Magenta...23



静かな部屋に壁時計のカチカチという小さな音が響く。それを聞きながら、春千夜は背後の存在に意識が集中しすぎて全く眠れなかった。いや、さっきまでは熱の影響で酷く眠かったのは確かだ。春千夜の睡魔を吹き飛ばした原因は今、背後で寝ているの存在に他ならない。
リビングで寝るのは寒いだろう、と。彼女を自分の隣で寝かせようと思ったのが大きな間違いだった。
渡した自分の服が思ってた以上に大きかったこと。それを着た彼女が春千夜の想像をはるかに上回り、クソ可愛かったこと。そして、予期せぬ太腿のサービスを視界に入れてしまったこと。
良かれと思ってしたことが全て、仇になって己に返ってるような気がしてならない。

をベッドへ寝かせようと思ったのも、本当にリビングで寝かせるのは忍びなかったからだ。寝ずに自分の看病をしてくれた子に「オマエはソファで寝てろ」などと、そんな扱いをするほど春千夜も鬼ではない。いや、万が一、看病をしたのがではなく、他の女だったなら普通に鬼にもなるし、絶対にベッドへ誘ったりはしないが。その場合、適当に金でも渡して帰ってもらっただろう。
そういうわけで、ただ好きな女とくっついて寝たい、という下心はあれど、別にすぐ手を出そうなんて気持ちはさらさらなかった。これまで相手にしてきた女たちとは違う。簡単に手を出していい相手じゃないという思いがある。そして、春千夜は自分がそれくらいの自制心を持っているという自覚があった。
なのに予想外の誘惑――は違うと怒るだろうが――をされ、余計なことを口走ったのは痛かった。

――いいから動くなって。勃っちまうだろが…っ

あの一言で完全にから「スケベ」という――言われたわけじゃないが――屈辱的なレッテルを張られた気がしてならない。
思春期のヤりたい盛りという年齢ではないし、今更女の太腿を見ただけで勃つことはないが、あくまでそれは他のどうでもいい女だった場合だ。
オレはこの女に惚れてる、と自覚した直後だったのと、その相手が無防備に見せた姿。いくら春千夜でもムラっとくらいはしてしまう。ついでに自分の方へ抱き寄せたときの彼女の体の華奢な感じや、柔らかさ。ベースが出来上がっていたこともあり、それらが引き金となって腰の辺りが疼いたのは本当だった。あれ以上、がもぞもぞと動いて春千夜の下半身を刺激し続けていたら、完全にアウトだったろう。
あの失言のあと、気まずい空気は流れたものの、彼女は特に怒った様子もなく、一瞬だけきょとん、としていた。だが、急にあたふたと春千夜から距離をとると、

――や、やっぱり邪魔だと思うし、わたしは端っこで…離れて寝ますね。

春千夜の言った意味を最初すぐには分かっていなかったらしい。でもその後に唐突に理解したのか、彼女は真っ赤になりながら離れていった。そうなると春千夜も強引なことは出来ず、自分も彼女に背を向けて寝るという体勢にならざるを得なかった。一度背を向けてしまえば、簡単には体勢を変えることもできない。

(あ~クソ…寝れねえ…)

一度ムラっとしたベースがあるため、すぐ隣にがいると思えば思うほど目が冴えていく。ここ最近は遊びでも女を抱いていないのも良くなかったかもしれない。そもそも脳がそっち方面に行く暇も時間もなかったからだ。その分、一度あの感覚を思い出すと、男の体の構造上、どうしても出したくなるのは自然の摂理。また、そうしないと、このムラムラとした感覚が消えないのが厄介なところではある。
とはいえ、をそんな欲望のはけ口にしたくはない。まだ返事さえもらっていないのに節操なく手を出せるほど鬼畜でもない、つもりだった。
それに――と春千夜は先ほどのの反応を思い出し、軽く苦笑いを浮かべた。
あの反応は確実に処女だろうな、と何となく察してしまう。なら、ますます気軽に手は出せない。いや、むしろ出したくないとさえ思う。この歳になって処女を守り抜いてる女がいるのか、と少しだけ感動してしまったからだ。
ただ――誰の手垢もついていない女が隣に寝ている、と思うと、余計に悶々として、結局は眠れない春千夜だった。

一方、隣で悶々とされてることも知らないは、横になって少しすると、急激に眠くなってきた。まるまる二十四時間近くも起きていたのだから当たり前だ。ついさっきまで十二時間以上も寝ていた春千夜とは違う。寝不足すぎて逆に頭が冴えていたのと、春千夜の様子を診ていなきゃという頭があったので起きていられたが、こうして暗い部屋、それもフカフカで寝心地のいいベッドへ横になってしまえば、寝るなという方が無理だ。
隣に春千夜が寝ている、という緊張感すら睡魔に吸収され、心地いい眠りに落ちていく。姉の砂羽に見られたなら、確実に「無防備すぎる」と叱られてただろう。
ただ、は春千夜が絶対に自分を襲ったりはしない、という確信みたいなものがあった。口も悪いし、強引なところもあるけれど、自分が本気で嫌がるようなことはしない。意味もなくそう信じていられたのは、今日までに得た信頼だとか、時々垣間見える春千夜の不器用な優しさだとか、そういう小さな積み重ねが根拠として彼女の中にあるからだ。そして、はそんな春千夜が――。

(ああ…そうか…わたし…わたしも…春千夜さんが好きなんだ…)

深い眠りに落ちる寸前、彼女は自分の中にあった答えを見つけることができた。
ただ、経験のないは知らない。男の欲望というのは、そう簡単に測れるものでもないことを。
が眠ったあとも一人悶々としていた春千夜が「あ~…クソ……眠れねえっ!」と起き上がるまで、あと約一時間弱。


◀▽▶


「あ、あの…春千夜さん、おはよう御座います」
「………ああ」

気づけば朝になっていた。いつの間にか眠っていたらしい春千夜は、が寝室に入ってくる気配で目が覚め、その寝不足といった顔を彼女へ向ける。逆にはしっかり眠れたようで、すでに起きて朝食のおじやを作り、それを運んできたようだった。寝るときとは違い、服も自分のものに着替えている。

「夕べはお粥だけだったから今朝は少し野菜を入れたおじやにしてみました。…食べれますか?」

本音を言えば今もまだ眠くて食事どころではない。だが、彼女の運んできた土鍋からはだし汁のいい匂いが漂ってくる。その匂いに春千夜の食欲が刺激され、軽くお腹が鳴ってしまった。

「…食う」

ボーっとした頭をどうにか働かせた春千夜は、素直に土鍋の乗った木製のトレイを受けとった。熱を伝えやすいスプーンではなく、ちゃんと蓮華を用意してあるのが彼女らしい。

「あれ、春千夜さん、ちゃんと寝ました?目の下にクマが出来てる」

湯のみにお茶を注いでいたが、ふと屈んで春千夜の顔を覗き込む。そのやけにスッキリした顔をちらりと見た春千夜は、じっとりとした視線を彼女へ向けた。

「……誰のせいだよ」
「え、わたし、何か…しました?あっ!ま、まさか寝ぼけて蹴っちゃったとか…」
「……ハァ。いい…何でもねえ…」

まるきり分かっていない彼女の様子を見て、春千夜は深い溜息と共に首を振る。こういうところも正直、めちゃくそ可愛いのだが、もう少し男の性というものについて勉強をして欲しい、と春千夜は切に思う。
春千夜が悶々としていた間、秒で眠ってしまったは、途中で春千夜が起きようが叫ぼうが、一向に目を覚ます気配はなかった。その呑気な寝顔を見ていると、このまま襲ってやろうかという男の本能が何度顔を出したかしれない。それを必死で堪え抜いた春千夜は、ある意味自分で自分を誉めたくなった。
ただ、すやすやと幸せそうな顔で眠る彼女の寝顔を眺めていたのは悪くない時間だったかもしれない。イライラしてた気持ちが癒され、気づけば眠ってしまったようだ。
そんなことは何ひとつ知らないは「かなり熱いから火傷しないよう冷ましてから食べて下さいね」などと呑気なものだ。

「ちょっと触りますね…って…まだ…少し熱っぽいなぁ…」

食事をしている春千夜の額に軽く手を当てたは、心配そうに言いながら溜息を吐いている。当の春千夜はそれでも夕べよりは楽な気がしていた。

「……そうか?昨日よりはだいぶ体も軽いけどな」
「でも熱があるなら、まだ無理はダメですからね」
「……チッ。分かってるよ」

しっかりクギを指してくるに内心苦笑しつつ、いつもの口調で返す。とりあえずは食事をしっかり摂って疲れた体を休めなければいけないだろう。今のとこ春千夜が出張らなければいけない案件はないが、食事のあとに九井にでも連絡を入れて確認だけしてみるか、と思っていた。
その時、がふと「あの…今から一度家に帰ってもいいですか?」と訊いてきた。は?といった顔で彼女を見上げると、まさにおずおずといった表情。本人も言い出しにくかったんだろう。春千夜の反応を伺っている。

「…まだ返事聞いてねえけど」
「わ、分かってます…。だから着替えたりシャワー入ったりしたら、またすぐ戻ってきます。春千夜さんもひとりにしておけないし…」
「………」

ひとりにしておけない、と言われ、思わず頬が緩みそうになったのを、春千夜は軽い咳払いで誤魔化した。確かに出がけから急にここへ来たままなのだから、の気持ちも理解できる。本音を言えばシャワーなんてウチで入ればいいくらい思ったのだが、女は色々あるというのも何となくだが分かる。よって、ここは反対するより、の好きなようにさせた方がいいという結論に達した春千夜は「分かった…」と物わかりのいい男アピールをしておいた。
春千夜がすんなりOKするとは思っていなかったのか、は「ありがとう御座います」と嬉しそうな笑顔で頭を下げた。

「あ、じゃあ、ついでに買い物も済ませてきちゃうので、何か欲しいものとか食べたいものってありますか?」

エプロンを外しながら、がふと振り向いて尋ねる。その姿をジっと見ながら一瞬考えたものの、今は特に思いつかない。
ただ一つハッキリしてるのは――。

「別にねえよ。しいて言えばオマエくらいだな」

ふと頭に浮かんだことを口にすると、の笑顔が固まり、みるみるうちに顏が赤くなっていく。春千夜は茹蛸みてえ…と失礼なことを思いつつ、あまりの可愛さに「ぷ」と吹き出してしまった。一度好きだと自覚してしまえば、彼女の全てが愛しいと感じてしまう。こんな風に誰かを好きになったことは今までなかったかもしれない。
春千夜が万次郎以外に執着したのは、が初めてだった。

「あ…ま、またからかったんでしょ…っ」

急に吹き出した春千夜に、は真っ赤ながらに怒り出す。こういうときの彼女は素が出てくるので、地味に面白いと春千夜は思っている。堅苦しい敬語で話されるより、ずっと嬉しい。

「…オマエがそういう顔すっからだろ。いいから早く行って来いよ」
「も、もー…病人のくせに無駄に元気なんだから…」
「あ?何か言ったかよ」
「何でもありません…!行ってきますっ」

寝室を出たは、ドアを閉める前にべえっと舌を出す勢いで春千夜を睨む。その顏にまた吹き出したものの、気づく前にはドアを閉めてしまった。きっと今頃プリプリしながらエレベーターを待ってるだろう。そんな想像をすると、またおかしくなった。こんな風に自然に笑ったのは久しぶりだ。

「ハァ…早く帰ってこねえかな…」

ベッドに寝転がりながら、無意識にそんな言葉が漏れる。たった今、出かけたばかりだというのに、すぐに会いたくなるのだから、随分と本気にさせられたもんだと苦笑が漏れた。

そして一時間後、その本気を利用された事件が起きることを、春千夜はまだ知らない。


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