Magenta...18




「やっぱオマエかよ…」

を送る為に戻った地下駐車場。その車内で、おずおずと差し出されたスマホを見て、春千夜は小さく息を吐いた。

「す、すみません…。春千夜さんが事務所に行ってからすぐ鳴り出して…あまりに鳴ってるから急用かもと思ったので部下の人に預けようと車を降りたんです。そしたら灰谷さんが来て…」
「…捕まったってわけか。ハァ…」

真相が分かった途端、深い溜息を吐く。特に返してもらったスマホの着信履歴を見れば、どういう状況になったのかを想像するのは容易かった。
蘭が春千夜に電話をかけてるところへ、が鳴りやまないスマホを持ってウロついていれば、必然的にさっきの状況になるだろう。例え、がどれだけ拒否しようが、蘭なら上手く丸め込んで事務所へ誘導する。それも春千夜の反応を見て楽しむだけのために。灰谷蘭という男は、そういう無駄なことに労力を惜しまないところがあるのは、春千夜もよく知っている。
結局、蘭はいつも自分の想い通りにコトを運ぶのだ。を雇う件も、ただの思いつきだろう。気に入らねえ…と春千夜は思う。本当ならに「断れ」と言いたかった。でもそれを言えば、あの兄弟は変に勘ぐりだすに違いない。そうなれば更に面倒なことになるのは目に見えている。

「…うぜぇ…」

ハンドルを握りしめ、そこへ突っ伏した瞬間、つい本音が口から吐き出された。未だ怒りの火種が燻っていて、イライラが募ってくるばかりだ。
万次郎の手前、その元凶を殴ることさえ出来ないのだから、春千夜にしてみれば、かなりのストレスだった。

「す、すみません…わたしが車から降りたばかりに…」

その時、が唐突に謝ってきた。春千夜の機嫌が悪いのは、全て自分のせいだと思ってるようだ。だが、それはただのキッカケに過ぎず、例えが今日、蘭と鉢合わせしなかったとしても、ティファニーの件を気にしていた二人なら、いずれ彼女の存在に行きついていたかもしれない。現に今日も尾行していたとアッサリ白状され、春千夜はそこまでするか?と呆れてしまった。

「どうせ車内にいたところで、目ざといアイツがに気づかない保証なんてねえ。それに…オマエにあの男を振り切れるとも思ってねえよ。だから――」

――謝んな。
そう言おうと思った。なのにはもう一度「本当にすみませんでした…」と春千夜に頭を下げた。かすかに声が震えているのは、泣くのを我慢してるのかもしれない。そこに気づいた春千夜は、呆れたように息を吐くと、頭を下げたままのの顎を持ち上げた。

「何でんな顔してんだよ…」
「だ、だって…」

案の定、の目は潤みを帯びて、今にも涙が零れ落ちそうになっている。唇を噛みしめるその顏はまるで叱られた子供のようにも見えた。

「春千夜さんに迷惑かけたし…仕事の件だって…」
「別に迷惑とか思ってねえし、あれもオマエのせいじゃねえだろ。灰谷はオレの嫌がることをやんのが趣味みたいなヤツなんだよ」
「そ…そんなに仲が悪いんですか…?」

が驚きながら訊ねると、春千夜はかすかに笑った。

「…仲がいいとか悪いとかの問題じゃねえ。ガキじゃねーんだから。ただ…いけ好かねえってだけだ」

そう、何もかもいけ好かない。そういう相性の悪い相手は誰にでも一人くらいはいるものだ。春千夜にとって、それが灰谷兄弟というだけだ。

「…じゃあ…わたし、ほんとに仕事を受けて良かったんですか?」

黙って聞いていたが、ふと春千夜を見た。泣きそうだった顔には、すでに涙の痕が残っている。ぐす…っと鼻をすすってる辺り、本格的に泣きだしたようだ。
それに気づいた春千夜の顏が、徐々に引きつっていく。

「な…何で泣いてんだ、テメェ…」
「だ、だって…春千夜さん、怒ってるし…」
「だからオマエに怒ってるわけじゃ――」
「でも、灰谷さんのお宅で仕事することが、春千夜さんに対して嫌がらせになるなら、わたし、やっぱり断ってきます…っ」
「は…?」

突然、シートベルトを外し、車を降りようとするを見て呆気にとられた。春千夜からすればはいつも予想外の行動をするので、毎度本気で驚かされる。それが面白いと思うのだが、今は笑う余裕もなかった。

「おい、待て!」

我に返った春千夜が、慌てて身を乗り出し、の腕を掴む。

「は、放して下さいっ。今ならまだ契約を交わしてないし断れる――」
「いいから戻れっつってんだよ」

頑固なに、春千夜もつい力任せに腕を引き寄せる。おかげで小柄なはあっという間に春千夜の腕の中へ納まった。

「…ったく、オマエが断ったところで素直にアイツが納得するわけ――」

と言いかけて、春千夜は言葉を切った。引き戻したの顏が、何故か真っ赤になっていたからだ。

「…な…んで赤くなってんだ、テメェは」
「い、いえ…あの…すみません…っていうか、は、放して下さい…」
「あ…?」

一瞬、何のことかと思ったが、言われてみれば、春千夜が後ろからを抱きしめる格好になっている。

「あー…わりぃ…」

意識してやったわけじゃないが、相手に意識されると変な気分になるもので、春千夜はすぐに腕を外し、を解放した。
そこでホっとしたように息を吐いたは、すぐにまた頭を下げる。

「い、いえ…すみません…」
「だから何でオマエが謝る……」

と言いかけ、春千夜は言葉を切った。視線は自分の手へ落ちている。それは初めて触れたがあまりに――。

「…は、春千夜さん…?」

ジっと自分の手のひらを見つめている春千夜を見て、が恐る恐る声をかける。また怒らせてしまったのかと思ったのだ。だが春千夜は怪訝そうに眉間を寄せると、

「つーか…オマエ、マジでちっさいな…」
「…え?」

すっぽりと腕の中に納まってしまった感触を思い出し、春千夜がぼそりと呟く。以前、手を握った時にも感じたが、どこか頼りなげな存在が、胸の奥に何かを刻む感覚に襲われる。

「あ、あの…春千夜さん…?」

急に黙ってしまった春千夜が心配になり、がもう一度声をかける。春千夜はそれに応えることなく、黙って車のエンジンをかけた。静かだった駐車場に、車の排気音だけが響く。

「…遅くなったし送る…」
「え?でも…わたし、灰谷さんに断りに…」
「無駄だっつったろ…。どうせ、からかうのに飽きたら向こうから辞めろって言ってくる」
「でも…わたしは…」

走りだした車内にの戸惑いの声が落ちた。春千夜以外のお世話はしたくない。ふとそんな風に思ってしまった自分に驚き、言葉を切る。自分が客を選ぶなんてしてはいけないと思ったからだ。
その時、春千夜が小さく何かを呟いた。

「…せたくねぇけどな」

それは窓を打ち付ける雨音に消され、の耳に届くことはなかった。


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