Magenta...16



スマホを車内に忘れてきたことを思い出し、急いで地下駐車場へ下りた春千夜は、当然が車の中で待っているものと思っていた。

「……あ?」

自分の乗って来たセダンの方へ歩み寄り、運転席のドアを開けた春千夜は、空っぽの助手席を見て、しばし固まった。いるはずの人物がいない。その予想外の状況に、一瞬だけ困惑する。

「チッ…アイツ…まさか一人で家に帰ったのか…?」

がいないことに戸惑ったものの、先ほど遠慮してタクシーで帰ると言い出したのを思い出した春千夜は、当然その可能性を考えた。外は酷い暴風雨だとしても、この場所にタクシーを呼べば可能だ。だが、彼女の性格を考えれば、何となくその行動に違和感を覚えた。
ならば春千夜に何の断りもなく、勝手に帰ることはしないんじゃないか、と考える。普段から律儀すぎるくらい律儀なを見ているからこその信頼が、春千夜の中にもある。
でも、そうなると、が消えた理由を他に思いつかない。

(もしかして、オレのケータイへメッセージを残して帰ったのか?)

そう考えなおしたが、ただ春千夜のスマホは車内に置いてある。それが鳴ればも春千夜が忘れていったことに気づくはずだ。そう思いながら自分のスマホを置いたダッシュボードへ目を向けた春千夜は、再び驚く羽目になった。

「…は?何でねぇんだよ」

先ほど確かに置いたはずの場所にスマホはなく、今度こそ唖然とする。大事な情報が入ったものだ。若干血の気が引いた。

(まさかがオレのスマホを持っていったのか?でも…アイツにそんなことする理由はねえ…。いや、それとも…実は敵対する組織の人間だった…?)

状況が整理できず、春千夜は混乱した頭で色んな可能性を考えた。だが、どれも推測の域をでない。 それに今日まで春千夜が見てきたという女は、人を欺けるほど器用な人間じゃない。
そこまで考えて、春千夜はかすかに苦笑いを零した。そう思いたい、という願望が少なからず、自分の中にあるのを気づいたからだ。前の自分なら考えられない。
そこで、ふと駐車場を見渡してみた。が消えたのは何か他に理由があるのでは、と思ったからだ。
すると、ここへ来た時には空いていたスペースに、一台の車が駐車されてることに気づいた。

「…あれは…アイツらの乗って来た車じゃねえか…」

その黒塗りの車は、さっき春千夜がマンションへ帰るのに下車するまで、灰谷兄弟たちと一緒に乗っていたものだった。運転席には見覚えのある部下が残っていて、スマホで誰かと話している。
そこで、すでに二人が事務所へ来ていることに気づいた。

「まさか…」

ふと嫌な想像が脳裏を駆け抜け、春千夜は慌ててエレベーターの方へ振り返った。

「入れ違いか…?」

二つあるエレベーターの内、春千夜が乗ってきたものは今も地下にある。だが、もう一つのエレベーターは、春千夜の予想通り、最上階で止まっていた。それはさっきまで地下にあったものだ。

「いや、でもいくら何でも…」

自分の想像通りなら、最悪の状況だと思う。でもそういうことをやりかねないのが、あの兄弟だ。

「あ…さ、三途さん…」

不意に後ろで声がした。見れば、さっきの運転手の男が青い顔で立っている。電話を終え、自分も事務所へ戻ろうとしたんだろう。予想外にも春千夜がいたことで、驚いた様子だ。

「おい、灰谷はどうした」
「は、はい…今さっき事務所へ戻られ――」
「そん時…アイツら二人だけだったか?」
「う…」

言葉を遮りながら、圧をかけるような質問をされ、男は明らかに動揺した。

「おい、応えろ!オレの車に女が乗ってたはずだ。オマエ、何か見たんじゃねえのかよ」
「ひ…す、すみません…!その女は…あの…お二人が上へ…」
「ハァ?上って…事務所にか」
「た、多分…。ただ…女の方はその…かなり嫌がってたようでしたけど…蘭さんが強引に連れて行ったというか…」

核心を突く春千夜の問いに、男はあっさり白状した。思わず舌打ちが出る。

「灰谷の野郎…」

どす黒い感情が一気に腹の底からこみ上げてきて、春千夜はすぐにエレベーターへ乗り込んだ。嫌がるを強引に事務所へ連れて行った。その事実だけで怒りのボルテージも増していく。
それは、自分の領域を侵された不快さと同等だった。


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