Magenta...06




(23歳)は子供の頃に両親を事故で亡くし、孤児となって以降は施設で育つ。高校を卒業と同時に施設を出て、今は姉の砂羽(25歳)と二人暮らし。
姉の砂羽はBNTホールディングズ所有の会社が経営するクラブのホステス。妹のは愛田興業が運営する家事代行サービス"アイシング"で働いている。
休日には二人で外食することも多く、姉妹仲は良好。姉、妹共に恋人はなし。学生時代の友人とは現在疎遠と見られる』

その報告書に目を通した後、春千夜はそれをデスクへと放り投げた。
念の為に調べさせたものの、自分が聞かされた情報と特に違いもないようだ。これでが完全にただの素人だと証明された。
ただ、新たに得た情報が一つだけあった。

(あの姉…まさか灰谷んとこのホステスだったとはな…)

砂羽の働く高級クラブ、"夜蝶やちょう"を含めたナイトクラブを複数経営してる会社は梵天の資金源の一つでもある。それを動かしてるのは組織の幹部、灰谷兄弟だった。
関東卍會の頃は腕っぷしだけで幹部になった兄弟も、夜の仕事に関しての商才があったようで、彼らの仕切る店はどれも多額の利益を生んでいる。
女のいる店だけじゃなく、若者が集うクラブやバー、裏カジノ、風俗も含め、どの店も繁盛させていた。
春千夜にとったら気に入らない兄弟でも、首領であるマイキーの為に金を生んでくれる貴重な駒の一つだ。

(夜蝶で働いてんならBNTホールディングズの母体が梵天だと知っててもおかしくはねえな…)

とかく夜の商売はその辺の情報が漏れやすい。何せオーナーとして君臨しているのが、派手好きな灰谷兄弟とくれば、店の女達にも裏にいるのが梵天だとバレている可能性は十分にある。あの兄弟はその辺を隠そうともしてないのだから尚更だ。

(あの砂羽って姉がオレに牽制するような態度をしてたのも、正体を知ってたからってことか…?)

夜蝶には春千夜も何度か飲みに行ったことがある。幹部が集まる場所はたいてい灰谷兄弟の経営する店が多く、その時に砂羽が春千夜を見かけていたという可能性もないとは言い切れない。

(まあ…だからといって特に問題はねえけどな)

裏を知っててなお、あの店で働いてるのなら砂羽も覚悟の上でのことだろう。反社組織が関わっていると知りながらビビらずに辞めないでいるとすればそういうことだ。

(あの姉がもしオレ達のことを知ってるなら…あの態度はやっぱ妹のことを心配してのことか…)

自分はどっぷり関わっているくせに、妹には関わって欲しくない。そんな思いが砂羽にあんな牽制をさせたんだろう。
勝手なもんだ、と思わず苦笑が漏れたものの、家族を思う彼女の気持ちは分からないでもない。
自分の家族はとっくに壊れてるからこそ、何となく羨ましくも思う。

(ま…今のオレには家族なんて必要ねえけどな)

春千夜はデスクの上に置いた報告書を再び手にすると、それをダストボックスの中へと放り込んだ。
とりあえず、この姉妹を必要以上に警戒する必要はなさそうだ。
ふとスマホのカレンダーを見る。今日はが家に来る予定の日だった。

――今のまま、チェンジしないつもりか?

先日九井にそう言われたが、春千夜はをクビにする気はなく、これまで通り仕事をしてもらおうと考えていた。それは単に彼女の仕事ぶりが気に入ったせいだ。
それがどんな職種であっても、誠心誠意で自分の仕事をこなすその姿勢は見ていて気持ちがいい。それにの帰った後の部屋は、春千夜にとって居心地のいいものだった。

(今頃、アレを見てる頃かもな…)

ふと今朝、キッチンへ置いて来たものを思い出す。
彼女ならきっと期待に応えてくれそうな気がしていた。


△▼△


「…ん?何…これ」

普段通り、同じような時間に春千夜の部屋を訪れたは、キッチンのカウンターに置いてある見慣れないものを見つけて手に取った。
それはクリスタルで出来た何ともお洒落なメッセージボード。そこには白ペンの達筆な文字で"掃除の後にコーヒーと食事の用意をしとけ。飯は和食でたのむ。PS.辛いものは不可"と書かれている。
それを見た瞬間、はかなり驚いた。
これまで掃除しか頼んでこなかった春千夜から食事の用意を頼まれたのは異例ともいえる。

(珍しい…三途さんが食事まで頼むなんて…)

家まで送ってもらった日から一週間。あの後も三回ほどここへ来ていたが、春千夜は不在で顔は合わせていない。だから、どういう心境の変化があったのかは分からないが、ここの担当になってからこんなことは初めてだった。

(少しはわたしを信用してくれたってこと…?)

春千夜が日本最大の犯罪組織"梵天"の人間だと気づいたところでの仕事ぶりが変わるわけでもなく、これまで通り、きっちりと自分がやるべきことを淡々とこなしていた。それを評価してくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。

「は…いけない。食事もってことなら早く掃除を済ませて買い出しに行かなくちゃ」

春千夜からのメッセージをしばし感激しながら見つめていたものの、今日は掃除だけだと思って来ていたので普段通り午後を過ぎている。春千夜が何時頃に戻る予定なのかは分からないが、あまりモタモタしてたら夜になってしまう、とはすぐに室内の掃除を始めた。

(和食って書いてたけど…何を作ろう。三途さん何が好きかなあ…辛い物は不可ってことは苦手ってことだよね…そこだけ気をつけなくちゃ)

掃除の手を止めることなく、夕飯の献立を考える。
他の家でも急遽食事を頼まれることはあるのに、今日は何を作ろうと考えるだけで、どこか心がウキウキしていた。
気難しい春千夜から認められたような気がして、それが想像以上に嬉しい。

(普段は外食ばかりだろうし、素朴なものがいいかな…思い切り家庭料理とか…。栄養バランスも考えて野菜多めにする?あ、でも好き嫌いが分からないからなぁ…)

数あるレパートリーの中から春千夜が喜んでくれそうなレシピを考える。料理なんてしなれてるはずなのに、何故かそれだけで楽しかった。
全ての部屋をいつも以上に熱心に掃除した後、はすぐに近くのスーパーまで走った。富裕層向けの食材が置いてあるヒルズ内の店は仕事で何度も利用している。どこに何が置いてあるのか把握しているので、足早に必要な物をカゴへと入れていった。

(後は…唐揚げ用のお肉と…あと生姜に大根も買わなくちゃ)

和食とリクエストされたことで最初は煮物系が頭に浮かんだものの、春千夜の年齢を考慮してメインは和風唐揚げに変えた。野菜はサラダで補ってもらうとして、後はシンプルに豆腐とネギの味噌汁と付け合わせにいんげんの胡麻和えがいいかもしれない。

(三途さんって晩酌とかする人かな…。確か冷蔵庫には常にビールが入ってた気がするけど)

頻繁にではなくても時々冷蔵庫の中も掃除をする為、何となく中身を思い出す。
男の一人暮らしにありがちな酒類やチーズくらいしか入っていなかったと記憶していた。
一瞬、晩酌用のツマミも簡単な物を作っておこうかと思ったものの、頼まれてもいないのにそれはマズいか…と考え直す。そういう物は本人に確認してからでも遅くはない。

「…こんなものかな」

地味に食材で溢れたカゴの中を見て、一つ一つチェックをする。念のため、会社から支給されている必要経費はあるものの、足りるか少し心配になった。
この店は通常のスーパーよりも倍近い値段の物ばかりなので、ちょっとの買い物でもそれなりに値段は張るのだ。頭の中で計算をしつつ、レジへと向かう。
案の定、会計は軽く2万近くはいったものの、どうにか経費内で済ませることが出来てホっとする。

「いけない…早くしないと遅くなっちゃう」

無事に買い物を終えたがタワーマンションに戻った時には、すでに午後4時になろうとしていた。


△▼△


「アレの後始末しとけよ」
「は、はい!」

春千夜が手にしていた拳銃をポケットにしまいながら告げると、周りにいた部下が一斉に動き出す。床には数分前まで女だったものが転がっていて、部下達がそれを冷凍庫へと運んで行く。
女の正体は梵天の網にかかった愛田興業の回し者で、春千夜同様、"アイシング"を利用していた灰谷兄弟の元へ来たスタッフだった。
何度かチェンジを繰り返した結果、遂に目当ての人間がやって来たと、兄の蘭から報告を受けたのは夕べのこと。
部屋に設置しておいた監視カメラで確認すると、スタッフを装った女は掃除をしながらも間に蘭や竜胆の寝室へと入り、パソコンなどを勝手に操作しようとしてた姿がバッチリ映っていた。
それでも組織の人間かどうかは分からない為、女を拉致し、吐かせるために梵天所有の"スクラップ工場"へと連れて来たのだ。
結果は――黒。
ちょっと脅したら女はすぐに愛田興業の人間に頼まれたことを白状した。その時の音声もばっちり録音してある。ただ女は灰谷兄弟のことを梵天の人間だとは知らなかったようだ。単に富裕層の客と思い、何かしら金を引き出せそうな弱みを探っていたらしい。

「これで"アイシング"は潰せんじゃねえ?」

女が処刑されるところを見学していた蘭が春千夜へ声をかけた。春千夜は「まだ材料が足りねえけどな」と答えつつ、スマホで部屋を家探しする女の映像を眺める。代行サービスの制服を着た女が客の留守中に室内の物を物色する様は世間の注目を浴びそうだ。

「まあ、でもこれをばらまけば"アイシング"の信用は地に落ちるだろうな」
「上手くいけば株価も下落して、最後は…ボーン!」

手で爆発するような仕草を見せながら、弟の竜胆が笑う。あの会社が倒産にまで追い込まれれば、愛田興業の利益がガタ落ちするのは目に見えている。

「とりあえず祝杯でもあげるー?」
「いいね。三途は?どーする?」

楽しげに歩き出した蘭と竜胆が春千夜の方へ振り返る。この二人と飲んだところで春千夜は特に楽しくもないので「オレはいい」と速攻で断った。
灰谷兄弟の方も答えは分かっていたのか、「あっそ~。じゃあお先ー」と笑いながら倉庫を出て行く。それを見送っていた春千夜は呆れ顔で舌打ちをした。

「チッ…呑気な奴らだな…」

独り言ちながら春千夜は再び画面へ目を向けた。
こんなものは序章に過ぎない。
多数ある金の生る木を一つ潰せそうなだけで、本丸である愛田興業を潰したわけじゃないのだ。

――アイツら邪魔。潰せ。

梵天のトップ、佐野万次郎から言われた言葉が脳裏を掠める。春千夜にとってはあの言葉だけが全てだ。

「…素人相手に派手に踊りすぎたな、愛田…」

灰谷兄弟が囮として置いておいたパソコンをいじる女の姿を眺めながら、苦笑が漏れる。その動画を躊躇うことなくどこかへ送信したが、ふとこの女と同じ制服を常に着ているの顔が頭を過ぎった。

(真面目にやってるアイツにしたら…こんなことで会社が傾くのはショック受けんだろうな…)

自らの仕事を天職だ、生きがいだと恥ずかしげもなく口に出来る素直な人間はそうそういない。
監視カメラに映っていた、いつも楽しそうに掃除をして帰っていく姿を思い出すと、春千夜の中の何かがざわりと音を立てた。
今回の作戦の為に頼んでいた代行サービス。
ただそれだけのことなのに、人一人の天職を穢してしまうような気がして、とうに失くしたはずの良心が痛む気さえする。
マイキー以外の人間なんてどうでもいいはずなのに、らしくないと自嘲気味に笑った。

「春千夜さん。車まわしました」

そこへ部下の一人が顔を出す。

「事務所に戻られますか?」

そう訊かれて一瞬考えたものの、今日この後の予定は入れていない。今回の件で二日も家に帰らず動いてたことで春千夜も疲れていた。

――女の始末をしたらオマエは帰って休め。

万次郎からもそう言ってもらえたのだから、素直に帰る。絶対的な王の前で、春千夜の答えは至極シンプルだ。

「いや。家に帰る」
「では本宅に――」

と言いながら歩き出す部下に「いや…」と春千夜は言った。

「港区の例のマンションだ」
「…分かりました」

春千夜の言葉を受けて、部下はすぐに頷いた。今回の件ですでに作戦は終わりに向かっているのだから、わざわざ仮り住まいである場所へ戻る必要はない。
だが部下は敢えて余計なことに触れず、素直に港区のマンションへと車を走らせる。
何故?などと下らない質問をすれば、春千夜の気分を害するかもしれないからだ。
そんな部下の空気に気づきながらも、春千夜は流れる景色をボーっと眺めていた。
本来、これだけ疲れている時は、本当の自宅のベッドで眠るのが一番いい。
その渋谷のマンションには春千夜にとって世界の全てといっても過言ではない佐野万次郎も住んでいる。王の近くにいると思うだけで安心するからだ。
でも今夜はあの綺麗に掃除をされた居心地のいい部屋で眠りたいと思った。

「着きました」

その声でふと我に返る。一瞬、本当に数秒ほど眠っていたようだ。
この二日、殆ど寝ていないのが原因だ。

「どうぞ」

助手席にいた部下が降りて、後部座席のドアを開けると、春千夜は怠い体をどうにか動かし、ゆっくりと車から降りた。

「明日は何時に迎えにきたらいいですか」
「…明日は夜まで誰も寄こすな」

今の疲れた頭で明日のことまで考えたくもない。そんな春千夜の空気を読むように「分かりました。ではお疲れ様です」と部下は最後の最後まで余計なことは言わずに、春千夜がロビーに入るのを見送ってから帰って行った。

(今夜はゆっくり風呂にでも浸かってから寝るか…)

長時間、倉庫にいたことで冷え切った体を温めたいと思いながら最上階まで向かうと、重たい足取りで部屋の鍵を開けようとした。だがその瞬間、僅かな差で目の前のドアが開く。

「あ…さ、三途さん…!お帰りなさい…」
「…あ?オマエ…まだいたのか」

ドアを開けて顔を出したのはだった。いつもならとっくに帰ってる時間帯だ。
は春千夜を見て少し焦ったように頭を下げた。

「す、すみません…!お料理に少し時間がかかってしまって――」
「…料理…?」

そう言われて思い出した。今日は最初からここへ帰ってくる予定で食事を頼んでいたことを。
二日徹夜をしてるのだから、全てが終わった後で外食をしに行くのが面倒だと思ったのがキッカケだった。

「ほんとに申し訳ありません…」

もう一度頭を下げるを見て、春千夜は小さく息を吐いた。別に自分が帰るまでに消えろと言った覚えもない。

「…いや。こっちも急に頼んだからな」
「い、いえ、そんなことは…えっと言われた通り、全部終わったので今から帰るとこだったんです」

はホっとした様子で言うと「では失礼します」と今度は丁寧に頭を下げてそそくさと出て行こうとする。それを止めたのは無意識だったかもしれない。
春千夜は咄嗟にの腕を掴んでいた。

「え…あの…」

突然、引き留められたことで、がギョっとした顔で振り返る。

「わりーけど…風呂の用意してくんねえ?」
「へ?」
「風呂だよ。疲れ過ぎててそーいうの面倒…」

詳しく説明することすら面倒で、なるべく端的に言えば、はすぐに察してくれたらしい。

「あ…そういうことなら…分かりました。すぐにやりますね」

そう言って再び靴を脱ぐと、急いでバスルームの方へ歩いて行く。その察しの良さと行動の速さは今の春千夜にとって有難かった。ここでモタつかれでもしたら怒鳴っていたかもしれない。
少しするとお湯を出す音が聞こえてきて、春千夜はホっと息を吐く。
これまで他人に風呂だの食事だのを任せるのは考えられなかったが、こういう時、誰かに面倒だと思うことをやってもらえるのは凄く助かると実感した。

「あの、お湯を溜めるだけでいいですか?他に何かして欲しいことは…」
「…じゃあ…コーヒー淹れてくんね…着替えてくるし」
「はい。分かりました」

春千夜も靴を脱ぎつつ、重たい足を引きずりながらまずは洗面所へ向かうと、は気持ちいいほどの快諾をしてキッチンへと歩いて行く。その姿を見ながらマジで優秀だな、コイツ…と感心していた。
言ったことをすぐに行動に移してくれるのは、頼む方としてもかなり気が楽になる。

「ハァ…やべ。マジで疲れてるわ…」

帰宅後に恒例のウガイや手洗いを済ませた後、春千夜は寝室へと向かった。
とりあえず家について安心するとキッチリしたスーツがやたらと窮屈に感じて、すぐにラフなルームウエアに着替える。そうすることで完全にオフのスイッチが入ったのか、途端に全身が怠くなった。出来ればこのままベッドへ潜り込みたいところだが、春千夜にとったら外から戻ってシャワーを浴びずに寝るのは許しがたい行為。どうにか堪えると、今度はリビングに足を向けた

(まずはコーヒーでも飲むか…)

そうすれば少しは頭もスッキリするかもしれない。
言われた通りが淹れてくれたんだろう。廊下に出ると、リビングの方からコーヒーの香ばしい香りが漂ってきて、春千夜は心の底からホっとするのを感じた。
何もしなくても、こうして誰かが望むものを用意してくれるのは何とも言えず心地がいい。再びそんな思いが過ぎる。

「あ、春千夜さん。コーヒー入りました」
「ああ…サンキュ――」

リビングのドアを開けてキッチンカウンターの方へ足を向けた春千夜は、珍しくお礼を口にしながらスツールに腰をかけようとした。だが視界に入ったものを見た瞬間、その動作がピタリと止まる。

「…おい、これ――」
「え?」

コーヒーカップをテーブルカウンターに置いたを見ながら、春千夜は驚愕の表情であるモノへ指をさす。そこにはリクエストしておいた夕飯が並べられていた。

「あ…もしかして唐揚げお嫌いでしたか…?」

春千夜の反応を見て勘違いしたのか、が慌てたように訊いてきた。だが春千夜が驚いたのはそんなことではなく――。

「てめぇ…何人分作ったんだよ…」

春千夜が驚くのも無理はなく。テーブルには大きな皿にメガ盛りの唐揚げがドンと置かれていたからだ。
その他の付け合わせなどは普通の量なのに、メインである唐揚げだけは、どう見ても4人前はある。

「あ…えっと…張りきりすぎた結果、作りすぎたと言いますか…。男の人ならこれくらい食べるのかなと…」
「ハァ…?オレがこんなメガ盛り食うように見えんのか」
「す、すみません…!」

春千夜が呆れたように言えば、はさっき以上に慌てた様子で頭を下げている。そして「わたし…クビでしょうか…」と青い顔をして訊いてきた。

「…あ?何でだよ」

この大量の唐揚げをどうしてくれよう、と考えていたところに、全く思ってもいないことを言われて、春千夜の方がギョっとした。

「え…だって…三途さん、意にそぐわないことしたスタッフはすぐチェンジしてましたよね…」
「………」

真顔でそんなことを言われると反論しづらくなり、春千夜は小さく舌打ちをした。そのせいでの顔色がますます悪くなっていく。

「ほんとにすみません…三途さんから初めて食事を頼まれたのが嬉しくて、つい浮かれて作りすぎてしまって…」
「…は?何でそんなことで浮かれんだよ」

全く理解できない理由を言われ、春千夜は本気で驚いた。たかが掃除以外に食事を頼んだだけのことで、浮かれる意味が分からない。
すると今度はが驚いた様子で春千夜を見上げた。

「だって嬉しいじゃないですか。三途さんみたいな気難しいお客様に食事を任されるのは」

気難しい…と称され、春千夜の口元が大いに引きつる。多少の自覚はあるものの、面と向かって言われるとは思わない。

「……てめぇ、今オレのこと何気にディスったよな」
「は…」

春千夜に指摘され、が慌てたようにマスクで覆った口を手で塞ぐ。しばし互いに見つめ合っていたものの、春千夜は盛大な溜息と共にスツールへと腰をかけた。

「…ったくオレのこと何だと思ってんだ、オマエは」
「え、と大事な…お、お客様です…」
「フーン…模範解答だな」

鼻で笑いながら春千夜は淹れたてのコーヒーを一口飲むと、再びの方へ「じゃあ責任とれ」とひとこと言った。

「へ…?責任…ですか」
「オレ一人じゃ食い切れねえから、オマエも食ってけっつってんの」
「……えっ」

数秒黙った後、は心底驚いたような声を上げた。客に食事を作って「オマエも食ってけ」と言われたことは一度もないんだろう。顔の中で唯一見えている目を大きく瞬かせた。

「わ、わたしが…ですか」
「何だよ。客の言うこときけねえの?こんなに作られても一人じゃ食い切れねえだろが」

ジロリと睥睨する春千夜を見て、は怯むよりもキョトンとした顔をした。

「え、あ…はあ…え?じゃあ…わたしはクビじゃ…」
「ハァ?誰がクビっつった?ってか、オマエはクビになりてえのかよ」
「い、いえ!クビは困りますっ」

ブンブンと首を左右に振ると、はホっとしたように息を吐き出した。どうやら本気でチェンジされると心配してたようだ。その反応を見た春千夜はかすかに苦笑いを浮かべると「サッサとマスクとってここに座れ」と命令した。
その言葉を聞き、は「は、はい!」と応えながらすぐに動く。まずは茶碗に先ほど焚いたご飯をよそい、温め直した味噌汁のお椀を用意する。そして言われた通りマスクを外して自分の分も準備を終えると、

「え、えっと…では…失礼します…」

まるで借りてきた猫のように縮こまりながら、は春千夜の隣へと座る。それを見た春千夜は用意してある箸を手にしての作った料理を食べ始めた。まずはさっきから美味しそうな匂いをさせているメインの唐揚げへ手を伸ばす。

「…うま」

一口食べた瞬間、肉汁と一緒に生姜とかすかにニンニクの香りが口内に広がり、無意識にそんな言葉が漏れていた。昼から何も口にしておらず、空腹という下地はあったにせよ、春千夜がこれまで食べたどの唐揚げよりも美味い。というより、個人的に店以外の、それも他人が作った唐揚げを初めて食べた気がする。

「マジで美味いな、これ…。天才か?」
「え…大げさです…でも…ありがとう御座います」

春千夜のその反応に、は嬉しそうな笑顔を浮かべると「良かったー三途さんのお口にあって」とホっとしている。
その間も春千夜は箸を止めることなく、唐揚げを次々に口へと運んでいった。同時に味の濃い唐揚げを食べていると、今度は白いご飯が食べたくなり、合間に総菜を摘まんだりしながら無言のまま食事を続けていく。
ご飯の炊き具合も絶妙で、どの高級店でも味わえないと思ってしまうほど美味しい。
そこで気づいた。こうして人に作ってもらった食事を食べるのは随分久しぶりだということを。
その時、風呂が沸けたことを知らせるメロディが鳴り響いた。

「あ、三途さん。お風呂が――」

が言った瞬間、"お風呂が沸けました"という機会の音声が聞こえてきた。あまりのタイミングに二人でしばし顔を見合わせ、その後同時に吹き出してしまった。
春千夜にとっては、こんな風に笑うことすら久しぶりで、新鮮な気持ちになる。

「べ、別にわたしが知らせなくても言ってくれるんですよね、こういうマンションだと」

笑いつつも、どこか恥ずかしそうにしているは年相応の女の子に見えた。普段シッカリしている分、それが可愛らしく映る。

「…春千夜でいい」
「え…?」
「名前だよ、オレの。部下ならまだしも、こうして一緒に飯食ってる女に三途さんとか言われんの気持ちわりーんだよ」
「え、でもお客様のことを名前で呼ぶのは――」
「オレがいいって言ってんだからいーだろ、別に。あとそのお客様ってのやめろ。堅苦しい」
「え…でも――」
「何か文句でもあんのかよ」
「…う」

またしても凄みのある視線を向けられ、は言葉を飲み込んだ。

「つーか…オマエの大事なお客さまが嫌がってることはしねえよなぁ?」

半分嫌味のように言いながら笑うと、は更に困った様子で、それでも命令ならば、と渋々ながら頷いた。
その従順さは春千夜も嫌いじゃない。

「んじゃあ…オレは風呂に入ってくっから、オマエは残り食えるだけ食っとけ」
「え…」

一通り食事を終えた春千夜が立ち上がると、が不思議そうな顔で見上げてくる。

「どうせオマエも腹減ってんだろ。こんな時間だし」
「…はあ、まあ…」
「あー…あと片付けと寝室に脱ぎ捨てたスーツはロビーのコンシェルジュに持っていってクリーニング頼んどけ」

ふと思い出したことを頼むと、は更に驚いた顔をした。

「えっ?で、でも寝室に入ってはダメだと聞いてます」
「……あー…」

確かそんな禁止事項をつけたような気がする。
でもそれは自分の最も安心して眠れる場所を他人に弄って欲しくなかったからだ。後はクローゼットの隠し棚に組織の書類なども隠してある。
でもなら言われたことだけをして、余計な作業は一切しないだろうという確信があった。

「オレがいいっつってんだからいーだろが。ああ、でもスーツ取りに行くだけだ。余計なもんは触れるなよ?」
「は、はい!分かりました」

春千夜が念を押すように言うと、何故かは嬉しそうな笑顔で応えた。それが何故なのか春千夜には分からない。でも本当にこの仕事が好きなんだという彼女の思いだけは伝わってきた。

(変な女…)

そうは思いつつ、ニコニコしながら食事を続けてるを見ていると、春千夜の顔にも自然と苦笑いが零れた。
寄ってくる女達の中に、これほど美味そうに食事をするやつはいない。それに――。

(自分の家で誰かと飯を食ったの…初めてだな…)

本気で困ったからこそ自然に誘ってしまったが、改めて考えると自分でも少し驚いた。
それくらい春千夜の周りには信用できる人間が少ないということもかもしれない。

(唯一、信用してもいいと思えたのが代行サービスの女だけかよ…)

ふとそこに気づき、自嘲気味に笑う。
だが組織とは関係がなく、損得勘定もないと接するのは思った以上に気楽だった。
ついでに部屋を綺麗にしてくれて、美味しい食事を用意しておいてくれるのだから何も言うことはない。
そういう存在はなかなかいないので地味に貴重だと思う。少なくとも、これまで春千夜が関わってきた女の中には一人もいなかった。
どの女も春千夜の容姿や力に惹かれて寄ってくるからだ。

「あ、春千夜さん。お風呂上りに何か飲まれますか?」

が食事をしている姿を黙って眺めていると、不意に明るい笑顔を向けられ、ドキリとした。

「…ああ…ビールを頼むわ」
「はい。じゃあグラス冷やしておきますね」

相変わらず嬉しそうな笑顔を浮かべながら、は軽やかな動作でキッチンへ歩いて行く。食事の最中でも春千夜の為に何かをしようと考えてくれてる姿は、どこかいじらしく思えた。
それだけ仕事が好きなのか、それとも人の役に立つのが好きなのか。
どっちにしろお人よしな女だな、と春千夜は思う。
でも――それも案外悪くないと感じている自分がいて。
薄氷の上を歩くような日々の中、ほんのひと時、体温を取り戻したような、そんな夜だった。


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