Magenta...25


※流血描写あり



「は…は、春千夜…さん……?」

あれは幻?と思ってしまうほどに、は驚きで体が固まった。来てくれるはずのない人が目の前に立っている。しかも右手には某スプラッター映画でしか見たことがないチェンソーと、左手には長い日本刀。当然だが、そんな危ないものを持っている人間など一度も見たことがなく、これは現実なの?とが疑うのも無理はなかった。
だが田所は違ったようだ。春千夜の姿を見た途端、何かに怯えるように「テ、テメェは三途…!何でここにいるんだ、この野郎!」と、突然声を張り上げた。まるで小型犬が恐怖で虚勢を張り、キャンキャンと吠えているようで、の目にも滑稽に映る。しかし、その怯えが田所に大胆な行動をとらせた。上着の内ポケットへ手を突っ込むと小型の拳銃を取り出したのだ。それを目の前で見せられたは飛び上がるほどに驚いた。拳銃など、それこそ本当にテレビや映画でしか見たことがない。そんな危ないものを持ってたのかと、田所に掴まれている場所に怖気が走る。自分がいつ殺されてもおかしくない状況だったことを、改めて実感してしまった。

「よお、無事だったかよ」

彼女の衝撃とは裏腹に、拳銃を向けられてなお、春千夜は淡々とした口調で話し、拘束されているだけを見ていた。初めから田所のような小物は眼中にないらしい。その鋭い眼差しが必ず助けてやると伝えてくるようで、彼女の恐怖心を和らげてくれる。しかし田所の方は逆に僅かばかり息を呑んだ。この不利な状況でも圧倒的な余裕を見せる春千夜に内心ゾっとしてしまう。
いくら反社の人間と言えど、銃を向けられれば誰でも多少は動揺するものだ。なのに、目の前の男からは一切そのような怯えは感じられない。それが田所から心の余裕を奪っていく。視線だけを動かし、自分の部下達に春千夜を囲むよう指示を出したのはそのためだ。梵天はトップの佐野万次郎を筆頭に、幹部たちも全員が武闘派と聞いている。人質がいることや、人数有利を過信して油断したら確実にやられるという怖さがあった。他の幹部が来てないとも言い切れない。
一方、は田所が酷く緊張していると感じていた。拳銃という圧倒的に有利な武器を持っていても、春千夜がひとり乗り込んできただけで、こうも怯えるものなのか、と内心驚く。それほど今の春千夜には他者を圧倒するほどの威圧感があった。それは彼女にも見せたことのない、彼の裏の顏だった。

「クソ…!まだ連絡すらしてねえのに何故ここが分かった…!」

田所の目には驚愕と不安の色が滲んでいる。その時、ごとん、と鈍い音を響かせ、チェンソーが春千夜の手から落ちた。
その刹那――春千夜の背後に回っていたスーツの男たちが一斉に悲鳴を上げた。男達の気配にとっくに気づいてた春千夜は背後を見ることなく、振り向きざまに手にした日本刀を真横へ走らせたのだ。血痕が迸り、コンクリート壁や床に赤い鮮血が無数に飛び散る。その光景をは信じられない思いで見ていた。男達はわめきながら全員が床に倒れ,「いてえっ」「血が止まんねえっ」とのたうち回っている。見れば彼らの胸元から出血している。春千夜の刀がスーツのジャケットや中に着ているシャツを切り裂き、彼らの胸筋付近を傷つけたようだ。その見事な切れ味を見れば、本物の日本刀だとすぐに分かる。

「チッ…薄皮一枚斬ったくらいでギャーギャーわめくな」

たった今、人を斬った男とは思えないほど普通のテンションで言うと、春千夜は手にした日本刀の切っ先を田所へと向けた。焦った田所も手にした拳銃を春千夜へと向ける。だが、もう片方の腕でを背後から拘束し、自分の楯にするべく前へと立たせた。春千夜の眉尻がぴくりと動く。

「そいつを放せ。田所」
「ぐ…な、何でオレの名前を――」
「あ?テメェ、誰にケンカ売ったか分かってんだろ。盗難車だろうがナンバーからオマエらの乗った車くらいオービスで特定できんだよ、バカが。焦ってスピード出しすぎたなァ?」
「な…何で車のナンバーまで知って…いや、それより…まさか…梵天は警察とも繋がってんのか…?」

ただの反社組織の人間では到底知り得ない情報だった。その事実が田所に梵天の支配が警察幹部にまで及んでいることを悟らせる。春千夜は田所の問いに応えることもなく、挑発するよう口端を軽く上げると、もう一度「そいつを放せ」とひとこと言った。鈍色に光る刃が、今も真っすぐ田所に向けられている。その事実が田所を恐怖させた。飛び道具を持っているにも関わらず、その拳銃を春千夜ではなく、拘束しているのこめかみへと向けたのは悪手だったとしか言いようがない。

「く、来るなぁ!こ、この女を殺すぞ!」
「……きゃ…っ」

息が出来なくなるくらい田所の腕に首を圧迫され、は足をバタつかせたものの。冷静さを失っている男の力に拘束されては簡単に外れない。じっとりとの額に汗が滲む。空気を遮断された口を金魚のようにぱくぱくと動かすことしか出来ず、意識が徐々に薄らいでいく気がした。首を圧迫されてることで脳に血液が充分に送られず、圧倒的に酸素が届いてないのだ。そもそも小柄な彼女を小太りの中年とはいえ、大柄の男が力ずくで抑え込めば、当然ながら落ちるまでの時間も早い。の意識は途切れる寸前だった。それを見ていた春千夜から、一瞬異様な殺気が漂い、それを本能で感じ取った田所がひゅっと喉を鳴らした。

その刹那――半分に切られたシャッターの向こうから、今度は重機の操作音が轟いた。何事か、と田所の意識がそちらへ向く。その隙を春千夜は見逃さなかった。一気に間合いを詰め、を抱えてる方とは逆の、田所の右わき腹を日本刀で突き刺す。切っ先が骨に当たったゴツっという鈍い音が響いたのと同時に刃を引けば、傷口からボタボタと真っ赤な血が溢れ出る。がぁぁという悲鳴を上げた田所が床へ崩れ落ち、の体から腕が離れた。だがその彼女もまた、すでに意識を失っていたらしい。その場に崩れ落ちそうになったところを、春千夜が腕で抱き留める。
それと同時に、ドゴン、ガシャァンという派手な破壊音と共に上半分しかなかったシャッターが吹き飛ぶ。続いて外から現れたのは中型のショベルカー。それが壊れたシャッターをひしゃげさせながら倉庫内へ侵入してきた。それを見た春千夜は舌打ちをしたあと、重機を操縦している男へ「おっせえよ」と不満をぶつけた。

「あ?これ見つけんのに苦労したんだぞ!やっと見つけて駆けつけてきたのに、もうシャッター半分ねえわ、オマエは勝手に乗り込んでるわで――って、しかもすでに終わっちゃってんじゃん」

一気に言い返してきた男――灰谷竜胆は、スーツ姿の男たちと田所が床で倒れてうんうん唸ってるのを見ると、途端にやる気が失せたらしい。軽く舌打ちしてショベルカーから飛び降りた。

「アホくさ。良いとこどりがここにもいたわ」
「あ?」

の体を抱えた春千夜が振り返ると、ちょうど破壊された入口から蘭に支えられた砂羽が入って来る。砂羽は春千夜の腕の中にいる妹に気づくと「っ」と呼びながら駆け寄ってきた。

「別に怪我しちゃいねえ。ちょっと気を失っただけだ」
「よ、良かった…」

意識のないを見て砂羽の顔が一気に青ざめたのだが、春千夜の言葉を聞いてホっと安堵の息を漏らしている。そこへ蘭がゆったりとした足取りで歩いてきた。

「こいつらー?愛田のバカって」
「ああ…そっちの男は愛田の幹部で田所だ」
「へえ…んじゃあ…これからたっぷり時間かけて聞かせてもらおーか」

冷ややかな、それでいてどこか愉しげとも見える微笑を口元に浮かべた蘭は、すぐに部下へ電話をかけて男達を運び出せと命令している。この男達はこれから梵天所有のスクラップ工場で拷問を受けることになるだろう。梵天幹部の関係者に手を出そうとしたのだから当然だ。
ただこの時、春千夜も含めて蘭や竜胆も、何故が愛田興業の人間に攫われたのかは知らなかった。
でも――確実に自分達が巻き込んだという自覚はあった。だからなのかもしれない。無事で良かった、と泣きながらの頭を撫でている砂羽に向かって、春千夜は「悪かった。妹を巻きこんで」と心から謝罪した。それを見ていた蘭や竜胆もギョっとはしたものの、同じく砂羽に「ほんと…悪かったな」と声をかける。
いつもは一般人を巻き込んだ抗争など気にも留めない組織の幹部が、首を揃えて自分へ頭を下げる姿を見せられては、さすがの砂羽も言葉を失った。しかし、躊躇うことなくそれが出来るほど、この三途春千夜という男が妹を大切に想ってくれているのだと伝わってくる。
先日、に冗談めかして「別にいいわよ。三途さんとどうなっても」と言った言葉が、一気に現実味を帯びてきたのは、きっとそのせいだ。

「…いえ。三途さんのところで働くと決めたのはこの子自身です…。それに蘭さん達が助けてくれなければ、きっとは殺されてたと思うので、皆さんが謝ることはないです」
「…砂羽」

気丈な態度でキッパリ言い切る姉の姿に、蘭も微苦笑を浮かべるしかない。「やっぱいい女だわ、オマエ」と言えば、すぐに「当たり前でしょ」とおどけて返す砂羽の目には、もう涙の痕はなかった。


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ん?ここは…どこだ?
意識が戻った瞬間、はまだ夢心地の気分だった。何やら物凄く怖い思いをした気もしたが、ベッドで寝ているということは、やっぱりそれは悪い夢だったんだと結論づける。何せ背中がフカフカなものに包まれて、何とも寝心地がいい。なので、このまま二度寝といきたいところだな、と思いながら寝返りを打つ。だが唐突におかしい、と理解した。自分のベッドはここまでフカフカでもなければ、今被っている布団も明らかに自分のものじゃない。かすかに甘い香りもする。なのにこの感触も匂いも覚えがあった。

「え」

短く声を上げたはがばりと体を起こし、自分がどこで寝ているのかを確認した。そして予想通りの状況に絶句する。
薄暗い室内。でもどこかくらいはすぐに分かる。毎日のように自分が掃除をしている部屋なのだから。

「うそ、あれ…?何でわたし、春千夜さんのベッドに…」

が寝かされていたのは、やはりと言うべきか、春千夜のベッドだった。一瞬頭が混乱したのは、いつ自分はここへ戻って来たんだろうという疑問が湧いたからだ。狐につままれたような心地になりながらも、一度家に帰ったよね、と自分の行動を思い返す。服装を見れば確かに着替えてきたようだ。そこでやっと、ここへ戻ろうとした際に前の会社の部長だった男に声をかけられたことを思い出した。当然、その後に降りかかった己の災難も。

「あ…!そ、そうだ…あれは…夢なんかじゃない…」

一つ思い出すと次々に記憶が蘇り、その時の恐怖までが鮮明に思い起こされる。ただ一つ言えるのは、自分は生きているということだ。

「…春千夜さんだ。あれも夢じゃない…」

記憶が途切れる寸前、春千夜があの倉庫に現れたのを、はハッキリ思い出した。夢かとも思ったが、自分がここにいるのがいい証拠だ。きっと彼が助けてくれたに違いない。そう思ったらいても経ってもいられず、はベッドから飛び出した。

「…春千夜さん!」

すぐにリビングへ行き、主の名を呼ぶ。だが、そこにも春千夜の姿はなく、「そうだ」と慌てて玄関を確認しに行くと、靴は一足も出ていない。それだけでも彼の不在が一目で分かる。

「どこ行っちゃったの…?」

春千夜に助けられたのは理解したものの、今度はどこへ行ったのかと不安になる。自分が気を失った後のことが分からないのだから当然、春千夜のことが心配になった。何か予期せぬことが起きて怪我をしたんじゃないかとまで考え出すと、どうしていいのかも分からない。ついでに田所が拳銃を所持してたことも思い出し、まさか撃たれて病院に…?と一気に血の気が引いて行く。

「待って…落ち着け、わたし…。わたしがここに寝かされてたってことは…春千夜さんが運んでくれたってことだから…少なくとも動けないような怪我はしてないはず…」

は寝室のベッドに寝かされていた。あの春千夜が他人を入れるはずがないのだから、やはり自分を運んだのは春千夜以外考えられない。そう結論づけて、もう一度寝室へと戻った。何か書き置きみたいなものがないかと思ったのだ。でもその前に、よくよく見ればベッドの下に見覚えのあるトランクケースがある。それは姉の砂羽が海外旅行へ行く際に買ったもので、一度使って以来、クローゼットの奥に押し込まれていたものだった。そんなものが何故ここに?と疑問に思いながら、恐る恐るトランクへと近寄る。
服がいっぱい入るやつがいいと言う砂羽がこれを買う決め手になったほど、かなりサイズが大きい。

――これ、人がひとり入っちゃうんじゃない?特には小柄だから余裕で入りそう。

買って来た時、が大きいの買ったねと驚いた際、砂羽がそんな話をしてたことまで思い出す。そして、まさかね、と目の前のトランクを見つめた。何故そう思ってしまったのかは分からないが、この中に春千夜さんが…と心配になったのだ。それくらい、このトランクがここにあること自体、不自然だった。
ごくり、と喉を鳴らしつつ、トランクへ手を伸ばす。立ったまま置かれてるのも少し恐怖を感じた。それを静かに横へ傾けると、ずっしりとした重みを感じて心臓がバクバクと早鐘を打ち出す。

「…そ、そんなはずない。この中に人が詰められてるなんてことは…」

自分に言い聞かせるよう独り言ちながら、は留め金をばちんと外し、一気にトランクを開け放った。

「…え?」

結論から言えば、中にあったのは誰かの死体ではなかった。ただ、何故ここに?というものがびっしりと詰め込まれていた。

「え、え?何で…わたしの服がこんなに…?」

普段着から部屋着、パジャマに下着まできちんと整頓されて入ってる状態に、ぽかんとしてしまう。もちろん自分は詰めた覚えがない。
その時、玄関の方から解錠する音と、誰かが入ってくる物音がして、はっと息を呑む。慣れた足取りの音が真っすぐに寝室へと近づき、開け放したままのドアから黒い人影が入ってきた。

「あ?気が付いてたのかよ」
「は、春千夜さん…」

パチッと室内の明かりがつき、今度はハッキリと春千夜の姿を視認したの目からは、驚くくらいに涙が溢れてくる。無事だったという安堵感と、助けに来てくれたという喜びで、の感情はぐちゃぐちゃだった。その思いのまま思わず本能的に春千夜へ抱き着けば、うおっという驚きの声が上がった。

「春千夜さん…!良かった…無事で…」
「…は?そりゃオレの台詞だろが」

突然抱き着いてきたかと思えば、攫われた張本人に「無事で良かった」と言われた春千夜は、呆れたような口調で言った。それでもの髪を撫でる手は優しく、「どっか痛いとこねえのかよ」と訊いてくる声さえ、暖かい。左右に首を振り、春千夜の胸に顔を押し付けると、頭の上で春千夜がホっと息を吐いた気配がした。

「田所からオマエを狙った理由は聞いた。悪かったな…オレのせいだ」
「そ、そんなこと――」
「いや、そうなんだよ。そのせいで奴らに誤解されたんだからな…。まさかをスパイと疑うとは思わなかったわ」

でも、もう心配すんな、と春千夜は言った。この先、田所がの前に現れることは二度とない、とも。
春千夜は僅かに体を放すと、身を屈めての顔を覗き込んできた。彼女を見つめる眼差しは、殊の外優しい。つい惚けて吸い込まれそうな瞳を見つめ返す。一瞬、甘い空気が流れたような気がした。今なら自分の気持ちを素直に言える。そう思った彼女に、春千夜が突然とんでもないことを言い出した。

「…ただ…万が一、またオマエが狙われてもマズいし、全部のカタがつくまでにはここにいてもらう」
「…へ?こ、ここって…」
「オレとここでしばらく暮らすってことだよ」
「……く、暮らす?春千夜さんと…?」

突然のことで頭が追いつかない。戸惑いながら見上げると、さっきまでの甘い空気が嘘のように、春千夜の大きな瞳が不満げに細められた。彼女もちょっとだけ怯む。春千夜がチェンソーを持って登場した衝撃は忘れていない。

「何だよ…嫌か?」
「え?い、嫌とかじゃ…」
「つーか、オマエが嫌だって言っても、オマエの姉ちゃんはその方が安心だっつってオマエの荷物も詰めてくれたけどな」
「…え?!あ!」

意味深に口角を上げる春千夜を見て、すぐそこにあるトランクへ視線を向けた。確かにこれを砂羽がやったんだと思えば全て納得がいく。
ただ何故砂羽がの身に起きたことを知ってたんだろう、と思ったが、その謎は全て春千夜が説明してくれた。田所に拉致されたところを目撃して、砂羽もタクシーで後を追い、蘭にあの倉庫の場所を教えてくれたのは、全て砂羽だったと。

「ま…だから早い話…オマエを救ったのはオレでも灰谷でもなく、の姉ちゃんってわけだ」
「…お姉ちゃんが…」

春千夜の話を聞いての目にまた涙が浮かぶ。姉の砂羽はいつだって、のことを守ってくれるのだ。幼い頃から、今でもずっと。
その時、頭にふわりと春千夜の手が乗せられ、それはするすると髪を撫でて背中へ下りていく。そこでぐいっと抱き寄せられたは、またしても春千夜の胸に顔を押し付ける形になった。

「…怖い思いさせて悪かった」
「春千夜さん…?」

すぐ傍で聞こえる春千夜の声はいつもとは違い、どこか弱々しく聞こえた。まるで怖い思いをしたのは自分だと、そう言ってるように聞こえる。僅かに顔を離して、もう一度見上げると、春千夜の手が頬へ伸びてきた。指先が頬にかかった髪を梳かすように動いて、それをそっと耳にかけられると、じわりと頬が熱くなるようだった。

「無事で良かった…」
「…は、はい…」
に何かあれば…オレはきっと…」
「…え?」

春千夜はそこで言葉を切ると、いや…と言葉を濁した。

「…オマエが…好きだってことだよ」

春千夜はそう呟いて、の目尻に唇を寄せると、濡れたその場所へそっと口付け、彼女と視線を合わせた。いつもは鋭い大きな瞳も、今は優しい色を滲ませている。その瞳を見ていたら、の口から自然と「わたしも…春千夜さんが好き…」という言葉が零れ落ちた。
そう。多分、もっと前から。きっと春千夜のことが好きだった。今さらになって自覚するなんて、と自分でも笑ってしまうけど。
春千夜に認められることが嬉しかった。喜んでくれる姿を見るだけで幸せだった。その積み重ねは、いつからか愛情に変化して、でも、どこかでわたしなんかという卑屈な気持ちが枷になっていた。でも今は誤魔化すことが出来ないくらいに、目の前の存在に惹かれている。

「なら、もう遠慮はしねえぞ」

額を合わせた春千夜が、掠れた声で呟く。迷うことなく頷けば、強い言葉と裏腹に、啄むような甘いキスをされた。触れては離れ、鼻先をくっつけては、また唇をちゅっと啄む。唇同士を擦り合わせながら、春千夜はの腰を抱き寄せた。ふたりの距離が更に縮まり、薄く開いた隙間を熱い舌が掠めていく。そのまま滑り込んで舌先が彼女のものに絡みつくと、は小さく喘いで春千夜の腕にしがみついた。
本当は怖かった。死ぬかもしれないと思うことなど、普通に過ごしていた彼女には縁遠い恐怖。でも、それでも春千夜から離れたいとは思えなかった。
裏の世界の住人でも、どうしようもなく春千夜が欲しくて、恋しくて、唇を合わせる合間、好きだと浮かされたように呟きながら、熱を宿した瞳で見つめてくる春千夜を、求めるように唇を愛撫してくる彼を、たまらなく愛しいと、そう思ってしまったから。
それは彼女にとって、本気の、初めての恋だったから。


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