Magenta...24




春千夜のマンションから一度自宅へ戻ったは、すぐにバスルームへと飛び込んだ。一日お風呂に入ってないと思うだけで色々と気になっていたのだ。バスタブにお湯を溜めている時間はないので、軽くシャワーを浴び、念入りに髪や体を洗うと、気持ち的にもスッキリする。出たあとは顔や体のケアをして肌を整えたら、やっとホっとすることができた。

「はぁ、これで一安心…」

駆けつけた時は夢中だったので忘れていたが、春千夜の看病をあのままするのなら汗くらいは流したい。ただでさえ潔癖症の相手。近づくたび、わたし汗くさいのでは?とドキドキしてしまった。そして一度気になりだすと、どうしても我慢できなくなったのだ。
そこはやはり女心というやつかもしれない。自分も春千夜のことが好き。そう自覚しただけで色んなことが一気に気になり始めた。

「まあ…今更って感じだけどね…」

あの状態で春千夜とベッドを共に――普通に眠っただけだが――してしまったのだから、今思い出しても恥ずかしくなってしまう。しかも横になってから殆ど記憶がないということは、秒で爆睡してしまったんだろう。いくら何でも緩すぎる、と少しの反省をしつつ、はすぐにまた出かける準備を始めた。
だが、いつもの仕事用の服を手にした時、ふと思い出す。戻れば春千夜に返事をしなければならない。自分も同じ気持ちだと、もきちんと春千夜に伝えたいと思っていた。だが、そうなると普段の仕事着で戻るのはどうなんだ?と思ってしまった。一応、看病に戻るわけでプライベートでもない。と言って、まるまる仕事、というわけでもなく…この場合、どっちが正解なんだと悩んでしまったのは、春千夜に好きだというのに、いつもの素っ気ない服装でいくのは恥ずかしい。出来れば可愛いと思われたいので、それなりの服装でちゃんとメイクもしていきたいと思ってしまう。それはまさに恋する女の思考だった。

普段は掃除を仕事にしてるので、メイクも簡単に済ませ、爪なども短く切り揃えるのが当たり前で、服装も楽に動けるようなものばかり。自分でもかなり女子力が低いと思う。春千夜はいったいわたしのどこを好きになってくれたんだろう?という謎は、なかなか解明できなかった。
ただ一つ思うのは、ここで念入りにお洒落をした姿で戻るのもどうなんだ?ということだ。春千夜に「気合入れてんな」と見透かされても恥ずかしい。

「やっぱいつもの恰好でいこ…」

掃除のことや身の回りの世話のことでは人より気が利く方だと自負はあるものの、好きな相手の為に自分を磨く、ということに関しては全くの素人。下手にいつもやらないようなことをすれば、必ず失敗する気がしたのだ。よって、いつものユニクロで揃えたトップスとカーゴパンツ、寒いので上から一枚薄手のシャツを羽織り、秋物ジャケットを手に部屋を出る。砂羽は寝ているのか、部屋の方からは何も物音はしてこない。とりあえず寝ていたら悪いので静かに外へ出たは、再び駅方面へと歩き出そうとした。その時、道を塞ぐように誰かが近づいてきたことに気づく。

「やあ、さん」
「え…ぶ、部長…?」

愛想のいい笑みを浮かべて歩いてきたのは、が前に勤めていた"アイシング"の部長だった。の上司だった伊藤美紀の上司。つまり直属ではないものの、の上司でもあった男だ。名前は確か田所といったか。小太りで冴えない感じの中年男で、いつも薄くなった前髪を手で撫でつけているせいか、陰では「そのうち植えて増えるか、パチンのやつ被ってくるんじゃない?」なんて事務員の女性陣たちから好き勝手に言われていた。
にとってはかなり上の立場の人間なので、勤めていた頃はそれほど顔を合わせたことも、言葉を交わした記憶すらない。彼女は単なる一代行スタッフに過ぎなかったのだから、それも当然だ。その田所が、何故こんなところに?と思うのと同時に、田所が自分の名前を覚えていたことに少し驚いてしまった。

「久しぶりだね。随分と元気そうだ」
「はあ…ご無沙汰してます」

が辞めたあと、"アイシング"も倒産に追い込まれ、その後のことはよく知らない。この田所がどうなったのかさえ。なので、どういう顔をして話せばいいのか分からなかった。だが、そんな心配は無用だったらしい。田所は「さんにちょっと話があってね」と笑みを浮かべながら言った。部長だった男が、一スタッフだった自分に話?ということは、この予期せぬ再会は偶然ではないのか、と、更に驚いた。そんな驚きと共に眉を寄せると、田所は気づきもせずに「ちょっと時間あるかい?」と彼女を交差点の方へと促す。ついてこいということだろう。ただには時間がない。春千夜が熱を出して待っているのだ。それに今更田所の話というのも興味がなかった。大方、仕事を紹介するとか、そういった類の話だろう。わざわざ訪ねてきたのは驚いたが、も一応はA級社員というものになり、常に指名も上位に入っていた。主任だった伊藤美紀から、田所に優秀なスタッフとして話がいっててもおかしくはない。
ただ、は当然春千夜のところを辞めるつもりもなく、また身に余るほどの高額な給料をもらっている為、かけ持ちで仕事をする気もない。そんな時間があるなら、春千夜の為に毎日掃除をしたり、料理を作っていたかった。
だからこそ、は拒否の意を示すように「すみません」と前を歩いて行く田所へ声をかけた。

「今、ちょっと急いでて時間がないんです」
「ああ、いや…そこまで時間は取らせないよ。ちょっと君に聞きたいこともあるし…少しだけ付き合ってくれないか」
「…聞きたいこと、ですか?」

では話というのは仕事関連のことじゃないのか、と少しだけホっとした。

「えっと…何を聞きたいんですか?」
「まあ、立ち話もなんだから」

田所はやけに愛想のいい笑顔を見せて、交差点の方を指さす。の住むマンションと駅までの間に少し大きめの公道があり、そこは比較的交通量も多い。通り沿いにはいくつかカフェなども立ち並んでいるので、田所はそこへ入ろうと言ってきた。本当ならすぐにでも春千夜のマンションへ戻りたかったのだが、そこまで言われると断りにくい。それに部長だった男が一スタッフだった自分に何を聞きたいのかも少しだけ気になった。

「わかりました。でも人を待たせてるので少しだけなら…」
「うん。十分もかからないから」

念押しすると田所は時間を示してきた。曖昧な感じで言われるより、十分もかからないとハッキリ言われれば、少しは安心する。が田所について行ったのはそんな思いからだった。だが、この時。は一つ失念していた。
彼女が働いていた"アイシング"の裏には、愛田興業という反社組織が関わってたことを。
交差点に出た時、その車は突然目の前に現れた。キキっという甲高いブレーキ音と共に黒塗りの車が停車し、後部座席のドアが開く。中からは春千夜の部下と同じようなスーツ姿の男がひとり降りてきた。その男は何事だと足を止めて見ていたの腕を徐に掴むと、彼女をそのまま車の後部座席へと押し込んだ。声を上げる間もない。

「早く出せ」
「はい」

を押し込んだ男がそのまま隣に乗り込み、彼女を更に奥へと追いやる。運転席にはまた別にスーツの男がいて、たった今、助手席に乗り込んできたのは彼女に話があると言っていた田所だった。

「な、何するんですかっ」

この突然の状況にの頭は混乱し、つい田所に向かって怒鳴っていた。しきりにを交差点まで誘導していたのは、これが目的だったのかと今更ながらに気づく。田所は先ほどとは違う冷めた目で振り返ると「そりゃこっちの台詞だよ。お嬢ちゃん」と、会社では見せたことのない厳しい目つきで彼女を睥睨した。

「アンタのせいで、会社があんなことになったんじゃねえのかよ」
「…は?」

突然口調が荒くなった田所に、は小さく息を呑む。口調が変わっただけで見た目が変わったわけじゃない。でも不思議なことに、今の田所はさっきまでとはまるで別人のようだった。

「まあ、いい。その辺のことは後で聞かせてもらう」
「な、何を…?っていうか降ろして下さい!嘘をついて車に無理やり乗せるのは監禁罪ですよっ」

こんなことを言っても無駄、とは思ったのだが、言わずにはいられなかった。この行為はれっきとした犯罪だ。自分がそう認識してると相手にハッキリ伝えれば解放してくれるのでは、という淡い期待もあった。だがやはり、田所には通用しない。ふんっと軽く鼻を鳴らして笑っている。

「知ってるさ。でもそれは警察にバレたら、の話だ。その辺こっちはプロなんだよ。お嬢ちゃんは静かにしといた方が怪我しなくて済むぜ」

それを聞いてはゾっとした。田所の脅しはヤクザそのものだったからだ。そこで初めて春千夜から聞かされた話を思い出した。自分の勤めていた会社の裏には、ある組織が絡んでいたことを。

(まさか…部長も…?)

"アイシング"には一般社員もいるという話だった。だから、てっきりその手の人物はもっと上の重役連中だけだろうと勝手に思っていただけに、自分の部署にまで反社の人間がいたとは考えもしなかったのだ。ざわりとして全身に悪寒が走る。初めて身の危険を感じた瞬間だった。

「まあ、ゆっくり語り明かそうか」

田所は煙草を咥えて火をつけると、震え出したに向けて、さっきと同じような愛想のいい笑顔を見せた。


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遡ること数分前。が車に押し込まれた瞬間を目撃していた人物がいた。それは意外にも早く目が覚め、コンビニで朝食にする弁当を買いに出ていた姉の砂羽だ。
いつもは朝食を用意してくれる妹が不在の為、大通り沿いにあるコンビニで適当に食べるものを買って出てきた砂羽は、ちょうど交差点付近まで歩て来たところだった。そこへ小太りの男と共に自分の妹が歩いてきたのを見て、砂羽はちょっとだけ驚いた。妹は仕事先である春千夜のマンションにいると思っていたからだ。

「何してんの、あの子ってば」

見知らぬ中年男と何やら言葉を交わしてる妹は、どこか面倒そうな顔をしている。もしかしたら勧誘の類か?と思い、そこは姉として見過ごすわけにもいかないと、ふたりの方へ歩き出す。でもその刹那――砂羽の真横を一台の車がスピードを出して走っていく。と思ったら、車はと中年男の前で急停車した。声をかける間もない。あ、と思った時には妹のが車から降りてきたスーツの男に、車内へ押し込まれてしまった。

「嘘、でしょ…」

まさか白昼堂々、あんなことが起きるなんて想像すらしていない。を乗せた車が発車した瞬間、砂羽はそんな呟きと共に視線を素早く大通りへと走らせた。そして駅方面へと走ってくる一台のタクシーが視界に入った瞬間、考えることも迷うこともなく手を上げる。

「あの黒い車、追って!」
「は?」

ちょうど朝の時間帯。この通りは駅前よりも空いている為、タクシーが砂羽の前へスムーズに停車する。その瞬間、開いたドアから後部座席に飛び込む形で乗り込むと、すぐに身を乗り出した砂羽は叫びながら前方を行く車を指さした。当然、運転手はぎょっとして振り返る。まさか女刑事?と思ったのだが、スェットにパーカー、手にはコンビニ袋を下げてる姿はどう見ても刑事の恰好じゃない。しかし砂羽に「早く!」と怒鳴られた瞬間、運転手はすぐにアクセルを踏み込んだ。事情は分からないが、女の切羽詰まった様子を見て緊急性があるのかもしれないと思ったのだ。

「あの黒い車ですね」
「そう!絶対に見失わないで」

砂羽は念を押すよう運転手に言ってから、すぐにパーカーのポケットからスマホを取り出した。そこで誰かに電話をかけ始めると、相手が3コールで出る。

「あ、もしもし!蘭さん?すみません、こんな時間に…実は妹が怪しい男に拉致されて――いえ、自宅の近くの交差点です…はい、はい、わかりました!お願いします!私、今その車をタクシーで尾行してるんで場所はちくいちメッセージで送ります。え?あ、分かってます…はい、宜しくお願いします」

そこまで言って電話を切ると、砂羽はホっと息を吐きだした。に何があったのかは分からない。だが、あんな強引なことをするのは反社組織が絡んでるかもしれないと思ったのだ。そして、その手の話を相談するなら、動くまでに時間のかかる警察ではなく、やはり自分の店のオーナーしかいない。そう思った。

――オレから三途に連絡する。ちゃんはすぐ助け出してやっから――あ?尾行?んじゃー見つからねえようにしろよ!

砂羽の簡単な説明だけですぐに事態を察したらしい蘭は、迷うことなくそう言ってくれた。その事実が砂羽の動揺した気持ちを落ち着けてくれる。
は絶対大丈夫――。
そう祈るように何度も繰り返しながら、砂羽はひたすら前を走る車を見つめていた。


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が怪しい男に拉致――。
その一報が春千夜の元に届いたのは、ちょうどバスルームから出た時だった。まだ熱はあったものの、大量に汗をかいたまま過ごすのはどうにも我慢が出来なくなり、がいぬ間にシャワーへ入っておこうと思ったのだ。どうせあいつも家に帰れば、まず風呂に入るだろうし、戻る途中に買い物へ行くと言ってたんだから来るのは遅くなるだろう。そう考えた春千夜は、がいない暇な時間をシャワーに使っただけだ。が戻ってそれを知ったら「また熱が上がったらどうするんですか」と怒るかもしれないが、入ってしまえばこっちのもんだと春千夜は思った。
そもそも一日入らなかっただけで気分的に気持ちが悪く、落ち着かないのだ。
というわけで念入りに髪や体を洗い、スッキリして出てきた春千夜は、キッチンでミネラルウォーターを飲んでいた。出来ればビールくらい飲みたいところだが、それはさすがにやめておく。

「あいつ、そういうのうるさそうだしな…」

ふとの顔が浮かび、春千夜の口元が僅かに綻んだ。他人からなんやかんやと口を出されるのは嫌いなはずなのに、から怒られるのは少しも気にならない。むしろ自分のことを心配してくれてるのかと思うと、それが嬉しいと思ってしまうのだから、不思議なものだと苦笑する。
もし、彼女が自分を受け入れてくれた時は、思い切り大事にしてしまう予感がしていた。ガラじゃないのは分かっていても、といると自然と優しい気持ちになるのだ。
と、その時。ある思いが過ぎった。

(いや、っていうか…逆に…断られたらどうするんだ、オレ)

ふと春千夜らしかぬ弱気な一面が顔を覗かせ、しばしバスローブ姿のまま固まっていた。これまで振ったことは沢山あれど、女に振られたことがないだけに、勝手にがOKしてくれると思い込んでいた自分に少しだけビビる。だいたいは自分が今まで相手にしてきたような女達とは違う。そこを失念していた春千夜は、急に怖くなってきた。万が一、振られでもしたら、自分の家の仕事も辞められてしまうんじゃ、という心配までこみ上げてくる。

(いや、その時は無理やりにでも引き留めて…いっそ監禁でもしてやろうか…)

そんな反社の鑑とも言えるような危ないことを考えていた春千夜の耳に、突然スマホの着信音が響いた。カウンターテーブルに置いたままのスマホを覗き込むと、そこには"灰谷バカ兄貴"の表示。その名を見た瞬間、デフォルトのように舌打ちが出る。当然出るはずもなく、しばらく放置していたのだが、今日は明らかにしつこい。

「あの野郎…何の嫌がらせだ…?」

熱で寝込んでることは先ほどシャワーに入る前、九井に連絡をして伝えてある。すると蘭からもその話を聞いたと言われ、の姉経由からというのが分かった。なので蘭は当然、春千夜の具合が悪いことを知ってるはずだ。なのに、しつこく電話を鳴らしてくるので、いつもの嫌がらせかと思ったのだ。ただ、そう思いながらも、あまりに鳴り続けるのでひょっとして緊急性のある用か?と少しは気になってきた。

「…チッ。大した用じゃなかったらぶっ殺す」

騒動なことを言いながら、春千夜は遂にスマホ画面をタップした。ついでにスピーカーにすると、春千夜が怒鳴る前に蘭の声が室内に響き渡る。

『早く出ろよ、三途!ちゃんが誰かに拉致られたって砂羽から連絡きた!』
「……は?」

が拉致。砂羽から連絡。一つ一つ蘭の言葉を拾いながら考える。そして理解した瞬間、春千夜は一瞬だけ頭の中が真っ白になってしまった。


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まさか姉が着いて来てるとは露ほども思っていないは、田所に連れて来られた倉庫内を見渡しながら、どうにか逃げることは出来ないかと考えていた。倉庫の中はターレットトラック数台と、奥にはトロ箱のような物や、発泡スチロールが山ほど積まれてある。それを見る限り、この倉庫は釣った魚を保存したり、仕分けたりするところなんじゃないかと思った。出入口は正面のシャッターと、隣にあるドア一つ。どう考えても女一人が逃げられる状況ではなく。田所の他にスーツを着た男が五人ほど、倉庫入り口を固めるように立っていた。そもそも仮に彼らを突破出来たところで、あの重そうなシャッターや、鍵のかけられたドアを抜けられる気がしない。の背中にじっとりとした汗が垂れていく。恐怖が静かに足元から這い上がってくる。そんな心境だった。

「こ、こんなところに連れ込んで…どうする気ですか…」

田所にジリジリと奥へ追い詰められながら、はそれでも気丈な態度を崩さなかった。こんなことをされる理由は分からないが、有無も言わさぬ乱暴な行為に、いくら呑気なでも多少の怒りはある。どっちにしろ逃げられないのなら、せめて怯えてる姿は見せたくない。そう思った。
だが、そんなの態度を見た田所は「随分とこういう状況に慣れてるなぁ」と苦笑いを浮かべている。何のことだと眉根を潜めたに、田所が言った。

「やっぱオマエ…梵天のスパイだったか」
「……は?すぱいって…あのスパイ…?」

突然、身に覚えのない現実離れした言葉を投げつけられ、思わず呆気にとられた。梵天の名前を出されたことも驚いたが、あげくには梵天のスパイ。何を言ってるんだと思いながら田所を見ると、相手は意外にも真剣だった。「とぼけんのか」と凄みのある口調でを睨む。とぼけるも何も、にはサッパリ意味が分からなかった。

「あの…何か勘違いされてるんじゃ…。わたし、梵天なんて――」
「知らねえってか?じゃあ、オマエがうちの会社を辞めたあと、働いてる家の男は誰だってんだよ」
「……っ」
「はは。その顏は…ヤツの正体を知ってるって顔だなぁ」
「な、何の…話、ですか」
「…とぼけんじゃねえ!」
「ひっ」

突然、怒鳴った田所は、近くにあったトロ箱をガコンっと蹴り上げた。その音に驚き、耳を塞ぐの胸元を田所が掴む。

「オマエが"アイシング"にスパイとして侵入してたんだろ。そこで裏稼業のことを調べ上げて梵天に流してた…違うか?」
「ち、違います…!」
「だったら何でオマエは梵天のナンバー2のとこで働いてんだよ!おかしいと思ってたんだ…。いきなりあんな動画が流れて。あれも梵天の誰かが仕掛けたんだろが。確かオマエはその直後にうちを辞めたよなあ?ああいう事態になるってまるで分ってたかのようによ」
「し、知りません、そんなこと…っ!辞めたのはたまたま引き抜かれたからで――」
「はあ?A級社員になってすぐ辞めることが、すでに怪しいってんだよ!このスパイがっ」

違う。本当に知らない。なのに田所はが梵天の人間だと決めつけてるようだった。でも確かに誤解されるのも分かる気がした。田所の言うように、例の動画が流れてすぐは会社を辞めている。それも春千夜に言われたからだ。会社の行く末を知っていたかと訊かれれば否定は出来ない。
でも、それでも。梵天のスパイと思われるのはも不本意だった。

「ってことで…オマエにはきつーいお仕置きしなきゃいけねえなあ?」
「な…ほんとにわたし、スパイなんかじゃ――」

お仕置き、と聞いてゾっとした。それも誤解されてのことなら冗談じゃない。そう思って否定しようとしたの顎を、田所の手が掴んだ。

「オマエ、三途の女なんだろ?」
「…っ?」
「オマエみたいな普通の女を送りこめばバレねえと踏んで三途がオマエにスパイにさせたんだろうが、こっちはデカい損失を被ってんだよ。だから――その分は三途に支払わせることにした」

田所はニヤリと笑いながらを放すと、自分のスマホを何故かへ向けた。カシャリという音がしたのは写真を撮ったからだろう。の顏から血の気が引いていく。

「これを三途へ送りつける。今も手元に置いてるってことは、オマエは三途にとって大事な駒なんだろ?だったら殺す前に人質になってもらう」
「や、やめて!わたしは何も知らない――」

と言った瞬間、左頬を平手打ちされ、一瞬クラっとするほどの衝撃とキーンという耳鳴りに襲われる。人から殴られたのは初めてで、その痛みと驚きにショックを受けた。

「知らねえじゃ済まねえって言ってんだろ。あんまグダグダ言ってっと、今すぐ殺してそこの東京湾に沈めんぞ、コラ」

殺す、とハッキリ言われ、は息を呑んだ。ここは東京湾近くにある倉庫内。田所がやろうと思えば、簡単にの死体くらい綺麗に処理することも出来るだろう。生まれて初めて自分の死を身近に感じ、さすがに足が震えてきた。
彼女が田所に拉致されたことは誰も知らない。だから誰の助けも来ない。そう思った時、今も自分の帰りを待っているであろう春千夜の顔が頭に浮かぶ。

――別にねえよ。しいて言えばオマエくらいだな。

何か買って来て欲しいものはあるかと聞いたに、春千夜が言った言葉。それを思い出した時、の瞳に初めて涙が浮かんだ。
まだ自分の気持ちも伝えてない。ここで死ねば一生、伝えることは出来ない。そう思うと涙が止まらなくなった。

「…チッ。何泣いてんだよ!一般人ぶりやがって――」

と、田所が苛立ちながら、再びの胸倉を掴んだ、その時だった。突然、倉庫の外からウィィンンウィンウィーーン、という大きな機械音が響いてきて、その場にいた全員が一斉に入口のシャッターへ視線を向ける。すると今度はガガガッチュイィィィンという高い音と共に、閉じられたシャッターからギザギザの刃が突き出てきた。その場にいた全員が驚きで目を見張る。あまりに非現実的な光景だったからだ。
突き出た刃は真横へガガガガチュイィィンと高い音を立てながら、シャッターをまるで紙の如く切っていく。最後に真っ二つになった下の部分を、誰かが蹴り倒すのが見えた。蹴られた部分がガシャァァンっという派手な音を立てながら倒れたのと同時に、今度は切られた上部分を暖簾でもくぐるかのようにして、一人の男が入ってくる。
その人物は鮮やかなマゼンタ色の髪をした、梵天のナンバー2、三途春千夜だった。


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