目の前に歩いて来た長身の男を見た時、は本能的に怖いと感じた。
二色の鮮やかな色に染め上げた短い髪に、高級スーツを身に着けた姿は、どう考えても組織の幹部。相当な威圧感がある。そして今、がいるのは、その組織の本拠地ともいえる事務所の地下駐車場。事情を知らない相手からみれば、不法侵入者ということになる。最悪、殺され、人知れず海へ捨てられてもおかしくない状況だ。がここへ連れて来られたことは、春千夜以外に誰も知らないのだから、例え殺されても、ただの失踪扱いにされてしまう可能性の方が高い。
勝手に悪い方、悪い方へと想像を膨らませすぎて、徐々にの顏から血の気が引いていく。
だが、そんな最悪の予想に反して、近づいて来た男は、気さくな笑みを向けてきた。
「あれれ…君、真っ青じゃん。大丈夫かよ」
「え…っと…わたし…」
てっきり怒鳴られるかと思っていただけに、普通のテンションで声をかけられ、は言葉に詰まった。未だ春千夜のスマホは鳴り響き、手に振動が伝わってくる。このよく分からない状況をどう切り抜けたらいいのかも分からず、かなり頭が混乱していた。
すると、何かを察したらしい。目の前の男は「ああ、そうだった」と笑い、に自分の持つスマホを振ってみせた。
「多分、その電話かけてんのオレなんだわ。うるせーから切るなー?」
「…え…」
この電話の相手が目の前の男?は一瞬呆気にとられた。まさか、かけてきた本人が現れるとは思わない。そして言った通り、男がスマホをタップすると、鳴りっぱなしだった着信音がピタリと止んだ。
「あ…」
思わず静かになったスマホを見下ろす。そして、気づいた。今ので完全に、これが春千夜のスマホだと知られたことを。
恐る恐る視線を上げると、男の端正な顔立ちが意味ありげに微笑んでいた。こんな状況、ついでに男の正体を知らなければ、思わず見惚れてしまうほどの魅力的な笑顔だ。
(春千夜さんも凄く綺麗な顔立ちしてるけど…この人も相当な美形…梵天って顔で選んでたり…?)
動揺する中で、ふと呑気にそんなことを考えていると、男は軽く小首を傾げながら、を見下ろした。
「…で。きみはどこの誰?それ、うちのナンバー2のスマホだと思うんだけどさぁ」
男はそう言いながら、視線を下げて、何かに気づいたように片方の眉を僅かに上げると、何故かの首元へ手を伸ばし、ネックレスをそっと持ち上げた。
「ティファニーもはっけーん」
男が心底愉しげに呟く。その言動の意図が分からず、は戸惑いを隠せない。
「え…?…あ、あの――」
「兄貴~その子だれ~?」
どう反応すればいいのか分からず、困っていると、男の後ろからもう一人、男が歩いて来る。この男もまた、二色の色に髪を染め上げ、襟足を肩まで伸ばしていた。派手めの高級スーツを着こなしてる様は、どことなく目の前の男と似た雰囲気ではあるが、童顔のわりに鋭い瞳が少し威圧的で、は更に怖いと感じた。
「おー竜胆。いや、知らねえけど、この子が三途のスマホ持ってたんだよ。だから多分…」
「あっ!さっき三途と一緒にいた女か!」
「え…?」
「ああ、間違いねえよ。この子、ティファニー付けてるし偶然にしちゃおかしいだろ」
「マジで?あ!ほんとだ…ネックレスだったんか!」
普通に会話を始めたふたりを見て、は更に戸惑った。どこでかは知らないが、春千夜と一緒のところを見られてたらしい。何故、ふたりがティファニーを気にしているのかは分からないが、この様子なら事情を話せば、ここにいた理由を分かってもらえるかもしれない。そう思った。
「あ、あの…お話中のところすみません…」
「「ん?」」
「う…」
端正な顔立ちの男ふたりが、同時に見下ろしてくる光景は、なかなかの迫力だと思った。目が潰れそうなほど眩しい。一瞬、気おされそうになったものの、"不法侵入者"として海へ捨てられる前に(!)きちんと事情を話そうと、いつもの営業用スマイルをふたりに向けた。
「あの…わたし、三途さんに雇われている家事代行の者でして…決して怪しい者じゃありません。今日はたまたま送ってもらう途中で三途さんに用が出来たらしくて…ここで待ってたんです。あ、このスマホは三途さんが車に忘れていって、ずっと鳴ってたので、三途さんに渡してもらおうと人を探してるところだったんです」
一気に説明した後、もう一度ふたりに微笑みかける。今の説明なら、もし何か誤解されていたとしても分かってくれるはず。その安堵の表情でもあった。
だが、ふたりの男は何度か目を瞬かせると、
「「え?」」
「…え?」
想像していた反応とは違い、もつい素で聞き返す。
ふたりの顔は、どう見ても呆気にとられたような表情だったからだ。何かマズいことでも言ったっけ?と、も不安になってきた時だった。
「…はぁぁ?」
「家事代行?!」
「……っ?」
ふたりが驚愕といった様子で声を上げ、も飛び上がらんばかりに驚いた。
「え、マジで家事代行?」
「え、あ…はい…そうです…けど…」
「嘘だろ…ってことは例の?つーか、何で代行スタッフなんか送ってたんだ?いや、それより、このティファニーは?偶然か?」
「え?あ、あの…」
高身長のふたりに挟まれ、ジロジロと不躾な視線を向けられると、威圧感がハンパない。無意識に足が後退していくのも仕方のないことだった。
この状況に再び混乱し始めた時、最初に声をかけてきた男が「ってことは三途の彼女じゃねーの?」と訊いてきた。
「……え?」
"彼女"という言葉の意味を、理解するまで少し時間を要したものの。何か誤解されてる?と感じた時、今度はが驚愕する番だった。
「と、とんでもありません…!わたしは春千夜さんに雇われてるだけで――」
「…春千代さん…?」
「あ…」
つい素で応えてしまったは、すぐに「い、いえ、三途さん…です」と言い直した。いくら本人から言われたとはいえ、雇い主を名前で呼ぶなど、第三者が聞けばおかしいと思われる。だからこそ人前では気をつけていたのに、相手のペースに飲まれ、うっかりしてしまった。
(どうしよう…同じ組織の人だろうし、変に思われたら…)
別にやましい関係でもないのに、変に誤解されてしまうのは春千夜に申し訳ない。
「あの…ほんとに三途さんは雇い主というだけで――」
もう一度、きちんと説明しようとした時、後から来た男の方が「でもさー…首にしてるティファニーはもらった?」と訊いてきた。その不意打ちのような質問で、心臓が僅かに跳ねる。もともと嘘は得意な方じゃない。顔が強張ったのは、自分でも分かった。
「え…っと…」
「あ~その顏はもらったんだ。やっぱそれか」
「い、いえ、これは…」
自分で、と言おうとしたが、以前、姉の砂羽にすぐ見抜かれたことを思い出し、言葉に詰まった。そもそも首に飾られたネックレスは、代行サービスの給料でたやすく買える代物じゃない。
このふたりなら、とっくに見抜いてるはずだ。
目の前で意味ありげな笑みを浮かべる男たちを見て、はそう感じた。
(だとしても…はっきり認めるのは何となく良くない気が…)
春千夜と目の前の男たちが、どういった関係性なのかも分からない。勝手に春千夜のプライベート的な話をするわけにはいかなかった。
「えっと…これは…か…彼氏にもらって…」
と、言った後で、自分でも驚いた。彼氏どころか、これまで男の人とまともに付き合ったこともないのだ。
でも言ってしまったのだから、もう訂正はできない。
「へえ…彼氏ねえ」
「……は、はい」
長身の男がニヤリと笑うのを見て、の頬が引きつる。でもこの場をどうにか切り抜けたかった。
すると男は何を思ったのか、身を屈めての顔を覗き込む。至近距離で見る男の綺麗な顔は、余計に迫力があった。
「ま、それならいいんだけど、ちょっとオレたちと一緒に来てくんねぇ?」
「…は?」
男がニッコリと微笑み、ガシッとの手首を掴む。
「どうせ三途も上にいるし、待つなら事務所で待ってりゃいーじゃん」
「え?い、いえ、いいです…!わたしはここで――」
強引に腕を引かれ、慌てて足を踏ん張ったものの、力では到底かなわない。そのままエレベーター前まで連行されてしまった。
「そんなビビらなくても。何もしねえって。それにそのスマホ、三途に渡したいんだろ?」
後からついて来た男も、どこか愉しげに笑ってるのを見て、ふたりは本気で自分を事務所へ連れていこうとしてるんだと悟った。
とはいえ、今この事務所には――。
(ど、どどうしよう!確か春千夜さんはボスが来てるって言ってた…。そんな場所にわたしなんかが行っても春千夜さんが困るんじゃ…)
遂にはエレベーターに乗せられてしまったことで、余計に焦ってしまった。
「あ、あの…わたし、車で待ってます。放して下さい…」
「いいじゃん。三途もその方が安心するって」
「そ、そんなことは…」
何て強引なんだ、と驚いて顔を上げると、男は「ああ、オレは灰谷蘭。こっちは弟の竜胆」と不意に名乗ってきた。
(ん?灰谷…?)
そこで思い出したのが、先ほど春千夜のスマホに登録されていた名前。
"灰谷バカ兄貴"という表示が頭に浮かんで、ふたりは兄弟なんだ、と妙に納得してしまった。春千夜との関係性は未だに分からないものの、が最初に思ったような部下という感じじゃない。
ナンバー2の春千夜を、「三途」と呼び捨てにしてる時点で、やはり同じ幹部といったところだろう。
「で…君は?」
最初に声をかけてきた男――灰谷蘭が、最上階のボタンを押しながら訊いてくる。
「え、あ………と言います…」
つい馬鹿正直に応えた後、は慌てて開閉ボタンの"開"を押した。このまま上の階に連れていかれるのは避けたい一心で。
がそんな行動をすると思っていなかったらしい。蘭と竜胆が「おもしれぇー」と何故か笑いだす。
「ちゃんって言ったっけ。結構、頑固だなぁ?」
「す、すみません…でも三途さんに断りもなく勝手に動くわけには…」
「あ~大丈夫だって。その辺はオレ達が上手く言ってやるから」
「そうそう。今日はマイキーもいるし、三途もそうそう暴れねえだろ」
竜胆がスマホを手に笑うと、蘭が「え、マイキー来てんの?」と聞き返した。
(マイキー…?)
その名前にはも聞き覚えがあった。春千夜が電話で話してる時に口にした名だ。話の流れから、その外国人みたいな名前の人物が、梵天のボスだと想像できる。
「ああ、気づかなかったけど、何か結構前にココからメッセージ入ってた」
「マジか。どうせ暇だから遊びに来たんじゃね?」
兄弟でそんな会話をしながら、再び蘭が開閉ボタンを押した。あ、と思った時には遅かった。扉が閉まった瞬間、エレベーターが上昇し始める。
「あの…困ります…わたし…」
無駄だと感じながらも、抗議のつもりでふたりを見上げると、蘭が「もう遅いって」と笑いながら、掴んでいたの手を離した。今さら解放されたところで、密室のエレベーター内では逃げようもなく。はこの後どうしようかと、本気で困っていた。
「あれ…急に元気なくなったじゃん。そんなに嫌だった?」
「い、いえ…嫌とかじゃなく…その…ご迷惑かなと…」
自分のような女が、雇い主の職場――反社組織だけど――に、のこのこ顔を出していいはずがない。そんなのは考えなくても分かる。例え、このふたりに強引に連れてこられたんだとしても、春千夜がいい顔をしないのは簡単に想像できてしまう。
(春千夜さんに嫌われたくない…)
胸の奥にそんな思いが過ぎる。気難しかった春千夜と、これまでに築いた関係が今日で台なしになるのも怖かった。といって、この兄弟を振り切れる自信もなく、は泣きそうになるのを必死でこらえた。
その様子に蘭と竜胆も少し驚きつつ、困ったように顔を見合わせた。
「ちゃん、今時の子にしちゃー真面目だな。大丈夫だって、三途は」
「ってか、心配するほどアイツに迷惑なんてかからねえよ。駐車場に女の子をひとりで待たせてる三途がわりーんだから」
兄と弟からフォローするように言われても、は素直に頷けない。
"何しに来た"と怒鳴られる未来しか想像できなかった。
まさか三人がエレベーターに乗り込んだ際、入れ違いで春千夜が駐車場へ下りたことは、も、当然、灰谷兄弟も全く気づいていなかった。