Magenta...10



大きな仕事が片付いた安堵感――命令した万次郎は綺麗に忘れていたが――で、春千夜はマンションについた途端、ホっとするのを感じた。
玄関に入った時の空気からして違う。心地いい清涼感が春千夜を包む。
室内は春千夜が帰らない間もこまめに掃除されていたのがよく分かるほど、塵一つ落ちていない。

(やっぱコッチに来て正解だったな…)

ふとが掃除をしている姿を思い浮かべながら、ポケットの中の箱を無意識にカウンターテーブルへ置くと、春千夜はスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。それをソファの背もたれへ引っ掛けたのは、この時点でまだシャワーに入って寝ようと思っていたからだ。
ただ少しのつもりでソファに身を投げた瞬間、移動中に飲んだ薬の効果もあったらしい。春千夜は秒で夢の中へと落ちていった。

それから数時間後――。
一体全体、これはどういう状況だ――?と、春千夜は何度か瞬きを繰り返した。
目を覚ました時、ベッドの端に突っ伏して寝ているがいて。それが夢?と思いそうになるほどに驚いた。
更にギョっとしたのは、何故か自分の手が彼女の手をしっかりと握っていたことだ。
しかも手の状態を見れば自分の方から握ったのは明らか。なのに記憶が一切ないのだから、さすがに動揺してしまう。
目を凝らせば、窓からかすかに月明かりが差し込むいつもの寝室。
どうにか帰宅して部屋に入った時にはフラフラで、その後に強い睡魔に襲われた。そのままソファに倒れこんだまではかろうじて覚えている。だが、ここまでどうやって移動してきたのか、どれくらい眠っていたのかすらも分からない。
壁時計に目をやれば、今は午後7時すぎ。帰宅した時は朝の10時頃なので、9時間は眠っていたことになる。
ここ最近は色々と面倒ごとが立て込んでいて不規則な生活が当たり前のようになっていた。そのせいで眠ってもすぐに目が覚める為、疲れも取れず常に体も怠いまま。でも今日は何故かガッツリと睡眠がとれたことで、いつになく頭がスッキリしていた。
そこで改めて自分の手元へ視線を向ける。
何故自分がと手を繋いで眠っていたのか、さっぱり思い出せない。

(…フラフラの状態で薬飲んだのがいけなかったか…?)

この場合、普段のハイになる為に飲む薬ではなく、疲れていても頭が冴えて眠れないことを危惧して睡眠導入剤を何錠か飲んだ。そのせいで睡魔が通常よりも強く出たことは間違いなく。ある種の酔っ払った状態になっていた可能性もある。
今日はが来る日だったんだろう。また部屋で鉢合わせをして、自分がに何かを頼んだのかもしれない。
春千夜が頼まない限りがこの部屋に入らないのを知っているからこそ、そう確信することが出来た。

(…相変わらずちっせぇ手…)

今も外すことなく繋がれた小さな手は、春千夜の手にすっぽりと包まれている。細く白い手首や、短く綺麗に揃えられた爪。いつも掃除や料理をしているからか、指でなぞるとかすかにカサつきを感じる。
でもそれは彼女が仕事を人一倍頑張っている証だと、春千夜も知っている。
そして自分の知る限り、働く手を持つ女はが初めてだった。
春千夜が知る女の手と言えば、指先まで念入りに手入れをされた滑らかで綺麗な手ばかり。
派手な爪色や装飾のついた長い爪はもはや定番で、のように何も塗られていない女の素の爪を見るのも随分と久しぶりな気がした。
そんな素朴な手がやけに愛しく思えて、きゅっと手を握ってみる。
こうして女の手を握ることすら何年かぶりのような気がした。
梵天を立ち上げた頃から、それまで以上に忙しくなったことで、正直女は二の次というところがある。本気になるような女もなく、こういった組織に身を置いているせいか、それなりの女としか知り合わない。
幸い、昔から女にはモテる方だった。おかげで勝手に向こうから近づいてくるため、ワンナイトの相手には困らない。結果、特定の女は不要、いう結論に達していた。
そんな理由もあり、手を繋ぐ行為じたい久しぶりすぎて、春千夜は少しばかり動揺していた。
手を繋いだだけで心臓が速くなるなど、小学生じゃあるまいし、と自分で自分に苦笑が漏れる。
なのに、なかなか手を離せない。
手のひらや指先に感じるの温もりが心地いいせいだ。

(そうか…だから熟睡できたのかもな…)

不眠症気味だった自分が何時間もの間、一度も起きずにぐっすり眠れた理由に気づき、ふと笑みが漏れる。
本来ならば、代行サービスで来てくれてる相手にこんな行為すらしてはいけないはずで、もしバレればは担当から外されてしまうだろう。
だから早く離さないと、とは思うのだが、もう少しだけ…という思いが溢れてくる。

(おかしなもんだな…他人を寝室に入れるのは死ぬほど嫌だったはずなのに…コイツがいても嫌じゃねえなんて)

それこそ空気みたいに自然で、が傍にいても全くと言っていいほど苦に感じない。
いや、苦に感じないどころか、いてくれた方がやけに落ち着く気がした。
もう少しだけ――眠っていて欲しい。
小さな手を握り締めながら、ふとそう思った。


△▼△


「…ん…?」

は唐突に目が覚めた。暖かいものに包まれていた手が、かすかにぎゅっと握られた感覚が脳に伝わったせいだ。

「…は…っ」

何故かおかしな体勢で床に座っていることに気づき、小さく息を飲む。
まずい。寝落ちした。覚醒した頭が状況を理解し、は慌てて顔を上げた。

「…よぉ」
「は…っる…ちよさん…」

顔を上げた瞬間、自分を見下ろしている春千夜と目が合い、頬が引きつる。
春千夜が寝るまで、と思っていたのに自分が寝落ちするなんて大失態だ。しかも未だに手が繋がれたままだった。

「す、すみません…!わたしまで寝ちゃって――」

すぐに手を離し、その場に正座しながら頭を下げる。だが春千夜は怒った様子もなく「いや…別に」と小さな声でぼそりと呟いた。

「ってか…オレ、何でここで寝てんだよ」
「え…?」

まさかの質問をされ、は再び顔を上げた。

「もしかして…覚えてない…とか…?」
「…すげえ眠かったことしか覚えてねえ。オマエがオレをここに運んだのか?」
「え、えっと…まあ…運んだというか誘導したというか…」

自発的に歩いていたのに覚えてないのか、と驚きつつもそう説明をすると、春千夜は「そうか…」と小さく息を吐いた。

「手ぇ握ったのも…?」
「え?あ…は、はい…まあ…」

本人が覚えていない以上、自分から握ったと誤解されても困るので、そこはしっかりと肯定させてもらう。
数秒の間はあったものの、春千夜も納得したのか気まずそうに視線を反らした。

「悪い…死ぬほど疲れてて眠剤飲んだせいか、帰宅後の記憶が曖昧だわ」
「あ…そ、そうなんですね…納得しました」

そう言われてみれば確かにアルコールの匂いはしないのに、足取りは酔っている感じのフラつき方だったようにも思う。
軽く会話も交わしていたことから眠たいだけだろう、とあまり深くは考えていなかった。

「ゆっくり眠れたようで良かったです――」

とホっとしたように言いながら微笑む。だがはふと室内がやけに薄暗いことに気づいた。
え?と驚いて窓の外を見ると、すっかりと日が暮れて綺麗な夜景がキラキラと光っている。

「も、もうこんな時間…?!」
「あ…?」
「どどどうしよう…っ。わたし、まだお掃除してなくて――」

ここへ来た目的を思い出したが慌てたように立ち上がる。春千夜に頼まれたからとはいえ、一緒に寝落ちをしてしまったのは自分の失態だ。すぐに制服のポケットからスマホを出すと、表示された時間を見て、更に驚愕の表情を浮かべた。まさか数時間も寝ていたとは思わない。

「…す、すみません!春千夜さん、今からすぐにお掃除を――」

と寝室を出て行きかけた時、春千夜の手がの腕を掴んだ。

「落ち着け。今日は掃除しなくていい。普段からマメにしてくれてるおかげで十分綺麗だしな」
「えっ?で、でも…」
「それより…腹減ったから何か作れ」
「…へ?」
「飯だよ、飯」
「あ……は、はい…」

咄嗟に頷いたものの、まずの頭に浮かんだのは食材があったかどうかだった。ここしばらくは食事の依頼はなかったことで買い物すらしていない。

「じゃ、じゃあ今から買い物に――」
「ハァ?ある物で適当に作れよ。何でもいーから」
「え…でも…」
「腹減って死にそうなんだよ、こっちは」

ぐっすりと熟睡したおかげですっかり元気になったのか、春千夜はいつも通りの我がままを発揮しだした。もだいぶ慣れてきたことで、そこは「分かりました」と素直に頷く。
それに野菜や肉といった食材はなくとも、何かしらはあるはずだと頭を切り替え「すぐに作りますね」と言いながらキッチンへ向かう。

(すっかりいつもの春千夜さんだ…。でも食欲もあるなら大丈夫そう)

眠る前、甘えるような言動をしていた姿にドキっとさせられたが、普段と変わらない春千夜を見てホっと息を吐く。大事な顧客を異性として意識してしまうなんて以ての外だ。当人も覚えていないのだから、さっきのことは気にしないでおこう、とすぐに頭を切り替えた。

「何かあるかな…あ、パスタ」

キッチンに設置された棚を開けながらまず目についたスパゲティを見つけると、は思いだしたように別の棚を開けた。そこには缶詰類を入れてある。そこから以前サラダ用に買っておいたツナ缶を出し、次に冷蔵庫を開けると、中から数個ほど残っていた卵を取りだした。

「賞味期限は少し過ぎてるけど加熱すれば問題ないかな…」

卵を手に取り、光へ翳すと端の部分が薄っすら明るい。痛んでいる時は光を通さないので、卵は無事だという証拠だ。これなら大丈夫そうだと二つほど取り出した。
すぐに大きめの鍋でお湯を沸かし、スパゲティを湯でていく。
その時、お湯の温度を調整したという機械の音声が流れた。どうやら春千夜はシャワーを浴びてるようだ。
自分の恰好を見て、帰宅後シャワーも浴びずに寝てしまったことを思い出したんだろう。

(後でシーツを替えておこう…)

そう思いながらゆで上がったスパゲティの湯切りをし、フライパンを用意した。そこへオリーブオイルを少量入れると、すぐに溶いた卵を流し込み、菜箸でかき混ぜていく。途中でツナを丸ごと入れて一緒にスパゲティも投入。軽く炒めた後、前に買っておいたカキ醤油で味付けしながら、最後はホワイトペッパーで味を調えたら、和風ツナパスタの出来上がりだ。
今、この家にあるもので簡単に作れる食事はこれくらいしかない。

「…いい匂い」

その声に振り向くと、バスローブを着た春千夜が髪をバスタオルで拭きながら歩いて来た。

「あ、春千夜さん。パスタで良かったですか?」
「ああ。腹に入れば何でもいい」

そう言って春千夜がスツールに腰を下ろす。はホっとしつつ、すぐに皿へ盛ったパスタをカウンターテーブルへ置くと、フォークを春千夜へ手渡した。

「今のうちにベッドのシーツも新しいものに交換しておきますね」

本当に空腹だったんだろう。すぐに食べ始めた春千夜へそう声をかけてから再び寝室へと歩き出す。その時、後ろから「うま…」という声が聞こえて来て、つい笑顔になった。
仕事で誰かに食事を作るのはいつものことだが、それでも「美味しい」と言われれば素直に嬉しい。

(ホントならスープくらい作ってあげたかったけど、材料が何もなかったもんね…。こういう時の為に今度即席スープ買っておこうかな)

シーツを交換しながら、頭の中であれこれと今後のことを考えるのも、にとったら楽しかったりする。
根っからの世話好きだなと自分に苦笑しつつ、替えたシーツはクリーニング用の袋へ入れた。ついでにベッドの上に脱ぎ捨てられていたシャツやスラックスなども入れる。帰り際、これをコンシェルジュへ渡せば後は向こうがきちんとクリーニングに出してくれる仕組みだ。

「他に出す物ないのかな…」

ふと思い出し、はそのままリビングへ足を向けた。
すると食事をあっという間に終えたらしい春千夜はソファで寛いでビールを飲んでいた。

「春千夜さん。他にクリーニングへ出すものありますか?」

空になったお皿を見て笑みを零しつつ、シンクへ下げながら訪ねると、春千夜が「あ~スーツ…くらいだな」と言って、ソファの背もたれにかけたままのジャケットを取る。受け取ったそれもクリーニング用の袋へ畳んで入れると「じゃあ、わたしは洗い物をしたら失礼しますね」とキッチンへ戻りかけた。だが「は?」という声と共に、腕をガシっと掴まれる。

「もう帰るのかよ」
「…え?」
「オマエに話があんだよ。ちょっと座れ」
「…話って…」

意外にも真剣な顔で見上げてくる春千夜に、の心臓が嫌な音を立てた。もしかしたら例の事件のニュースを知って、春千夜からも契約が切られるかもしれない。そう思ったからだ。
今日一日、キャンセルが続いたことで、どうしてもネガティブな思考になってしまう。
相当、顏が引きつっていたようだ。春千夜は怪訝そうに「何だよ、その顏」と眉間を寄せた。

「い、いえ…あの…話というのは…」
「いいから座れ。ちゃんとマスクも取ってな」
「で、でもまだ洗い物もしてないので――」
「んなの後でいいから」
「な、ならせめて洗剤で浸しておかないと――」

オマエとの契約は切る――。
そんな言葉を言われそうではつい掴まれた腕を振り払おうと力を入れる。だがそうはさせまいと春千夜の方も強い力でを引き寄せ、自分の隣へと無理やり座らせた。そのまま口元を覆うマスクを外され、ドキリとして顔を上げると、春千夜の少し驚いたような瞳と目が合う。

「ったく…何でそんな顔してんだよ」
「……す、すみません」
「謝って欲しいわけじゃねぇ」

春千夜は呆れたような顔で溜息を吐いている。はしゅんとしたまま項垂れると「やっぱりクビってことですか…?」と、ついその言葉を口にしてしまった。依頼主から改まって「話がある」と言われるのは、たいていが悪い話と相場は決まっている。
これには春千夜もギョっとしたような表情を見せた。

「ハァ…?何でそーなる」
「え…だって…ウチの会社のニュース…見たんじゃ…」
「…あー…まあ…な」

一瞬、春千夜が気まずそうな顔をしたのを見たは、自分の予想が当たっているんだと勘違いをしてしまった。

「じゃあやっぱりクビってことじゃ――」
「だーから違う!そんな話をしたいんじゃねえっ」

いつになくムキになって声を荒げる春千夜に、の肩がビクリと跳ねる。つい普段の自分を出してしまったことに気づいたのか、春千夜は小さく舌打ちをした。


△▼△


「怒ってるわけじゃねえしビビんじゃねーよ…」
「すみません…」

またしてもシュンとしてしまったを見て、春千夜の口から再び深い溜息が漏れた。普通の女と普通の会話をすることが、こんなにも難しいものなのかと首を捻りたくなる。
怖がらせようなんて少しも思っていないのに、つい威圧的な物言いをしてしまうのだ。
とりあえずここは早く本題に入った方が良さそうだと思った。

「マジで怒ってねえし、あと…オマエをクビにしようとかも思ってねぇから」
「え…ほんとですか…?」
「ああ…ってか…まあ…話ってのはオマエの会社の件だが…別にそのことでクビにしようって話じゃなく、言ってみれば逆の話だ」
「え、逆って…」

その説明を聞いたはやっと顔を上げて春千夜を見た。何が言いたいのかさっぱり分からないといった顔だ。

「どういう…意味ですか?」

そう問われた春千夜は少し逡巡した後、決心したように口を開いた。何度も考えたのだから今更迷うこもともない。

「オマエ、オレの専属になれよ」

その言葉を受けて、の瞳が大きく見開かれた。その顏はどう見ても小動物がビックリしてるような顔だ。

「せ、せせ専属って…え?」

少し混乱してるのか、は忙しくなく視線を動かしている。そのハムスター並みの反応を見ていた春千夜は内心、おもしれえ…と苦笑しつつも、きちんと事情を話しだした。

「…今回の事件でオマエの会社はオマエが思ってる以上にヤバい立場になってる」
「え、ヤバいとは…」
「だから…そう遠くない未来、倒産するって言ってんだよ」
「……え…えぇぇっ?」

これまでの仕事用の顏ではなく、思い切り素で驚いたようだ。は「倒産ってまさか…」と引きつった笑いを浮かべている。

「そのまさかが起きてんだよ。今後もどんどん顧客は減るだろう。そうなれば自然に会社は傾く。そうなったらオマエも困るんだろ?だから言ってんだよ」

自分でも何故こんな結論に達したのかと首を傾げるが、このままのサービスを受けられなくなるのは困ると思った結果、春千夜は個人的に彼女を雇おうと思った。それなら愛田に何があっても今後はにまで被害が及ぶこともない。我ながら言い提案だと思う。
ただ春千夜からの申し出を聞いたは、やはりまだ混乱した様子で唖然としていた。


△▼△


「で、ででも…それってわたしに"アイシング"を辞めろってこと…ですよね」
「ああ。そう言ってんだよ」

今度こそハッキリと言われては戸惑った。
会社がヤバい状況だというのはも肌で感じている。今日だけでも半分以上キャンセルが入ったのだから、他のスタッフも多分同じようなものだろう。
それが今日だけとは限らない。今後もそれが続けば春千夜の言う未来が確実に来てしまう。
ただそれで会社を辞めたとしても、仕事が春千夜の一件だけでは到底生活が出来ないのも、また事実。

「でも…そうなれば生活ができませんし…」
「会社がヤバいってことは今までみたいな金は回らなくなるんだから同じだろが」
「う…」

言われてみればそうかもしれない。これまでいい給料を貰えていたのは会社が潤っていたからだ。

「ってか、オマエ、月にいくらもらってんだよ」
「そそ、そんなの個人情報なので言えません…」
「フーン…じゃあ…オレが月に50出すって言ったら?」
「………ご…50?!」

現在の給料は指名分やその他の報酬を合わせても、約20~25万円ほど。でもそれは何件もの顧客の家を回る結果だ。春千夜の家だけでそれ以上の給与を提示されてはもさすがに驚いた。

「何だよ。足りねえなら――」
「い、いえ!十分すぎる…というか多いくらいです…!」

バカ正直に応えると、春千夜はふっと笑みを浮かべた。

「オレの専属になったら、今後はオレが不在でも在宅でも毎日掃除に来ること。食事が必要な時はその都度、メッセージボードに書いておくし、急な場合なら電話を入れる」
「は、はあ…。他には…」

月50万も払うと言うからにはもっと他にも色々なことをさせられるのでは…と思った。
なのに春千夜は「他?別にねえよ」とあっさり言った。

「やることは今まで通り、掃除や食事、その他もろもろの雑用だけだ。それが終わればオマエは自由。悪くねえ話だろ」

得意げに口端を上げる春千夜に、は唖然とした。悪くないどころの話じゃない。これまで通りの仕事をするだけで月に50万円も貰えるのだから当然だ。
毎日来いとの話だが、今までも春千夜のところに来ない日だって他の家で仕事をしていたのだから、の生活が何一つ変わることはない。
ただ疑問なのは何故春千夜がそこまでして自分を専属で雇いたがるのかということだけだ。

「あ、あの…そこまで好条件を出して頂いて凄く嬉しいんですけど…何で…」

あまりにいい条件なだけに、実は裏があるのでは…と疑心暗鬼になってしまう。
春千夜は犯罪組織の人間なのだから、が多少疑問に思うのも当然のことだ。
そんな空気を察したらしい。春千夜は「別におかしな話じゃねえ」と苦笑いを浮かべた。

「オレはオマエの仕事ぶりに惚れこんでる。オマエほど痒いところに手が届くような仕事をしてくれる人間はそういねえ。それ相応の対価を払うのは当然だろ」
「…春千夜さん…」

まさか春千夜がそこまで自分の仕事を認めてくれていたとは思わず、不意に胸の奥が熱くなった。
さんの仕事はいつも丁寧で本当にありがたいよ。さん以外に任せる気にならないね」などと口を揃えて言ってくれていた客達が、今回の事件を知り、潮が引くようにの元から去って行った。
なのに春千夜は事件を知りながらも、の仕事ぶりを認め、破格の値段で個人的に雇ってくれるという。
それはにとって死ぬほど嬉しい申し出だった。
それに他の仕事はしなくていいのなら、今までよりは個人的な時間も作れる。普段は昼夜逆転をしている姉とあまり一緒の時間は過ごせないが、今後は砂羽の休みに合わせることも出来そうだ。

「で…?どーすんだよ」

しばし黙ったままのを見て、春千夜が返事を促してくる。は即答することが出来ずに少しの間考えていたものの、意を決したように春千夜を真っすぐ見つめ返した。

「少し…考える時間を頂いてもかまいませんか…?」

出来ることなら即答で承諾したい話だが、これまで世話になった"アイシング"をあっさり辞めるというのも悩ましい。それに砂羽にも相談はしたいと思った。
の返答に春千夜は怒るでもなく「分かった」と快く頷いてくれた。

「でもオレもそんなに気は長い方じゃねえ。今週中に返事をしろ」
「こ、今週中…」

あと3日しかない、とは少し言葉に詰まったものの、春千夜の気持ちが嬉しいことに変わりはない。すぐに「分かりました」と頷いた。

「次にここへ来る時にお返事させて頂きます」
「ああ。まあ…いい返事を期待してるわ」

そう言った春千夜が不意に自然な笑みを浮かべながら、の頭へポンと手を乗せる。それが殊の外優しく、胸の奥が大きな音を立ててしまった。

(春千代さんがあんなに優しい顔で笑うなんて…初めて見たかも…)

そう思えば思うほど勝手に心拍数が上がっていく。普段がオレ様なだけに、そのギャップはズルいと思ってしまう。

「って、何かオマエ、顏が赤くねえ?熱でもあんのか」
「べ、べべ別に…っ」

気づかれるほどに赤くはなっていると自覚のあったは、手を伸ばしてくる春千夜から少しだけ距離を取った。今、触れられたら心臓が持ちそうにないほどドキドキしてしまっている。これはマズい傾向だ。

(春千夜さんはお客様…春千夜さんはお客様…!)

不意打ちの笑顔でときめいてしまった自分を戒めるよう念仏の如く心の中で繰り返す。
なのに鼓動は速くなるばかりで、一向に収まってくれそうになかった。


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