Magenta...26



「もう…熱あるのにあんな無茶するから、また上がっちゃうんじゃないですか」

ぷんすかといった表現がぴったりなほど頬を膨らませるを見上げながら、春千夜は軽く舌打ちをした。せっかく両想いだと分かり、さあ今からどうしてやろうかと思った途端、腕の中におさめていたが「春千夜さん、体が熱いです」と言い出し、すぐに熱を測られたのは誤算だったとしか言いようがない。まあ、確かに彼女が無事でホっとしたら一気に寒気が復活したので、今はに言われるがままベッドに入っている。
意識を失ったを自宅へ連れ帰り寝かせたのち、春千夜はその足で拘束した田所たちのところへ出向いた。田所は蘭たちが早速スクラップ工場へ連れて行き、拷問担当の望月が色々愛田興業のことを訊きだした後、春千夜自ら田所を処刑した。誤解からとはいえ、を危険な目に合わせた男を放っておけるはずがない。遺体はいつもの場所で処分され、彼らはこの世から綺麗に消え去った。あとは愛田をとことん追い詰め、潰すだけだ。
その辺のことは蘭や望月に任せ、全てを終えてマンションに戻ってきた頃には、が言うように熱っぽくはあった。あったのだが…彼女が意識を取りもどしていたこと、その後に彼女の気持ちを聞けたことも重なり、すっかり自分が病人だというのを忘れていた。こうしてベッドへ寝るだけで、今更ながらに全身が怠いことに気づく。

「じゃあ春千夜さんはちゃんと寝てて下さいね!後で食事を持ってきますから」
「は?」

しっかり肩まで布団をかけてくれてから寝室を出て行こうとする彼女の腕を、春千夜はついガシっと掴んでいた。おかげでびんっと後ろへ引っ張られた勢いに彼女は戻され、若干たたらを踏みながら、自分の手首を掴んでいる春千夜へ困惑気味の視線を向ける。しかし文句を言おうとした口を閉じてしまうほど、春千夜の不機嫌そうな瞳と目が合った。

「どこ行くんだよ」
「へ?ど、どこって…することないので仕事をしようかと思って…」
「…仕事?今からかよ」
「だ、だって…ここ二日ほど出来てないし春千夜さんも気になってるんじゃないかと…」
「………」

そう言われると何も言えない。室内の埃は一日しなかっただけで溜まっていくからだ。自分が熱で倒れてからというもの、彼女は看病のため、掃除どころでもなかっただろう。それは春千夜にも理解できる。ただ、想いを告げ合った後くらい、仕事を忘れて傍にいて欲しい。欲しいのだが、ここにいてくれとは言えなかった。何故かって?恥ずかしいからに決まってんだろう、とは春千夜の心の声だ。
これまで適当に相手をして来た女とは全く勝手のちがう相手であり、いつものような傲慢で強引な態度など出来るはずがない。いや、さっきはキスをしてしまったが、それは許可をとったので強引な内には入らない。
そもそもは春千夜が遊びの対象に選ぶ女達とは見た目も雰囲気も性格も何もかもが違うので、春千夜もどう扱っていいのか分かってないというのが正直なところだ。

「あ、あの春千夜さん…ちゃんと寝ないと――」
「…分かってる。でもその前に…」

と言って掴んでいた手を少しだけ自分の方へ引き寄せた。そうすることで小柄なの体が容易く春千夜の方へと傾く。春千夜は上体を起こすだけで、彼女の唇にキスをすることが出来た。ちゅっと軽く啄むような触れる程度のものでも、これがあるのとないのとでは春千夜の安眠度が違う。ただ不意打ちの如くキスをされた彼女はと言うと、案の定その白いもちもちした頬を一瞬で赤く染めて、口を金魚のようにぱくぱくさせていた。反応がまるで小学生だなと苦笑いを浮かべながらも、「掃除すんだろ?オレは寝るから」と再びベッドへ横になる。そこで我に返ったも「は、はい…ちゃ、ちゃんと暖かくして下さいねっ」と叫んでから、脱兎のように寝室から出て行ってしまった。

「んな逃げるようにいかなくても…」

くっくと笑いを噛み殺しつつ、春千夜はゆっくりと目を瞑った。こんなに笑ったのも、心が穏やかなのも久しぶりすぎて何となく気恥ずかしいが、でも悪い気分じゃない。
ひとりの女に惚れただけなのに、こうも心が満ち足りるものなのか、と驚きはするのだが、彼女と出会う前の春千夜にはなかった、万次郎や自分以外の者を慈しむ気持ちは、案外いいもんだな、と思う。大切な存在がひとり増えただけ。それが可愛くて、自分の希望を叶えてくれて、癒してくれる女なのだから、オレの人生も捨てたもんじゃないと笑みが漏れた。
あとは彼女がまた危険な目に合わないよう、サッサと脅威を除外しないとな――。
そう思いながら、春千夜は静かに目を閉じた。


▼△▼


一方、リビングに逃げ込んだは未だばくばくとうるさい心臓を押さえながら、盛大に息を吐きだしていた。無事に自分の想いを伝えることが出来てホっとはしたのだが、もう遠慮はしないと言われたように、春千夜が一気に距離を縮めてくるせいで、彼女の情緒は乱れっぱなし。そろそろ心臓が止まるのでは、というくらい酷使してる気がしてきたので、出来れば心臓のスペアが欲しい、とバカなことまで考える。
だいたい碌な恋愛経験もなく大人になった素人が、恋愛経験――は知らないが、女性経験の豊富そうな春千夜といきなり付き合うなど無謀だったのかもしれない

「ダ、ダメだ…表情筋が固まってる…」

ふと我に返り、自分の頬をぐにぐにとほぐしながら、いつもの掃除用具を取りにいく。そう、一旦落ち着こう。落ち着いて…落ち着かねば。
と、すでに考えている時点で脳はかなり混乱気味のだった。
それでも掃除を始めると、次第に心は凪いでくる。いつもの自分を取り戻せるのが、彼女にとったら掃除を含めた家事なので、いつも以上に熱心に部屋を綺麗にしていく。と言っても普段から掃除はしているので、多少の埃をとって乾拭きしてしまえば、一時間ほどであっという間に終わってしまう。なので今度は春千夜の食事に取り掛かった。
ただ、いくら熱があるとはいえ、お粥続きでは味気ないし、栄養もそれほど摂れないので、何がいいかと考えた結果、今日はビタミン豊富な豚肉と小松菜のみぞれ煮を作ることにした。これなら弱った胃腸にもそれほど負担はかからない。

「お豆腐も入れようかなぁ…」

と独り言ちながら、早速下準備をしようと張り切って冷蔵庫を開ける。が、そこで思いだした。一度家に帰り、春千夜の家へ戻る途中で買い物をしようとしてたことを。
なのに途中で田所とかいう元会社の上司――その正体は反社の幹部だったが――に捕まり、あんなことになったので、当然買い物にも行けていない。

「そうだったぁ…。材料切らしてたんだよね」

缶ビールだけは沢山ある冷蔵庫を見ながら溜息を吐くと、はすぐにエプロンを外してコートを手にした。もちろん買い物に行くためだ。だが玄関に出たとき、ふと寝室の前で足が止まる。このまま何も言わずに出かけて良いものなのかと迷ったからだ。
先ほどの春千夜の口ぶりから、まだ脅威は完全に消えてはいないんだろう。愛田興業という梵天と敵対する組織の話はちらっと聞いたので、もそこは理解したつもりだ。まだ危険があるからこその春千夜のマンションで一時的な同居という形になったということも。
ならば、ただの買い物といえ、ひとりで出かけるのはさすがにダメなんじゃ、と思った。

「どうしよう…でも行かないと食事も作れないしなあ…」

春千夜が元気ならばきっとついて来てくれるんだろうが、今は無理をしたせいで熱がぶり返している状態だ。そんな春千夜に買い物を付き合わせるわけにもいかず、はうーん、と頭を抱えてしまった。

「あ…お姉ちゃんに頼めばいいんだ」

ふと姉の顔を思い出し、すぐにスマホを出す。朝はあんなことに巻き込んでしまったが、今頃は家で寝てるだろうと思った。起こすのは申し訳ないが、こういう時に頼れるのは姉の砂羽しかいない。そう思って電話をかけてみると、意外にも2コール辺りで砂羽が応答した。

、気が付いたのね!良かったー!』

の意識がなかったことを知っているせいか、心配してくれてたらしい。もう大丈夫だと伝えると、砂羽はホっとしたように、もう一度『良かった』と言ってくれた。

『あ、それで…三途さんから聞いた?しばらくを預かるって言われたんだけど』
「う、うん…さっき。あ、荷物ありがとね、詰めてくれて」
『ううん。まあ私もその方が安心だし…。あ、それで三途さんは?』
「今は寝てる。無理したせいでまた熱が少し上がってたから」
『そっか…。ほんと彼にはなんてお礼を言えばいいか…ああいう時、やっぱり頼りになるよね』
「うん…お姉ちゃんが蘭さんに連絡してくれたおかげだよ」

しばし無事に帰ってこれたことを感謝しながら話していると、砂羽が『それで?用はそれだったの?』と訊いてきた。そこで買い物の件を思い出し、砂羽に相談してみる。事情を知っているだけに、砂羽はすぐに『おっけー。何買ってけばいい?』と快く承諾してくれた。一通り必要な材料を言うと、その一時間後には砂羽から春千夜のマンションに着いたと連絡が入り、がロビーまで下りていく。ここはセキュリティが万全なのでマンション内なら安心だった。

、こっちー!」

ロビーに下りていくと、お店に行くようなスタイルで砂羽が来客用のソファへ座っていた。手には格好に似合わないスーパーの袋を持っている。

「ごめんね、お姉ちゃん!これから仕事なのに」
「いいのいいの。ついでだし、店もここから近いしね」

そう言われると、蘭の店はこの六本木にあるんだっけ、と思い出す。姉の働く店は行ったことがないのですっかり忘れていた。

「はい、これ。言われた食材やら、飲み物とか、その他諸々」
「あ、ありがとう!出かけていいのか分からないから困ってたの。凄く助かった」
「いえいえ、これくらい。それにマジで一人じゃ出かけない方がいいみたいだし」
「あ、やっぱりそうなんだ…」
「蘭さんがそんな感じで話してたの。でも蘭さんや竜胆さんも動いてるみたいだから、早々に片付くかもね。それまではも三途さんにべったりくっついてれば?」

意味深な笑みを口元に浮かべ、肘でどんっと突いて来る姉に、の頬が一気に赤くなる。これまで姉とそんな会話をしたことがないので妙に照れ臭いのだ。

「く、くっつくって言ったって、相手は病人だし…」

と言った瞬間、砂羽はにんまりと悪そうな笑みを浮かべた。

「ああ、ふーん。やっぱアンタ達、そういう感じになった?」
「…えっ」
「ああ、その顏はそうなんだー。へえ、そっかそっかー」
「な、なな何それ…カマかけたの?」

ニヤニヤする砂羽は、すでに何でもお見通しらしい。のさり気ない言葉や様子から、春千夜とくっついたことを察してるようだ。我が姉ながら恐ろしい、と思ってしまう。

「ま、あんな風に助けに飛んで来るくらいだから、三途さんものこと好きなんだろうなあとは思ったけど」
「…う」
「何よ。も好きなんでしょ?ならもっと幸せそうな顔しなさいよ。まあ、遥か昔に学生ノリの交際しかしたことがないにはちょっとハードな相手だろうけど」
「わ、悪かったわね…恋愛ド素人で…」
「いいんじゃない?三途さんはそういうを好きになったんだし。ああいう男は意外とみたいなかわちぃ~女の子に弱いのよねえ」
「か、かわ…ちぃって、すぐ子供扱いする…」

ケラケラ笑う姉をジトっと睨みつつ、スーパーの袋を抱え治す。すると中には薬局の袋も一緒に突っ込まれていた。色が派手な緑なのですぐに近所の薬局だと分かる。

「え、これは?」
「ん?ああ、それ。一応冷えピタとか、スポーツドリンクに栄養ドリンクとかも買って来たの。あとはその他もろもろね。まあ、役立ててよ」
「…ん?う、うん…ありがとう?」

にまあっという表現が相応しいほどの笑みを浮かべる砂羽を見ながら、もとりあえずお礼を言っておく。ドリンクの類も残り僅かだったので、ちょうど良かったかもしれない。さすがお姉ちゃん、気が利くなぁとも感心した。また、こうでなければ人気のクラブで働けないのかもしれない。
そう言えば蘭の家で働いてたとき、蘭も砂羽を褒めてたことを思い出す。蘭曰く、"砂羽は上手くオッサンを転がしてくれる"んだそうだ。それを聞かされた妹としては、少しだけ複雑な気持ちになったのだが。
その姉がオジ様を転がしに行く時間がきたらしい。腕時計を確認すると、砂羽が「そろそろ店行くわ」と言い出した。

もちゃんと休みながら看病してね」
「うん。ほんとありがとね、お姉ちゃん。行ってらっしゃい」

砂羽は笑顔で手を振ると、軽やかな足取りで六本木の街へと消えていく。それを見送ってから、もすぐに部屋へ戻った。そこから夕飯の下準備をしていたら、結構な時間が経っていた。

「そろそろ食事させて薬を飲ませないとかな」

時間を確認して、まだ寝ているであろう春千夜の様子を見に行く。そっとドアを開けると、案の定まだ室内は暗かった。カーテンを閉め切っているので、普段ならキラキラしている六本木の夜景も見えない。
春千夜はまだ眠ってるように見えたので、もう少し後にしようとドアを閉めかけた時、不意に「…ん?」というかすか声が聞こえて、はすぐにまた中を覗いてみた。

「…あ?か?」
「は、はい…すみません…起こしちゃいましたね」

廊下から差し込む明かりが刺激になったのか、春千夜が目を擦りながら上半身だけ起こすのを見て、は慌てて中へ入った。その手には先ほど砂羽から受け取った薬局の袋を持っている。まだ熱が高いようなら冷えピタでも貼ってあげようと思ったのだ。
春千夜は「いや…少し前に目が覚めて、またウトウトしてたわ…」と軽く欠伸をしながら、いま何時だと訊いてきた。

「えっと…夜の10時になるとこです」
「…マジか。何か寝すぎたな…」

春千夜は再び欠伸をすると、「ちょっと顔洗ってくる」と洗面所へ行ってしまった。その間に着替えなどを出して、シーツも替えておくと、戻ってきた春千夜が「まだ仕事モードかよ」と軽く笑った。どうやら顔を洗って少しスッキリしたらしい。寝る前のような怠そうな顔は見られない。それでも熱があるかもしれないと、ベッドに腰をかけた春千夜の額に手を置いた。

「あ、さっきより下がってるかも」
「ああ、もう寒気とか怠さはねえな、そう言えば」
「良かった。あ、でもまだ薬は飲んで下さいね。すぐ食事の用意するんで」
「待て待て」

すぐに出て行こうとするの腕をさっきと同じ要領で捕まえると、春千夜はすぐに自分の方へ彼女を引き寄せた。

「少しはジっと出来ねえのか、テメェは」
「え、だ、だって…お腹空いてるんじゃないかと…」

急に距離が近くなったことで、の目が左右に泳ぐ。それを見上げていた春千夜は苦笑気味に溜息を吐くと、「今すぐ餓死するほどは減ってねえよ」と言った。それより何より、今はに少しくらいは傍にいて欲しいのだ。よって、今度は目の前に立っているの腰を抱き寄せると、春千夜は自分の膝の上に彼女を座らせてしまった。
突然抱き寄せられたかと思えば、春千夜の膝に座らされたは「ひゃ」だの「わ」だのと騒ぎ立てたが、春千夜は構うことなく彼女が落ちないよう細腰を支えながら「マジで軽いな、は」と笑っている。まるで子供でも抱いてるような形になり、の顏が真っ赤になった。

「お、下ろしてください…っ」
「あー暴れんな。動かれるといてえだろが」

膝の上でじたばたと藻掻きだしたにそう言えば、すぐにピタリと動きが止まる。反則だとは思ったが、ここは雇い主の権限を行使させてもらうことにした。

「オレの言うこときけねえのかよ」
「…う、そ、それは…その…ズルいのでは…」

一応、最初の契約内容に、春千夜が"頼んだことはなるべく実行する"というものがある。それを匂わせる発言をした春千夜に、も困り顔で眉尻を下げた。互いの顏がさっきよりも随分と近い。

「ズルくねえだろ。こうしねえとはすーぐ仕事に行こうとするからなァ?」
「…う、だ、だってそれは…」

熱が下がって来た途端、いつもの春千夜に戻ったのを見て、もごにょごにょと口ごもる。まだ雇い主というイメージが強いので、強気に出られるとの方が弱気になってしまうのだ。男の人の膝の上に座るというのも初体験すぎて恥ずかしいのもある。さっきからお尻に当たる硬い腿だとか、腰を支えている大きな手の感触に意識が集中すると、一気に全身が固まっていく。

「ぷ…オマエ、体ががちがちじゃねえか」
「だ、だから…こういうのは恥ずかしいです…」

言葉の通り本当に恥ずかしいのか、モジモジと体を動かしながら、頬を赤くしている。だがそれは春千夜を煽るだけのものでしかない。こんなことくらいで恥ずかしがる彼女が可愛いとしか思っていなかった。
その気持ちのまま、空いた方の手を彼女の頬へ添えると、自分の方へ軽く引き寄せる。下から覗き込むようにして彼女の唇を塞げば、バランスが取れないのか、の手が自然と春千夜の肩を掴む形になった。それに気づいた春千夜が腰を支えていた手を背中へ滑らせ、軽く抱きよせるだけで更にふたりの唇が深く交わる。
ちゅっちゅと何度か啄むと、春千夜を見下ろすの瞳が潤んで揺れてるのが分かった。それだけで彼女の羞恥心が伝わり、春千夜の男の部分をくすぐるのだからたまらない。の髪が春千夜の頬を悪戯にくすぐっていくだけで腰を疼かせる。そんな己の欲に従い、の唇を吸いながら、右手で支えている背中をすり、と軽く撫でれば、塞いでいる唇の隙間から「ン…」という甘い声が漏れ聞こえたのも今の春千夜には――いや、下半身には良くなかった。

「…ひゃ…な、何か当たって…」

が春千夜の肩を押し戻すようにくちびるを離し、動揺している。当然、膝の上に座らせているのだから、反応してしまった部分は彼女の尻に当たるわけで…

「…チッ。オマエのせいで勃っちまったじゃねぇか…」
「…へ?わ、わわたしが何を――」

言われた意味が分かったらしい。急に真っ赤になったかと思えば、わたわたと焦り出し、春千夜の膝から下りようとする。しかしそう簡単に春千夜が放すはずもない。お腹に腕を回され、後ろからぎゅっと抱きしめられたことで、の体がぴしっと固まった。さっきは横向きに座らされていたのが、今は完全に春千夜に背を預けて座ってしまっている。だから余計にお尻の下に当たる硬い感触が、を動揺させた。

「あ、あの春千代…さ…」
「あー…黙ってろ…ってか動くな。動かれたら納まるもんも納まらねえ」
「は…はぃ…」

と言ったはいいが、春千夜の膝の上に座っているだけでも恥ずかしい。男のソレは自然現象というのは分かっているのだが、これまで自分がキッカケでそんな風になった男を一切知らないので、春千夜が自分に対して欲情した、という事実が物凄く恥ずかしいのに、何故か嬉しいとも思ってしまったのは自分でも驚いた。
自慢じゃないが、今まで生きて来て痴漢にすらあったこともないくらい、女子力も低い上に色気もないのは自覚している。そんな自分に春千夜がそう言う気持ちになってくれたと思うだけでドキドキしてしまう。
そのとき、背後から春千夜のツラそうな溜息が聞こえてきた。男が今みたいな状態になった時、出せないのは相当ツラい。そんな話を雑誌の記事で読んだことを何故か今思い出した。それは砂羽が愛読している普通の女性誌だが、特集記事で時々"女の性、男の性はこんなに違う!"みたいな、ちょっと大人向けの記事が載ることもある。も何の気なしに読んでみたのだが、テーマがテーマなだけにかなり踏み込んだ内容だった。そこに男性の体のことも詳しく載っていたのだ。
ということは、春千夜さんも今、凄くつらいのでは、と心配になってしまった。

「あ、あの…大丈夫…ですか…?」
「…あ?」
「何かツラそうだから…」
「当たり前だろ…発散も出来ねえのに勃ってんだから。ってか原因作ったオマエが他人事みてーに言うんじゃねえ」
「う…す、すみません…そ、そういう感覚よく分からなくて…」
「分かってたら怖ぇわ…」

春千夜は呆れたように言いつつ、の受け答えに軽く笑いを噛み殺している。どこまでいってもクソ真面目だな、こいつは、という感じである。でもそこがの可愛いとこでもあるので、こんな体勢でいるとまたキスをしたくなってきた。と言って、自分に背中を向けて膝へ座っている彼女にキスはしにくい。それに延々彼女の柔らかい尻を感じているので、勝手にその気になっている下半身が一向に納まらないことに気づく。なので諸々の諸事情により、春千夜はお腹に回した腕に力を入れて彼女を軽く持ち上げると、そのままベッドへ押し倒した。急に視界がぐるりと回転したかと思えば、今度は春千夜を見上げる格好になり、は何が起きたのか分からないと言った顔だ。

「え、あ、あの…」
「あの状態だと納まんねえことに気づいたわ」
「…へ?」
「つっても…この体勢も同じだけどな」

上から見下ろしながら、ほんのりと赤い彼女の頬を指先で撫でれば、の肩がびくんと跳ねる。それを合図に再びくちびるを塞げば、すぐに全身が熱を持つのが分かった。

春千夜の熱を唇に感じながら、は時折視界に入る鮮やかな色の髪を見ていた。薄闇の中でもそれはヴァイオレットに見えたり、赤のようにも見えたり、この色は全く違った光の輪を形成するらしい。光の加減で変わるこの色を発見したゲーテは、捕らえどころのない色の名を"マジェンタ"と名付けたという。
それは会うたび、違う顔を見せてくれた春千夜そのもののような気がして、はその色へ指先を伸ばした。
出会った頃は、この手が届くような相手じゃなかったはずなのに、今はそっとその手を握り返してもらえる。その幸せな温もりを感じながら、は春千夜にその身をゆだねるよう、そっと静かに目を閉じた――。


一部完結・Next continued....▷▷



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