いを尊重し、支え合って生きてきたんだと分かる。
自分の兄弟とは随分と違う、と春千代は内心苦笑した。兄は組織の幹部にいるものの、兄弟の絆など一切ない。たった一人の妹も遥か昔から絶縁状態だ。
「お二人は仲がいいんですね。オレは兄弟がいないんで羨ましいですよ」
思ってもいない言葉を並べたて、コーヒーを一口飲む。先ほどが淹れてくれたコーヒーよりも味は少し薄い気がした。家事が苦手だというのも本当のようだ。
「この世に二人しかいない家族ですしね」
「そう、ですよね」
「だから…この子には幸せになってもらいたいし、傷つけるような人間がいれば許しません」
「…お姉ちゃん?」
不意に真剣な眼差しで見つめてくる砂羽に、春千夜は違和感を覚えた。
敵意――。
人当たりのいい笑みを浮かべている砂羽から、僅かながらそんな相反するものを感じた気がしたのだ。
(ひょっとしてオレの正体に気づいてるのか…?いや、まさか)
その可能性を考えたものの、それはあり得ないと思う。
そもそもすら春千夜が梵天の幹部だとはさっきまで知らなかったのだ。姉の砂羽が知るはずもない。
(ただの客が妹を家まで送ったことで何か警戒されてるってことか…?)
確かに代行サービスの仕事は客の家といった閉鎖された空間でするものだ。不在の時に行うことが多いものの、中には在宅中でも構わず頼む人間もいる。もし男女の間違いが起きるのではないかと心配しているなら、今の砂羽の言葉も何となく理解できる気がした。
「優しいお姉さんですね」
当たり障りない返しをしておくと、それまで黙っていたが苦笑交じりで口を開いた。
「怒ったら凄く怖いですけどね」
「ちょっと!せっかく三途さんにいいお姉さんアピールしてるんだから余計なこと言わないでよ」
砂羽は笑いながら妹の背中を叩いている。すでに最初の明るい印象に戻っていた。それを見てあまり長居はしない方がいいな、と思う。
砂羽が春千夜のことを変に警戒しているなら厄介だ。
「ではそろそろ帰ります」
空になったカップを置いて立ち上がると、が下まで送ると言い出した。つい砂羽の方へ視線を向けたが、彼女は笑顔で「今後とも妹を宜しくお願いしますねー」と手を振るだけだった。
「お時間とらせてしまって本当にすみませんでした」
外に出るなり頭を下げるを見て、春千夜は「全くだ…」と息を吐き出した。梵天のナンバー2として仕事をしている時以上に気を張った気がして、小さな舌打ちが出る。そこで更にが恐縮した様子で頭を下げた。
「姉はイケ…カッコいい人に目がなくて…きっと三途さんと話したかったんだと思います」
「はぁ?オマエ、それマジで言ってんのか」
春千夜は呆れたように言った。
人当たりのいい笑顔を見せながらも、砂羽は春千夜を見定めているような態度だったのだが、だけはあの空気に気づいていないようだ。
「え…どういう意味ですか…?」
「いや…いい」
言葉の意味が分からなかったのか、はキョトンとした顔で春千夜を見上げてきた。姉の本質にすら気づいてないのかもしれない。印象通り、一本気で素直な性格らしい。
「予定にないことして疲れたし帰る」
「は、はい…本当にご迷惑をおかけして――」
「あーもう!いちいち謝んな。別にオマエを責めてねえ」
何度も頭を下げる姿を見て、つい声を荒げると、はビクリと肩を揺らす。その様子に気づき、違う違うと春千夜は頭を掻きむしりたくなった。
別にビビらせたいわけでもない。
「…ったく…オマエは何でも気を遣いすぎなんだよ。悪くもねえのに何回も謝んじゃねえ」
「はあ…でも三途さんを疲れさせてしまったのは私の姉なので…」
「…チッ。姉だからってオマエが代わりに頭下げる必要ねえだろ。バカか」
「バ、バカって…」
さすがにカチンときたのか、がムっとしたように顔を上げる。普段は客とスタッフというラインを絶対に超えようとしない彼女でも、こういう時は素の顔を見せるのだから面白い。
「…って…何笑ってるんですか」
突然、吹き出した春千夜を見て、が怪訝そうに眉を寄せる。堅苦しい態度よりはこっちの方が何倍もいいな、とふと思った。
△▼△
「…何笑ってんだよ」
不意に背後から九井の声がして、ふと我に返った。夕べのやり取りを思い出して、無意識のうちに笑っていたらしい。
「別に」
「…何だよ。気持ち悪い」
「うるせぇな。金庫番は金の計算でもしとけ」
「…チッ。相変わらずクソ生意気な野郎だな」
春千夜の横柄な態度に九井が舌打ちする。
今でこそ春千夜は梵天のナンバー2ではあるが、そもそも九井の方が年上で春千夜の先輩に当たる。だが、昔から春千夜が敬うのはただ一人。佐野万次郎だけだった。
「でー?どーすんだよ。代行サービスのスタッフ。今のままチェンジしないつもりか?」
書類を眺めながら、九井がどうでもいいといった態度で訊いてきた。その言葉に少しの間、思案していた春千夜は「ああ」と頷きながら、スマホを取り出す。
「とりあえず…今のままでいい」
「あっそ」
随分と気に入ったもんだな、と九井が呆れたように笑う。
それを特に否定する気にはならなかった。