「A級社員に昇格、マジでおめでと~!」
「ありがとう…って、それ三回目だよ、俊介」
同期で営業の市本俊介は当事者の以上に盛り上がった様子でグラスをカチンと当ててくる。その姿を見て思わず笑ってしまった。
「何回でもいいじゃん。めでたいことなんだし」
「…うん。ありがとう。それにお祝いも嬉しかった」
言いながら首元に下げられたネックレスに触れる。
これは俊介が昇格したお祝いに、とにくれたもので、ティファニーのネックレスの中でも不動の人気のデザインだ。社会人になった時、いつかハイブランドのアクセサリーを身に付けたいねと、同期の子達で話していたのを思い出す。
「いや。前に約束しちまったからなー。Aに昇格したらの欲しがってたそれ、俺がプレゼントしてやるって」
俊介はそう言って笑ってるが、あんな飲みの席でした約束を今も覚えててくれたことの方がは凄く嬉しかった。
二人の働く"アイシング"は一年の間、継続してベスト5に入った社員は「A級社員」というものに昇格するシステムがあり、のような代行サービスのスタッフは指名予約の多さで順位が決まる。
A級社員になれば、給与はもちろん指名料もいくらか上がり、ベスト5を維持することで特別手当も貰えるので、スタッフ全員の目標になっている。
そこで俊介や他の同期達とA級を目指して、もし誰かが昇格できた時は皆でお祝いしようという約束を交わしていたのだ。
ただ今日は皆の都合がつかず、俊介が代表してのお祝いをしてくれていた。
「でもはやっぱ凄いよなー。入社五年でA級昇格するんだもんなー。俺も頑張らないと」
ネクタイを指で緩めながら溜息を吐く俊介は、どこか人懐っこい空気を持っている。営業マンらしく日焼けした肌と、童顔の可愛らしい顔からは想像がつかないガッチリした体型は、学生の頃に水泳部で鍛えた頃の名残りらしい。
「俊介だって営業の成績いいって聞いてるよ」
「まあ…でもベスト5に入ったのは二回だけで、だいたい6位から7位を行ったり来たりの方が多いし、まだまだだよ、俺は」
「そんなことないよ。俊介は人一倍頑張ってるの知ってるもん」
「そう言ってくれんのだけよ。サンキューな」
おどけたように泣き真似をしながらも、はにかんだ笑顔を見せる俊介にも釣られて笑顔になる。
だけ、と言われると、少しは特別枠に入れたような気がして嬉しくなった。
(やっぱり俊介好きだな…)
小さなキッカケから片思いが始まって早二年。
未だに自分の気持ちを言えないまま、時々こうして一緒にご飯を食べたり、飲みに行ったりするだけの関係を続けている。時々、彼女になりたいと思うこともあれど、今の関係を壊すことになるかもしれないと思うと怖くて告白する勇気まではなかった。
ただ…約束通り高価なプレゼントをくれたことで、ほんの少しだけ期待したくなったのも事実。
(俊介は…どうなのかなぁ…彼女は一人前になるまで作らないなんて、入社したての頃に言ってたけど、もう五年目なんだし、その辺のことはどう考えてるんだろ…っていうか、まだ彼女は出来てない…よね?)
料理の追加を注文している姿を眺めながら、は俊介の彼女事情が気になっていた。普段、そんな話をしたこともないので、何となく切り出しにくい。
今のところ告白するつもりはないものの、俊介に彼女、はたまた好きな相手がいるのかどうかくらいは知っておきたかった。
「も焼き鳥の盛り合わせ食べるだろ?」
「え?あ…う、うん」
「ここの焼き鳥美味いんだよなー」
「うん…そうだね」
俊介はビールを飲みながら枝豆に手を伸ばし、「つくねも頼めば良かったかな」とメニューを広げている。
そうだね、と相槌を打ちつつ、どう聞けばさり気ないかを考えていると、不意に俊介が顔を上げた。
「そう言えば…例の客は順調?」
「え?例の…って?」
「今、気難しい客も任されてんだろ?とんでもない理由で苦情やらチェンジやらする変わり者にお前が気に入られたらしいってウチの部長が感心してたぞ。その後はどう?」
そう訊かれてすぐに春千夜のことが頭に浮かぶ。普段は殆ど客の話題はしないのだが、俊介はすでに上司から噂程度に聞いて知ってるようだった。
大方、営業部の部長もの上司である伊藤美紀から聞いたんだろう。
客個人のことになれば守秘義務は発生するものの、同じ社の人間同士ではこんな客がいるという情報くらいは共有することもある。しかも営業部の部長と美紀は同期ということで、美紀が愚痴ついでにポロっと話したのかもしれない。
「うん、まあ…何とかやってるよ」
「マジ?やっぱは凄いな。かなりのモンカスだって社内でも有名らしいじゃん。そんな相手に気に入られて担当任されてんだ」
「え…っと…そ、それはそうなんだけど…」
そんなに有名になってるんだと驚きつつ、は笑顔を引きつらせた。
春千夜と会う前なら、きっと色々な想像をしてクレーマーというイメージくらいは膨らんだかもしれないが、すでに本人と面識があるので、皆が思うほど酷くはないと思ってしまう。
特に最近は5回中3回くらいは顔を合わせるようになり、一度食事を作って以来、その後も掃除プラス食事や、その他の細々した仕事も任されるようになっていた。
それがにとっては何より嬉しい。
して欲しいことがあれば例のメッセージボードに書いてあるので、最近はマンションに行くと必ず最初にチェックするようになっていた。
「皆が思うほど酷い人じゃないよ。そのお客様は潔癖症ってだけで…」
「え、オマエ、その客に会ったことあんの?」
「う、うん。最初は顔も知らなかったけど、一度鉢合わせして以降は何度か…。今は週に2回くらいは顔を合わせてるかな」
「へえ。どんな奴?強面のオッサン?」
「えっと…若い人だよ。何か凄く綺麗な人で――」
「え、女?」
「ううん、男の人」
「は?男で綺麗なのかよ」
「うん。物凄い美人顔」
口は凄く悪いけど、と心の中で付け足しておく。
のその説明に俊介は興味津々といった様子だ。
「オネエってわけじゃ…」
「ないない。男の人だけど綺麗な顔立ちしてて、最初に会った時は度肝抜かれたもん」
「マジで?そんなイケメンなのにモンカスなんだ」
「顔は関係ないじゃない」
その言い草にちょっと笑うと、俊介も同様に「だよな」と笑う。
「それに苦情の内容を聞くと納得する部分もあるし…やっぱりお客様それぞれ事情を抱えてるわけだから、こっちも一人一人のニーズに合わせて仕事をするべきだなあって改めて思ったんだ」
「へえ…相変わらず真面目だな、は」
「そ、そう…かな。やっぱり喜んでもらえるとわたしも嬉しいし…」
そこで初めて春千夜に食事を頼まれた時のことを思い出す。嬉しさのあまり作り過ぎたという失敗はしたものの、一緒に食事をする機会もあって最初よりは打ち解けることも出来た。
あの気難しい春千夜が少しずつ気を許してくれてるような気がして、改めて仕事を頑張ってきて良かったと思う。
(まあ…ちょっと我がままになってきたけど…)
あれもこれもと頼まれることも増えて、ふと苦笑が漏れる。でもにしてみれば、それもまた嬉しいことの一つだったりするのだ。
「でもさー。そんな若い奴でもウチを利用できるってことは、かなり稼いでるんだろ?その客」
「え?あー…まあ…そうかもね」
まさか裏社会では有名な組織の人、とは言えず、は笑って誤魔化した。あの様子じゃ若いながらも組織内では上の人だろうと何となく想像がつく。
粗暴であっても人に命令しなれてる空気があり、かつ下っ端には見えないオーラを感じるのだ。
(春千夜さんって…幹部とかいうやつなのかな…)
着てるスーツもハイブランドのものばかりなのは気づいていた。クリーニングに出す時、いつも驚かされている。
「ま、金持ちでイケメンの若い男って聞こえはいいけど、オマエも気をつけろよ~」
「…え?何が?」
春千夜のことを考えていた時、俊介に苦笑され、ふと顔を上げた。
「密室で二人きりなんだし、襲われないようにってことだよ」
「な…っま、まさか…ありえないよ」
「何でだよ。客つっても男だし絶対はないじゃん。現にソイツ、オマエのこと気に入ってんだろ?」
「き、気に入ってるっていうか…わたしの仕事ぶりを認めてくれただけだと思うし――」
と言いかけた時、俊介は深い溜息を吐いた。
「オマエのそういう素直なとこ、俺もいいとは思うけどさ。若い男がいちいち掃除や料理のことに関して、そこまで見てないと思うなー」
「え…どういう意味…?」
「いや、意味っつーか…俺が思うに、ソイツは他のことでオマエに興味あんじゃないの?」
「…な、何それ…」
「だから、手を出しても文句言わなそうとか。ほら、って従順で大人しく見えんじゃん」
苦笑交じりで言われ、はかなり驚いた。まさか俊介からそんな風に見られてたなんて思わなかったのだ。同期の中での仕事ぶりを一番認めてくれてると思っていただけに、仕事内容よりも違うことで春千夜から指名を受けている、と言いたげな物言いはさすがにショックだった。
「…か、彼はそんな人じゃないし…」
「そこまで言い切るほど知らないだろ?ソイツのこと」
「そ、そうだけど――」
少しムキになって言い返そうとした時だった。バッグの中からスマホの鳴る音がかすかに聞こえて、は言葉を切った。
「ご、ごめん。電話かも」
「ああ、出てくれば?」
「うん…」
俊介はどこか不機嫌そうにそっぽを向いている。
二人の間には微妙に気まずい空気が流れて、居たたまれない様子ではスマホを手に席を立った。
俊介と言い合いみたくなったのは初めてで、どういう顔をすればいいのかも分からない。
(あんな言い方しなくたって…)
せっかくの楽しい気持ちが急激にしぼんでいく。
だが店の外に出てスマホの表示を確認した瞬間、は思わず息を飲んだ。
「え…春千夜さん…っ?」
画面には"三途さん"と表示されている。向こうからかけてくるのは初めてだ。今日は予約の日ではないものの、何かあったのかとはすぐに画面をスライドさせた。
「も、もしも――」
『おせえ。サッサと出ろ』
「す、すみません――」
開口一番、不機嫌そうな声が飛んで、は慌てて謝った。ついでに頭まで下げてしまったのは条件反射というやつかもしれない。
『オマエ、今どこだよ』
突然の電話に唐突な質問。は昨日の自分の仕事に何か不備でもあったのかと不安を覚えつつ、賑やかな人通りへ視線を向けた。
「…えっと…六本木で友人と食事を――」
『なら近いし今すぐ来い』
「えっ?今から?」
『そう言っただろ。なるはやでな』
「え、ちょ――」
言った瞬間、プツリと電話が切れて、は数秒呆気に取られていた。春千夜は「友人と食事中」というの説明すら聞いてなかったようだ。
「え…文句の電話じゃなかったのかな…」
てっきり昨日の掃除で何か気に障ることでもあったのかと思ったのに、今の感じだと違う気もしてくる。
なら、何の用だろう――?
こんなことは初めてで少々混乱したものの、頭の中では「すぐに行かなくちゃ」と仕事モードに意識を切り替えた。
ただ、そうなると俊介との食事を途中で終わらせることになる。二人で会うのは数カ月ぶりだっただけに少しの間、は迷っていた。
それでも――数秒後には春千夜のところへ行く決心をした。ここで断れば春千夜からの信頼が簡単に崩れてしまうかもしれない。そうなれば今日までの努力が無駄になる気がしたのだ。それに――。
(あんな気まずい空気で俊介と食事するのも嫌だし…)
さっきのやり取りを思い出し、溜息が出る。
信頼していた相手、それも好意を持っていた俊介から、仕事ぶりを否定するようなことを言われたショックは未だ尾を引いていた。
(何か…ガッカリしちゃったかも…)
淡い恋心が、たった一言で萎んでいくなんて思いもしない。
結局、その後に仕事が入ったから帰ると言っても、俊介がを引き留めることはなかった。
(あんな態度しなくても…)
春千夜のマンションへ向かいながら深い溜息を吐く。
簡単に事情は説明して謝罪もしたのだが、俊介は最後まで不機嫌そうだった。
――例のイケメンに呼ばれたってわけだ。仕事なんだし気にせず行けよ。俺も今から別のヤツと飲みに行くし。
春千夜のことで反論したに対して苛立っていたのも下地にあったんだろう。それに加えて自分を放って仕事へ行くことも気に入らなかったようで、俊介はがいる前で他の友人に電話をかけ始めた。
その姿を見て仲直りすら出来そうにないと感じたは、そのまま店を後にしたのだ。
(そりゃ食事中に帰るって言ったのはこっちも悪かったけど…それ以前に春千夜さんのことであんな風に言われたら帰りたくもなるよ…)
今日の約束は楽しみにしていただけに、最後はケンカっぽくなったことが悲しい。同時に情けない気持ちになった。
(結局、わたしも俊介の本質を分かってなかったのかな…)
数時間前まで好きだと思っていたはずなのに、今はただただ残念な思いだけが残っていた。
「おせえ」
失恋にも似た虚しさを感じながらも、急いで春千夜の部屋に辿りついたは、ドアが開いた瞬間そんな言葉をぶつけられた。怖くて顔があげられず、いつものように頭を下げておく。
「す、すみません!これでも急いできたんですけど――」
「腹減ったし何か作れ」
「…へ?」
「飯だよ、飯。つーかサッサと入れ」
「ひゃ」
ドアの前に突っ立ったままのを見て、春千夜は強引に腕を引っ張った。そのままキッチンまで連行されていく。
「材料はオマエがあれこれ買ってきたもんがあるだろ」
「は、はあ…え、えっと…」
未だ少し混乱していて脳が追いつかないものの、どうやら春千夜は食事を作らせるためにを呼んだというのは理解した。ただ、予約日でもない日に何故?という思いはある。
「あの…食事の為にわたしを呼んだんですか?」
「そう言ってんだろ。早くしろよ」
春千夜は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、グラスに注いだのを飲み干している。スーツを着ているところを見れば、春千夜も帰宅したばかりのようだ。
「えっと…今日予約日じゃないですけど…」
当然といった態度で急かしてくる春千夜には、さすがのも少しだけカチンときた。俊介への苛立ちも燻っていたかもしれない。つい嫌味のような言葉が口から零れ落ちる。
ただ――次に春千夜から言われた言葉で、全ての苛立ちが払拭されてしまった。
「んなことは分かってんだよ。でもオマエの作った飯が食いたくなったから呼んだ。何か文句でもあんのかよ」
「え……い、いえ…文句なんて…」
そう返しながら、の顏が無意識に綻んだ。
自分の作った料理が食べたくて呼んだと言われたことが、意外なほどの喜びで胸を撃ち抜いてきたからだ。
「あ、あの何かリクエストありますか?」
今の今までイライラしていた気分はどこへやら。
やたらと愛想のいい笑顔を見せて、春千夜の方へ歩いて行く。我ながらなんて単純なんだと笑ってしまいそうになった。
一方、再び冷蔵庫から新しい缶ビールを出していた春千夜は、その質問に手を止め、
「リクエスト?んなもんねェけど腹減って死にそうだから手軽なヤツで――」
そう言いながら振り向いたものの、後ろに歩いて来たを見て、何故か驚いた表情のまま固まったように見えた。
「あ…?オマエ…何だ、その恰好」
「え?」
「…ってか…メイクしてんのかよ」
「あ…はい、まあ…。友達と食事をしてたもので」
ポカンとした顔の春千夜を見上げながら、やっぱり人の話を聞いてなかったな、と内心苦笑する。
今日は早めに仕事を終え、俊介と食事をする為、は私服に着替えていた。普段はそれほどバッチリと施さないメイクも今夜は少しばかり気合を入れている。
でも先ほど俊介とは気まずくなってしまったので、ささやかな努力も無駄に終わったかもしれない。
そう言えば…春千夜さんに私服姿を見せるのは初めてだったなと、は思った。
「あの…変…ですか?」
「あ?」
目の前で固まったまま自分を見下ろしている春千夜を見て、少なからず不安になった。普段は会社の制服姿しか見せたことがなく、私服でイメージがだいぶ変わっただろうという自覚はあるからだ。
だが春千夜はふと我に返ると、徐に視線を反らしてしまった。
「別に…いいんじゃねぇの…似合ってるし」
「え…」
ボソリと呟く春千夜の表情はよく見えない。それでも何となく褒められた気がしてかすかに心臓が鳴ってしまった。
「それより…飯、早くな。オレはシャワー入ってくる」
「あ…は、はい」
を押しのけるようにしてキッチンを出て行く春千夜を見送りながら、は仄かに熱を持った頬へ触れた。普段は粗暴で口の悪い春千夜からあんな風に言われるのは反則すぎる。それに――。
(春千夜さんも…照れてた…?)
顔を背けていたのでよく分からないが、かすかに耳が赤くなってたように見えたのだ。元が色白なので余計に目についてしまった。
(いや…それはないか…。春千夜さんほどのイケメンなら女の扱いに慣れてるだろうし、わたしのこと軽く褒めたからって照れるはずないもんね)
きっと直前にビールを一気飲みにしてたせいだろう。
そう思い直して、まずは手をしっかり洗うと、冷蔵庫の中の材料を確認する。最近は食事を頼まれることも多く、その都度食材を買ってくるので多少は中身も潤っていた。
「軽く作れるものって言ってたけど…何がいいかなぁ」
この時のは勤務外に呼び出されたことなどすっかり忘れて、春千夜が喜んでくれそうな料理を作ることしか考えていなかった。
△▼△
この日、春千夜はまたも徹夜明けで、フラフラになりながらも港区のタワーマンションへと戻って来た。だがてっきりが来たものだと思っていた春千夜は、食事が用意されていないカウンターテーブルを見て深い溜息を吐く。
「チッ…今日は来ねえ日かよ…」
寝ていなかったことで日にちの感覚がズレてしまっていたらしい。こんなことなら渋谷の自宅に帰れば良かった。
食事のリクエストを書いておいたメッセージボードを見ながらふとそんなことを思う。
ソファに重たい体を沈めてネクタイを指で緩めながら、さてどうしようと考えたものの、が来ていないのなら今やここに泊まっても意味はない。かといって、今から渋谷に向かうのも怠かった。
(あー…今から自分で風呂沸かしてアレコレすんのめんどくせえ…ってか飯どーすんだよ…)
ウダウダとすること30分。遂に春千夜の限界がきた。
来ない日なら、来させればいいだけのこと。
そこに思い当たった春千夜は、の都合など考える余裕もなく、すぐにスマホのアドレスを開いた。
あの時はの作るご飯が食べたい。それしか頭になかったのかもしれない。
そして――今、目の前には念願だった暖かい食事が用意されていた。
「うま…」
「ほんとですか?良かった~」
無意識に出た春千夜の言葉に反応して、が笑顔になる。その顏を視界の端で捉えながら、春千夜は再び空腹を刺激してくるオムライスへスプーンを入れる。
「すみません。今ある材料だとこれくらいしか作れなくて…」
「…いや。十分。ってかオムライスは好きだしな」
春千夜が風呂から上がると、カウンターテーブルにはオムライス、サラダ、スープが綺麗に並べられていて、あげくオムライスにはケチャップで「春」と描かれていた。それを見た瞬間、呆気にとられはしたものの、ガラにもなく感動すら覚えてしまったくらいだ。
ガキじゃあるまいし、と自分で自分に苦笑してしまう。
「なら良かったです」
何気ない春千夜の一言で、再び嬉々とした表情を浮かべるを見て、春千夜は何となく万次郎を思い出した。オムライスは万次郎の好物の一つで、レストランで時々頼むことがある。もちろん今でも旗は絶対にかかせない。
のオムライスを食べながら、ふとこれを万次郎にも食べさせてあげたいと思った。それくらい美味いと思う。
「あ、じゃあわたしは片付けてから帰りますね」
そう言いながらもはすぐにキッチンで使ったものを洗い始めた。そんな彼女へ視線を向けた春千夜は、いつもと違う姿に少しだけ戸惑いを覚えていた。
先ほど空腹すぎてが到着した時はまともに顔すら見ていなかったが、ふと普段の制服ではないことに気づいた時、かなり驚いた。
ほぼスッピンの顏しか知らなかったのもある。
でもそれ以上に華やかなメイクを施したは、最初の印象よりも随分と可愛らしい顔立ちだった。
ついでにいつもは一つに縛っている髪も、今夜は下ろして軽く巻いたのかウエーブがかっていて、雰囲気がガラリと変わった上に、着ていた黒のジャケットワンピースも少しだけを大人っぽい印象に変えていた。
普段の制服姿の時は地味ながらも清楚な印象であり、それなりに可愛い顔立ちだとは認識していたものの、私服姿はそれ以上に可愛い。
そう感じたからこそ、に「変ですか」と訊かれた時、あんなことを口走ってしまったのは自分でも驚いたのだが。
(…やっぱ…反則だよな…コイツ)
掃除も上手くて料理上手。機転が利く優秀さに加えて器量よしとくれば、意識するなという方がおかしい。
ただでさえの仕事ぶりは気に入っていただけに余計、好感度も上がっていく。
「あ、食べましたか?じゃあそれ洗っちゃいますね」
春千夜が食事を終えたのを見計らい、コーヒーを運んできたは、すっかりと空になった皿を手際よく下げて洗いだした。その姿を眺めつつ、淹れたてのコーヒーを飲む。
一人の時では決して味わえない贅沢な時間だと思った。
これを毎日のようにしてもらえたらどんなに楽だろう。ふとそんなことを考える。
前は他人が自分の部屋をうろつくなど考えられなかった。でも何故かがいても不思議と嫌じゃない。
むしろこうして傍にいてくれるとやけに落ち着く気がした。こんな感覚は初めてだ。
「なあ」
「はい?」
春千夜が声をかけると、はすぐに水を止めてキッチンから顔を出した。
「今、オマエがここへ来るのは一日置きだが…それって変更とか出来んのかよ」
「…え?変更って…」
「だから…毎日とかに変えられるのかって聞いてる」
「え…っと…」
一瞬驚いた顔をしたものの、はすぐに「上の者に相談してみないと分かりません」と応えた。
「上のって、オマエの上司に?」
「はい…。他のお客様のこともあるので、調整しないといけなくて…」
「…調整?」
まどろっこしいと思ったものの、そう言われると春千夜にはどうしようもない。「じゃあハッキリしたら連絡しろ」と言うほかなかった。
ただは「分かりました」とすぐに応えつつ、どこか嬉しそうだ。
「チッ。何ニヤニヤしてんだよ」
「す、すみません…でも…嬉しいから」
「またそれかよ」
春千夜が初めて食事を頼んだ際もは同じような反応を見せていた。それを思い出して苦笑いが零れる。
にとっては仕事を認めてもらえることが一番嬉しいんだろう。春千夜でもそれくらいは理解できた。
ただ、の働く"アイシング"は近々世間からの信用が大きく失われることになる。
その時、はどうするんだろう、と春千夜は思った。
「…オマエ…もし今の会社が潰れたらどーすんだよ」
「…え?」
再び洗い物を再開しようとキッチンへ歩きかけたは、驚いたように振り向いた。
「潰れたら…ですか?」
「ああ」
「………」
その問いにしばし考えこんでいたは、それまでの笑顔から一転、悲しげな顔で「凄く困ります…」と苦笑いを浮かべた。
「今の会社は好きですし、先日A級社員にもなれてこれからって時だから余計に…」
「…A級社員…?」
「はい。ウチの会社ってランク制でお給料が変わるんです。一年間上位を維持できたらA級社員になれるので、皆はそれ目指して頑張ってるところがあって…って、すみません。こんな個人的な話しちゃって」
は照れ臭そうに笑っている。その姿を見ていると、春千夜の中で再び罪悪感にも似た重苦しい感情がこみ上げてきた。
「でも…どうしてそんなこと訊くんですか?」
「いや…別に――」
キョトンとした顔で質問され、咄嗟に言葉を濁す。
その時、の首元に光るネックレスが視界に止まった。女へのプレゼントとして大人気のハイブランド品というのは当然春千夜も知っている。
がつけているのは最も多く買われているであろうデザインで、それほど高価なものではない。でもどう考えても自分で買ったようには見えなかった。光り具合から、まだ新品同様だと分かる。
「オマエ、そんなもん付けてたか?」
「え…?」
「そのネックレス。新品だろ、それ」
「あ…」
が思い出したようにネックレスへ触れ、僅かに視線を泳がせたのを、春千夜は見逃さなかった。
「男からのプレゼントかよ」
「え、えっと…それは…まあ…」
動揺した様子で視線を反らすを見て、何故か胸くそ悪い気分になった。春千夜から見たは男がいるように感じなかったこともあり、多少の驚きもある。だがそれ以上によく分からないモヤモヤとしたものが腹の底から湧いてくる。
「へえ…男いんのか」
「えっ?あ…ち、違います。彼氏とかじゃなくて…同期の子から昇進祝いとしてもらっただけで…」
春千夜に突っ込まれ、が慌てたように首を振った。その様子を見れば嘘はついてないようにも見える。
ただ、そんな理由で送るような品でもない。
「彼氏でもねえのにティファニーかよ」
つい思ったことを口にすると、は苦笑交じりで説明しだした。
「えっと…それは…わたしがここのアクセサリーを前から欲しがってたからで深い意味はないんです。昇進した時はこれを買って、なんて冗談交じりで約束してて。彼はそれを覚えててくれたっていうか…」
「へえ……」
その話を聞いて納得はしたものの、男が女にネックレスを送るのは何とも意味深に思える。
そう考えるとの首元で光るそれが、知らない男に付けられた首輪にすら見えてきた。
何となく、そう何となく気に入らない。
「え…春千夜…さん…?」
不意にネックレスへ手を伸ばした春千夜に、が驚いたように顔を上げた。
「外せ」
「…え?」
「オマエにはそれ似合わねえ」
またしても思ったことをそのまま口にする。だがは怒るでもなく、少しだけ悲しそうに目を伏せてしまった。
「そう…ですよね…やっぱりまだわたしには早かったのかな…」
「…っ?」
突然しゅんとした顔でポツリと呟くを見て、今度は春千夜がギョっとする番だった。いつも仲間から「言葉足らずだ」と言われていることを思い出し、つい舌打ちが出る。
「そういう意味じゃねえよ」
誤解されるのはたまらないとばかりにそう言えば、は更に大きな瞳を瞬かせた。その表情が殊の外可愛らしく、春千夜は軽く咳払いをした。
「…もっと似合うもん、今度オレが買ってやる」
「え…」
「勘違いすんな。ただ…オマエにはいつも我がまま言ってっから、そのお礼だよっ」
の表情がみるみるうちに驚愕したものへ変わっていくのを見て、春千夜もムキになって言い返す。
ただ言ったことは本心で、何一つ嘘はない。
でも何故そんな気持ちになったのかまでは、この時の春千夜にも分からなかった。