が春千夜からの着信に気づいたのは、電話がかかってきた時刻より、一時間以上も経ってからのことだった。姉とふたりで冷酒を飲みつつ、美味しい焼き鳥を食べながら、久しぶりに姉妹水入らずの時間を過ごしたは、途中でお手洗いへと立った。用を足し、そのまま戻ろうとしたのだが、鏡に映った自分の顏を見てふと立ち止まる。一カ月ぶりの飲酒の影響か、色白の頬が真っ赤に染まっていたからだ。メイクもとれかけで、ザ・酔っ払いといった自分の顔に、ちょっとだけ恥ずかしくなった。いくら相手が姉で、かつプライベートな時間を過ごしてるとはいえ、この状態で席に戻るのも気が引ける。ついでにメイクを直していこう、と持って来たバッグからメイクポーチを取り出す。その際、バッグに突っ込んだままのスマホが、チカチカと点滅してることに気づいた。それは電話の着信、他にメールやメッセージといった、アプリからのお知らせなどが届くと点滅するランプだ。種類によってライトの色の設定を変えられるのだが、特に連絡を取り合うような知人もいない為、その機能は初期設定のままだった。なので、どの通知が来たのかまでは点灯の色で判断できない。
普段も無駄な案内や、ニュース速報などが届くので、最初は放っておこうと思ったのだが、アプリの通知などは大抵昼間に届くことが多く、こんな時間に来ることはあまりない。何となく気になったは、メイクを直した後、スマホを手に取り、軽く電源ボタンを押してみた。
「…え、うそ」
思わずそんな言葉が零れ落ちたのは、今日は絶対に連絡をしてこないだろうと踏んでいた春千夜から、着信が入っていたからだ。それも一時間以上も前に。
もしかして急用ができたのか、とはすぐに電話を折り返そうとした。だがポップアップ表示でメッセージも届いているのに気づき、まずは用件を確認しようと画面をタップする。だが、トーク画面が表示された時、酔いの回った頭が一瞬だけ固まった。
"みずほ銀 水のみたや三平今はらマンジャロにこいこい無料ゲーム"
その意味不明なメッセージを見た時、頭の中に(????)というマークが無数に浮かぶ。全く何を伝えたいのかが分からない上に、酔った頭がその難解なメッセージの意味を考えることに拒否反応を示す。何の悪戯だと思いながら、とりあえず砂羽の待つ席まで戻った。
「あ、。次、何飲むー?私はねえ、純米吟醸酒のにごり酒にしようかと――って、どうした?難しい顔して」
が席へ戻ると、砂羽が不思議そうな顔で尋ねてきた。相当、怪訝そうな顔をしてたんだろう。は席に着くと、手の中にあるスマホを砂羽へ見せた。
「ん?何これ。何かの暗号?」
「さっき春千夜さんから送られてきたメッセージなんだけど…」
「三途さんが?これを?っていうか意味不明すぎてワケわからん」
残りの冷酒をくいっと煽りつつ、砂羽は笑いながら次の酒を追加注文している。だがすぐにテーブルへ置かれたスマホ画面へ視線を戻すと、「そもそも、みずほ銀…って何」とケラケラ笑いだした。日本酒も進んでだいぶ酔ってるようだ。
「分かんない。わたしが使ってる銀行じゃないし、春千夜さんが利用してるのかな。でも、そもそも文が繋がってないし、何を伝えたいのかさっぱり」
「どれどれ~。え~と…みずほ銀の次に水のみたや…?三平って誰かの名前かな」
「さあ?」
に分かるはずもなく、首を傾げると、砂羽がちょっと待って、と自分のスマホで何やら検索し始めた。
「あ…実在するわ、三平」
「え?」
「ただし人じゃなく、居酒屋っぽい」
「え、嘘」
砂羽が自分のスマホを見せると、も画面を覗きこむ。そこには確かに「のみたや三平」という居酒屋が紹介されていた。ということは、春千夜はこの店にいるということなんだろうか。
「でも、この後の文がマジ分かんない。今はらマンジャロって何だろ」
「……さあ?」
「ああ、でも最後のこいこいは花札のことだよ」
「…花札?」
「しかも無料ゲームってことは実際の花札じゃなく、ネットゲームか何かじゃない?」
「じゃあ…春千夜さんは花札ゲームしてるのかな。でもそれを何でわたしに…?」
「さあ?」
今度は砂羽が首を傾げ、再びスマホで検索を始めた。するとまた一つヒットするものが出たらしい。「あ、マンジャロ」と言いながら、にその画面を見せた。
「…薬の名前?」
「それっぽい。え、三途さんって糖尿なの?」
「え…!し、知らない…。そんな話は聞いてないし…食事を頼まれた時も特に制限があるなんて話もしてなかったけど…」
「マジか…え、ますます分かんないんだけど、このメッセージ」
「どうしよう。ちょっと電話してこようかな」
「そうしたら?本人に聞くのが一番でしょ」
砂羽にもそう促され、はスマホを手に、一旦店の外へと出る。自宅マンション近くの三軒茶屋駅は、夜10時を過ぎてもいつも混雑している。今も数人の学生らしき男女が楽しげに笑いながら前を通り過ぎて行った。
「…出ない」
人の流れを見ながら、店先で春千夜に電話をかけたものの、一向に出る気配がない。もしあの意味不明なメッセージを送り間違えただけならいいが、は何となく心配になってきた。
「何か…あったのかな…」
何度かけても空しいコールが鳴るだけで、最後には留守電に切り替わってしまう。一瞬メッセージを残そうかとも思ったが、どんな用かも分からないので、何をどう残せばいいのか悩むところではある。
とりあえず中へ戻り、砂羽に電話が繋がらないことを伝えた。
「そっかー。ちょっと気になるけど仕方ない。あ、でもこの文って繋げて読むと変なんだけど、一つ一つ区切ると何か打ち間違えっていうか、予測変換で勝手に入力された文にも見えない?」
砂羽は何かに気づいたように、自分のスマホに先ほどのメッセージを打ちこんでいく。
「どういうこと?」
「だから、これ。最初のみずほ銀、ってとこだけど、そのすぐ後に水ってあるじゃん。私もスマホで"みず"って打ったら、まっさきにみずほ銀行が出てきたからさ」
「……あ、ほんとだ」
「で、こっちのマンジャロは謎だけど…こいって打ったら、こいこいが予測で出てきたんだよね。私、この前お客さんとちょうど花札の話題が出たからスマホで調べてたし」
「って、ことは…」
とは砂羽と顔を見合わせ、一つの文章ではなく、個別に文を読み解くことにした。
「最初が水。次に"のみたや"とはなってるけど、これ、飲みたいって打ちたかったんじゃない?」
「あっ!そっか」
姉の指摘に何かが頭の奥で弾けた気がして、はもう一度春千夜からのメッセージを開いた。そこで水が飲みたい、を前提に文を読んでいく。
「水が飲みたい。今はら…は今から…?マンジャロ…マン…こいこい…」
「今から…マンション来い、とか?」
「は」
砂羽の一言で思わず息を呑む。そう言われると、急にそんな気がしてきたのだ。
「もしかして…ほぼ予測変換が勝手に打ち込まれて出来た文章なんじゃ…」
「あーそう言われるとそれっぽい。私も時々急いで文を打って送ったら、勝手にそれになってることあるし。でも文の殆どがそれになるのって稀だけど。三途さん、酔ってんじゃないの?」
「……そ、そーかも」
水が飲みたいと打ったのだとすれば、春千夜が酔ってる可能性がある。以前にも酔って帰宅した際、春千夜はウォーターサーバーの水をかなり飲んでいた。その光景を思い出し、はすぐに立ち上がった。春千夜の意図が何となく分かった気がしたからだ。
「お姉ちゃん、ごめん。わたし、ちょっと行ってくる」
「え、マジで?でも…ほんとにそういう意味か分かんないじゃない」
「ううん…きっと合ってる気がする…。それもこのメッセージ見る限り、春千夜さん、泥酔して倒れてるかも…」
そこまで考えると急に心配になってきた。意味不明のメッセージ。そして繋がらない電話。きっと春千夜は自分でどうにも出来ないから、わたしに電話をかけてきたんだ。そう思うと居ても立っても居られず、はすぐにバッグを持った。「今日は休みなのに」と、砂羽はぶつくさ言っていたものの、緊急性があってもマズいか、と最後はを送り出してくれた。
「すみません!六本木まで!」
駅前ということで、はすぐにタクシーへ乗ることが出来た。マンションの住所を告げながらも、どこか気持ちが急いて何度も電話をかけてみる。だが、やはり繋がらない。こうなってくると本気で心配になってくる。
(どうか無事でありますように…!)
流れる街並みを見ながら、は祈るようにスマホをぎゅっと抱きしめた。
◀▽▶
泥沼に沈んだような苦しさから、かすかに浮上していく感覚がして唐突に目が覚めた。肌に冷んやりとした感触があったからだ。最初はどこにその感触があるのかは分からなかったが、次第にそれが自分の額だと気づいたところで、春千夜は重たい瞼を押し上げた。
「あ…春千夜さん…っ大丈夫ですか?」
「………」
ぼやけた視界にまず入ったのは、不安そうで今にも泣きだしそうな顔をしただった。真上のライトが煌々としてるせいか、薄っすらとしか表情は分からないはずなのに、何故かそう感じたのは、声が泣いてるような声だったからかもしれない。ただ春千夜には何故ここにがいるのか分からなかったのと、自分がどこにいるのかも分からなかった。よって、これは夢なんだろう、とふわふわした頭で考える。でも夢じゃないと気づいたのは、もう一度名前を呼ばれた時だった。
「春千夜さん、起き上がれますか?」
「…んぁ?」
「寝室にいきましょ?凄い熱です」
「…ねつ…?」
が腕を引っ張る感覚がして、それに合わせるよう無意識に体が動く。そこで自分が自宅マンションの玄関にいるのだと気づいた。何故こんなとこに?という疑問が残る。今日は上海マフィアのリーを迎えに行って、その後に浅草へ行ったことや、そこで会食になったことまでは記憶にあるものの、あまり後半は覚えていない。どうやってマンションまで戻ってきたのかも。そして――。
「ってか…何でここにいんだよ、オマエ…」
に支えられ、上体を起こした春千夜は、怠そうに壁へ寄り掛かった。一向に消える気配がないのは、目の前にしゃがんで泣きそうな顔をしてる女は、幻でも何でもないということだ。ボーっとする頭でもそこだけは分かる。が差し出したミネラルウォーターの冷たさが、火照った手を心地よく冷やしていくことも。
「春千夜さん、さっき電話くれましたよね?メッセージも…だから心配で来てみたんです。そしたら玄関で倒れてるからビックリして…」
「……電話…?オレが…?」
の言葉は耳に入ってはいるものの、考えることを脳が拒否しているように頭へ入ってこない。そんな様子に気づいたのか、は「立てますか?」と再び春千夜の腕を引っ張った。壁に背を預け、どうにか立ち上がった春千夜は、彼女に引かれるままフラフラと寝室へ向かう。一歩足を踏み出すたび、頭がぐわんと揺れる感じが気持ち悪い。
ただ、明るかった廊下とは違い、真っ暗な寝室に入るとやけにホっとして、春千夜はベッドへ体を投げ出すように倒れ込んだ。
「は、春千夜さん…スーツ、脱がないと…」
「あ~…面倒…でも…脱ぎてえ…窮屈…」
話すのも億劫でカタコトになったものの、は理解したのか「じゃあ手を貸すんで、まずはジャケット脱いで下さい」とボタンを外していく。それに生返事をした春千夜は、横になったままジャケットを適当に脱ぎ捨てた。中に着ていたシャツもがボタンだけ外していき、春千夜はそれも脱いで床へと放る。普段ならシワになるのを気にしてハンガーにかけるところだが、今は何かを考えるのも面倒なくらいに眠い。
「あ、あの…春千夜さん、これに着替えて下さい。裸じゃ悪化しちゃうし…」
「…ん…」
クローゼットから着替えを探して出してくれたのか、気づけばの手には春千夜が部屋着にしているリネンのシャツが持たれている。言われるがまま、それを頭からかぶると、春千夜は今度こそ布団に潜り込んだ。顔は燃えるように熱いのに、首筋辺りはゾクゾクとした悪寒が走る。どうにも具合が悪かった。
ただ、それでもがベッドの脇へ立ち、「あの…ちょっと出かけますけど――」と言った時、無意識に布団の中から手を伸ばし、彼女の手首を掴んでいた。
「…帰…んな」
「え…?」
「…ここ…に…」
居て欲しい――。
そう言ったつもりだったが、言葉になっていたかは分からない。今は何も考えられない。ただ、は春千夜の手をやんわり外すと「帰りません」と言った気がした。
「春千夜さん、熱が酷いし色々と買ってきたい物があるから、ちょっと買い物に行くだけです。なので戻ってきていいですかって聞こうとしただけで…」
「……チッ…んだよ…。なら…いい…」
回らない頭でどうにか言葉を絞り出すと、は「じゃあ行ってきますね」とだけ言って、静かに寝室を出て行く気配がした。
ドアが閉まると、途端に部屋が静寂と闇に包まれる。そこから先は記憶がない。ひとりになった瞬間、春千夜は再び、睡魔の底に飲まれていった。
◀▽▶
(び、びっくりした…)
春千夜の部屋を飛び出し、急いでエレベーターに飛び乗ると、バクバクとうるさい胸の音を沈めようと、深く深く深呼吸をする。春千夜に掴まれた手首がやけにハッキリと、その時の感触を残してるせいで、風邪もひいてないのに顔全体が熱い。まさか、春千夜のあんな無防備な姿を見られるとは思っていなかった。着替えを手伝った際に見せた子供のような春千夜を思い出し、は小さく吹き出した。今まであんな姿は見せたことがない。アルコールの匂いがしてたのを思えば、風邪とお酒のダブルパンチで体調が悪いのだろうが、それでも気難しい春千夜が気を許してくれてる気がして、それがの気持ちを高揚させた。
(でも…ほんと無事で良かった…)
は安心したようにホっと息を吐いた。一応、高熱は出てるので無事ではなかったものの、ここへ来るまでに色々と悪い想像をしてしまったせいか、最初に部屋へ入った時、倒れてる春千夜を見て一瞬死んでるのでは、とパニックになってしまったのだ。中国だかのマフィアと会う話はチラっと聞いてたのもあり、その相手とトラブルになって何か事件に巻き込まれたんじゃないか、と不安になっていたのも良くなかった。春千夜の名前を呼び、「死なないで!」と声をかけながら、危うく救急車を呼ぶところだったのだ。だががあまりに大きな声で名前を呼んだからなのか、かすかに春千夜が動いたのを見た時、は心底ホっとした。生きてると分かったことで少し冷静になってみれば、春千夜から強いアルコールの匂いがすることにも気づいた。後はやけに赤みのある頬へ触れた時、熱があるのだというのも分かり、何となく事情が見えてきた。
倒れている春千夜の傍にはスマホも転がっていたので、この状態から自分にメッセージを送ってきたんだろうと推測する。泥酔に加えて高熱もある中、メッセージを打てばああなるのも頷ける。思った以上に上手くタップできず、全て予測変換に持っていかれてしまったんだろうと思うと、ちょっとだけ笑ってしまう。今度春千夜に、あのメッセージの中に出てきた文字の意味でも聞いてやろうかな、と意地悪なことを考えた。予測変換に出るということは、以前にその言葉を打ち込んだ履歴が残ってたということだ。それを指摘したら、春千夜はどんな顔をするのか見てみたい気もした。
「ハァ…でもほんと人騒がせなんだから…」
安心したら自分も酔っていたことを思い出し、今更ながらに酔いが回ってきたものの、あんな状態で連絡をくれた事実は何故か嬉しい。そんな矛盾した思いが胸の奥に過ぎった。
とりあえず今夜は、春千夜の傍で朝を迎えることになりそうだな、と思いながら、それが少しも苦じゃないと思っている自分がいた。
メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで