Magenta...13



「あの…ほんとすみません。お疲れのとこ」

車内に流れる軽快なBGMには似つかわしくない、まさにおずおずといった様子で、はハンドルを握る春千夜を見た。
窓には相変わらず打ち付けてくる雨。春千夜のマンションを出る頃には、雨脚も強まっていたせいか、窓も白く曇ってしまっている。外の景色が見えないと、車内という密室が余計に強調されてるように感じた。
しかも前回乗せてもらったハマーではなく、今日は黒の高級セダン。それなりに広い空間ではあるものの、運転席との距離はハマーよりも断然近い。ついでに言えば、春千夜からは風呂上りのいい香りがする。色々な条件が重なった結果、は少し緊張していた。
やはり仕事として部屋で顔を合わせるのと、予定外で車に乗せてもらうのとでは、何となく流れる空気が違うのだ。
春千夜は黙って運転していたが、が謝罪したことで怪訝そうに眉間を寄せた。

「何でオマエが謝んだよ。オレが言い出したことだろ」
「…でも帰って来たばかりなのに、わたしのせいで…」
「それはこっちの台詞だ。オマエが帰ろうとしてたのをオレが引き留めて遅くなったんだしな。だから、いちいち謝んじゃねえ」
「は、はい。すみませ…」

と言いかけたの言葉を遮るよう「だーから、謝んじゃねえよ」と、春千夜が呆れたように笑った。

のそれは、もうクセだな、ったく」
「…う…そ、そうかも…」

自覚があるだけに、もつい苦笑いを浮かべた。仕事柄、相手の気持ちを勝手に察してしまうところがある。ただ、自分が何かしら迷惑をかけてしまったと思っても、必ずしも相手がそう感じてるとは限らない。

(でも…意外。春千夜さんってオレ様だし(!)こういうことサラっとしてくれるようなタイプには見えないのに…)

何気に失礼なことを考えつつ、隣に視線を送る。春千夜は再び黙って運転していた。
一度は雨に濡れた春千夜に、はルームウエアを出したが、シャワーを浴びた後は、いつも通りスーツに着替えていた。を送った後で事務所に行くためだろう。普段は控えめなパープル系のスーツが多い春千夜だが、今は珍しく黒いシックなデザインのものを着ている。
鮮やかな髪色が映えて、とても似合っていた。
きっちりとネクタイを絞めた首元、ジャケットの下に覗く、シャツの袖口から伸びた手首さえ、どことなく男の色香が漂っている。
ハンドルを握るゴツゴツした手も、端正な顔立ちとミスマッチだからこそ、余計に男を感じさせた。

(やだな…何かドキドキしてきた)

変な緊張が増して、ふと首元のネックレスへ触れる。これをもらって以来、時々こんな風に意識してしまう自分がいて、は戸惑っていた。
いつものように"春千夜さんはお客様"…と心の中で何度も唱える。

「…何だよ。人の顔ジロジロと」
「え…っ」

からの視線に気づいた春千夜が、不意に口を開いた。同時に信号が赤になったことで、車が一時、停車する。

「い、いえ…あの…」

急なことで焦ったは、つい前から感じていたことを口にした。

「春千夜さんは…優しい人だな、と思って…」
「あ?…オレがかよ?」

春千夜は一瞬、驚いた顔を見せた。でもすぐに「はは…っ」と軽く吹きだした。

「オレが優しい?オマエもたいがい人を見る目ねぇな。んなこと言われたのは初めてだ」
「え?嘘…」
「嘘じゃねえ。梵天内でオレのことを"優しい"と思ってる人間はひとりもいねぇよ。ま、それは組織の奴らに限っての話じゃねぇけどな」

心底面白そうに春千夜が笑う。

「こうしてオマエを送ってんのも、ただのついでだ」

を横目で見ながら、春千夜はそう吐き捨てた。
しかし、それが半分は嘘であると、は意味もなく信じていた。優しくなければ、代行サービスで家事をしに来てるだけの人間を、忙しい最中、わざわざ送ったりはしない。
たとえ、帰りがけに引き留めて仕事を頼もうが、雨が降っていようが、勝手に帰らせればいいだけの話なのだから。

「ってか…なにニヤけてんだよ」
「べ、別に…ニヤけてたわけじゃ…」

何となく春千夜の性格が分かってきた気がして、その嬉しさが顔に出てしまったらしい。つい顔が緩んだところを見られ、は慌てて首を振った。口が裂けても「素直じゃないですね」とは言えない。
春千夜は怪訝そうな顔で「変な女だな」と眉間を寄せたが、信号が青に変わったことで、再びアクセルを踏み込む。ちょうど、その時だった。車内に着信音が鳴り響き、春千夜が小さく舌打ちをした。
片手でスーツの内ポケットからスマホを出し、器用に画面をタップする。

「何だよ、ココ…。あ?もうそっち向かってる。ああ…」

その話しぶりで梵天の仲間からだと感じたは、邪魔にならないよう、無意識で息を殺していた。あまり会話の内容も聞かないように、窓の外へ意識を向ける。だが、春千夜の「あ?マイキーが?」と慌てた声を聞いて、ビクリと肩が跳ねてしまった。

「分かった。すぐ行く」

春千夜はそれだけ言って通話を終わらせると、スマホをダッシュボードへ放り投げ、すぐさまハンドルを切った。向かった先はのマンションとは別の方向。少し驚いて春千夜を見ると、「わりぃ。やっぱ先に事務所行っていいか?」と訊かれた。

「え…は、はい…わたしはいいですけど…何か…トラブルでも…」

ひどく慌てた様子を見て、何かしら問題が起きたのかと思った。いつも冷静な春千夜らしくない。だが春千夜は苦笑気味に首を振った。

「いや…そうじゃねえが…ウチのボスが来たらしい。来る予定なんかなかったのに」
「…ボ、ボス…」

はごくりと喉を鳴らした。組織内でナンバー2の春千夜が「ボス」と呼ぶのは、日本の闇を牛耳っている巨悪、梵天の頂点に他ならない。それくらいは素人のでも分かる。そのボスが、今から向かう事務所にいる――。
今度はが慌てる番だった。

「あ、あの…!そういうことなら、途中で降ろしてくれればタクシー拾って帰ります」
「あ?何でだよ」

春千夜が訝しげな表情でを見た。

「何でって…」

怖いから、とは言えず、はモゴモゴと口ごもった。

「お、お邪魔だろうし…」
「別に邪魔じゃねえ。オマエは車で待ってろ。用が済んだら送ってやる」
「…でも…」
「だいたい、この雨じゃタクシーだって拾えねぇ。探してる間にずぶ濡れになんぞ」

言われて窓の外へ目を向けると、嵐と思うほどに雨が窓を打ち付けてくる。あまりの豪雨に前方が白み始め、ワイパーの動きもどこか忙しない。
さすがのも、この大雨の中、歩き回ろうとは思えなかった。

「じゃ、じゃあ…車で待ってます」
「…ああ。そんなにかからねえ。多分な」

春千夜はそれだけ言うと、徐々にスピードを上げ、事務所へと車を走らせる。あの春千代がこれだけ急ぐということは、それほど怖いボスなのか。
どんな人なんだろう、と少しだけ興味が湧いた。

(確か、前に小柄な人だって…言ってたっけ)

ふと春千夜から聞いた話を思い出す。小柄なのに最強。そう言ってたはずだ。そして大切な人だとも。
あまり他人に興味を示さなそうな春千夜が、そこまで言うのだから、きっとカリスマ性がある人なんだろう。
ちょっとだけ見てみたい気もする。
があれこれ勝手な想像をしているうちに、春千夜の運転する車は六本木駅からほど近い、大きなビルへと入って行った。そこは地下駐車場。似たような黒のセダンがあちらこちらに停車している。その中には大きなリムジンや、派手な外車などもあった。
まるで車屋さんみたい、とが驚いているうちに、春千夜は、奥にあるエレベーター付近のスペースへ車を停車した。

はここで待ってろ」
「は、はい」
「出来るだけ早く戻る」

それだけ言うと、春千夜は慌ただしく車を降りて、エレベーターのある方へ歩いて行く。すると、どこからともなく数人の男達が出迎えるように現れ、春千夜が乗り込んだエレベーターに、次々と同乗していった。きっと部下なんだろう。その光景を見ていたは、春千夜が本当に梵天のナンバー2なんだ、と改めて思い知らされた気がした。

「…やっぱり凄い人なんだ…春千夜さんは」

上がっていくエレベーターを車内から見送りつつ、ふぅっと溜息を吐く。春千夜と顔を合わせる時は常にふたりだけという状況だから、あまり深く考えたことはなかった。でも、こうして大勢の部下を引き連れている姿を見てしまうと、ただ圧倒されてしまう。
本来なら、自分なんかが会えるような人でもなければ、容易く口が利けるような人でもないんだろうな、と、少しだけ寂しさを覚えた。

「…って、何で落ち込んでるの、わたしは!」

ズーンという形容詞が似合いそうなほどに俯いてる自分に気づき、がばりと顔を上げる。元々、春千夜は雇い主であり、自分はあくまで家事代行のサービスを提供するだけの存在だ。春千夜が違う世界の住人ということは最初から分かってたのだから、今更そこを気にする必要もなければ、変に落ち込む必要もない。

(わたしは自分の仕事をするのみ。春千夜さんがどんなに遠い存在でも、わたしは自分の仕事をやっていればいいんだ…)

新たに決意しながら、ゆったりとしたシートに背中を預ける。
その時、突如として静かな車内に先ほど聞いた着信音が鳴り響いた。予想外の音に、の体がビクリと跳ねる。

「え…これって春千夜さんの…」

着信音と連動しながら振動するスマホは、ダッシュボードに置かれたままになっていた。

「あ…!春千夜さん、急いでたし忘れてったんだ…」

不思議なもので、勝手に他人のスマホに触れるのは、何故か罪悪感を覚える。一瞬、手に取るか迷ったものの、スマホは振動を続け、今にもダッシュボードから落ちそうになっていた。それに気づいたは慌てて手を伸ばし、ちょうど落ちてきたスマホを見事にキャッチ。ホっと息を吐いた。

「危なかったぁ…」

足元にはフカフカのマットが敷かれてるとはいえ、繊細な機器を落とすのは気が引けるものだ。一応、どこも破損していないかチェックしつつ、未だ鳴っている画面に視線を落とした。

「…"はい…たに…バカ兄貴"…?」

ほんのりと明るく光る画面。そこに表示されていた名前に、は小首を傾げた。誰かは知らないが、"バカ兄貴"と登録してるらしい。あの春千代がやったのかと思うと、ちょっとだけ笑ってしまう。
ただ、困ったことに、電話は一向に鳴りやむ気配がなかった。

「ど、どうしよう…急ぎの用事なんじゃ…。バカって登録するくらいだし部下の人かな…」

春千夜のスマホ――ピカピカすぎて指紋を付けるのが怖い――を手にしながら、右往左往していたは、とりあえず車を降りることにした。その辺にさっきのような部下の人がいれば、これを春千夜に渡してもらおうと思ったのだ。

「えっと…誰かいないかな…」

車だらけの空間を見渡しながら、エレベーターの方へ歩き出す。その瞬間――。

「あれぇ?こんなとこに女の子はっけーん」
「…っ」

背後から大きな声が聞こえて、は金縛りにあったかのように固まってしまった。



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