Magenta...12



キラキラと控え目に輝く石は、思った通り彼女に良く似合っていた。
は一見、そんな見栄えだけのアクセサリーに興味がなさそうに見える。でも夕べは己の首を飾っている石に惚けたような顔で瞳を輝かせていた。

(アイツでもあんな顔できんだな…)

一仕事を済ませ事務所へ戻る道中、車窓から見える景色を眺めながら、春千夜の口元が不意に緩む。夜に輝く繁華街のネオンが、例のダイヤを思い出させたのだ。
ついでに自分のマンションへ通ってくる彼女の顔も。
いつもは仕事面での顔しか見せない女だと思っていただけに意外だった。
案の定、根は真面目なが冷静になった頃、「こんな高価な物は受け取れません」と言ってきたが、そこは春千夜の"雇用主特権"というやつで強引に受け取らせた。
元々あのネックレスは彼女へ渡すために買った物であり、自分が持っていても邪魔なだけだと思ったのもある。

"いつも期待以上の仕事をしてくれてっから、その礼みたいなもんだ"

何度もプレゼントの理由を聞かれ、そんな思いつきの言葉を付け加えると、やっと渋々ながら受け取ってくれた。
それでも尚、は仕事の間中、終始困った顔を見せていたものの、時折ネックレスに触れながら嬉しそうにしていたのを思い出す。何だかんだと言いつつも喜んではくれたらしい。彼女のそんな表情を見ていると、何故か嬉しく感じたのは自分でも驚いたくらい意外だったのだが――。

(そういや…女にプレゼントってもんをやったのは初めてだったな…)

春千夜も二十代半ば。学生時代から裏社会の人間になるまでの間、もちろんなった後でも女という生き物とは色々あった方だ。なのに個人的に深い付き合いをしたことはなく。当然のことながらプレゼントという形で何かを渡した経験もなかっただけに、今回の自分の行動にはいささか首を傾げてしまう。
渡す前も散々考えたが、ただの気まぐれにしては、らしくない行動だったと今更ながらに思う。
ただ――プレゼントしたことを後悔していない自分がいるのも確かだ。

(あんな些細な物で喜ぶなんて変な女…)

頭ではそう思うのだが、再び脳裏を過ぎるの惚けた顔を思い出し、これまた自然と頬が緩む。

「さっきから機嫌いいなぁ?三途ぅ~」
「―――っ」

一瞬で現実へと引き戻すように聞こえた低音に驚き、ふと我に返る。同時に不快なミュージックが、疲れた耳を攻撃してきた。クラブで垂れ流しているようなノリノリの曲だ。仕事帰りの車内でこんな趣味の悪い音楽をかける人間は決まっている。
慌てて視線を景色から車内へ戻すと、隣から覗き込んでくる端正な顔。
その近さに春千夜は思わず身を引いた。しかしいくら広い車内とはいえ、背もたれがある以上、下がれるのも限界がある。

「オイコラ、灰谷弟!ちけーんだよ、てめぇっ」

自分に寄り掛かるほど近づいていた男に対し、つい声を荒げると、相手は顔をしかめながら両耳を手で覆った。

「声でか…!つーかオマエ、何度声かけてもスルーだし、遂に地声のデカさのせいで耳が遠くなったのかと思ってさー」

最後にはケラケラと笑い出した灰谷竜胆の言葉に、春千夜の額がピキリと音を立てる。すっかり忘れていたが、今日の仕事は灰谷兄弟との案件であり、今は一緒に事務所へと戻る途中だった。

「うるせぇ!つーか趣味の悪い曲を大音量で流すな!疲れてんだよ、こっちはっ」
「うるせーのはオマエだろ。ってか一応オレら先輩な?オマエが組織のナンバーツーだろうが、そこは譲れねえ。あと曲の好みをとやかく言われたくもねーわ」

今度は向かいの席から竜胆の兄、灰谷蘭が口を挟んできたのを見て、春千夜は軽く舌打ちをした。弟とはまた違う綺麗な顔には不敵な笑みを浮かべ、長い足を持て余すように組んでいる。いちいちポーズを取らなければ気が済まないのは昔からだ。

「うぜぇ…」

ポロリと漏れた本音。同じ梵天の仲間と言えど、マイキー以外の存在は春千夜にとって、まさに雑音。ノイズでしかない。なのにこの兄弟は何かとちょっかいをかけてくるので、地味に天敵として脳がインプットしている。それを知ってか知らずか、灰谷蘭は身を乗り出し、春千夜に微笑みかけてきた。これまでの経験上、この男が微笑みかけてくる時はろくなことを言わない。

「で…なーんかいいことでもあったかよ?三途ちゃん」
「…あ?」
「さっきからニヤついてるし、仕事の最中も普段よりは尖ってなかったじゃん。なぁ?竜胆」
「そうそう。普段ならさっきのヤツ、倍はボコしてたろ。まあ今回は相手がアッサリと会社譲ってくれたけど」
「チッ。あれ以上やったら相手が死ぬ。それじゃ意味が…つーかオレはニヤけてねえ!」

春千夜としては全く自覚がない。そして自覚がないことほど、他人に指摘されると妙な恥ずかしさを覚えるのは何故なのか。
そんな思いが苛立ちに変換され、二人から顔を背けて言い返すと、蘭は更に身を乗り出してきた。

「あれあれ~?自覚なかったー?」
「数分置きにニヤニヤしてたじゃん。マジウケるんですけど」

追い打ちの如く、隣の竜胆までが更に顔を覗き込んでくるのを見て、春千夜の眉間に深い皺が刻まれていく。この兄弟にかかれば全て笑いのネタにされるのだからたまらない。
二人は他のメンバーに対しても似たような扱いをしているが、とくに春千夜は打てば響く性格。よく言えば素直。悪く言えば単純。少しからかうと秒でキレるのは昔からで、兄弟ともども、そこを面白がってイジっているのだ。
そんな自分の反応が原因とは思っていない春千夜は、何度牽制しようが絡んでくる灰谷兄弟が心底ウザい存在だった。仕事では役に立つが、それ以外で関わりたくもない。
これ以上、コイツらの相手をするだけ無駄――。
今までの経験で多少学習している春千夜は、途中で降ろしてもらおうと運転手へ声をかけようとした。だがその時、蘭の口から予想外の言葉が飛び出した。

「あ、やっぱ彼女できたとかー?」
「…は?」

全く身に覚えがないこと、それも普段なら兄弟とは話題にすら出ないネタを口にされ、春千夜はつい素で反応してしまった。

「…何言ってんだ、テメエ」
「あれ…?違うのかよ」

驚愕といった表情の春千夜を見た蘭は訝しげに首を捻っている。それはまるで自分の指摘が当たっているはずだと思いこんでるような反応だった。
しかし春千夜はこれまで自分の女事情を蘭に見せたこともなければ話したこともない。梵天の仕事に全く関係ないからだ。それなのに何故、彼女が出来たと思ったのかが不思議だった。
一瞬、車内に微妙な空気が流れる。その空気とは相反したダンスミュージックが、どうにか場を持たせるように鳴り響いていた。

「ワケ分かんねえこと言うんじゃねぇよ。彼女?何だそれ」

春千夜からすれば心底そんな気持ちだった。なのに蘭は苦笑交じりで肩を竦めて、春千夜にとって更に予想外の話題を口にした。

「いや、何って…、この前オマエがティファニー買ってたみてーだから、遂に本命でも出来たのかと思ったんだよ」

蘭のご丁寧な説明に、春千夜の顏が一瞬で固まった。



▽▲▲


「また雨…」

掃除機をかける合間、がふと顔を上げれば、大きな窓にポツポツとした水滴がついていくのに気づいた。一旦掃除機のスイッチを切ると、換気の為に少しだけ開けていた出窓の扉を閉めに行く。せっかく綺麗にした場所を濡らしたくない。

「これで良し、と」

外へ押すように開けてある扉を手前に引き、閉じた後に鍵もきっちり閉めておく。いくら高層階でもその辺は怠らない。
幸い窓枠が濡れるほど降ってなかったらしい。カーテンなども濡れていないかチェックを済ませ、ホっと息を吐いてから再び掃除機をかけ始めた。と言っても毎日かけているので、殆ど汚れておらず、気持ち程度に半日ほどの埃を吸うだけなので、数分もしないうちに終わってしまった。

「えっと…次は――」

掃除機をいつもの収納場所へしまい、ぐるりと室内を見渡す。だが風呂やトイレの掃除も終わり、棚やテーブルなどの拭き掃除も済ませてあるので、これといって掃除をする場所がない。
春千夜の部屋へ出勤してから、まだ一時間半しか経っていなかった。

「今日は帰るか分からないって言ってたから、とくに食事のリクエストもないし…」

何となくキッチンへ足を運びつつ、ピカピカのシンクを見下ろす。そこで本日全ての仕事が終わってることに気づいた。

「…まだ三時なのに…」

今日は食事のリクエストがなかったおかげで少し遅めに来たのだが、それでも日が出てるうちに終わってしまったようだ。
"アイシング"に勤めていた頃は数件かけ持ちが当たり前で、どんなに予約が少ない日でもこんなに早く仕事が終わることはなく、時間を持て余すという経験は初めてだった。

「…どうしよう。暇かも」

時計を眺めながら溜息を吐く。
普通の社会人ならば、早めに仕事が終わったことを喜び、その後に同僚や友人を誘って食事へ行ったり、飲みに行ったりするのかもしれない。だが今のには誘うような同僚もいなければ、気の置けるような友人もいない。会社に勤めていた頃はそれなりに同僚と食事にも行っていたが、あんな形で倒産し、仲の良かったスタッフもその後どうなったかは知らなかった。
事件の影響なのか、発覚後はスタッフ同士が互いに"この人も裏社会の人間なのでは…"と疑心暗鬼になっていたこともあり、退社後は誰からも連絡がこなかったせいだ。
学生時代の友人も社会人になってからは疎遠で連絡先すら分からない。社会人として一人前になり、姉を支える。それしか考えていなかったは、友達からの遊びの誘いを断り、ついでに同窓会の類は一度も顔を出したことがない。当然のことながら、次第に誰からも誘われなくなった。
そんな過去を思い返していると、今更ながら己の交友関係の薄さに愕然とした。

「ほんと仕事バカだったな…わたし」

自嘲気味に呟きながら、窓越しに見える曇天を見上げた。
不意に空いたこの時間がなければ、今の現実に気づくこともなかったかもしれない。それほど忙しい日々を過ごしてきた自覚すらなかった。

「みんなの誘いを無下に断ってたんだし、そりゃ疎遠にもなるよね…」

ただ、言い訳させてもらえるなら、も好きでそうしてきたわけじゃない。が楽しい学生生活を謳歌出来ていたのは、自分のプライベートを犠牲にして姉が働いてくれてたからだ。
学費やその他の雑費、そして施設を出たら姉妹で一緒に暮らす為の資金を、砂羽は必死に稼いでくれた。
元々頭の良かった人だ。その気になれば大学にだって進めただろう。でも進学を選ばず、就職活動もせず、すぐにお金になる夜の仕事を選んだのは、自分の為だとは分かっていた。

"性に合ってるから"

姉が夜の仕事を始めたのを知った時、は「わたしの為に水商売なんかしなくていい」と何度か言ったことがある。でもその話になると、砂羽は必ず明るい声でそう言うのだ。その言葉通り、砂羽は今も楽しそうに働いている。性に合ってるというのは嘘じゃないんだろう。
その内、も砂羽の仕事のことには口を出さなくなった。
砂羽は妹に"自分の人生を犠牲にした"とは思われたくないかもしれないし、その考えこそが自分の傲慢のように感じたからだ。

「あ…久しぶりにお姉ちゃんご飯に誘おうかな…この時間なら二度寝からも覚めてるだろうし――」

姉のことを考えた時、ふと思いつく。
だがスマホを手にした時、曇りガラスに映った首元の輝きを見て、今朝のことを思い出すと途端に気が重くなった。

"やだ、それどうしたの?!誰に貰ったのよ!"

こういう時、高級品に精通してる姉を持つのも考えものだ。
最初は「自分で買った」と言い訳したものの、すぐに「それいくらすると思ってんの?」と鼻で笑われ、秒でバレた。
しつこく問い詰めてくる砂羽に根負けして、渋々事情は説明したが、今度は春千夜との関係を追及される羽目になった。この件には触れられたくなかったものの、つい外すのを忘れて砂羽と顔を合わせてしまった自分も悪い。

"ハァ?日々の仕事ぶりのお礼ってだけでティファニー、しかもダイヤ入りのネックレスをくれるような男じゃないでしょ!ってか、…アンタ、まさか三途さんにヤられちゃったんじゃ――!"

前の晩の酒も残っていたのか、砂羽は朝からおかしなテンションで、とんでもないことを言いだした。

"そのネックレスだって強引にヤったことへの口止め料ってことじゃないの?!"

あまりに突拍子もない理由付けをされ、それには全力で否定したのだが、が仕事に行く間際まで砂羽が疑いの目を向けていたことを思い出した。

「…やっぱやめとこ…」

ジト目の砂羽を思い出し、ご飯に誘うのを断念すると、スマホをエプロンのポケットへと戻す。あの調子ではの説明に納得したとも思えない。顔を合わせば必ずまた事情聴取の如く、質問攻めにあうはずだ。
事実を話しても信じてもらえず、延々と砂羽の珍推理に付き合わされるのは目に見えている。
出来ればしばらく砂羽と顔を合わせない方が身のためかもしれない。

「全く…ほんとのこと言ってるのにお姉ちゃんってば変な勘ぐりしちゃって…しかも無理やりだなんてあるわけないのに…春千代さんのこと何だと思ってんだろ」

確かに砂羽からすれば、春千夜は梵天のナンバーツーであり、危ない男というイメージが強いのかもしれないが、にとっては大事な雇用主であり、職を失いかけた自分を救ってくれた恩人でもある。
まあ、ちょっと口うるさいオレ様な面もあるが、仕事ぶりを評価してくれてもいるし、そのお礼とばかりに高価なプレゼントまでくれた。金銭感覚はズレてるところもあるが、本音を言えばは春千夜の気持ちが嬉しかった。
もちろんネックレスを渡された時は受け取れないという思いも強かったし、返そうともしたが、春千夜に「オレのメンツをつぶす気か」とまで言われてしまった。
そうなると断る方が失礼、と頭を切り替え、有り難く受け取ることにしたのだ。

"やっぱ似合うな、それ"

ネックレスをつけてくれたあと、春千夜がふと呟いたのを思い出す。あの時は変にドキドキして、春千夜の顔をまともに見られなくなったのは内緒の話だ。
今も思い出すだけで頬が熱くなってしまう。

(やっぱ…ってことは…これ選ぶ時、わたしのこと考えてたってことだよね…。何か凄く恥ずかしい…)

ただのお礼で浮かれすぎるな、と理性が働くものの、胸の奥からこみ上げてくる初めての感覚はなかなか消えてくれない。
それが仕事を認めてもらえている嬉しさなのか、それともまた別の感情なのか、自分でもよく分からなかった。

「ハァ…そろそろ帰ろっかな…って、お姉ちゃんが出勤するまで時間潰さなきゃだ」

次第に本降りになってきた外へ視線を戻すと、はエプロンを外し、帰り支度を始めた。

"明日はここに帰るか分かんねえから飯はいい"

玄関に出て靴を履く際、昨日の帰りがけに言われた言葉が頭を過ぎる。
そんなことは今まで何度もあったはずなのに、今日は少しだけ、それが寂しく思えた。



▽▲▽


ポツ…っと冷たい雫が体の中でいちばん無防備な頬へ落ちてきた時、春千夜は小さく舌打ちをした。
もうすぐマンションだってのにツイてない。
本降りになってきた曇天に向かって怒鳴りたいのを堪えながら、自然と地面を蹴って走りだす。ただ走るたび、お気に入りの革靴やスーツに雨水が跳ねるのを感じると余計に苛立ちが増していった。
こんなことなら数分くらいの距離、我慢するべきだったか――?
脳裏にふと浮かんだ思いを、春千夜はすぐに打ち消した。あのまま灰谷兄弟と一緒にいれば、春千夜も限界を超えて殴り合いに発展しただろう。それは仲間同士の揉め事を嫌うマイキーへの裏切りともいえる。
春千夜はそう考え、興味津々でティファニーの用途を訊いてくる兄弟から逃げるように、途中で車を降りた。
本当なら事務所へ顔を出す予定だったが、港区のマンションの近くを通った時、咄嗟に車を停車させた春千夜は、ひとり外へ飛び出した。

"おい三途!どこ行くんだよ"

まさか途中で降りるとは思ってなかったらしい。
蘭が驚いたように叫んでいた。

"汗かいたから一度着替えに戻んだよ。事務所には後で行くと九井に言っとけ!"

呆れ顔の蘭にそれだけ吐き捨てると、春千夜は迷うことなく別宅のマンションへと歩き出した。急なことなので部下も付けていない。公の場をひとりで歩くのは随分と久しぶりな気がする。敵対組織――今で言えば愛田の人間――が不意に襲撃してくることも頭に入れつつ、雑踏を歩いた。その途中で雨に降られたのは予想外だ。

(つーか、何でオレがこんな蒸し暑い、しかも雨ん中、走らなきゃなんねーんだっ)

こうなったのも全てあのバカ兄弟のせいだ――。
思い返すと、沸々と怒りが湧いてくる。
別に何を言われても軽く受け流せばいいだけの話だったのかもしれない。だが、不意にティファニーの件を持ち出され、それが殊の外春千夜を動揺させた。
急なことで上手く誤魔化すことも出来ず、つい車を降りてしまったのは悪手だったと少しだけ後悔したが、もう遅い。
あの二人からすれば春千夜が逃げ出したように見えただろう。

「クソ…胸糞わりぃ…」

何となく弱みを握られた気分になり、余計にイライラしてくる。次に顔を合わせた時、何を言われるか分かったものじゃない。
想像するだけでウンザリしながら、家路を急ぐ。
雨はすでに本降り。髪もスーツもびしょ濡れで、ついでに蒸し暑さで汗まで吹き出してくる。春千夜にとったら最悪の状況だった。早くシャワーを浴びて着替えたい。その思いだけでマンションへ続く脇道を曲がる。その時、同じく角を曲がってきた人物とぶつかりそうになった。

「あぶねえだろ!」

そう怒鳴ったのはいつも通りの対応。だが次の瞬間「す、すみません!」という聞きなれた謝罪が飛んで来て、春千夜は驚いた。

「あ?…?」
「え?あ…!は、春千夜さん…?」

目の前に視線を向けると、オレンジ色の傘をさしたが春千夜と同様、驚いた顔で立っていた。

「ど、どうしたんですか?こんなにびしょ濡れで!車だったんじゃ…」

そう言いながらもはすぐにバッグの中からミニタオルを出し、春千夜の濡れた頬や髪を拭きだした。ついでに背伸びをして春千夜が濡れないようにと傘をさしてくる。それを見た春千夜は条件反射で彼女の手から傘を奪った。

「いいって。オマエが濡れんだろが」
「平気です。それよりこのままマンションまで送ります。すぐにお風呂も沸かしますね」
「あ…?でもオマエ、帰るとこだったんじゃねぇのかよ」
「いいんです。こんな状態で置いて帰れません」

当然のようにマンションへと歩き出したに促され、春千夜も仕方なくそれに続く。一瞬、ガキじゃあるまいし、ひとりで帰れる…と言いかけたのだが、確かに自分であれこれ動くよりは、仕事の早いにやってもらった方がいいかもしれないと思い直す。
この時――少し離れた場所から二人を見ていた人物がいたことに、春千夜は全く気づいていなかった。

「あ、タオル持ってくるので待ってて下さい」

マンションに着いてすぐ、が先に部屋へ入り、春千夜が濡れた足を拭く為のタオルを用意してくれた。ついでに風呂が沸くまでの着替えまで持って来たのだから何も言うことはない。
春千夜が思う通りに動き、望むものを提供してくれるのだから、やはり彼女を専属キーパーにしたのは正解だったと改めて思う。

「お風呂が沸くまでこれ飲んでて下さいね」

軽く部屋着に着替えた後、春千夜がバスタオルで髪を拭いていると、いつの間に淹れたのか、がアイスコーヒーを運んできた。
まさに至れり尽くせり。
そんな言葉を思い浮かべながらソファに座り、冷たいコーヒーで乾いた喉を潤す。それだけでさっきまでの苛立ちを帳消しにしてくれる気がした。
その間もは休むことなく動き回り、何故か玄関へと歩いて行く。

「おい、どこ行くんだよ。もう帰んのか?」
「いえ、ロビーです。濡れたスーツのクリーニングをコンシェルジュの方に頼みに。早めに出した方がいいと思って」

はそう言いながらクリーニングバッグを軽く持ち上げた。汚したわけじゃなく、雨に濡れただけなのだが、潔癖症の春千夜を気遣ってくれているのは間違いない。そう感じた時「悪いな」という言葉が口から零れ落ちた。

「いえ、これが仕事なので。じゃあ行ってきますね」

はいつも通りの笑顔で応えながら、すぐに部屋を出て行く。それを見送っていた春千夜だったが、不意にモヤっとしたものが胸の奥にこみ上げた気がした。
理由は分からないが、何となく面白くない。

「…仕事…か…」

そう呟きながら室内を見渡すと、心地のいい綺麗な空間が広がっている。相変わらず丁寧な仕事ぶりだ、と感心してしまうほどに。
なのに――気分が晴れるどころか、重苦しいもので満たされていく。
それは言葉では上手く表せない"何か"が胸の奥に生まれて、そのまま居座っているような感覚。

「何だこれ…気持ちわりぃ…」

体の奥がむず痒いような気さえして、胸元をかいてみたものの、肝心なところに全く手が届いていない気持ち悪さだけが残る。
ただ、この感覚の意味は分からなくても、何故そうなったのかは春千夜も気づいていた。

「下らねえ…アイツは仕事でここに来てるだけだろ…」

そう。何もは春千夜の為だけに掃除をしたり、料理を作りに来てるわけじゃない。
彼女にとっては全てが仕事であり、そこには給与というものが発生するからやってるだけだ。
そんなことはを雇った春千夜が一番分かっている。
自分にとって最高のサービスをしてくれる人間はそういない。だからこそ専属という形で雇った。
自分以外の人間に奪われない為に、破格の値段を提示して。
なのに手に入れた今、また別の何かを欲している自分がいて、少しだけ驚いた。

"オマエ、重たいんだよ。色々と"

マイキーに言われた言葉が今更ながらに圧し掛かってくるようで、春千夜は深々と溜息を吐いた。

「ってか…欲しいものを欲しがって何が悪いんだ?重たいって何だよ…」

その辺は漠然としたまま、何となく理解してる気になっていただけで、ハッキリとした意味を分かっていなかったかもしれない。

「春千夜さん…?どうかしましたか?」

不意に背後から声をかけられ、我に返る。いつの間に戻って来たのか、後ろにはが不思議そうな顔で立っていた。

「お風呂湧いてましたけど…入らないんですか?」
「…ああ。今入ろうと思ってた」

とりあえずその場を取り繕うように応えると、春千夜はバスルームへと向かった。だがふと足を止めて振り返る。

「オマエ…もう帰んのかよ」
「え…?あ…はい。他に用がなければ…」

はそう言いながら真っすぐ春千夜を見上げてくる。その姿はまるで命令を待つ従順な犬のように見えて、春千夜は軽く吹き出した。首元には自分がはめた首輪がキラキラ輝きを放っている。

「いや…特に用はねえ。オレもこの後、事務所に戻らなきゃなんねーし」
「あ、そうなんですね。じゃあ…わたしはこれで――」

何となく残念そうに応えるを見て、ほんとに仕事好きなんだな、と少々呆れたものの、この雨の中を帰すのは何となく、そう何となく気が引けた。
帰ろうとしてた彼女を連れ戻した形になったのは自分のせいでもある。

「つーか…何か急ぎの用でもあんのかよ」
「え?わたし…ですか?」
「オマエしかいねーだろ」

キョトンとした様子のは「いえ…特には…」と素直に応えた。

「あっそ。じゃあオレが風呂あがるまで待ってろ。車で家まで送ってやっから」
「え…っ?何で…」
「この大雨の中、駅まで歩いて電車乗るのだりーだろ」
「そ、それはそうですけど…でも春千夜さん、事務所に戻らないといけないんでしょ…?」
「別にオマエを送ってからでも遅くねえ。いーから待ってろ」

そう言い捨て、の返事を聞く前にサッサとバスルームへ向かう。
変に遠慮する性格なのは分かっているから、ここはいつも通り強引に。
もう少しだけとの時間が欲しいと思ったのは、おかしな独占欲からなのか、それとも別の何かなのか、この時の春千夜にはそこまで分からなかった。


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