Magenta...19


夏も終わり、すっかり秋めいてきた頃。久しぶりに休みをとったは、夕方になって外出したついでに銀行へ寄った。前の会社から残りの給料や微々たる退職金が振り込まれて以降、通帳の記入をサボっていたからだ。少しは貯金もしていたし、元来、散財する性格でもないので、残高を特に気にすることなく、コンビニで現金をおろしたり、カードの類で買い物をしていた。ここ数年では電子マネーが主流になっていることもあり、スマートフォンにも「おサイフケータイ」などの機能も最初から入っている。最初は便利すぎて使いすぎてしまうんじゃないかと使用を渋っていただったが、姉の砂羽から勧められ、ここ最近はよく利用をするようになっていた。ただ、が心配してた通り、ちょっとした物を買う時は現金やクレジットカードの他に、スマホのアプリ決済で済ませてしまうことが多くなり、そんな理由も相まって、ふと残高が気になったのだ。

ちょうど出かける用が出来たのもあり、通帳を持って家を出ると、目的地近くの銀行ATMで早速記帳をすることにした。今の残高を把握するだけでも気持ち的に安心する。前に記帳した時は200万ほどあったので、今はそこからどれくらい減ってるのかを知りたかった。
通帳がATMに吸い込まれると、すぐに画面が切り替わり、何の気なしにそこへ視線を落とす。

「え」

現在の残高を見た瞬間、は思わず間抜けた声を上げてしまった。幸い銀行も閉まっている時間帯。ATMコーナーにはしかいないため、誰に聞かれることもなかった。しかし、そんなことよりもの意識は画面に表示された金額に集中していた。勘違いか?と思いながら意識的に数字の羅列を頭に入れていく。しかし――。

「…うそ」

何度数えても同じ金額にしかならず、は驚きのあまりその場でしばらく固まっていた。



▶▽◀


「え?残高増えてた?」

姉の砂羽が今まさに飲もうとしていたビールジョッキを口元から離し、目の前で興奮気味の妹へ視線を向ける。は運ばれて来たビールにも枝豆にも手を付けず、コクコクと何度も頷いている。驚きが今も尾を引いてるらしい。
今日は姉の砂羽も休みということで、夜は姉妹で久しぶりに食事へと来ていた。と言っても飲むのが第一の目的なので、砂羽の行きつけである焼き鳥屋のカウンター席。それも常連ということで、一番奥の角の席に姉妹は並んで座っていた。

「でもまあ…無職じゃないんだし減ってはないでしょ」
「そ、そうだけど…細々使ってたからちょっと気になって記帳したの。でもね、元々200万くらいだったのが、さっき見たら…」
「見たら?」

の口ぶりに砂羽もだんだん気になってきて、少しだけ妹の方へと顔を寄せる。するとは辺りをキョロキョロしながら、砂羽の耳元へ口を寄せ「きゅ…900万近くになってた…っ」と回りに聞こえないよう小声で言った。

「…マジで?」

想像より遥かに大きな金額で、砂羽も呆気にとられる。水商売を長年してきた自分よりは少ないものの、昼間の仕事だけをしてきたが短期間で稼ぐには随分と多い。しかも今は会社勤めではなく、個人に雇われている身だ。ただ、妹が雇われている相手はどちらも普通の人間ではない。何となく察した砂羽は、未だ興奮気味のを見て「良かったじゃん」と苦笑した。

「よ、良かったって…」
「少ないよりはいいでしょ。それに三途さんからの給料だって提示された金額は破格だったわけだし、ついでに蘭さんからの給料も入ればそれくらいにはなるよ、多分」
「…そ…そっかな…。確かに蘭さんも何故か春千夜さんと同じ金額払うとか言ってたけど…」

ふと数か月前のことを思い出したは、困った様子で溜息を吐く。夏に春千夜の仲間である灰谷兄弟からも仕事を頼まれ、それは今も継続中だ。灰谷家での初仕事の際、「いくら払えばいい?」と聞かれて困っていると、蘭の方から「三途にはいくらもらってんだよ」と聞かれ、つい素直に応えてしまったのがいけなかった。「じゃあ同じ金額払うわ」とあっさり決定され、週二日でそれは多すぎる、とすぐに断ったのだが、通帳の額を見れば、蘭は勝手にその額を振りこんでいたらしい。個人契約をしたのは初めてのことで、何となく、で来てしまったのも良くなかったのかもしれない。
そしてが一番驚いたのは、砂羽の働く店のオーナーが蘭だと聞いた時だった。
春千夜以外の家でも働くことを報告した際、相手を聞かれて「春千夜さんの仲間で灰谷って人」と伝えると、砂羽は「はぁぁ?!」と驚愕の表情を見せた。

「その人、私の働いてる店のオーナーだって。前にも話したでしょ?蘭さんのこと!何でそんなことになってんの?!」

そう言われると確かにオーナーの話は聞いていた。もちろん蘭という名前も。だが、あの場面で会った灰谷蘭と、姉の店のオーナーまでは結び付かなかったのだ。それくらい動揺してたのもある。
普段は冷静な方の姉が面白いくらいに驚いてる姿を見つつ、は簡単にそうなった経緯を砂羽に説明するはめになった。
最初は心配して渋っていた砂羽だったが、一度受けた仕事だし、とりあえずやってみると言い出したを止めることは出来なかった。
それから数か月、今のとこは上手く掛け持ちしてるようだ。高額の給料が振り込まれているならば、それは相手も満足してるということに他ならない。

「まあ、ここは素直に喜んでいいんじゃない?はそんなに無駄遣いもしないし、そのまま貯金しときなよ。将来のために」
「…うん。そう、だね」

姉の言葉を受けて、も納得したように頷くと、やっとビールジョッキに手を付けた。

「で、最近はどうなの?」
「え?」
「三途さん。蘭さんとこで働きだしてから、やけに機嫌悪くなったーって言ってたじゃない」
「あ…うん、まあ…そこは変わらない…かな」

昨日、土曜日は春千夜のところへ行く日だったのだが、相変わらずの仏頂面で出迎えられたのを思い出す。前は不在がちだったにも関わらず、このところマンションへ行くと必ずといっていいほど春千夜が在宅しているのだ。そして顔を合わせるたび「灰谷んとこはどうだ」と訊いてくる。どうと聞かれてもも困ってしまうので「彼らいつもいないので掃除だけして帰ってます」と、最近ではテンプレになりつつある台詞を口にする。実際、灰谷兄弟のマンションへ行っても、ふたりが在宅してることは殆どなく。顔を合わせたのは数えるくらいしかない。
二回目の訪問の時は蘭に出迎えられたのだが、その時に「ちゃんって砂羽の妹なんだって?」と訊かれ、蘭はかなり驚いてた様子だった。聞けば店に顔を出した際、「私の妹に変なことしないで下さいね、蘭さん」ときっちり釘を刺されたらしい。こんな偶然ある?と苦笑気味に言われたものの、それはも同じこと。姉から先に聞いてたので、蘭に訊かれた時は驚かずに済んだが、もし先に蘭から言われていたなら同じように驚いたはずだ。
そこからは蘭も「自分の店のキャストの妹」という接し方をしてくるようになったので、最初に感じた怖いという印象も薄れつつあった。

「そっかー。蘭さんからチラっと聞いたけど、三途さんと蘭さんって仲悪いんだって?」
「うん、まあ…そんな感じかなぁ。本人は仲いい悪いの問題じゃないって言ってたけど」
「へえ…梵天も一枚岩じゃないってことか…。ま、わっるい大人の男が集まってるんだし、相性とかあるのかもねー」

砂羽は笑いながらビールを煽っている。そういう楽観的なところは昔からだ。も苦笑いを浮かべながら「笑い事じゃないけど」とビールの追加を注文した。こうして外で飲むのも久しぶりなので、今日はお酒がやけに美味しく感じる。

「ハァ~たまには外で食べるのもいいね」
「そうでしょ?はいつも自分でぱっぱと作っちゃうけど、こういう場所で食べて飲むだけって時間も作りなさい。普段は仕事ばっかしてんだから」
「うん…そうだね」
「それに前よりは自由も効くんだし、そろそろ彼氏見つけるとかしなよ」
「…分かってるけど」

痛いところを突いてくる姉を睨みつつ、運ばれて来た焼き鳥へ手を伸ばす。確かに最近は恋愛のことすら頭になく、日々の仕事をこなすだけの生活だった。自分でもこのままじゃいけないと思うのだが、会社勤めじゃなくなった今、誰かと出会うという機会が一気に減ったことで、そんな気持ちにすらならない。
身近な異性といえば、裏社会の男達しかいない現状。あまりに恋愛とはかけ離れている環境すぎて自分でも笑ってしまう。

(春千夜さんも最近ホント機嫌悪いし…前みたいに話すことも減っちゃったな…)

ふと春千夜の顔が浮かび、無意識に首元のネックレスへ触れる。今頃、春千夜さんは何してるんだろう、とスマホの時計を見た。午後8時。確か今日は海外の客と会うと話してたっけ、と昨日のことを思い出す。
最近は休みもとっていなかったため、今日は久しぶりに姉と食事の約束をしたことで、昨日「姉と食事に行くので、お休みもらっていいですか」と春千夜に頼んだのだ。すると「オレも明日は一日帰って来ねえし、休みたきゃ休んでいい」と言ってくれた。その時にチラっと仕事の話をしていたのを思い出す。口ぶりからして中国の裏組織の人間らしかった。
梵天関連の話を耳にするのは良くないと勝手に思っているので、もそれ以上深くは聞かなかったが、今頃どこかでヤバい取り引きでもしてるんだろうか、とふと心配になる。特に中国は武器の密輸が盛んだとニュースでも見かけたことがあり、警察も摘発に動いてるという話は最近のネット記事でも読んだばかりだ。もし春千夜がそれに関わってるのなら、その辺は大丈夫なんだろうかと思った。

、次は何飲むー?」

不意に砂羽がメニューを見せてきたことで、の思考が遮断される。すでに生ビールを五杯は飲み終わり、次に飲むお酒を物色しているようだ。気づけば春千夜のことを考えていた自分に呆れつつ、ダメダメ、今はこっちに集中しなきゃ、と頭を切り替える。

「じゃあ…わたし、これ!」
「お、久々日本酒いっちゃう?」

が好物の"吟醸酒"を指したことで、砂羽も飲む気になったようだ。早速、店の主人に注文している。それを横目で見ながら、はテーブルに置いたままのスマホをバッグへとしまった。仕事や仕事相手のことを忘れ、今夜は休みを満喫するためだ。今夜は少し飲みたい気分だった。
その十分後――スマホが鳴り出したことに、は全く気づかなかった。



▶▽◀


「春千夜さん、大丈夫っすか?」
「…ああ。ここでいいわ」

マンションのエントランス。エレベーター前まで来た辺りで、春千夜は自分を支えるようにしていた部下の手を振り払った。足元はおぼつかないが歩けないほどでもない。どうにかエレベーターへ乗り込むと、深々頭を下げてる部下を一瞥し、「もう帰っていい」と声をかけてから開閉ボタンを押す。ドアが閉まり、一人の空間になったのを確認すると、春千夜は重苦しいほどの溜息を吐いた。酒の酔いも相まって若干の頭痛がする。

「…チッ…風邪か…?」

思い起こせば、今朝起きた時から多少の異変は感じていた。喉が少しヒリヒリする。秋も深まり、空気が乾燥してきたせいかとも思ったが、過ごしやすい気温のはずが微妙に寒気もあった。このところ忙しくはなかったものの、変に寝付けない夜が続き、寝不足気味だったのに加えて、昨夜は蒸し暑さが復活。つい裸で寝てしまったのもいけなかったんだろう。朝方には気温が急降下したようで、寝起きはやけに体が冷えていた。
それでも今日の食事会には出席しなければならず、春千夜は出がけに市販の風邪薬を水で流し込み、そのまま事務所へと向かったのだ。今夜の相手は例の上海マフィア。前は幹部だけの来日だったが、今回はボスが直々に来日するというので、梵天のナンバー2が顔を見せないわけにもいかない。春千夜もたかが風邪、と軽く考え、今夜の会食に出席した。

ただ、そのボス、リー・ハオロンが日本に来て早々、浅草へ行きたがったのは誤算だったとしか言いようがない。本来なら入国後、まずはリザーヴしておいたホテルへ連れて行き、夜まで休んでもらう予定だった。しかしリーはテレビで見たという浅草の織物屋へ行きたいと言い出した。理由は至極簡単で、今、絶賛溺愛中の愛人に日本の着物を土産に頼まれたという。そこでリーを浅草のその店へ案内することになった。まあ、そこまでなら、まだ良かった。買い物を済ませたリーは、早速「腹が減ったし食事にしよう」と言い出したのだ。食事は夜、と考え、六本木の店を予約してあったのだが、夜まで待てないと我がままを言いだしたリーのせいで、急遽、春千夜の部下が手ごろな店を探し回るはめになった。
あれがなければ多少、春千夜も体を休めることが出来たかもしれない。

結局、近場に高級中華の店があるのを部下が発見し、リーをそこへ案内することになった。だが時刻はまだ夕方。今、食事をしてしまえば夜の会食の場が無駄になる。出来れば軽く済ませて欲しかったのだが、リーは面倒だからここで会食をしようと言い出した。その自己中的な言動は、さすがに春千夜も殺意を覚えたが、大事な取引相手を切り殺すわけにもいかず、渋々予定を繰り上げ、その場で会食をする運びとなったのだ。
だが春千夜にとって最悪だったのは、リーが酒豪で、なおかつ宴会好きだったことだろう。早い時間にも関わらず、料理の他に酒が振る舞われ、春千夜も付き合うことになってしまった。ただでさえ体調が思わしくない上に、度数の高い紹興酒を休む間もなく注がれる。他の人間ならば拒否できるのだが、リーの機嫌を損ねるわけにもいかない春千夜は、黙ってそれを飲み干していった。
結果、早い段階でアルコールが回り、夜の八時頃にはさすがの春千夜もダウン寸前にまで陥ってしまった。特に頭痛が酷く、少し動いただけで頭が割れそうなほど痛い。おまけに胸の辺りがムカムカして、リーをホテルまで送ったその足で、春千夜は事務所へ顔を出すのをやめ、こうして部下に自宅マンションへと送ってもらったのだった。

「ハァ…リーのヤツ、とんでもねえオッサンだ…。あんなクソマズい酒、飲ませやがって…」

未だ口の中に残る紹興酒の香りが気持ち悪く、春千夜は思わず毒づいた。酒は好きな方ではあるが、当然好き嫌いはある。中でも紹興酒の味は口に合わず、匂いだけで顔を背けたくなるのだ。それを我慢してボトル半分以上は飲まされたのだからたまらない。
今度からは灰谷かココのヤツに接待させよう、と決心し、春千夜はフラつく足で自分の部屋へと向かう。だが更に最悪だったのは、玄関で靴を脱ぐ際、ぐらりと体が傾き、春千夜はそのまま框の付近に倒れ込んでしまったことだ。

「ってえ…」

床へ倒れた時、頭は無意識に守ったものの、したかか打ち付けた肘に激痛が走った。その場でしばし悶絶する。その痛みが怒りに変換されたのは仕方のないことだった。

「ったく…マジうぜぇ…っ」

玄関の床に仰向けで寝転がり、首元のネクタイを緩めながらも苛立ちを吐き出す。もし、ここに部下がいたら確実に八つ当たりされていたはずだ。
ただでさえ、ここ最近の春千夜はイライラしがちだったことで、部下達も学習したのか不用意には近づいて来なくなっていた。先ほど「帰っていい」と言われた部下は心底ホっとしたことだろう。

「あ~…動きたくねえ…」

起き上がろうと試みたが、頭がぐわんと揺れる感覚に気持ち悪くなり、春千夜は寝室へ行くのを一時諦めた。ただ、どうしようもなく喉が渇き、水が飲みたくなる。これも全て紹興酒を飲んだせいだ、と舌打ちしながら、部下の誰かに水を持ってこさせようと、上着のポケットからスマホを取り出す。すぐそばのキッチンへ行けば冷えた水が山ほどあるのだが、如何せん動くのがツラい。ならばまだ近くにいるであろう部下に、ここまで水を運ばせた方が楽、と理不尽なことを思いつく。ただ、それを実行するに当たって一つ問題なのは、これまで誰一人としてこの部屋まで上げたことがないことだった。
そしてもっと残念なのは、こんな状態の自分を部下に見せるわけにはいかない、という春千夜のナンバー2としてのプライドが邪魔をしたことだ。
となれば、こんな状態の自分を救ってくれる人物は一人しか思いつかない。そして、その人物になら、こんな自分を見られてもいいと思ってしまった。

「アイツ…姉貴と飯に行くっつってたっけか…」

アドレスから探すのは面倒で、メッセージアプリのラインをタップし、トーク画面を表示させる。そこから迷わず電話をかけると、独特のコール音が聞こえてきた。しかし、相手は一向に出ない。

「チッ…何で出ねえんだよ…のやつ…」

そんな文句を言いながらも、一度切って今度はメッセージを打ち始めた。ただ酔いが回り、だいぶ画面が霞んで見える。その上、横になっているせいか、急激に睡魔が襲ってきた。そもそも寝不足なのだから当然かもしれない。どうにか打ち間違いを直したりしながら、メッセージを打ち、送信したところで、春千夜は力尽きてしまったようだ。おかげで自分の打った文章を確認することもないまま、春千夜は意識を手放した。


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メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで